唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 所依門 (93) ・ 倶有依 (69) 護法の正義を述べる、(23)

2011-05-04 20:20:12 | 増上縁依(倶有依)

  この問題点について答えているわけですが、それが二つに分けられて説明されます。初は三位の文を会し、後に五根も第八識の倶有依ではないかという問題に答える。

 ー 「三位に末那無し」と説かれている問題について答える。 ー

 「而も、三位に末那無しと説けるは、有覆に依って説けり。四位に阿頼耶無しと言えども、第八無きに非ざるが如し、此も亦爾るべし。」(『論』第四・二十一右)

 (『頌』に「三位に末那無し」と説かれているのは、有覆無記に依って説かれているのである。これは四位に阿頼耶識が存在しないと説かれていても、第八識の体が存在しないということではないのである。此れも亦同様であり、三位に末那識が存在しないと説かれていても、末那識の体が存在しないということではないのである。)

 「論主答えて曰く、有覆に依って説く。謂く三位無というは何の乗を障うにも有覆性において説けり。有覆無きが故に末那無しと言う、体無しと謂うには非ず。彼の二乗を障へざるの識(法執の第七識)と或いは無漏の識との亦有ることを得るが故に。五十一に四位に阿頼耶無しと言えども第八の体無きに非ざるが如し。此れも類するに応に然るべし。第七の体無きには非ず、既に間断せざるが故に依と為すことを得。

 三位と言うは、六十三等に説かく、謂く滅尽定と無学の位との聖道の現前するときなりといえり。

 四位に阿頼耶無しというは即ち五十一と及び『顕揚』十七等との四句の中に、転識を成就して阿頼耶に非ず。謂く声聞と独覚と不退の菩薩と如来との無心に入らざる位なりといえり。」(『述記』第四末・九十六左)

 三位に末那無しと説かれているのは有覆という我執によって説かれている(人我見相応の末那識・補特伽羅我見相応の末那識)のであり、識体の有無によって説いているわけではないという。本文の意味は、三位では第七識の識体そのものが無くなるのではなく、第七識の我執が無くなるという意味で説かれているのあって、三位においても末那識は存在して第八識と恒に転じ、第八識の倶有依になるということです。また、三位において我執の末那識は存在しないというが、法執の第七識は存在し有漏の識として転じている(法我見相応の末那識)。或いは、我執も法執も滅してしまい無漏となった平等性智相応の第七識も、いずれも第七識の識体が存在しなくなるということではないというのが護法の主張です。尚この護法の主張と安慧の主張をめぐっては、後に「起滅分位門」において述べられます。

 次に四位の説を示して、「三位に末那無し」ということの論証をします。四位に阿頼耶識が無いということは『瑜伽論』巻第五十一(大正30・582a)四句分別の第二に「或有成就轉識非阿頼耶識。謂阿羅漢若諸獨覺。不退菩薩及諸如來住有心位。」(或いは転識を成就して阿頼耶識には非ざる有り。謂く阿羅漢、若しくは諸の独覚、不退の菩薩及び諸の如来の有心の位に住するなり。)と説かれ、亦『顕揚論』巻第十七(大正31・567c)四句分別に「 或有成就轉識非阿頼耶識。謂住有心位阿羅漢獨覺不退轉菩薩及與如來。」(或いは転識を成就して阿頼耶識には非ざる有り。謂く阿羅漢と独覚と不退の菩薩と及び如来の有心の位に住するなり。)と説かれている所論によります。

 四位に阿頼耶識が無いと説かれていても、阿頼耶識の識体がなくなるという意味で説かれているのではないということと同様に第七識の識体が無くなるということではなく、この為に第八識の倶有依は第七識であり、第八識は第七識と倶に転じるということであると説明されています。