清純blog

本門佛立宗 常住寺住職・高野清純のブログ

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竹馬の友

2017年01月16日 | 信 友

【「本当の友だち」がしてくれること 】というタイトルの記事を読みました。

このコラムで、以下の「6項目」が挙げられていました。

(1)厳しい指摘をしてくれる
(2)人の幸せを喜べる
(3)親身になって相談に乗ってくれる
(4)病気のときに心配してくれる
(5)何でも言い合える 
(6)何年経っても関係が変わらない

弱っているときに力になってくれる人。
自分のことのように喜べる人。
落ち目の時に寄り添って励ましてくれる人。
数年ぶりに会っても変わらない人。
素のままの自分を見せられる人。
ずっとかわらず、タンタンとつきあえる人。
結婚、子どもや孫ができる。
昇進、独立、転勤。利害関係が変わった。

どんな時でも思いやって、
ススメ励まし、寄り添い、裏切らず、
いっしょにいることを喜ぶ。
こんな関係でいられたらいいですね。

どんな時もかわらず、大事な友だち。
自分が、仲間を裏切るようなことなく過ごせたらいい。

①番目の「厳しい指摘をしてくれる人」なんて、
やり方が難しいかな。。。

同じところを見つめながら、ずっと、ずっと、
手を取りあいながら歩んで行けるなんていうのは、
本当に、有ること難し。
「ありがたい」こと、なんですね。
有るとわからない、なくなると気がつくのでしょうか。

先般、お葬式をつとめました。
亡くなったのは、89歳の男性でした。
友だちがお別れにきていました。
80年間、ずっと友だちだったそうです。

80年!!!
すごいことだと思いました。
「竹馬の友」であり「生涯の友」ですね。

逆に、長渕剛のうたを思い出しました。
うたのタイトルはわかりません。

ともだちがいなくなっちゃった。
気がついたらひとりもいなくなっちゃった。
だけども、おれ、寂しくなんか、ない。
仲良しクラブの、付き合いは、まっぴらさ。

こんな歌詞でした。
ごもっとも。です。

仁・義・礼・智・信

五常を知り、正直に恥じることなく生きたい。
そうやって人に接していくことにしよう。
そして、自分から人に対してアプローチしていこう。
そうやって、ひとつひとつ、大事なモノを育んでいこう。

そうは思ってても、難しいなぁ。
無明の風に吹きさらされる毎日です(笑)。

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ご教歌 福をとる手には欲をばはなせとよ わが思ひとはうらうへにして

2016年11月08日 | ご法門
【 金八先生の名言 】





(1)
生きるというのは人に何かをもらうこと。
生きていくというのはそれをかえしていくこと。

(2)
立派な人にならなくてもいいの。
どうか、感じの良い人になって下さい。

(3)
正しいという字は「一つ」「止まる」と書きます。
どうか一つ止まって判断できる人になって下さい。

(4)
何でも謝ってすむことではないけれど、謝れない人間は最低だ。

(5)
他人を責める前に自分を大きくしなさい! 
他人をうらやましいと思う前に、自分を育てなさい。

(6)
貴方が言葉を覚えたのは、悲しみ語るためですか。 
どうか何度も泣いてください、うれし涙に出会うまでは。

(7)
相手の身になって考えられる人間になってください。 
決して損得だけで物事を考える人間になるな! 
それらのことが君たちの人生を築いていくひとつひとつの礎になっていくんです。

(8)
努力をせずに欲望を満たそうとする。
そんな人間にはどうかならないでください。
いや、そういう人間をどうか憎んでください。
努力する人間を心からどうか、愛しいと思ってください。
そして不正を許すな。
苦しむことをどうか愛してください。

(9)
棚からぼたもち、楽して生きる。
そんな人生は、世の中に転がっていません。
頭も使って耳も使って、目も使って、口も使って、手も足も全部使って、人間は毎日毎日生きていくんです。

(10)
幸せになろうと思わないで下さい。 
幸せをつかみに行って幸せをつかんだ人は1人もいません。
幸せは感じるものです。





金八先生の名言を拾いましたので、あつかましく転載します。
こころに響く言葉の数々。ありがたく思います。
 
「幸せをつかみに行って幸せをつかんだ人は1人もいません。」
 
これなんかは、もう、仏教の教えです。

ご教歌 

福をとる 手には欲をば はなせとよ  わが思ひとは うらうへにして
 
幸せをつかむためには、欲を、手から離して、善根功徳を積むべし。
お寺で、(からだをつかって)(時間を費やし)(喜んでお供えをする)の功徳を積むのです。
損して得とれ。他によくすること。

うら‐うえ〔‐うへ〕【裏表】

裏と表が入れ替わること。あべこべ。反対。
裏と表。
前後・左右・上下など相対する物事の両方。あちらこちら。

よしやろう。そうだ。なんて思ってても、身近なところで、生活の1場面1場面で、実際に「欲を手放す」というのは結構むつかしいことかもしれませんね。強欲なワケじゃない。ごくごく普通に生きてる。でも、マイナスのご因縁が付いちゃってて、それを払拭しなくちゃならない。その方法は、意識して、確実に、功徳になることを行っていくのが大事です。お参詣して、時間も手間もお金もかかる。だけど、功徳を積もうと励むのです。

こうなりたい。ああしたい。という願いが強くて、周りが見えないのではつまらない。しかも、本人はそんな風だなんて自覚はなかったりする。人って、そんなもんじゃないでしょうか?だから、ごく普通に生きてる中でも、実はマイナスの方向に、ご縁が結ばれちゃってるって思ってるくらいでちょうどかも知れませんね(笑)。だったら1つ、その罪科を消滅する方に動いてみようと考える。そして、その方法は、ほとけさまが教えて下さったように、お題目を唱え重ねていくんです。そして、さまざまな場面で、損して得とれというような心持ちで歩んで行くんでしょう。

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人を恐れず、勧め励ます人

2016年11月04日 | 学び ・ すすめ
先般、「第五支庁報・平成28年 秋号」の巻頭言を書かせていただいたので、それをそのまま、記載しました。この文章のタイトルは「人を恐れず、勧め励ます人」です。読んでいただければ分かりますが、ボクが大学一年生(18歳の夏)時の体験談です。ですが、この文章の主人公はお師匠さまです。そう思って読んでいただければ、本稿の意図を感じ取っていただけるんじゃないかと思います。しみじみ書きましたが、実は強烈なメッセージが込められています。どこに向けて?(笑)





昭和61年。夏休み限定であったが毎日、ご信者宅にて詰め助行をさせていただく事になった。得度5年目、初めての受持を賜った年の事である。

助行先は高齢なご婦人のひとり暮らし。ご自宅は古い木造平屋、床は抜け落ちそうで、窓は隙間があり、扇風機もない室内はもの凄い湿気と暑さで、ここに住んでいては体力を失ってしまうのではないかと心配するほどであった。ご宝前のすぐ脇には、ご法様の方に頭を向けて、久しく万年床となっているであろう煎餅布団が敷かれていた。

このご信者は、婦人会常任として連合婦人会を先導していた。恰幅がよく、声が大きく、凜とした雰囲気と優しいまなこが印象的であった。そのお姿を、まだ子どもだった頃の小僧は、高く見あげて頼もしく拝見していた。大変かわいがって頂いた。お寺の顔であり菩薩のご奉公者であった。それが、その頃のお姿が想像できないくらい別人のようにやせ衰えていたのに大きなショックを受けた。そして、連日のお助行が始まった。

こういうご奉公は、当たり前だが、気がつかなければ行われることはない。また、「他人さんの家の事情だから、余り立ち入らない方がよい」とか、「お年だからそっとしておいてあげよう」とか、尤もらしい事を言い合って結局何もナシという結果になってしまう事も充分に考えられる。クレバーな信心の典型と言えよう。そこを、ご奉公できるようにとお師匠様がご指示下さる。躊躇している教務部・役中を叱咤激励して、一人のご信者がご利益をいただけるようにと、「お勧めする側のご奉公者」をご指導下さって、事が進んで行ったのである。こういうご教導の連続で、常住寺は御弘通を伸ばしたのであり、また、世間を舐めたような学生であった小僧にさえ、功徳を積む機会を与えて下さったのである。

以降は毎日、夕方になると厨房のおばちゃんがおにぎりを握って、お新香と教務部の夕食と同じおかずを少々添えたお弁当を作って下さった。それをお供水さんと一緒に持参し、お線香一本のお助行をさせていただき、お看経が終わってから、一緒におにぎりをいただいた。前述の通り、部屋は蒸し暑い。小僧はネクタイをしめて上着も着ている。毎日汗だくであった。おにぎりがのどを通らない。しかし、一緒に食べてこないと帰山してから報告に上がった時にお叱りをいただく。仕方がないから毎日、無理矢理おにぎりを頬張った記憶がある。お導師は、食事がのどを通らないご信者さんが、少しでもお仏飯とお供水を口にできるようにと願って、「一緒に食べてこい」とご命令下さったのであった。そしてご自身もこまめに、昼間の内に巡回をされた。

お助行は夏休み一杯続いた。学校が始まっても続けてさせていただくようにとご命をいただいたが、学校が遠いという理由で断ることができた。非道い話しである。ただ抑も、その頃このご信者は、既に自宅でひとり暮らしできる状態ではなかった。お導師が親戚に連絡をされ入院することになった。そして一年一月経った日に訃報が届いた。悲しかった。もうお年だったので寿命だと言われた。その通りであろう。しかし、止めどもなく涙が流れた。

当時、思いを込めてご奉公に当たろうなどと考えもしなかった木偶の坊が、お導師の厳しいご教導の元で何とか、ご奉公らしい事をすることができた。真似をすると身体が覚える。それでも屁理屈が先行していたが、ご薫陶をいただき、お側にいるだけで心や所作を習っていたと思う。だから、お側でお仕えできるのはとてもありがたい事だったのだと、今頃になって思い返している。

いま、そんな愚かなモノが住職のお役を頂いている。やがて次の世代のお講師ができるであろう。そんな時に、「あそこは、師匠にも師匠が必要だな」などと揶揄されないよう信心を磨かねばならないと、ご薫陶を思い出しては、常々懺悔改良の日々を送っている。
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東京都北区の 【 神谷・東十条プラザ 】 にて

2016年10月12日 | 学び ・ すすめ

現在、隔月で、北区行事から【お坊さんのお話し】の場をいただいています。

会場は神谷・東十条プラザです。

本日(平成28年10月12日)で3回目のお話し会です。

今回のテーマは、子どもの貧困、です。

以下、今回の資料を記載いたします。


① 全世界の ( 地球全体の ) 子どもの貧困


【 問題のカテゴリー 】
保健  HIV/エイズ  水と衛生  栄養
教育  子どもの保護  緊急支援
武力紛争と子どもたち  難民・避難民  子どもの兵士
児童労働  女の子・女性  児童婚  子ども買春・ポルノ
子どもの権利  子どもの参加  コミュニティ  乳幼児ケア

■全世界で5人に1人、つまり12億人もの男性・女性・子どもが現在、極度の貧困状態におかれ、1日1ドル未満で生活することを余儀なくされています。また、世界では約半数の人々が1日2ドルという貧困レベル以下で生活しています。
 
■約8億2,400万人が飢餓状態にあるか、もしくは不安定な食料供給に依存しています。そのうち5億人は、慢性的な栄養失調に苦しんでいます。
 
■全世界には、栄養失調に苦しむ子どもが1億7,000万人。学校教育を全く受けることができない子どもが1億人以上。中等教育を受けられない子どもが2億3,000万人います。そして約2億5,000万人の子どもが、自分が生きていくために、そして家族の最低限の生活を支えるために働いています。
 
■ 世界では、およそ7億9,500万人(9人に1人)が、健康で活動的な生活を送るために必要かつ十分な食糧を得られていません。
 
■ もし、女性の農業従事者に対し、男性の農業従事者と同程度の資源を提供することができれば、世界の飢餓人口は最大で1億5,000万人減らすことができます。
 
■ 飢餓に苦しむ人々のほとんどは開発途上国に住んでいます。途上国では人口の12.9% が栄養不良です。
 
■ 地域別の飢餓人口の人数は、アジアが最大(全世界の3分の2)です。近年、南アジアでは、飢餓人口が減少していますか、西アジアではわずかに増えています。
 
■ 地域別で最も飢餓人口の割合が高いのは、サハラ砂漠以南のアフリカです。この地域では、4人に1人が栄養不良です。
 
■ 5歳になる前に命を落とす子どもの半数近く(45%)は栄養不良が原因です。その数は毎年、310万人にのぼります。
 
■ 開発途上国の子どもの6人に1人(約1億人)は低体重です。 
 
■ 世界の子どもの4人に1人は、発育阻害(※)の状況にあります。開発途上国では、この割合が3人に1人にまで達します。※ 発育阻害:年齢の割に背が低いということで、慢性的栄養不良の代表的な症状。
 
■ 開発途上国全体で6,600万人の小学生が空腹のまま学校に通っています。そのような子どもはアフリカだけで2,300万人もいます。
 
■ 全世界で学校に通えない子どもの数は、5,800万人を超えます。戦争や貧困、女性であるというだけで、教育が受けられません。
 
■ 読み書きができない成人の数は8億4,000万以上(全世代で6人に1人)にも達しますが、そのうち65%は女性です。
 
■ 世界で16億人が飲料用の水を利用できずにいます。
 
■ 8億人は保健医療サービスを利用できません。
 
■ 世界に49ヵ国ある最貧国のうち33ヵ国が集中しているアフリカでは、2,810万人がHIV/エイズに感染しています。今後10年間に、アフリカでは4,000万人の子どもがエイズで親を失うと見られます。
 
■ 先進国には人口350人につき1人の割合で医師がいます。しかし、途上国には人口6,000人当たり1人の医師しかいません。
 
■ 全世界の消費支出の86%は先進国に住む20%の人々によって消費されています。これに対し、世界で最も貧しい20%の人々は、全体のわずか1.3%しか消費していません。
 
◎ 先進国には、500万人以上のホームレス、3,700万人の失業者が存在します。そして所得貧困ライン以下の生活を強いられている人々は1億人以上にのぼります。日本国の現状はというと、ひとつには、子どもの貧困、親から子どもへの、貧困の連鎖が大きな社会問題になっています。
 

② 日本国における、子どもの貧困。親から子どもへの、貧困の連鎖。
 
貧しさに苛まれる子どもたち
日本では、6~7人に1人の子どもたちが貧しい家庭で暮らしています。
NGO団体が2010 年 7 月から 2011 年 2 月にかけて行った調査で寄せられた声を紹介します。

「塾行きたくても行けない。勉強したくても出来ない。」(小 6・11 歳・女子)
 
「ほっときゃ治るやろってめっちゃ言われた。胃腸が悪くて、病院行くときもなんか治るみたいな、そんなん行かんでいい、お母さんかって我慢してんねんから、みたいな。」(17歳・女子)
 
「あたしの友だちが、修学旅行とかになんか、お金がないから行かれへんって子がおった。」(高 3・女子)

「お母さんとお父さんとか、仕事行ってるとして、お金ないからずっと働いてるやん。朝とかに帰ってきたりして。ずっと家の中でもひとりぼっちとか。学校でもひとりぼっちやし、家でもひとりぼっちやし。」(中 1・女子)
 
「正直なんか良い学校に行こうと思ったら学校の勉強だけじゃ足らない部分って絶対あると思うし、塾に行こうと思っても行けれへんかったら、良い学校行けれへん、就職も出来ひん みたいな。極端かもしらへんけど。」(中 3・15 歳・女子)

国民生活基礎調査で、平均的な所得の半分を下回る世帯で暮らす18歳未満の子供の割合を示す「子供の貧困率」が、2012年に16.3%と過去最悪を更新したことが分かりました。1クラス40人とすると、うち6~7人が貧困であるということです。世帯単位に換算してみると、親と子1人ずつの一人親世帯(2人世帯)で年額173万円、
月額約14万円、親子4人世帯で年額244万円、月額20万円余りの収入。子どもの教育には、どうしてもお金がかかります。義務教育であっても、たとえば教科書は無償配布ですが、副教材は実費だったりします。ひとり親で月額14万円となると、苦しい生活になることが想像できます。

データから見る:子どもの教育にかかる費用

小学校の学校教育にかかる費用の例として、文部科学省の子どもの学習費調査(2012)による、以下のようなデータがあります。
授業料:0円 修学旅行・遠足・見学費:6019円 学校納付金等:9154円 その他:3326円 
教科外活動費:1763円 図書・学用品・実習材料費等:1万7957円  通学関係費:1万6978円

また、学校だけでなく学外での活動もあります。
学校外活動での費用については以下のようになっています。
家庭内学習費:1万3752円 家庭教師:1万4998円 学習塾費:5万7176円 その他:1492円
体験・地域活動:5023円    芸術文化活動:3万5167円
スポーツレクリエーション活動:5万3109円   教養・その他:2万7853円
 
■これらの年間およそ25万円以上の費用を、貧困世帯では負担することができるでしょうか。もし、捻出できないとなると、子どもたちは、周りの友達と同じような子ども時代を送るのは難しいのかもしれません。


貧困の連鎖とは|貧困は子ども時代だけでは終わらない

こういった子どもたちは、貧しい子ども時代を過ごします。小学校では友達の話についていけない。中学では修学旅行に行けない。高校では進学塾に通えない。中学を卒業したら働きに出る。そうやって子ども時代を過ごし、彼らはやがて大人になります。十分な教育を受けられなかったり、人間関係を築く練習ができなかった子どもたちは、どのような大人になるでしょうか?貧しくても勉学に励み、大人になってから大成した人というのも、きっといるでしょう。しかし、そういった人たちは一部でしかありません。また、貧困層でなかった人と比べると、並々ならぬ努力をしていると想像できます。住み込みで新聞配達をしながら学校に通う人と、私立の学校に通う人を比べたら、やはり環境による影響は何かしらあると思うのが自然です。


「貧困の連鎖」の定義
 
「親が貧困だとその子どもも貧困になる」ことを、「貧困の連鎖」と言います。重要なのは、単に子ども時代に貧困であるだけではなく、「大人になっても貧困のまま」であることです。貧困によるさまざまな”不利”は、大人になってからも一生付きまといます。要するに、親の所得や職業が、やがて子どもの所得や職業を決定してしまうのです。今の日本は、子どもの将来が、生まれ育った環境によって左右されてしまう社会であると言えます。

「貧困の連鎖」の現状
 
厚生労働省の調査による生活保護世帯に属する子供の大学等進学率のデータあります。
このデータによると、2014年4月1日現在、生活保護を受給する世帯の子どものうち大学等へ進学するのは31.7%%です。一方で、文部科学省、平成25年8月報道発表による2014年の高校卒業者全体の大学進学率は、70.2%です。生活保護受給世帯の子どもと、子ども全体との間に40ポイント近くの差が生まれているのが現状です。貧しい家庭の子どもは資金的・知識的な援助が不足し、なかなか親と同じような所得・階級から脱することができないというのは、想像にたやすいことのように感じますが、実際にどれだけの割合で、貧困は連鎖しているのでしょうか?生活保護を受給している母子世帯の約40%が子ども時代に生活保護を受給しているという事実です。
・父の所得が低層(下位25%)で子の所得が低層(下位25%)になる割合は31%
・父の所得が高層(上位25%)で子の所得が高層(上位25%)になる割合は38%
・父の所得が低層(下位25%)で子の所得が高層(上位25%)になる割合は20%
・父の所得が高層(上位25%)で子の所得が低層(下位25%)になる割合は16%
 
貧困の連鎖が起こる原因|カギとなる「教育」
 
貧困の連鎖についての様々な研究から、親の貧困が子どもに継承される要因は複数あると考えられています。中でも、最も強い要因として挙げられるのが「教育」です。学歴とも言えますが、すなわち子どもへの教育投資の格差の影響が大きいようです。この点については、政府も重視して対策を考えているようです。
 
次に重要なのが、「職業」だといわれています。
たとえば農家や不動産を営む家庭は子どもへとそれを継承することが多いですよね。企業の経営者も、子どもに跡を継がせたり一定の地位を用意することがあります。また、医者の子どもも将来医者になることが多いと思います。そこまで極端な例でなくても、子は親の背中を見て育つというように、親の職業や働き方が子どもの将来に影響するというのはうなずける話かと思います。

社会全体の1人当たり所得の中央値
 
2012年:244万円
2013年:人口全体の16.1%の人々の所得が、2012年の半分の数字、【122万円】という貧困基準を下回っていました。
 
1986年にこの調査が始まってから、最悪の数字です。18歳未満の子どもで、貧困基準以下の世帯に暮らす割合は16.3%。これも過去最悪。16%というのは、約6人に1人、40人のクラスなら6.5人です。親が貧困だとその子どもも貧困になる」ことを、「貧困の連鎖」と言います。重要なのは、単に子ども時代に貧困であるだけではなく、「大人になっても貧困のまま」であることです。貧困によるさまざまな”不利”は、大人になってからも一生付きまといます。要するに、親の所得や職業が、やがて子どもの所得や職業を決定してしまうのです。今の日本は、子どもの将来が、生まれ育った環境によって左右されてしまう社会であると言えます。

【 大阪府が実施したアンケート調査 】
経済的な理由で、この1年間に子供を医療機関に受診させることができなかった経験のある大阪府内の世帯が1・8%あることが11日、府が公表した子供の生活に関する実態調査の集計(概要)で分かった。習い事や学習塾に通わすことができなかった世帯も1割を超えることが判明。

保護者への質問(複数回答可)
経済的な理由で食費を切り詰める。新しい服や靴を買い控えたりした経験のある世帯が約4割。5割近くが、趣味やレジャーの出費を減らした経験があると答えた。
 
子供への質問
 
放課後を誰と過ごすかという問いに
「ひとりでいる」と回答したのは小学生で16・6%、中学生は17・1%。
どこで過ごすか(複数回答可)
スーパーやショッピングモール(5・0%) コンビニエンスストア(2・7%) ゲームセンター(1・8%)
 
夕食の頻度
 「毎日またはほとんど毎日」が99・1% 「週に4〜5回」にとどまるが0・5%いた。
学校以外で1日に勉強する時間について
 「まったくしない」と回答したのは、小学生で3・1%、中学生で9・7%に上った。
 


③ 仏 教 か ら の ア プ ロ ー チ
 
布施について
与えること、施し、喜捨、恵むこと。金品や財物を与えることばかりでなく親切な行いも布施である。
3種類の布施 ①財物を施す財施 ②仏法を説いて会得(えとく)させる法施 ③人々の恐れを取り除いて安らぎを与える無畏施。
 
む‐い〔‐ヰ〕【無畏】
仏語。おそれるところのないこと。
特に、仏が法を説くときの何ものをもおそれない態度。4種あると説き、四無畏という。
 
むいせ【無畏施】三施の一。人におそれの念を起こさせないこと。恐怖心を取り除くこと。

怨親平等(おんしんびょうどう)
仏教用語。怨敵と親しい者とを平等にみるという意味。仏教の根本精神は大慈悲であるから,にくい敵であるからといって憎むべきではないし,また親しい者であるからといって特に執着すべきではなく,平等にいつくしみ憐れむべきことをいう。
 
【五常】
儒教では、五常(仁、義、礼、智、信)の徳性を拡充することにより、父子、君臣、夫婦、長幼、朋友の五倫の道をまっとうすることを説いている(但し“弱者の保護”は説かれていない)。
仁は、人を思いやること。人を愛すること。私心(利己的)を克服して礼を重んじること。
 
義は、利欲にとらわれず、なすべきことをすること。正義。中国思想においては、常に「利」と対比される概念である。
 
礼は、「仁」を具体的な行動として表したもの。もともとは宗教儀礼でのタブーや伝統的な習慣・制度を意味していた。のちに上下関係で守るべきことを意味するようになった。
 
智は、道理をよく知り得ている人。知識豊富な人。
 
信は、友情に厚く、言明をたがえないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。孟子の四端説における「仁義礼智」の四徳に対し、前漢の董仲舒は五行説にもとづいて「信」を加えた。
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ストレス

2016年07月16日 | 学び ・ すすめ

ストレス【stress】 (goo辞書より引用)
生体にひずみの生じた状態の意。寒冷・外傷・精神的ショックなどによって起こる精神的緊張や生体内の非特異的な防衛反応。また、その要因となる刺激や状況。


ストレスとは何か。現代の心理学や医学の世界には「ストレスはこういうもの」という明確な定義がない。なぜかと言うと、ストレスを完全に解決する方法がいまだに見つかってないからです。お医者さんはいろいろな検査をしますが、脳にも内臓にも異常は見つかりません。そこでどうしようもありませんから、とりあえず身体に現れている症状を抑えるために何らかの薬を出すのです。


どのようなときにストレスがかかるか? 一般的には、人間関係がうまくいかなかったり、過度に忙しかったり、嫌なことがあったとき、と考えられています。しかしそれだけではありません。楽しいことをしているときにもストレスがかかる。「今日一日遊び過ぎた、やらなければならないことがあったのに」。有給休暇をとって温泉や海外旅行に出かけた。そのときも心のどこかで「こんなにのんびりしていてもいいのだろうか、みんな一生懸命仕事をしているのに」と不安になり、あるいは逆に、休暇の最終日が近づいてくると「あー、休みが終わってしまう。明日からまた会社に行かなくては。もう二、三日休みがほしい」と、こうやってストレスを溜める。それから、寝ればストレスは解消されると思っている人も多いでしょうが、寝てもストレスは解消されません。逆に「寝すぎてしまった」と自己嫌悪に陥るのです。何かに没頭して夢中になっているときにもストレスはかかりますし、退屈で何もすることがなくても、ストレスはかかります。退屈だと心が暗くなって元気がなくなり、落ち込んでしまうのです。

したがって専門家のあいだでは、ストレスは生きている限りずっとあるもので、ストレスのない人はいないと考えられています。もし嫌なことをやっているとストレスがかかり、楽しいことをやっているとストレスがかからないというのなら、ストレスを定義することができますし、それを解決することもできます。嫌なことをやめて楽しいことをすればいいのだから。しかしストレスは厄介なもので、そう簡単には解決できません。好きなことをしていても、寝ていても、何をしていても、ついてくるものなのです。

(以上、根本仏教講座・本文)


ストレスは三毒

仏教講座のコラムでは、「ストレスは三毒である」と説かれていました。三毒、すなわち「貪欲」「瞋恚」「愚痴」がストレスだと言うのです。上記の文章のように、「楽しくてもストレス」というのは、まさに、獲られても更に欲しくなる貪欲な様子をうかがうことができます。どっちに転んでも最終的には愚痴がでます。ですから、三毒が盛んで強い状態から、ストレスがおこるというワケです。


(上記コラムの筆者が、)ある方から「会社に行けなくなった、どうすればいいでしょうか」と相談を受けたことがあります。話を聞いてみると、その人は大変な怒りを抱えていて、上司が嫌だ、同僚が嫌だ、嫌な仕事が山積みになっていると、不平不満を並び立てるのです。私はその人に何のアドバイスもできませんでした。なぜならその人は私に「別の怒りを作ってほしい」と考えていたことが分かったからです。つまり「あなたは悪くありませんよ、嫌な人間関係に負けないで頑張りなさい」というふうに。この類のアドバイスは世の中の心理カウンセラーたちが一時的な対処法としてやっていることであって、仏教では、怒りを正当化して人のやる気を起こさせるようなことはやりません。仏教は「完治する方法」を教えています。ストレスを完治させるためには、心を客観的に観察しなければなりません。ですから、彼にアドバイスできることは「心を客観的に観てください。怒っているのはあなたではないですか。悪いのは、いかなる場合でも怒った人です」ということ。でも残念ながら誰も「自分が悪い」ということは認めたがらないのです。(以上、根本仏教講座・本文)


他人や世間を厳しくジャッジしている状態。「いまの政治はなっていない。」「こんなのは常識外れでふざけている。」「そんなことは許されるモンじゃないぞー。」などと、叱る側に立つことを無意識にも望んでいる人には、常にストレスがついてまわっているのかも知れません。むさぼり、怒って、求めても得られない苦しみの連鎖があるようです。

こんなときにはお題目をお唱えするに限ります。コンコンと唱え続けるのです。上行所伝のお題目は、人のこころの中の三毒をよい方向へと変えて下さいます。いかりまくっている人も、そのいかりを蒙っている人も、どうかお題目を唱えるためにお参りしてほしいとねがいます。


 

 

 

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業(ごう)と因縁(いんねん)

2016年07月14日 | 学び ・ すすめ
業の深い人生とか言います。業は行いです。因縁は行いや思考を原因として善し悪しの結果を受けることです。因縁を、悪い方向から良い方向へと修正していただけるのがお題目です。その、業と因縁について、根本仏教講座で解説していただいてたので、本文を拝借して、(抜粋して)次の通り記載しました。

業と因縁
(1)全てのことに理由がある     A・スマナサーラ長老
 
■日本でいう「業と因縁」とは?■
「業と因縁」と言えば日本ではごく普通に使われている言葉。
 よく開くのは「業が悪い」という言い方。また「因縁」という言葉もよく出て来ますが、たとえば、人に会った時に「ご縁があったんですね」というふうに言う。「これも何かの縁ではないか」とかね。何かよくわからない場合に、私達はそういう言葉を使うようです。
 
なぜこうなったか分からない、或いは偶然人に会って、何かものごとが非常にうまくいったような場合。まあ、それも何か縁ではないかと思うんですね。このように私が知る限りでは日本で縁というのは「何か分からないもの」について言うものではないかと思います。
 
例えば人が来るという約束があって会った場合、或いはこちらから会いたいと、アポイントを取って会った場合は「これは何かの縁ですよ」とは言わないんです。
 
「業」の場合も同じです。自分の希望どおりではなくて何かちょっと自分の希望と違ったことが起きた場合、特に悪いこと、不幸なこと、あってほしくないことが自分に起こったならば「業が悪い」と考えたりすると思います。
 
これらの言葉は仏教から出て来た言葉なんですね。そうすると皆様がたが因縁とは何か、業とは何かを知りたいと思うのは、ごく普通のことだと思います。では、お釈迦様は、業と因縁という2つの言葉についてどういうふうにおっしゃっているかというと、業については、そんなことは放っておきなさい、普通の人間の頭で分かることじゃない、とてもとても難しい、深いことなのだと話しておられます。人間には考えても考え切れないことなので、考えない方がいいとおっしゃいます。考えたら頭が狂ってしまうという四つの事がありまして、その一つが業なんですね。
 
ですが因縁のことは、考えるなとは言っておられません。因縁については、みんなが因縁をわかっていないから、そのためにあらゆる苦しみを味わっているんだとおっしゃっています。
 
人間の人生というのは、糸があっちこっち、無茶苦茶に絡まってしまったような状態なんですね。たとえば猫に糸でもあげて、自由に遊ばせてやるとどうなるかというと、ぐちゃぐちゃになりますよね。そしてもう元に.は戻らない。そういう風に我々の頭も人生も全部ぐちゃぐちゃになっているのは、この因縁がわかっていないからだとおっしゃっているのです。ですから因縁はもしかすると理解出来るものかも知れません。しかし業は放っておいた方がいい。同じものでもないし、テーマとしてもなかなか合うものでもないのです。
 
■全てのことに理由がある■
話を戻しますと、日本では分からないことに「何か縁があったのではないか」と言います。
 いい人に会ったとき、これも何か縁だからなどと言いますが、「縁」という言葉を使うポイントは「理由が分からない」という点にあるようですね。ところが仏教で因縁というのは、まったく逆で、いわばとても科学的な、合理的な話なんです。物事、出来事の理由、なぜこうなったのか、それを知っていることを「因縁」というわけなのです。
 
例えば、「このごろ大分寒いですね、それも何か縁ですね」というと、日本の感覚ではおかしいんです。でも仏教でいう因縁というのは、そういうものなのです。何か因縁があって今日は寒い。なぜ今日は寒いかということを皆様ご存じでしょう。季節はもう冬ですし、ちょうど寒波が来ている、だから寒い。つまり因縁とは「理由」「訳」のことなんですね。それは知ろうとすればいくらでもわかることなのです。寒さについても、更に因縁を捜せばもっと詳しくわかります。(中略)きちんとした理由、訳を捜すということ。つまり物事には、全部、きちんとした理由があるということなのです。
 
■因縁の話ほどつまらない話はない■
(中略)例えばある人が来て、私の人生は、毎日不幸なことばかり起こりますが、どうすれば明るくなりますかと聞いたとすると「あなたには何か死者の霊、怨念が付いていますね。大変です。今すぐ除霊してあげます。そうすればあなたは幸福になれます」と言えばすごく興味津々のってくるわけです。しかしもし「あなたの性格が悪い。あなたの喋り方は良くないし、人に親切でない。仕事のやり方もまずい。だから不幸になるのは当たり前だ。しっかりしなさい。良い言葉を喋りなさい。やることはちゃんとやりなさい」と言ったとすると、それは因縁の話で、あまり人気がないんです。それよりは「えいっ」と言って言葉でもかけて清めてもらった方が気持ちが良いんですね。
 
因縁の話はとても合理的で科学的で、おもしろい話ではありません。しかし人間というのは理由、訳を知りたがるものです。物事の理由、なぜそうなったかを知りたがります。それは、知った方が良いのです。知ろうと思って、変なところに行くのがおかしいのであって、きちんと、とことん追いかけて、追って、追って正しい原因を見つけるべきなのです。
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世 情

2016年07月13日 | YouTube 動画 音楽

中島みゆきさんの「世情」という歌を聴いていました。
ボクが中学3年の時に放映されてたドラマ「金八先生」の名場面で使われた曲です。




「世情」と入力してネットで検索していると、次のような、「歌詞の意訳」を見つけました。


世の中の人たちは、刹那的に自分の欲望を満たそうと行動しているから、
世の中の真理とは何かを考え、世の中はどう変わっていかないといけないかを追求し、
まっとうに生きようと正義をつらぬこうとする頑固者たちは、
いつも世の中の人から反対されたり、裏切られたりして、悲しい思いをする。

世の中の人たちは、自分たちの刹那的で動物的な欲望から発していることなのに、
それをキレイな夢に置き換えて達成しようともがくけど
なかなか達成できないとわかると、他の人たちや政治家や国など、
結局、世の中の他人事のせいにしてしまう。
 
世の中の人は「戦争をやめよう、政治を変えよう」などと
その時のキレイごとをシュプレヒコールのように言って、
あたかも他人事のように言うけれど、決して自分の心から変えようとはしない。
 
この世の真理は何か、みんながまっとうに生きれる道は何か、を考え、追求している人たちは
その時代の流れにあわせて変えていくことに、自分なりにもがき苦しみながらも挑戦しつづけている。
 
それでも世の中には、時代のまっとうな進化の流れを止めて、今までどおりの生活をそのまま続け、
刹那的な欲望をまた満たそうと夢見る人たち が多いけれど、
実は 自分自身の心にもそういう一面が顔をのぞかせるときもある。
そんな変えられない世の中の人たちや自分自身の中からわきおこる刹那的な欲望とも戦わねばならない。
 
世の中の人たちはだいたいが臆病で、
自分だけが孤立し、異端視されて非難されるのを避けるため他愛ないウソをつくし、
また自分の欲望をさらけだして利己的に行動して いると思われるのは恥ずかしいから、
そんな欲望を隠そうと、また他愛ないウソをつく。
 
でも学者やマスコミの多くの人は、そんなウソをついている世の中の人たちの利己的な欲望を暴いたり、
見つけ出して、まるで世の中のことは全てわかってるかのような気になっている。
 

ボクはいつも、「ウソはつきたくない。」「私利私欲で行動したくない。」と考えています。
ところが世情の歌詞(意訳)を読んでいると、「何を言ってるんだ。欲望の塊のくせに。」と
一笑されているように思えてなりませんでした。
みんなもがいて生きています。楽しい時、嬉しいときも一杯あるけれど、だけどツラい時の方が多い世の中。
それでも、正直に生きていこうと、正面をむき直したい心地になりました。

優劣に一喜一憂しない。
他人からの評価にくよくよしない。
愛情は自分から注ぐ。
ウソつかない。
ズルいことしない。
こう、意識して生きていかねばと思うのです。
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一期一会

2016年06月12日 | 生活圏 関東 東京都 北区

先日、神谷・東十条健康プラザにおいて、「お坊さんのお話し会」をさせていただきました。

テーマは「さとり」。
ほとけさまの覚りはどんなものだろう?などという難しい内容ではなく、
日常の生活で、元気よく歩んで行くためのヒントみたいな内容でした。

「いま、日常のなにげない場面のひとつだが、これがどれだけ幸せか?」
「それを理解している。」

こうなると、もう立派な「さとり」と言えると思います。
ただしボクは、「仏さまのお覚り」と区別するため、あえて、漢字で「覚り」と書かないようにしています。


そんなワケで、みなさんが人生の中で体験した場面、
「うれしかった場面」「忘れられない出来事」「感動した出来事」などを、
それぞれ、語っていただきました。

まずはボクの体験談。
先般。王子本町から板橋仲宿へ続く道をクルマで走っていました。
下の写真。この風景が見える位置で信号待ちをしていました。
ここは、(右側が高く、左側が低い)傾斜のついた交差点です。


 

この日は晴れで、ぽかぽかとあたたかく、そよ風がふいており、実に気持ちのよい日でした。
時間は午後3時ころ。
右側からお母さんと小学4年生くらいの男の子が2人乗りした自転車が横断歩道を渡ってきました。


 

男の子は、おそらくダウン症を患っているようにみえました。
右前方には養護学校があります。
お母さんがわが子をお迎えにいった帰りなのでしょう。

お母さんは、右側の、緩やかに高い方から一気に、自転車を「ビューン」と走らせました。
男の子はその瞬間、すこし後方に仰け反りながらも体勢をととのえ、
ジェットコースターと比べるとあまりにゆっくりでしょうが、
それでも、それと同じように、両手を広げて高くあげて、
「わー」という歓声をあげるかのような顔つきで、喜んでおりました。

(写真はイメージです)

 ぽかぽかと暖かい日の午後、学校がおわって、大好きなお母さんが迎えにきてくれた。
お母さんの後ろにのって、男の子にとっては大きな背中に甘えながら安心しきっている。
天気はいいし、そよ風に吹かれて心地いい。
いつもの通学路。これからお母さんといっしょにおウチに帰るところ。
いつもの、緩やかな下り坂にさしかかった。スピードがでるのは知っている。
それでも、疾患があるので反応がやや遅れて仰け反るが、それがかえって楽しかったりする。
おもわず大きな口をあけて、「わー!」と歓声がでる。たのしい。安心だ。しあわせ。

(写真はイメージです)


 と、まぁ、そんな瞬間を信号待ちの運転席からみてしまった。
しかし我ながら、想像力たくましく作文したものだと思います。
ここに書いたことは、この少年が歓声をあげた瞬間を、たまたま見たボクが、想像で書いている事柄であり、
事実を確認したワケではないのです。しかし、想像は遠からずハズレではないと思うのです。

こんな他愛もない信号待ちの場面ですが、ボクはこのシーンを一生忘れることができないと思います。
あんなに嬉しそうにしていた少年。優しそうなお母さん。日常の中に「至福のひととき」がありました。
そして、彼もきっと、あの時のあの場面の楽しさを忘れないんじゃないかと思うのです。

ボクと少年は信号ですれ違っただけのご縁です。
当然、しゃべったことなんか一度もありません。
どこのだれかも分からないし、彼はボクの存在すら知らないのです。
だのに、ボクらは同じ場面を、一生忘れられないシーンとして共有している。
もし、そうだとしたら、おもしろいものだと思うのです。

「袖触れ合うも他生の縁」
こんなコトバがアタマに浮かびました。
道ですれ違うだけでも、ものすごく深いご縁があるもの同士なんだと。
こころから、そう思えてなりません。
況んや、夫婦・親子・兄妹。同僚・親友・ご近所さん。
これらの人間関係はどれほど深いご縁で結ばれたのか、想像がつかないほどです。


 ここのところ多くの本を読みました。多くの人の家庭問題を見聞きすることが重なったので、
求められた時によき助言ができるようにと考え、まずは知識を得ようと思ったのです。
その内の2冊「家族という病」というタイトルの本は大ヒットし、続編のパート2も出版されました。

出版社は本の帯に「待望の処方箋」と書いていました。
しかし、実際には作者の自叙伝的なところがあり、作者の主観が述べられているに過ぎません。
ですから、「待望の処方箋」という見出しは結局、本を売るための「コピー」ということでしょう。

読む方はその気になって本を買います。売る側は、実に無責任だと思いました。
まぁ、書籍の多くはそういう風に売られているのかもしれません。

「個」を大事にして「家庭」の犠牲になるな。と宣った2冊。
筆者には子どもがいません。
実の父親との関係は思春期に崩壊して父親が亡くなるまで修福できませんでした。
そのように本文中で謳っています。

ですから、個人の生き方を尊重して云々、という物の考え方がベースにあるのでしょう。
もし、子どもを産んで育てていたら、父親と仲睦まじい関係だったら、こういう内容の本を書いたかは疑問です。

すなわち、「家族という名の病」は、筆者の家庭内の問題に他ならず、
自叙伝を出版して、広くにそれを促すべきではなかったのです。

繰り返しますが、出版される書籍は所詮、そんなもんだといたしましょう。
ただ、願わくば、諸問題をかかえているみなさま、世間の影響をうけて、
わざわざ崩壊させるような道のりを進まないでほしいと願います。

世の中に落ちているヒントなんて所詮は無責任なもの。
親身になって考えてくれる人のコトバ、信用できる人のコトバが大事なのでしょう。

ボクとダウン症の男の子とのご縁は、すれ違っただけの関係です。
相手はボクの存在など知りもしません。
でも、生涯忘れられないくらいの場面を共有しました。
(ほんとにそうか分かりませんが・・・。)
これほど、ご縁というものは深遠なのです。

ましてや、夫婦・家族、大事な存在は深い深い絆のもとで結ばれています。
どうか、わざわざ壊さないで下さい。
そして、マイナスのご縁を排除できるように努力しましょう。
その智慧がお寺にある。かならずあります。

一期一会。
二度と巡ってこないかもしれないご縁は山ほどある。
その瞬間を大事にしたいと思います。そう思えるのも「さとり」なのでしょう。



 

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両手を伸ばして届く範囲

2016年06月10日 | 生活圏 関東 東京都 北区

「神谷・東十条健康プラザ」ではヨガや写経などの教室が開かれ、地元の人々が集っています。
毎日なにかの教室が行われているようで、みなさん実に活発に活動されています。


 

今回は臨時でその1枠をいただき、お坊さんのお話し会をさせていただきました。
参加者は12名。同級生のお母さまもご参加されていらっしゃいました。

このプラザは、フクシ調剤薬局が入っているビルの2階にあります。
フクシ調剤薬局の経営者が有志で自社ビルを開放。北区に提供されていらっしゃるのです。

東京都北区の社会福祉協議会では、地域ささえあい活動と題して、活動する団体を支援しているようです。
以下、北区社会福祉協議会のホームページの文章をコピーしました。


 

北区社会福祉協議会は、平成10年度より地域ささえあい活動を進める団体に、活動を軌道に乗せるための助成事業を始めました。
これまで、次のような活動を行う団体に助成を行ってきました。
食事、レクリエーション等のサービス提供活動

  1. 健康づくり、生きがいづくりを行う活動
  2. 地域づくり、ネットワークづくりを行う活動
  3. 相談、情報提供を行う活動
  4. 学習プログラム提供を行う活動
  5. その他、地域でのささえあい活動として必要と認められる活動

神谷・東十条健康プラザは、調剤薬局の経営者、地元の民生委員、特養老人ホームのマネージャーさま、社会福祉協議会の役員でNPO団体の代表さま、以上の方々の連携で運営されているようです。今後は育児放棄されたような児童に対するケアなどを活動に盛り込むことを考えていらっしゃるとお聞きしました。みなさん実に情熱的です。

常住寺も地域に貢献したいと常々考えております。実際には、非常災害時の対策の一部を、王子警察と連携して備えております。自治体に協力して、諸行事にご協力をさせていただいております。今後は、ここの神谷・東十条健康プラザの活動も、お仲間に入れていただけるようなら、積極的にお手伝いさせていただきたいと思います。


広くて使いやすいお部屋が2つ。
こちらの部屋はヨガ教室やカラオケ教室に使われているようです。

こちらは今回お邪魔させていただいたお部屋です。
テーブルもイスも、デザインがよくて、かるくて、使いやすい。すばらしいです。

これだけの施設を私財を投じてご用意されたおこころざしに随喜の思いがおこります。
内装を工事されるのだって大変なことです。
もう、ただただ、素晴らしいと申し上げるよりほかありません。


 

お坊さんのお話し会は、「さとり」をテーマにして、「無常」「一期一会」などのお話しを申し上げました。

悟りをどのように捉えるか?
「ピンときた!」 これが「さとり」(人間目線での)に一番近い表現じゃないかと思うんです。
お寺だと、「お参りすべきだというコトに気がついた。そこがピンときた。」という具合です。

一通りお話ししたあと、参加者みなさんの体験談「あのときは感動した」とか「こんな風に嬉しかった」とか、
そういうお話しを聞かせていただきました。

一期一会です。
時間はもどりませんから、いまを元気に生きるのに、感動を伝え合うのがよろしいかと思ったのです。
ボクも話しました。他愛もない場面について話しました。でも、近年では深く感動した場面です。
内容は次回、ご紹介します。

みなさんからいろいろなお話しを聞かせていただきました。
人生の先輩ばかりです。ずいぶんと勉強になりました。
貴重なお話しをありがとうございました。

「両手を伸ばして届く範囲」すなわち、ご近所のコトです。
地球上には80億もの人が生きています。その中ですぐ近くに住んでいるというご縁。
これはもう、浅からぬご因縁です。
同じ職場。同じ学校。向こう三軒両隣。友だち。親戚。そして、家族。
ボクらは過去世からの深遠なるご因縁で、人と出会い、共に暮らしています。
どうか、わるいご縁がなくなりますように。よいご縁がはかどりますように。
心から、そう、ねがいます。

ボクは一生、地域に根づいて暮らしていきます。
だから、地域のお役に立てて、地域に貢献できて、お坊さんとしての使命を果たせたらと考えます。

今回は地域の方々と交流できて、本当に嬉しく思いました。
今後も機会がありましたら、どうぞよろしくご指導下さいますようお願い申し上げます。


※ このブログ内の記事ですが、リンクをはっておきます。
  よろしかったら併せてご覧ください。

東京都北区における戦災の記録

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夏のお会式

2016年06月07日 | 常住寺のご信者さんへ

6月5日(日)常住寺の開導会が奉修されました。
(本堂・右側のお逗子に、開導聖人ご真筆のご本尊をお祀り申し上げました。)

お箱の脇に、権大僧正日泰上人のお書き入れです。

「蓋の表書き」と「うら蓋」には15世講有日晨上人のお書き入れを賜っています。


 

お参詣は、満座200名の本堂でご奉公者もふくめて1回転半といったくらいでしょうか。

来年4月の開導聖人ご生誕200年法要。本山団参の説明も行われました。


 

乗泉寺巡教・高祖会にて恩師上人の御年回が営まれます。

記念誌にのせる写真撮影。ご奉公者の集合写真です。

局長室のご信者方

寺族・千鳥会


春に続き、当山の恩師上人と大奥様のお写真も展示されました。

展示は秋のお会式まで続けます。また、記念誌も発行されます。
ご信者方へは、各ご家庭に一冊づつご配布させていただきます。
夏のお会式が終われば、もうすぐ夏期参詣期間に入ります。
みなさん、はりきっていきましょう。

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だんなさん

2016年06月05日 | 学び ・ すすめ
【 旦 那 ( 語源由来辞典より )
 
(意味)旦那とは、妻が夫を、商家の奉公人が主人を、商人や役者・芸人がひいきしてくれる客を呼ぶときに用いる敬称。
 
(語源・由来)
旦那は、サンスクリット語の「ダーナ」の音写で元・仏教語。
「ダーナ」は「与える」「贈る」の意味で、「布施。ほどこし。」などと訳され「檀那」とも書く。
中国や日本では、旦那は寺院や僧侶に布施をする「施主」や「檀家」の意味として、主に僧侶が用いる言葉であった。やがて、一般にも「旦那」の語は広まり「パトロン」のように生活の面倒を見る人の意味で用いられるようになった。さらに「面倒を見る人」「お金を出してくれる人」といった意味から派生し、奉公人が主人を、商人がお客を、妻が夫をよぶときの敬称として用いられるようになり、現代では主に、妻が夫を呼ぶ敬称として用いられる。
 

ほどこすという意味があったんですね。つまり、夫は家庭にお金を入れる。
自分が働いてきて得たお金を奥さんに渡して、家族を養う。これはやっぱり愛情です。
家族の生活をしっかりとみる役割なので旦那と呼ばれるようになったというのは納得です。
ただ、現代は共働きが多いから夫婦ともに旦那の役割を担ってることにりますね(笑)。
 

 仏教では、「ほどこし」「布施の行」を田んぼにたとえます。

一年かけて、やっと「お米が収穫できた。」
あまり多く実らなかったけれども、嬉しい。
 
昔なんかは食べ物が豊富じゃなかったでしょうから、現代と比べると、ずっと、そういう思いが強かったんじゃないでしょうか。
そして一年間、収穫できたお米で食いつながなくてはなりませんから、お米をとても大事にしたことと思います。
だけど、全部食べたいけれど、収穫されたお米の中から来年に向けての「種籾(たねもみ)」をとっておく。
その年の収穫がうんと少なかったとしても、これを取っておかなかったら、次からお米を育めません。
 

「布施」・「ほどこし」は、それと同じだと言います。
他に対してほどこす。身銭を切って、ほどこすのです。
特には、功徳になるようなことに「ほどこす」のです。
「これは田植えと同じだ」と、いうのです。
そういう「心がまえ」や「おこない」は、
種籾(たねもみ)が、秋には多くの稲穂を実らせるのと同じように、
やがて、あとになって自分に返ってくる。そう、教わります。
それは「自分の欲を離す」という修行でもあります。
「もったいないから食べちゃった」では、どうやら、そこで終わりみたいです。
 

ほどこしたら自分にかえってくる。でも、打算的にほどこしたらつまらないですね。
「人によくしてあげたい」
そんな気持ちの人だからこそ、功徳が積めて、そして、いつしか自分も他から恩恵を受けるのでしょう。
 

果たして、それがどれくらいのスパンで巡ってくるのでしょうか?
稲穂の収穫みたいに一年でしょうか?
それは分かりませんが、信じて善行の功徳を積みたいものです。
 
だんなさん。奥さんに優しくしてあげてくださいね。
やがて奥さんも家族も、本当に旦那を大事にしてくれますよ(笑)。
なーんて。ウチもそうしなくちゃと心得ます(笑)。
 

仏教は、そういう功徳の積み方を具体的に説き示してくれています。
それを世の人に伝えるのが、お坊さんの仕事の内容です。
お葬式だけしてるのは、本当のお坊さんじゃありません(笑)。
とにかく、「ほどこす」という「徳の積み方」を、自分から発信して行きたいものです。
「人によくしてあげる」「慈しむ」という優しい心持ちで歩んでいきたいと思います。
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おなじ心の友

2016年05月27日 | 学び ・ すすめ
子曰、学而時習之、不亦説乎。
 有朋自遠方来、不亦楽乎。
 人不知而不慍、不亦君子乎。

 
子曰く
学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや。
ともあり遠方より来る、亦楽しからずや。
人知らずしていきどおらず、亦君子ならずや。

 
教えを学びそれを実践する、それが喜び。同じ教えを学ぶ人(同じ志しの人)が、遠方にもかかわらず、やって来る。それは実に楽しいことである。
他人が、自分のことを理解し正しく評価してくれなくても、それを不満に思ったり、また、怒ったりしない境地。それでこそ君子である。
孔子にとっては、学ぶことが喜びであって、教えを理解できない人々の評価などは取るに足らず、気にすることはないのである。

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子どもお会式

2016年05月24日 | 第5支庁 と 東京中央布教区

5月22日(日)大塚・遠妙寺さんにて、子どもお会式が奉修されました。「第五支庁・支庁巡教」をいただき、東京中央布教区は第4回目、遠妙寺は第15回目の子どもお会式です。一つの行事にトリプルネーム(笑)。もう、すごいコトになっちゃいました。

山門よこの、「かわらけの大灯籠」と「掲示板」

チャリティーバザー。フィリピン別院による、現地のフードコート。熊本支援のための、熊本グッズとグルメの販売。

お給仕かかり。小さな改良服(お坊さんの普段用の「お衣」です)が、かわいい。しっかりお給仕できてました。これをみた裕香が、感動しておりました。

本堂での法要では、こども向けのお話しをさせていただきました。「いっしょうけんめい」というコトについてお話ししました。ご法門は後日アップします。宗務総長・木村日覚上人(遠妙寺の御住職です)のごあいさつはすごいです。「今日はねー。みんなにひみつを教えちゃう。」もう、たったこれだけで、子どもに聞く耳を持たせてしまう。すごい。そして「お教務さんは、じつはアンパンマンなんだよー」「高野師もアンパンマンでしょ(笑)」「蓑田先生もアンパンマン(笑)」。外見のことでしょうか(笑)?

いえいえ、そのこころは。「アンパンマンはみんなを助けてくれるんだ。だから、お教務さんはすごいんだよー。」というワケです。世を利益する活動に従事する僧侶の姿を、子どもたちに伝えていらっしゃいました。お話しは、ほんの2分くらい。達人です。

せっかくお側に居させていただけるので、ご一緒にお写真をとお願い申し上げ、イベントで盛り上がっている中で撮影。お導師、ありがとうございました。

260名ほどのお参詣で、会場は熱気につつまれていました。ゲストのパフォーマーが盛り上げます。

射的。巨大迷路。ストラックアウト。

ご供養は手作りの、焼きそば、ウインナー、トルティア、野菜のソテーは抜群のおいしさでした。梅沢さんが調理して下さいました。

とてもかわいい木製のフォーク。これはきっと、子どもたちに暖かさを伝えたことでしょう。すべてにおいてクオリティーが高い。真剣に取り組み続けて15周年を迎えた積み重ねが、随所に表れていたのだと感じました。

最後のしめは小林師がご奉公下さいました。

布教区くんげ会・会長の岩崎さん。いつも最初から最後まで、全力で先陣をきってご奉公下さいます。素晴らしい、本当に素晴らしいリーダーです。

本堂内に設置された、子どもお会式のカンバン。

次は8月のキャンプ。ポスターはいつも、中野師がつくってくれます。

どれも、次世代に伝えるための大事な行事です。布教区11ヶ寺の未来を担う青少年の集まりです。各位にご理解とご協力をいただきながら進めさせていただいております。感謝感謝です。

みのだ先生と教信師。裕香はもんちゃんとお呼びしてます(笑)。

岩崎さんご夫婦。矢代さん。つるみさん。のりえ。えーた。

岩崎さん。良尚師のご長男。いい子です。のりえ。前日準備の夕方に撮影。

前日の夕方。映像のテスト。

集合写真。すごい熱気です。ほんと、ありがたく思います。

次世代の育成。みんなが、元気がでる行事でした。一人ひとりが想いを込めて、この日に望みました。子どもたちはボクらの希望です。優しく、たくましく、そして正しい教えをしっかり修めて、ステキな大人になって下さい。いまを一歩一歩、ステキな道のりを歩んで下さい。そんな、大人たちのねがいがつまった行事でした。いとおしい、愛すべき子どもたちへ。

 

 

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川のながれ

2016年05月21日 | 信 友

久しぶりの、仲間の集まりです。

午後になって時間がとれた順にながれ集合でした。

東京駅の八重洲地下街、カーブ・ド・オイスターというお店。ボクは2番目に到着。

はやく着くと、それなりにコアな話しができるので、いい時間になりました。

番長はクルマで、お寺の所要をすませて駆けつけました。

江原師もご奉公が終わってから合流でした。

久しぶりの会合。

「ただ集まっただけ」という集まり方はここ近年では珍しいこと。

奇跡の一日だったと言えます。

かけがえのない仲間との時間。

むかしと同じ空気ではありませんが、集まるとやはり嬉しく思います。

さいごに柴又が合流して6名で会食。明日への活力になりました。

みんなそれぞれ、明日からの日常を淡々ときばっていくことでしょう。

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元 気

2016年05月20日 | 第5支庁 と 東京中央布教区

今月は布教区行事が2つ。先日・14日に開催された「布教区総会」と、22日に営まれる「子どもお会式」です。布教区総会では「過去一年間の報告」と「これからの一年間、また先々のあり方を協議」されました。布教区をお預かりして、今期で2期目。最終年度・平成30年の秋には、次の体制に引き継ぎとなります。子どもが対象の行事は、「いま参加してる子どもたちが成長して、今後は自分の子どもを連れて参加する」というのを想像しながら行事を行っています。ですから、任期満了までに、20年くらい先まで行事が続くための道をつけるのが目標の一つです。

総会の準備をしている写真。総務部参与さんたちが、各部署の資料をまとめて、事前に参加者に配布して下さいました。5月14日の総会にむけて、5月3日に決算以外の資料を発送しました。議案を先に読んでもらってますので、会議がスムーズに進みました。総務の教信師、彰孝師にはご奉公ありがとうございました。


 

任期満了の平成30年には、(宗門の青少年行事が何もなければ)、ウチの布教区主催で「本山奉仕」をさせていただこうと企画しています。その予算を確保するために、総会でみなさんにご協力を呼びかけ、予算確保のための議案が通過しました。ちょっと荒々しい手段だったかとも思いましたが、みなさまよりご理解とご協力をいただきましたことを感謝申し上げます。また、個々の反応もありがたく思いました。会議がおわってから大寺院の局長さまが話しかけてきて下さり、立ち話の中で、「本案を実行する際には、積極的にご協力させていただく。」とのお言葉を賜りました。ほんとうにありがたく、御礼申し上げます。また、総会会場の光寺さまには大変お世話になりました。御住職で本宗・宗務副総長の亀井日魁上人におかれましては、いつも小僧を可愛がって下さいます。この度もご高配を賜り、まことにありがとうございました。あつく御礼申し上げます。


 

22日は子どもお会式、宗務総長・木村日覚上人のご慈教のもと、準備が進んでいます。


 

子どもお会式が終わると、8月のキャンプに向けて動き出します。 

 


布教区という組織。ウチの布教区は都内の11ヶ寺があつまったグループです。年間でいくつもの集まりがあり、大勢が集まる大会は規模の大きな寺院で行われます。大勢の人が集まるということは、人も、元気も、必要なものも、奉納も、全てが集まります。ですから、規模の小さな寺院でも、何らかの集まりをもっていただき、行事をおこなった寺院にパワーが集まりますようにと考えて会場を選びご協力をおねがいしています。前期から今期まで、そこを軸にして行事をつくってきました。みんなが元気いっぱいでありますように。行事を行う際は、そんなささやかな願いが込められています。

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