人類猫化計画

「基本的な生き方は猫に学べ!」を提唱するイラストレーター●山下セイジの猫並みな日々雑感記

ブログ変更のお知らせ

2008年04月05日 03時41分41秒 | 猫並み日記
2008年4月よりこちらのブログで日記をアップしています。

また、2009年12月より行き当たりばったり連載小説『Dっち』というブログを執筆しております。発達障害児(LD、アスペルガー症候群、高機能自閉、境界域知的障害、等)を主に受け入れてきた小さな私設学校を舞台に、「自由の子ども」Dっちを主人公に据え、「オンリーワン」の生徒たちが巻き起こす数々の珍騒動エピソードを織り込んだ「セミフィクション」小説ブログです。

閲覧いただければ幸いです。

よろしくお願いします。



刻んで生きる

2008年03月17日 17時44分52秒 | 猫並み日記
かつて「共同幻想論」という70年代サヨク活動家のバイブルとされたような本がありましたが、僕など70年代初頭の屈折少年時代、団塊兄の書棚にこの「共同幻想」なる文字が躍る背表紙を見つけ、何故かわくわくする心持ちでパラパラとページをめくるが、何が書いているのかさっぱりわからず、しかし、つまり世界は人々の集団的、共同的幻想によって成り立っていると、確かな実体などないんだよ、みたいなことは分かったような、わからないような。そうか、あれもこれも幻想だったのか、道理で世の中は無知で繊細な少年にとってすごく理不尽にできているのか、なーんだ幻想であれば、そういう前置きでそれなりの生き方をすればいいのかと少年なりに解釈したのでした。

その本を書いたのは吉本隆明、ばななのパパですが、彼の近著「幸福論」というのを読んでいて、こちらはすすごく平明、彼が茶でも啜りながら、たらたらと語ったことを編集者が聞き書きしたような、口承体というのか、そういうご本。活字もでっかくて僕のような「老眼の微老人」には読みやすい。

結局、いろんなことは悩んでも仕方ないことで、つきつめて深く考えたところでいいことはないよ、と仰有っている。だから、日々、今日は旨いパンを食ったからそれでいい一日だったことにしよう、とか、今日がイマイチだったとしても、明日もイマイチと限らないし、悪いことはそんなに長く続かない、まあ、良いことも長く続かないけどね、みたいにひょうひょうと語っている。めちゃくちゃ深くいろんなことを考えたワタシ(吉本さん)が言うんだからホントだよ、みたいな感じなんですね。

「刻んで生きてみよう」というのが、この本のテーマで、長いスパンで先のこと心配したって鬱になるだけで、いいことはない。結局、老いて朽ちて死んでいくことから人間はどうしても逃れられないわけで、そのことが分かっていながら、そのことをつい考え、心が鬱っぽくなるのは、わかりもしない先のことを考えるからであって、だから先のことはなるべく考えないで、とりあえず「刻んで」いきましょう、と。まずは今日一日、明日、明後日くらいまで、やるべきこととか。で、1週間くらい刻んだら、またちょっとちょっと刻んで生活する、ということです。


1月は55才になったこともあって、「今年はGo! Go!」なんて息巻き、お気楽ウクレレモードで年初は過ごしましたが、2月に入り、なんとなく懸念し、「こうなったらちょっとやだなあ、困るなあ」と思っていた「最悪のシナリオ」が現実のものとなり、途端随分落ち込みました。若い頃はよく落ち込んだけど、近年最悪の精神状態であった。で、どうにかしないといけないので、根が真面目な僕はやるべきことを考え、せっせと事態改善のための仕事をしてまいったわけです。

それで、なんだか忙しくなって、基本的に猫並の生活がベースですから、とにかくやるべきことが多くて、ここ2週間くらいは死ぬほど忙しかった。フリーランスが「忙しい」と言えば、「それはけっこうじゃないの」と思われますが、先月から今月にかけての忙しさはあれですから、啄木的「ぢっと手を見る」類の忙しさ、働けど、働けど、です。

ところで、一昨日は僕が授業をやっている学校の卒業式でした。式が無事終わり、そのあとの謝恩会でスピーチをしたのだけれど、保護者、生徒の前で喋っている内、ふいに万感迫るものがあって、泣けて、泣けて。今回で17回目の卒業式ですが、今までうるっと来ることはあっても、ここまで言葉に詰まり、涙を抑えることができなかったことはなかった。

君らはとてもとても不器用にしか生きられないだろうけれど、小器用にずるく、人を出し抜いて生きるような人間に比べれば、ずっと素晴らしいよ、俺はね、君らが何故か大好きなんだ、だから、こんなに長くやってるんだよ、とかぺらぺら喋っている自分の言葉に酔って、ビールも大分入っていたので、ビールにも酔って、もうみっともないくらい泣いちゃいましたね。一昨日までめちゃくちゃ忙しかったから、その疲れ、安堵感もあって、涙腺は緩みっぱなし。

それで、昨日は虚脱状態。な~~~にもやる気になれない。今日になってもなんだか気持がそぞろで、やるべきことに手が着かない。久しぶりに日記でも書こうか、と思ったのでした。昔、フランキー堺がB級戦犯を演じ、絞首刑となるテレビドラマ「私は貝になりたい」なんてのがあったけれど、「私は猫になりたい」よ、まったく、と向かいのアパートの片隅に座り、春の日差しをあびてうつらうつらしている近所猫を窓から眺め思ったのだった。

火曜日は歯医者の日

2008年02月05日 20時00分39秒 | 猫並み日記
本日火曜日は歯医者の日、毎週通い始めてどれくらいになるのだろう。と、調べてみたら昨年10月から毎週欠かさず、という感じだった。が、実は先週はサボった。ちょこっと忙しかったこともあったが、すごく行きたくなかったので「ちょっと急用ができて」とウソの電話を入れ、キャンセルしたのだった。すまん、歯医者。

今日はウェイティング・リストに載っていたあらたな虫歯箇所の治療。比較的小さな虫歯だったので、「麻酔はしなくていいですかねえ」と先生が仰有る。「しなくても痛くないでしょうか?」と聞けば、「やってみて痛ければ麻酔しましょう」と。「あああああ、それだったら先に麻酔をお願いします」と僕。

虫歯を削っていて、来るか来るか(痛みが)と緊張していて、ほんのちょこっとでもチクッと痛みを感じれば、もう身体全体がビクーンと反応してまうんですね。それくらい、歯の治療にまつわる痛みにはトラウマがある。

「いや、心理的なものですから」と言えば、先生も僕のビビリをよくご理解いただいていて、「じゃあ、麻酔しましょう」と。治療中、何度となく「痛くないですか?」を繰り返すのだった。気遣いさせてすまんな、先生。

治療中、思ったのだけど、若い女性歯科助手(わりとタイプ)が側にいるわけですが、彼女の手を握らせてくれたらいいのになあ、と。けっこう、落ち着くと思うんですね。いやいや、いやらしい意味ではなく。(いやらしい意味か)

今回、けっこう多めの麻酔をされたようで、治療後4時間は経っているのに、まだ唇あたり痺れている。感覚のない唇裏面を感覚のある舌でまさぐると奇妙な感じがする。なんだか、セルフ・ディープキスのような感覚というか。なんとなく楽しい。

個展でセッション

2008年02月03日 19時33分03秒 | 猫並み日記

起きたら、おやまあ、雪ではないか。それもけっこうどかどかと。いいねえ、もっともっと降って二、三日、交通も十分に麻痺して、会社も休んで、閉ざされた冬というのを首都圏もたまには体験するべきだ。これを機会にストップ&シンキング、みんな引きこもって、家族顔をつきあわせて、コタツで丸くなろう。買い物にも行けないから、冷凍食品食べたりね。笑

と、妄想していたら、夕方には雪もやんだ。今日は日曜日であるが、朝から殊勝に仕事。音楽雑誌のブギウギ・ピアノ特集の扉絵、てなわけで、ジャイブ・ジャンプスウィング系、ビッグバンドをBGMに。コンピレーションのJazz Jive And Jump とか、RCA 100 Years Of Recorded Jazzとか。30年代、40年代あたりの眠たげなモノラル・ブラスアンサンブルの音は案外、雪の日に合うなあ、と思ったりした。


昨日は、友人の写真展オープニング・パーティに参加するため原宿へ。
http://www.bliss2001.com

アート・ディレクターの友人はギター弾きで歌も歌う、シンガーソング・アートディレクター。セッションをやろう、ということになっていたので、シンガーソング・イラストレーターの僕はウクレレ持って駆けつけた。

酒が入り、唄う機会があると「イタコ」状態になるワタクシ、唄いまくりました。今年から「メロウでいこう」と思っていたが、まだまだメロウへの道は遠いようだ。


画像は「個展でセッション」風景

1月は行く、2月は逃げる、3月は去る

2008年02月02日 02時39分07秒 | 猫並み日記
「1月は行く、2月は逃げる、3月は去る」という言い回しを知ったのは小学校6年の時、担任の吉田愛子先生が卒業式を控えた3学期の始業式に言っておられた。良く覚えている。

行ってしまった1月も顧みれば、そこそこに忙しかったが、逃げはじめた2月に入り、今週も小忙しかった。フリーランスが「忙しい」と言えば「それはけっこうなことで」となるが、実入りのある忙しさではなく、「じっと手を見る」類の忙しさだ。やや寝不足の日々、さきほどこたつで小一時間うたた寝をしてしまった。

ま、しかし、「猫並生活」が基本の僕としては、忙しいと言ってもたかが知れている。一日に8時間程度働けば、僕にとっては十分に「忙しい」。

ようやく試験問題を全部作成し、昨日は一日の授業を試験の対策にあてた。今回は、思うところあり、ウチの生徒にも試験というものを少しは楽しんで貰いたいという気持から、試験の範囲を知らせるだけでなく、事前に具体的な問題までかなり教えた。

こういうことをやったのは初めてだが、ずっと長い間、試験には苦しめられてきた生徒達である。たまには、自信を持って解答を記入する喜びを知って貰おうと考えたのだ。そういう試験をやって意味があるのかということはあるだろうが、僕なりの考えあってのことだ。

国語で今期は、国語教材クラシック「ごん狐」を取り上げたが、小狐ごんの性格、及び、準主役キャラ、兵十とはどういう人物か、というのを簡単に書け、という問題を出すと告げ、ごんについては「いたずら好きな狐だが、本当は思いやりのある優しい性格の持ち主」とか書けばよい、と教えた。

一方、兵十という人物について模範解答(例えば、「貧しくて、あんまりかっこよくないけど、母親思いの働き者」とか)を提示する前に、クラスのKクンに「兵十ってどんな男なのか、言ってみ」と聞いてみた。「兵十は、お母さんが病気になって、お母さんのため一生懸命ウナギを取ったりしたんだよねえ」と促すと、Kクンはすかさず「マザコンじゃないの?」と。鋭い指摘、笑ったね。