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野垂れ死にをも許される自由。



   野垂れ死にをも許される自由。




 野党が、以前の社会党化してきている。

 「以前の社会党化」というのは、
 自分たちが万年野党であることを自覚して、
 政権奪回など夢のまた夢と諦め、
 だけど、国民の一定の支持を得んがために、
 効果など全くないとはじめからわかっている反自民のポーズだけはとり続ける。
 そういう政党としての<溶解>の姿のことだ。


 共謀罪反対での金田法相不信任案提出というのは、
 その典型的な光景だ。
 あんな、はじめから否決されるに決まっている不信任案を出しても、
 国民や党員には、
「我々は法相不信任案を提出して、徹底抗戦した。」
 と、胸を張って言い訳するのだろう。

 これは、戯画だ。
 戯画なのだが、
 やっている本人たちはそんの戯画さ加減にはまるで気づかず大真面目であるところが、
 真の意味での時代的戯画なのだ。


 こういう野党の姿を見ていると、
 平成20数年間とはいったい何であったのかか、と、
 ある種のむなしさを覚えてしまう。
 蓮舫とかいうお笑い芸人のような最大野党代表を出すために平成の20数年間があったとしたら、
 この国における<知>の営為とは、実に無力なものだな。


 僕は、20数年前、
 自社さきがけ政権という戦後最悪の野合政権が誕生し、
 「別件逮捕」というものを容認した時、
「もう、この国は融けていくだけだな。
 今に、僕の愛してやまない<自由>という概念も、融けていくことだろう。
 だが、
 自分だけは<野垂れ死にをも許される自由>を守って生き続けたい。
 この国の中に在ってこの国を棄てるという放浪者の道を行こう。」
 そう決めて、
 一片の存在証明書を持たない<単独の放浪者>を生き始めた。


 僕の眼には、
 この日本という国の国民は、
 <自由>とは何かについて、深く考えたことなどない国民のように見えた。
 何故なら、
 この国における<自由>は、
 自らの手で戦い勝ち取った<自由>ではなく、
 戦勝国米国から与えられたお仕着せの<自由>に過ぎないからだ。
 与えられた<自由>などが、精神の奥底にまで沁みわたるわけがない。


「きっと、この人たちは、
 <官僚社会主義>によって、
 いつの日にか<自由>をはく奪されても、
 それが何なのかも気づかず、
 最終的には、黙って従うに違いない。」
 その思いは当時も今も変わっておらず、
「僕だけは、それは拒絶する。」
 そう思って、<単独の放浪者>を生き続けてきた。


 <時代の溶解>は、
 政治現場の野党にまず表われてくる。
 ここ数年の反自民の姿を見ていると、
 <溶解>が確実に進行していることが、手に取るようにわかった。
 蓮舫という、馬鹿としか言えない女を党代表にした民進党が、その典型だ。


 いつも書いているように、
 この国は、すでに長い長いブラックホールに入り込んでしまった。
 <官僚社会主義>が強化され始めたこの国では、
 <自由>は、徐々に、規制はく奪され、
 皆、それに慣れ、
 しばらくの間、出口なしで進み続けることだろう。
 つまり、
 もう、僕がこの世に生きている間には、
 時代はブラックホールから抜け出ることがない。


「せめて自分一人だけでも、
 <野垂れ死にをも許される自由>を生き続けたい。」
 と願ってやまないのだが、
 それが許してもらえるのかどうかもわからない時代になって来たような気もするこの頃だ。





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