鶴猫荘日記第2版セガン編

知的障害教育の開拓者エデュアール・セガン著作翻訳のページ

セガン1842年論文 2

2017-07-12 14:18:58 | セガン研究
皆さま、以上が、私が(男子)不治者救済院に入るにあたって、私にゆだねられた子どもたちについて作成された報告書です。これに補っていただきたいことは、生徒のジャックマンとユジェーヌに関してですが、彼らはてんかんに冒されている、ということです。このことについては管理委員会の記録を参照していただきたいと思います。このことについて、彼らの兆候でしか、私は知り得ませんでした。とは言え、このことが、無条件に、このすばらしい報告書に同意する妨げとなったわけではありません。

出会いのはじめ ― 私は彼らの中にいます。一群が腕をむちゃくちゃに振り回し、もう一群が声を振り絞って叫び、さらに数人の者が沈鬱な様子でいます。ある者は私が声を掛けるとニタニタ笑って逃げます。またある者は、私が腕を掴むまで、いつまでも私に敬礼し続けます。さらにまたある者は私に十字を切り、手に口づけをします。もうひとりの者は地面に寝ころびます。その他の者と言えば、非常に悪い姿勢で、一部が欠落したりほとんど理解できない返答しかしません。私たちの近くでは、教室と体操場とに供されている部屋で、雄叫びを上げている身体障害者、身体不随者、盲人、ボケ老人が穴の開いた椅子に、整然と座らされています。こうした哀れな人たちが私の前におります。彼らは余生をここで過ごすのです。何もせず、暇で、ガツガツと食らう余生を。彼らは服従obéissanceすることや働くことを知りません。精神というもの、彼らはその存在さえ気づいていません。身体というもの、彼らはそれをシャンとさせないままでいます。そして、食欲が充たされそうなところにしか身体を引きずっていきません。心というもの、それは、ほとんどの者が、醜悪な倒錯に陥らされています。そして何人もが、身体的、知的及び精神的個体それぞれが非常に重要な発達をすでに遂げているような年齢に達しているのです。

カテゴリー ― 非常に悲惨な状況を前にして、これらのあらゆる種類の非常に多様な障害を持つ者に対して一様に私の教育方法を適用するすべが分かっているにもかかわらず、私に課せられたプログラムを文字通りに実行しなければならないというのでしょうか?私にはそうは思えません。私が我が生徒たちの中から類型化したもの(カテゴリー)をご賢察下さり、お認め下さらんことを願います。すでに成長してしまっているためほとんど変化の契機を示さない―というのも、本性自身が生徒たちの生理学的発達に終わりをもたらしているからです―生徒層には、平凡で簡単なごく少量の作業によって、精神が手の調整器としての役割しか持たないような、物的生活を創出しようと試みてきました。白痴症がまだ悪化していない年齢の生徒層には、私は、活動と知性についての手の二重の働きを開発しようと試みてきました。最終的には(à tous enfin)、年長者を尊敬し、年少者を引き立てるような、義務、服従、道徳の観念を教え込むべく努めてきたわけです。
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