唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『唯信鈔文意』に聞く (33)

2011-05-22 17:37:03 | 信心について

           『唯信鈔文意』に聞く (33)

                 蓬茨祖運述 『『唯信鈔文意講義』より

  「そういうことで人間が考えますというと、発展説になるわけです。ところが、いま諸法を物などといわないで、物という考えもふくめるんです。こころもふくめる。人間の考えですからすべてはこころになるわけです。ものというものも人間の考えですからね。ものなんだ、物質なんだという考えですからですね。物質という証拠には、触れるとこに在るでないかと思う。人間がそう思うだけのことです。

 諸法、よろずの存在するもの。ものと思うておるものであれ、こころと思うておるものであれ、すべてのものは根本は何かというと、これは簡単なんです。これは分かりやすくもうしますと、縁起です。諸法の根本は縁起である。なんでもない話です。仏教からもうしますれば当たり前なんです。諸法の根本は縁起である。縁起の理というものをさとったのが仏なのです。縁起の理をさとったら、すなわちこれ一切万法をさとったのです。一切万法というものが明瞭になったということです。

 では、縁起ということはどういうことかともうしますと、あらゆる存在はみな相互関係よりほかないんだということです。陰子とか、陽子とか、中性子とかいうのは相互関係だけです。ですから中間子というのはどういうものか。ちょっと見せてくださいといって、顕微鏡でみれるものでないんです。あれ、なんにも見られないのです。ちかよると害になるだけです。ですから結局鉛の箱へ包んでおくのでしょう。重水素というようなものです。ウラニュウムから抜け出した、そういう物質ですね。それで鉛の箱に入れておくんです。そうすれば、相互関係のもとに存在するものです。それを取ってしもうたら駄目なんです。散らばってしまいましてですね。ですから、相互関係のもとに存在するものばかりである。その他にないんだということをさとったのが仏なんだ、と。そういうことなんですね。

 ところが、分かるのとさとるのとは違うんです。「なるほどそうか」では「さとった」にならんのです。なぜかというたら、腹が減ってきたというのは相互関係です。縁起です。そこを、さとればいいんでしょう。さとれんからまた食べるんです。それはさとっておらん証拠です。ですから、さとってしまえば、腹が減ってきたら減ってきたで、別に苦しまんでいいんです。それからまたよけいに食べんでもいいんです。よけい食べれば、相互関係がバランスを失って苦しむんです。どれくらいのものを摂っておれば、きょう一日、適当な状態でおれるかということになるのです。縁起の理をさとっておればですよ。けれどもそううまくできないのです。

 諸法は縁起である。もう一つは、ここに来るんです。それは空ということです。この二つを考えなければ法性はわかりません。諸法は何であるか。縁起である。縁起なるが故うに空である。ここにその法性が出てくる。法性という概念の意味なんです。諸法という存在の性は空なのだ。こればっかりいうからわからんのです。もろもろの存在は縁起のほかない。縁起の理によって生じたものだと。その縁起の理をさとったのが、すなわちさとり、法身なのです。その縁起の理をさとったというが、縁起の理とは何かというと、空なのだ。諸法は空である。この三段階で理解をする必要がありますけれども、普通はあまりこれを理解しないので「法性」という意味がわからないないのです。

 ここに松の木がある、という。松の木が空だというんです。松の木は空なのだ。でも、ぶつかったら、こぶが出来るでないか。そうだ、と。それは相互関係で、こぶが出来た。空であるが故に、こぶが出来たのである。それは、空であるが故にまたひっこむ。そういうわけです。松の木だって、いまに枯れたり、切られたりして、無くなる。あるがままに空であるという智慧なのです。あるものを消してしまって空ではない。自分達の狭い煩悩の観察というものを破って、あるがままに空であるという。そういう如実の観察、如実の観察の内容が縁起である。如実の観察の縁起の状態ほど微妙なものはないんです。実にこの死せるものまでが生きておるという。死んで、我々からいうと命のない、なんの価値もないというものまでが、やはり渾然とした生命をもっておるというふうに見えるわけです。

 したがって煩悩の立場から見たところの存在、我々の煩悩の立場から見たら固定して見える。松の木というものがあるんだ、と。あそこに、いつまでもあるんだ、と。もとからあるんだと思うておるんです。小さいのから大きくなったということがありながら、我々はもとからあるんだという意識なんです。ですから、枝が出てくるでしょう。そらが邪魔になりますから、はしごを出して切ります。折りますでしょう。場合によっては、「人の松の木をことわりもせんと、なんだ」と、どなられるんですね。なんでか。もとからあると思うておるからです。もとは無かった。もとは地面だったのでしょう。いつのまにか、そこに生えたのですからしかたないです。ところが、そういうことは見て知っておりながら、「おれんとこの松の木を切ってなんだあー」と、怒りに来るんです。こちらのほうも、のびてしまわないさきに枝を切っとけばよいのです。前に出てくるぞと思うたら、ぷちんとハサミをかけて切っとけばいいんです。    (つづく)

 前回からの配信が私事の為に随分遅れましたことをお詫びいたします。「唯識に学ぶ」書き込みも開導依の入り口で停滞しておりますが明日から再開したいと思いますのでよろしくお願いいたします。