唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第二 所縁行相門 不可知について (13) 前後しますが (8)

2015-08-16 20:25:55 | 初能変 第二 所縁行相門



 お盆休みも今日で終わりました。明日から後半戦突入です。今日はもう一題ブログ更新します。BGMでも聞きながらお読みくださいm(__)m

 「無漏の位に至る時には、勝れたる慧と相応す。分別無しといえども而も澄浄(ちょうじょう)なるが故に。設ひ実用(じつゆう)無しとも亦彼の影を現ず。」(『論』第二・三十二左) 
 
 本科段は先月の考究会において問題となったところでもありますので、まず『述記』の釈から伺ってみます。

 「述して曰く、無漏の位においては勝れたる慧と相応す。籌度(ちゅうたく・思慮すること)して相を取る分別は無しと雖も、而も澄浄(ちょうじょう)なるが故に、有漏の体是れ滓濁(しだく・にごり)なるが如きには非ず。今設ひ実用無くとも亦彼の影を現ず。即ち無と及び心等の影と無為の影等とを縁ず。無漏は親証(しんしょう・真理を直接にさとること)なるを以ての故に。無をば是れ無なりと知るが故に無等をも縁ずと云う。」(『述記』第三本・八十七左)

 無漏位に至る時、漏れるものがない澄んで浄らかな世界に至ると、勝れたる智慧と相応する。この勝れたる智慧とは、転識得智した大円鏡智のことであると『述記』は記しています。迷いの識が転じて智慧に変わるんだと。ここで思い出されることは、曽我量深先生のお言葉ですね。
    
  「浄土は言葉の要らぬ世界である。人間の世界は言葉の必要な世界である。地獄は言葉の通じない世界である」
 
 有漏の世界は言葉が必要な世界なんですね。言葉を媒介として理解しあう世界ということでしょう。ですから言葉を失ったら、対話が崩れてしまったなら人間界といえども、地獄の形相を呈するわけですね。まさに現今の安保法案の与党の姿勢は地獄そのものを演出しているかのようです。
 曽我先生のお言葉でも、先ず「浄土は言葉の要らぬ世界である」ここが起点なんですね。「言葉の要らぬ世界」は分別を超えています。無分別智の世界です。無分別の世界から、言葉を必要とする人間界が照らし出されて、言葉を超えた世界に触れていくことができるんだと教えられているわけでしょう。有分別から無分別へではなく、無分別から有分別への働きかけが、阿頼耶識を転換させる原動力になるわけですね。
 無分別ですから、実際の働きは無いんですが、智慧が鏡のようにすべてを映しだしていく。鏡の中に映ったものは実用は有りません、やはり影なんです。影なんですが「無をば是れ無なりと知るが故に無等をも縁ずと」。無なるものは無なるものであると判る智慧が備わっている、影が影であると判る智慧が大円鏡智なんですね。私たちは無を無として捉えることができず、無なるものを有として捉えてしまいます。無我なるものを有我として、無常なるものを常として執着をしています。ここから離れることができません。
 失いたくない。壊れることのないように。いつまでもこの状態が続くように執着しています。ここが紙一重だと思いますね。欲求というか、願いは染汚と浄慧の分水嶺ですね。執着は一分真実に触れている。この一分が阿頼耶識に無漏が依附していると云われていることではないでしょうか。我執が覆って闇の世界を作り出しているけれども、夜は明けているんだと。だから、仏法は生活そのものなんですね。生活の中に仏法はいつでも働いている。私たちは仏から願われている存在だということでしょう。
 仲野先生は聞法は資糧位だと、よく云われておられました。求めるに応じて出遇いがマッチングする時がある、思慮分別を捨てて聞法することが大事なことなんでしょうね。
  
 

 捨てられん自分と出遇うんですね。我が強いことが仏法を求める原動力になるんですね。我が強いことに有難さを感じた時、仏法の華が咲き誇るのでしょう。

 

初能変 第二 所縁行相門 不可知について (12) 前後しますが (7)

2015-08-16 14:06:25 | 初能変 第二 所縁行相門


  「故に異熟心は心等を縁ぜず。」(『論』第二・三十二右)

  太田久紀師の講義より学んでみましょう。(奈良薬師寺唯識学寮で講義された『成唯識論抄講』p100~101より)
 「無為等を変ずるも亦実用無くなんぬ。故に異熟心は心等を縁ぜず。」とありまして、心を対象としません。その前に「無為等を変ずるも亦実用なくなんぬ。」無為は真理の世界。無為法は永遠の真理の世界。有為法は生住異滅する世界です。生まれてやがて死んでいく。生滅をするこの現実の世界。詳しくいえば、生まれてだんだん状態が変わって滅んでいく、生住異滅、簡単に云えば生滅、生まれて滅んでいくものです。これが有為法だと。私共の世界の総てのものは有為法だと、形あるものは滅していく、これが有為法。それを超越した真理の世界が無為法です。これは不生不滅、生じたり滅したりしない、真理の世界。或は真如というようないい方をします。信心的には仏様、永遠の真理のままに生きておられるのが仏様です。ここで無為法とは、永遠の真理とは「変ずるも亦実用無くなんぬ。」無為法の真理、或は仏様も私共が捉える、そうしますとそれは心の対象になってしまいますね。これが仏法だと云った時には、仏様とという永遠不滅の真理である仏様が自分の心の中の対象として小さくなってしまいます。それを「識変の無為」。ここが一番大事なところです。心で捉えた真理、心で捉えた仏様は自分の心の影にすぎない。無為法とか仏様、永遠の真理というものは人間を超えたものなんです。永遠の真理なんです。それを、識変の無為に対して、「法性の無為」といいます。ところが私共が知るのは、心で捉えてみなければ判りません。自分の心で捉えてみる。自分の心で仏様というのは、こういうものかと捉えてみなければ判らない。それしか道はありませんから、まず仏様とは何だ、心理とは何だ、とまず言葉で捉えていかざるをえないのです。その時既に自分の心で捉えてますので、それは自分の心によって変えられてしまった仏様を見ているわけです。識変の仏様です。ですから仏様それ自体
ではないではないわけです。心を対象化すればその心は死んだ心しか見られないのと同じで、真如とか仏様、無為法とか永遠の真理も自分のこころで捉えたときには、やはり影になっていると。これも先程申し上げました最後のほうで仏様と出会うことも心で出会うしかないというところにつながるのです。心で出会った仏様は本物ではない。ですから思慮分別を捨てて、捨てて、捨てて、そして仏様と出会わなかえばいけないんです。・・・「捨ててこそ」・・・ところがそれがなかなかできないんです。自分のよくで塗りたくってしまう。識変の無為ですね。心で変えた仏様、自分勝手な仏様。」
 ここまでが有漏位について述べられているところです。

 「述して曰く、此れは総結なり。問う、若し有漏の識は因縁なるを以て相有り。分別の相は未だ必ずしも体有るものにあらず。(第八阿頼耶識)は無漏の位に至る時は無分別の故に、応に無を縁ぜざるべし。因縁より生ずる故に、皆応に実を縁ずべし。」
               因縁変 ・ 第八識、前五識 (無分別)
 有漏の転変(識変〈
               分別変 ・ 第七識。第六識 (有分別・計度分別を指す)

 阿頼耶識は因縁変、種子生現行で、種子より、何の分別も加えず任運に、ものそのものを与えている。現行そのものが識変なんですね。しかし第六意識は表層意識、表層意識は現行したそのものの上に解釈(自我分別)を加えたものなんです。この自我分別が問題なんですね。自我分別は瞬間沸騰だと思います。考えるといいますが、考える余地のない、考える隙間を与えない自他分別なんでしょうか。種子から現行は因縁変ですが、現行熏種子される時に第七末那識による自他分別の働きが即座に加わって識が染汚されるのでしょう。第七末那識が任運に働くとといってもよいのではないでしょうか。
 種子生現行は因縁変として任運、現行熏種子は分別変として任運、これが有漏識の構造になり、第六意識は五十一の心所と相応すると教えられているのではないかと、勝手な解釈です。種子から生じるわけですから、種子が私の内容となるわけですね。心・心所が変現されたのが種子、種子が自己内容となるわけですから、阿頼耶識が心心所を対象としない、「能縁に不ざるが故に」です。対象化されたものは能縁の働きを持たないからですが、能縁の働きのある転識(現行熏種子)は阿頼耶識の種子から生ずるということになるのでしょう。
 本識と転識との関係は、
 転識(具体的な働き)は熏種子され、種子として所縁(相分)になるわけです。

 ここに問いが出されまして、無漏位においては勝慧と相応することを明らかにされてきます。