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映画『64』に思ったこと。


 
       映画『64』に思ったこと。




 息抜きに、大ヒットしたという映画『64』のDVD後半部だけを観た。
「こんなもののどこが受けて大ヒットしたんだろう?」
 不思議だった。

 DVD一枚分で終わるものをわざわざ2枚分に伸ばして撮影した、
 そんな感じの映画だった。
 脚本家の名も監督の名も見なかったが、
 どうせテレビ局の息のかかった三流たちのつくったものだろう。


 僕は佐藤浩市という俳優を結構気に入っているのだが、
 この俳優は、本当に、作品に恵まれない。
 恵まれたのは、深作欣二の『忠臣蔵外伝・四谷怪談』一作だけで、
 あの時、あの作品をバネにしていたら、もっといい作品に巡り合うこともできたろうに、
 オンボロ作品にばっかり向かう。
 『人類資金』とかいう阿呆映画を観た時には、
「こんなガラクタ映画にこいつが出るのか。」
 肩から力が抜けた。
 本当に奇妙な俳優だ。


 そういえば、もう一作、
 同じく深作欣二の監督で、
 こっちは確か、テレビドラマだったが、
 森鴎外原作の『阿部一族』に出ていたはずだ。
 あれはよかったが、蟹江敬三や真田広之がもっとうまく演じていて、
 食われた感じがした。


 まあ、佐藤浩市のことはこっちに置いておいて、


 これまでも何度か書いたが、
 この35年間くらい、
 推理小説の映像化は、 『砂の器』で山田洋次がこさえた枠を一歩も越えられないでいる。
 あれから35年も経っているのにだ。
 もっと丁寧に書くと。
 山田洋次がこさえた「枠」とは、
 殺人事件を家族愛に収れんさせる手法のことだ。
『砂の器』の成功からは、推理小説までもそがの方向に向かい、
 まあ、家族愛さまさまの世が35年も続いている。


 僕のこれまでの邦画鑑賞歴史から言うと、
 山田洋次の呪縛から逃れた推理作品を出したのは、市川崑だけだった。
 彼が数作世に出した、横溝正史原作の『金田一耕助』シリーズは、そういう意味での傑作だった。
 なにより、石坂浩二の探偵金田一耕助の演技が、絶妙だった。


 少し本質的なことについて書くと、
 こうした「家族愛に収れんさせる手法」が定着した背景には、
 実社会では「家族愛」が希薄になってきたという事実がある。
 現実とは裏腹な事態への「願望」の映像化
 これが、家族愛収れん手法がすたれない一番の理由だ。
 ここのところを読み違えると、社会と大衆芸能との関係を読み間違う。
 それはちょうど、
 すさまじい格差社会が進行していく段階で、
 「夢」だとか「明日」だとか「希望」だとかいった言葉が歌謡曲にあふれでた現実とよく似ている。


 そうした歌謡曲も、家族愛収れん映画も、
 受け手は、そんな「美しいもの」がもはや身辺に存在していないことを、本能的に覚知していて、
 そんなものの不在を承知の上で歌や映像を味わっている。
 しかし、制作者側には馬鹿が多くて、
 それが存在している。と信じて制作する。
 で、出来た作品がクサくなる。
 『64』という作品にクサさが漂うのは、そのせいだ。


 かつては、ある種の芸術性を垣間見せた「映画」が、
 テレビ局が政策に参入してきてから、
 どんどん退行してきた。
 もうそろそろ反転して、進歩への坂を登り始めてもいいように思うのだが、
 まだ無理かな。





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