昨朝、救急病院に行く時に、
僕は、<小悪魔>だけには、
「さっき、大量の鼻血が出た。
不安だから、いまから救急車に乗る」
と連絡し、
救急車から、行くことになった病院の名を知らせた。
朝8時だというのに、女は着の身着のままで救急病院に駆けつけ、
2時間以上も僕の側にいて、
僕の右手を握りしめ、診察室までも一緒についてきた。
しかも、僕の頭を調べようとしない医者に対して、
「こんな高血圧の人が鼻血を出したりしているのに、
胃なんかばっかり調べて、なんで頭を調べないの。
家に帰って脳梗塞で倒れたりしたらどうするのよ。
今すぐに、MR検査をやってよ」
と食い下がって、適当に逃げようとする若い医師を困らせていた。
昨日、救急病院で検査を受けながら、僕は、
自分が、もうちっとも若くないどころか、老いの世界に足を踏み入れつつある、
という事実を思い知らされた。
もう、死を計算に入れなければならない年齢にさしかかったのだな、
苦い気持ちで、そう思った。
「・・・、」
そうした苦い認識で、僕を心配そうに見つめている傍らの女を盗み見たら、
いかにも女が不憫な気がした。
19歳も年上の、死を意識しなければならないような男とつき合せるのじゃ、
まだ40歳のこの女が、いかにも可哀想じゃないか、
心底からそう思い、
自分の方から、心を鬼にして別れの言葉を言おうか、
とまで考えた。
昨夜、
僕は、部屋に独りきりで篭っていた。
零時を回ってから、女から電話があった。
「独りだと不安でしょ?
こっちの用は片づけたから、今からそっちに行くからね。
なにか欲しいもの、ない?」
「弁当でいいから、米が食べたいな」
「わかった」
15分ほどして、女は僕の部屋のドアを叩いた。
部屋に着くなり、女は僕に言った。
「世川。
今から救急病院にもう一度行こう。
行って、MR検査をしてもらおう」
「そんな。
いま、真夜中じゃないか。
そんな事までしなくてもいい。」
「でも、世川。本当は不安でしょ?
心配してるんでしょ?
私も不安で、自分の部屋にいられないし、眠れないよ。
行こ。
今から行こ。」
僕は、その昼間も、女が、他の病院に検査に行こうと言うのを、
「そんなお金は持っていない」
と断わった。
僕は、この人生、傍目には、好き勝手を生きてきた。
倫理も道徳も礼節も、何もかも無縁な場所を思い通りに生きてきた。
その代わり、
最後の最後に野垂れ死にをしようとも絶対に嘆かない、
黙って独りで死んでいくんだ、
と強く決めてきた。
だから、
いま、この歳になって、命惜しさの検査なんかやれるか、
と思った。
「お金は私があるから。
お金の心配なんかしないで、検査に行こ。」
女は言った。
しかし、
「お前のお金で病院に検査に行くなんて、
そんな恥ずかしい真似が出来るか」
僕も、万が一のことを考えて、その日、いくばくかのお金は用意していたが、
自分をためらわせるものに引きずられて、
その日の救急病院行きは、拒絶した。
「ねえ。世川。
お金は持ってきたから。
いくらかかっても大丈夫だから。
今から私と一緒に救急病院に行こ。」
深夜にもかかわらず、女はしつこく僕に言いつのった。
僕は、その度に、「少し考えてみる」、と言葉を濁した。
「世川。
お前が倒れたら、小沢一郎を応援しているみんなが困るでしょ?
まだ俺がいないと駄目だって、世川も自分で言ってたじゃない。
ねえ、いまお前に何かがあったら、みんなが悲しむから、
小沢一郎だって悲しむよ。
お願いだから、今から私と一緒に救急病院に行こ。」
いくら断られても、女は、しつこくしつこく食い下がった。
そんな女の姿を見るのは、この一年間で初めてのことだった。
「ねえ、世川、行こ。」
「わかった。
じゃあ、明日行こう。
明日は必ず行く」
僕は、とうとう、ためらいを捨てて、
<小悪魔>の説得に応じたのだった。
(この項、続く)








赤色エレジー あがた森魚 吾妻橋
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