世川行介放浪日記

日々の雑感。
昔話。
時事問題への言及。
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漫談。
たまに女篇。
2年に1度は愛欲篇

インデックス 

2021年07月11日 14時12分53秒 | 99 Weblog



    直接僕にご意見のある方は、
   以下のメールアドレスに送信ください。

         segawakousuke@gmail.com

      



    会員制ブログ(2016年4月30日~)
    『世川行介備忘録』
    (http://blog.hatena.ne.jp/segawakousuke/)



        旧・会員制ブログ
        『新世川行介放浪日記』
        (http://blog.ap.teacup.com/applet/59635963/login?protect=1&n=%2fapplet%2f59635963%2farchive)
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さあ。やるか。ナイルスナイル。福田智子。青山敏夫。

2016年07月26日 06時40分36秒 | 私的闘争篇


    さあ。やるか。
   ナイルスナイル。福田智子。青山敏夫。




 昨日、青山敏夫との裁判があった。
 今回は、こちらから訴えさせてもらった。


 世川行介が訴えた相手は、
 青山敏夫、
 福田智子、
 ナイルスナイル。
 以上三者だ。


 それぞれに対する請求は、


 まず、
 ナイルスナイルと現在代表取締役社長である福田智子に対しては、
 原稿料の未払金額を速やかに支払え。
 福田智子がいまだに持っている僕のゆうちょ通帳と僕の(当時の)実印を返せ。
 この二点だ。


 皆さんは知らなかっただろうから、教えてやると、

 富裕層のための雑誌「ナイルスナイル」の発行会社株式会社ナイルスコミュニ―ケ―ションは、
 2015年12月24日に、
 代表取締役社長が、青山敏夫から福田智子に代わって、
 僕が戦う宣言をした途端に、
 二か月ほどで、
 福田智子から青山敏夫に社長を戻して、
 それを知った僕が、
 僕が、この日記で、ナイルスナイルの社長交代劇の怪について書いたら、
 なんと、
 なんと。
 なんと!
 それから一カ月半後の3月初旬に、
 また、社長を青山敏夫から福田智子に交代して、
 GOOブログに、「僕の記述は事実に反する。」と、
 掲載停止をさせたのだ。


 僕たちは、知っていたけど、
 何をやるものやら、と、
 知らぬ顔して、笑いながら眺めてきた。


 たった3か月で、
 代表取締役社長が、
 青山敏夫から福田智子に、福田から青山に、青山から福田に、
 三回も代わっている。
 そんなことが簡単にできるのだから、「富裕層相手の雑誌社」っていいな。


 まあ、そんなことはどうでもいい話だ。


 さて、
 世川行介は、
 2013年11月当時ナイルスナイルの代表取締役だった青山敏夫のために、
 3カ月間、契約をかわして、株式売買と売買指南をしてやった。
 4か月目に入った14年2月、
 青山敏夫が、何の予告もなく、ネット証券のパスワードを変更して、
 約束を反故にした。

 その間の未払い報酬金があるので、
 この度、それを請求させてもらった。


 13年11月から14年1月までの三カ月間で、
 僕が青山敏夫に与えた株式売買利益は、
 約2600万円。

 2月初旬の段階で167円で188,000株買わせた推奨銘柄B株が、
 一方的な契約破棄を受けたが、
 その後、株価が上昇し、485円の三倍になった。
 得たであろう利益が、妥当値(400円)で計算して、
 約4200万円。

 合計で、
 約6800万円となる。


 イチャモンをつけられないために、あらかじめ断わっておくが、
 これは、あくまでも、当方の試算だ。
 それをこれから、裁判で争う。


 ちなみに、
 元金は、
 当初500万円、
 14年1月からは2000万円。
 出資者は青山敏夫。
 僕の報酬金は、11月だけは利益の40%。
 12月3日からは、
「投資金額を増やすから、報酬比率を下げてくれ。」
 と頼む青山俊夫の言葉に従って、
 売買益の税引き後の23%と、
 実に可愛い金額をもらう契約だった。


 そうした一連の僕に対する未払金が、
 1600万円ほどになるので、
 裁判で、堂々と請求した。


 なにが悲しくて、
 大ウソの限りを書いた訴状で275万円くらいのはした金(株券5000株)の仮差押えをさせなくてはいけないのか。
 したいのは、こっちの方だ。
 

 という風に、本番に入った。

 やるか。
 ナイルスナイル。福田智子。青山敏夫。




 
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吉本隆明の「第二の敗戦」

2016年07月25日 16時39分05秒 | 自選 吉本隆明雑感


 5月からの僕は、
 『世川行介備忘録』に書いた文章「放浪日記」には転載しない。
 二つに同じ文章を同時掲載もしない。
 それを原則にして来たが、
 昼間、吉本隆明の文章紹介をする際、
 同時掲載をやった。

 午後になって、
 続きの紹介文章を書いて、『~備忘録』に掲載したが、
 そうなると、こっちが中途半端掲載になるので、
 一日二回の「原則破り」になるが、
 続きの紹介文もここに掲載することにした。
 関心のある人は読んでやってくれ。




      吉本隆明の「第二の敗戦」


 さっきの文章の続きになるが、
 吉本隆明は、あの発言の後、こう語る。

 これらの文章は、講演での話体なので、
 僕が書き換えている。
 これも、同じく1991(平成3)年の講演で、
 政権は、自民党の第二次海部俊樹内閣の時だ。
 幹事長は、小沢一郎。



          <吉本隆明の趣旨>


 中東戦争によって露呈された保守と進歩の無惨な姿のはじまりはどこにあるかというと、
 「日米構造協議」にある。
 つまり、日米の社会問題・経済問題をお互いに協議して、指摘し合って改善していこうという協議だ。
 アメリカからは「日本改造案」が出された。


 アメリカの日本改造案をみると、
 日本の経済構造はアメリカによってほとんど完全に分析しつくされている。
 それもきわめて正確に分析されていて、
 ここはだめだ、ここはだめだと指摘されている。

 その分析の正確さにの度合いに衝撃を受けたといっても過言ではない。
 そこまでわかられてしまったら、
 いうことを聞いて従う以外にないじゃないかとおもえるほどだ。
 それは経済政策の水準の違いだし、
 学者・研究者の経済分析の水準のちがいで、
 どこからいっても全然お話にならないというほかない。
 完膚なきまでまでにアメリカに分析されつくしている。
 ぐうの音もでないくらいの敗北感だ。

 ソ連とアメリカという二極構造で動いて来た世界史は、
 これからはそうでない動き方をするだろう。
 現在の政治的・社会的、あるいは感覚的に感じておられる情勢は、
 たぶん二回目の世界大戦の敗戦のようなものだ。


 一回目の敗戦のように、空爆で町が壊れているとかには眼にはみえないが、
 本当は眼に見えない第二の敗戦だ。
 二回目の敗戦は眼にみえないし、
 眼にみえるところではたいへん繁栄して気持ちよさそうにしているとみえる。
 しかし本当は、
 首から上はソ連と一緒に敗戦しているし、
 首から下はアメリカに従属して敗戦している。
 それが日本の現在の状態のいい比喩ではないか。


     (引用終わり。)


 (註)
         日米構造協議

 1989年、ブッシュ米大統領と宇野総理の間で交わされた。
 協議は1990年4月に中間報告をとりまとめ、
 同年6月に最終報告をとりまとめた。
 主に日本の経済構造の改造と市場の開放を迫る内容となっている。
 (1990年にベルン行われた非公式会議で判明したアメリカの日本に対する要求は、
 200項目を超える膨大な量で構成されている。)



 2016年の現在、
 1991年当時をふり返って吉本隆明の文章を読み返して、
 その視座にそれほどの狂いを、僕は感じられない。
 25年後の日本に充分に適用される指摘のように思う。
 つまり、
 僕たちは、
 25年間を、吉本隆明言うところの「第二の敗戦」の空間で、
 何も反省されず、何も思考されず、さりとて一歩も前に進めない、
 そんな焦燥感と空虚を生きて来たのだ。
 と思う。


 特に、
 「首から上(=左翼陣営)」は、
 東欧社会主義国家群の崩壊以降、
 支柱とすべき政治思想を失い、まったく一歩も前に進めず、
 もう無効になった<亡霊左翼理念>にしがみついて生きるしかなかった。
 日本共産党などは、当時、
「日本共産党は、東欧の共産党とは違います。」
 なんて演説をやって、
 僕たちを苦笑させたものだ。
 社会党は、自社さきがけ政権なんて愚劣な政権をつくって、阿呆さ加減を世に嗤われ、
 あっという間に自壊した。


 「首から下(=保守)」は、
 ことさら言うまでもなく、
 アメリカの隷属を生き続けている。


 政治思想史的には、それがこの25年間だった。


 この空白の25年からどこに向かうのか。

 僕などは、20年前から、
 吉本隆明の言う>その都度のイエスノーの時代>の主役として、
 当時はニュートラルな保守にも軸足を置いていた小沢一郎の政治力に期待をかけたのだが、
 その夢も破れた。
 もう、後に続く政治家はしばらく登場しないだろうから、
 政治への夢は断念するしかない。


 これから先のことは、
 若い世代の思い描く<世界>をつくるのが、
 最善の途だと思う。
 それが、どんなに自分たちの意に沿わぬ光景であったとしても、
 長い歴史の一過程での不可避の光景である、
 と受け止めて容認すべきだろう。

 それが、
 時代の困難を克服することを為し得なかった僕たち老世代が、
 次代を担う若い世代に対してできるたった一つの礼節というものだ。





 
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五右衛門奇伝(18)

2016年07月25日 15時27分29秒 | 戦国倭人伝第二部 五右衛門奇伝


          五右衛門奇伝(18)



 死を覚悟した大納言秀長は、実弟秀吉にではなく、堺の千利休に使いを出し、
 秀長危篤の報を受けた利休は、蒼ざめた顔で大阪屋敷に駆けつけた。
「こちらに。」
 家老の藤堂高虎に案内されて、利休は廊下を進んだ。
「お入りくださりませ。」
 部屋は秀長の命で人払いが施されていて、一人の侍者の姿もなかった。
 家老の高虎さえ入室を禁じられているという。
 緞子(どんす)の布団に横たわった秀長は軽い昏睡の中にあった。
「……。」
 利休は秀長の寝顔を覗きこんだ。
 そして、仰天した。
 夜具の豪華さとは裏腹に、臥せた秀長の頬は削げ、毛髪は抜け落ち、
 さながら老人のようであった。
「大納言さま!」
 利休は一瞬絶句した。
「しっかりなさりませ。大納言さま。
 気弱になられてはなりませぬ。」
 利休は、秀長の手を力いっぱい握りしめた。
「おお。
 利休殿か…、」
 昏睡から引き戻された秀長が、細く眼を開けて利休を認めるると、弱弱しくつぶやいた。
「大納言さまともあろうお方が、これしきの病いに敗けてどうなさります。
 大納言さまでなくてはこなせぬことが、豊臣の家には、まだ山のように残ってまするぞ。
 はようお元気をお戻しくだされ。」
 利休は、本心からそう言った。
「たしかにそうじゃ。」
 その利休の手を、秀長は握り返そうとした。
 だが、その指には力というものがすっかり失せていた。
 利休は無言で秀長を見つめた。
 秀長もまた、利休を見つめた。
 邪まな欲望で結ばれた二人の男が、健気を生きて来た善良な民のような心と表情で見つめ合い、悲しんでいる。
 それは、この二人には最も似つかわしくない皮肉な光景だった。
 しかし、二人とも、真顔だ。
「利休殿よ。
 本当のことを言って、わしはまだ死にとうはない。」
 秀長は、未練がましくそう呟いた。
「さようですとも。
 この国は大納言さまのお力を必要としております。
 まだ死んではなりませぬ。」
 千利休は、涙さえも浮かべそうな眼で秀長を励ました。
「あと10年。
 いや、あと5年でもよい。
 それだけの時がわしに与えられたなら、
 豊臣の世を未来永劫のものにしてみせるのだが…、」
 秀長には、応仁の乱以降二百年続いた乱世を終焉させたのは自分であるという、凄まじいまでの自負があった。
 それなのに、突然のおぞましい病いのせいで、
 豊臣の永久政権確立のために思い描いてきた政の半分も実現させていない。
 それが秀長の未練となっている。
「情けない話だが、仏を拝んで利得があるなら、仏にでも縋りたい心地じゃ。」
 神仏など鼻先で嗤って生きてきた夜盗上がりの無頼漢秀長が、
 この男の言葉とは思えぬような弱音を吐いた。



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「消費社会」についてのおさらい。

2016年07月25日 10時01分04秒 | 自選 吉本隆明雑感


     「消費社会」についてのおさらい。



 少し真面目に復習したので、
 『~備忘録』にだけ掲載するつもりだったが、
 僕の意見ではなく、
 吉本隆明の意見なので、皆さんのお役にも立つかもしれないので、
 こっちにも掲載することにした。
 関心のある人は読んでやってくれ。


 1992年に書かれた吉本隆明の『大情況論』という書の中に、
 『現代を読む~「現代」と「現在」の違い』という章があって、
 40歳前くらいの時、それを読んで、必死に勉強した。

 土曜日、
 研一郎と神田神保町の古本屋巡りをしていたら、あったので、
 買って来て、読み直した。

 以下は、その要旨だ。



         <要 旨>


 「現代」と「現在」を区別することは、たいへん重要だ。
 「消費」からそれを見ると、
 消費社会と呼ぶにはふたつの条件がいる。
 この条件が満たされていたら「現在」と呼んでいい。
 一つ目の条件は、
 平均的な個人の所得のうちで50%以上を消費に充てていること。
 二つ目は、
 消費を大きく分けた場合、必要消費と選択的消費がある。
 「現在」のもう一つの条件は、消費のうち選択的な消費が50%を超えていることだ。
 いまの世界でこの条件を満たしているのは、
 アメリカ・日本、それからかろうじて西欧社会だ。
 日本では、昭和63(1988)年が、その転換点だった。
 つまり、昭和63年をもって、日本は「現在」という社会に入った。


 これまでは、資本主義が生産を基軸にしてどんどん膨張していく社会だったが、
 製造工業と農業・漁業などが対立して産業の主な流れをつくっていった社会は、
 すでに日本でもアメリカ・西欧でも終わってしまった。


 選択的消費が必要消費よりも大きくなったということは、
 <ただ生きるために働いているのではない>ということだ。
 ただ、これがどういう意味をもつか本当はよくわからない。そのわからないところが「現在」のわからなさの経済的な表現として、根本にある問題だ。


 この段階の資本主義社会は、いま世界でいちばん先を走っている社会がはじめて到達したものだ。
 だれも充分に分析できない。
 いま何をしたらいいのかわからないが、精いっぱいかんがえて、どういうことをしたらいいのか、本当の意味でかんがえるべき段階に入ってきた。


 別の面から「現在」に入った兆候はないかと考えると、
 昭和48(1973)年前後に日本は「現在」に入った。
 その象徴が、サッポロビールが出した「天然水No.1」だ。
 マルクスによると、水と空気には交換価値がないと言われていた水に、交換価値が出てきた。
 これは経済の段階で資本主義の段階がもう一段上にいったということだ。


 そうした「現在」に入った日本で、潜在的にいちばん大きな公害問題は、第二次産業と第三次産業の境界におこる公害、
 どういうことかというと、精神の障害の問題だ。
 これからおこってくる公害問題も、主にそこにいくことは疑いがない。


 いいにくいことをいうと、
 消費のうちの選択的消費が50%以上である社会では、
 消費税法をとるのは当たりまえだ。
 何を基準に当たりまえというかというと、一般大衆を基準にかんがえたばあいだ。
 税金を払いたくなければ使わなければいいとうことになる。
 節約すればそれだけ税金を払わなくて済む。
 大衆政党が大衆を解放することが課題だとかんがえているならば、
 選択的消費ができるところに税の課題を集中するかんがえ方のほうが妥当なのはいうまでもないことだ。


 しかし、大衆政党と言っているところほど、消費税反対をとなえている。
 これはとんでもない話だ。
 「現代」資本主義と「現在」資本主義はそれくらい問題が違っている。
 その違いがわからなければ、いままで進歩的とか革命的とおもっていたものが、全部保守反動になってしまう。


 (以上、引用終わり。)


 この文章が書かれたのは1991年だが、
 僕は、吉本隆明のこの視線は今もまだ有効だと思って来たし、思っている。
 20数年前、
 講演会で、
 水が商品化されたのは日本にとって画期的な時代の転換点だった、
 と語っているのを耳にした時は、
 思わずうなった記憶がある。


 こうした吉本隆明の言説に慣れ親しんで年数を重ねると、
 そこいらの大衆政党や常識的進歩人の言説が、不勉強者のはったりのようにしか思えなくなって、
 これには、処世上、かなり困った。


 しかし、
 知った知識は消えはしないのだから、
 それを基本に置いて<世界>を見るしかなく、
 そうして眺めると、政治も、経済も、株式市場も、
 他の人たちが見る映像とは逆立した映像になったが、
「まあ、仕方がないだろう。」
 ということで、今日まで来ている。


 ただ、
 こっちは「まあ、仕方がないか。」という諦めの上で気ままな文章を掲載するのだが、
 不勉強な馬鹿や常識人が、
 自分の不勉強にはまったく無自覚なイチャモンをつけてくるには閉口させられる。
 好きでもない悪女に追いかけられる男の気分だ。


 と、書き終わって、「コメント欄」を見たら、
 「瀧夜叉姫」の縁者氏から「内緒コメント」が届いていた。
 ご自分では、
「息子です。」
 と書いていたが、
 あの若い「瀧夜叉姫」に、あんな年齢の息子さんなんて、
 どう計算してしても、10代前半出産でないと年数が合わない。
 きっと、本当は、弟さんなのだろう。

 楽しく拝読させていただいた。
 ありがとう。




 
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あれこれのニュースに 7・25

2016年07月25日 06時43分17秒 | 日々のニュースに


     あれこれのニュースに  7・25



 この数日、上京のドタバタで、ネットニュースをゆっくり見る暇がなかった。
 昨夜も疲れから早く眠ったので、
 今朝は、午前5時に起きて、ニュースを眺めた。


 安倍晋三首相が夏休みに入っているらしく、
 政治面では、大きなニュースはなかった。


 東京都知事選では、
 思ったとおり、鳥越何某が、苦戦を強いられ始めたみたいだ。
 僕はそんなもの読んでもいないが、
 雑誌記事の影響が出始めたのだろう。


 今回のこの人の対応は、あれはいけなかったな、と思う。
 一言、「私はそんな女は知らない。」と言い放てばそれで済むものを、
 全部弁護団まかせにして、自分は一切の発言を控えたことで、
 僕のような傍観者にまで、
「本当は何かあったんだろうな。」
 と「思わせる」結果となった。


 対応一つでは、マイナスをプラスに転じさせるきっかけにもなったかもしれないのに、
 数年前の小沢一郎の女房の文春記事の時と同じ対応をやった。
 あれから後の小沢党の凋落ぶりを学習したらわかりそうなものを、
 同じ対応を取った。
 あの対応は駄目だな、と思った。


 それと、
 昨夕、猪上一生の車の中でテレビを見ていての感想で言うと、
 彼の魅力であった九州訛りの朴訥さが、今回は「頼りなさ」と映ってしまう上に、
 街頭演説では、
 国政選挙の野党統一候補並みに、脱原発社会!ばかりを言っていて、
「都知事選でそればっかり言ったってしょうがないじゃないか。
 このピントのズレ方は<亡霊左翼>そのものだ。
 この人、危ういな。」
 と感じた。


 大タレ眼の小池大福餅ばあやが優勢らしいので、
 都知事選には、まったく興味を失った。
 誰でも、勝手にやってくれ。


 民進党の代表選の記事が出ていて、
 恥の感覚を持たない能面男岡田克也が、続投したがっているらしい、
 とのことで、
 その理由に、
「参院選で野党共闘は一定の成果を出した。」
 というのがあって、
「やっぱりな。」
 というのか、
「阿呆らしい。」
 というのか、
 笑った。


 どこの誰が知恵をつけているのかは知らないが、
 僕などにも簡単に想像できる言動と流れ。 
 「惨敗」を平気な顔で「一定の成果」と言ってのける破廉恥性を目の当たりにすると、
 野党復調など、夢のまた夢だな、と確信させられる。


 それに加えて、
 あの、僕が侮蔑して止まない、出たがりだけの無能力男前原誠司が、また動き始め、
 「京都大学同窓会路線」をやりたがる細野豪志と協議をした。
 と書かれていた。
 民主党政権を崩壊させた5人組か6人組の一人のくせして、
 よく出て来るものだ。

 ホント、旧民主党幹部というのは、
 人心を知らない破廉恥政治家ばっかりだ。


 前原の協議相手の細野豪志という若い政治家がまた、
 ここ一番!の場面では、決まって臆病風に吹かれて、腰を引き、
 若い身空で、「期待倒れの政治家」に堕して、
 国民の多くが期待しなくなった。


 乳母日傘の細野豪志は、まったくわかっていないみたいだが、
 政治家だけでなく、
 男は、
 ここが勝負!の時に戦わなかったら、誰もついてこなくなるし、ツキは逃げていく。
 一度、
 場末のマージャン屋に飛び込み、
 この勝負に敗けたらスッテンテンの乞食!のマージャンを打って、
 勝負勘を勉強してみたらよかろう。


 先制リーチを安全牌でしのいで過ぎるだけでは、
 マージャンには勝てない。





 
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入谷「もりちか眼科」にも行って来た。

2016年07月24日 16時58分31秒 | 老年期放浪篇


    入谷「もりちか眼科」にも行って来た。



 先週金曜日にベッセルイン上野で目覚め、
 久しぶりの東京で、最初にしたことは、
 入谷「もりちか眼科」での受付手続きだった。


 僕は、とっても忙しい。
「どれくらい後になりますか?」
「5人目くらいに検査ですね。」
「じゃあ、ちょっと出かけて来ます。」
 すぐに飛び出した。


 それから吾妻橋まで出かけて帰ってきたら、
 1時間経過。
「世川さん。検査ですよ。」
 ちょうどいいタイミングだった。


「名古屋からですか?」
「ええ。
 どうせ診てもらうなら、怖い先生の方が確かでいいだろうと思ってね。」
「プッ。」
 検査の男性が軽く吹き出した。
 みな、同じことを思っているのだな。 


 もう、僕の眼は、これ以上は視力が良くはならないのだということは宣言されていたが、
「左目に乱視が入って来ましたね。
 遠距離用の眼鏡はそのままでいいとして、
 パソコン用の眼鏡だけ取り替えたがいいでしょう。」
 と、検査をしてくれた人が言い、
 その後、診察室に入った。


 僕が、荷物を置きかけたら、
 もりちか千都先生が、
「あらっ。」
 と小さく叫ぶ。
「ハッ?」
「その、緑色の袋…、
 その袋…、」
「はい。
 これは、吾妻橋のTOMTOMのパンですよ。」
「あなた。あそこのパンが好きなの?」
「ええ。
 吾妻橋界隈では、あそこのパンが一番美味いでしょう。」
「そうなのよ。
 私も、1年前までは吾妻橋に住んでいて、
 毎日TOMTOMのパンを買っていたのよ。」
「僕も3年前までは吾妻橋にいて、
 ここのパンばっかりでしたよ。」
「あの、金粉のかかったパン。
 それから、」
「豆乳パンに、ハイジ。」
「そうそう。
 ハイジが美味しいのよね。」


 なんで、診察室に入るなりパン談義になるのかはわからなかったが、
「のりちか千都先生は、怖いばあさん先生。」
 と教えられていて、
 いつもマスクの顔だったので、
 すっかり、僕よりも年上の女医さんだと思っていたもりちか千都医師が、
 金曜日はマスクをとっていて、
 見たら、僕より10歳くらいは若そうで、
 しかも、なかなかに気さくな人だった。

 誤解してきて悪かったなあ、
 と、
 心の中だけで詫びたのであった。


「名古屋は遠いので、
 目薬、2~30個下さいよ。」
 と頼むと、
「10個だけ。
 しかも、今回は特別。
 次からは、もっと少なくなります。
 それよりも、
 今日からは、熱いおしぼりで、眼を温めてください。
 少しは痛みが和らぐはずです。」
「わかりました。
 そうしましょう。」
 僕は素直に答えた。


 僕は、昔から、
 「返事だけはいい男だ。」と言われてきた。
 あれから三日経つが、
 いまだに熱いタオルが僕の眼を温めた事実はない。


 誤解をして接してきたもりちか千都先生の診察室を笑顔で辞し、
 それから、隣の眼鏡屋さんに行き、
「これを作ったら、名古屋に代引きで送ってよ。」
 お願いをして、
 上京目的の一つであった「眼鏡篇」を無事終えた。


 木曜日には、新しいパソコン用眼鏡が届くそうなので、
 少しは、眼の痛みから解放されることだろう。




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五右衛門奇伝(17)

2016年07月24日 11時28分19秒 | 戦国倭人伝第二部 五右衛門奇伝


    五右衛門奇伝(17)



 天正十九年正月。
 政権をとって初めて、秀長は、年始の挨拶に大阪城に出向くことをしなかった。
 それほどに病状が悪化していたのだ。
 身体がとてつもなくだるくて、息をするのさえ苦しい。
 特に、最近、毛髪が大量に抜け始めて、人前に出られる顔ではなくなっていた。
「これは労咳(結核)か?
 隠さずに申せ。」
 秀長は、医師の長谷宗仁に問うた。
 今日の秀長は、両眼が窪み、縁には濃い隈が出来ている。
「いえ。決して労咳ではございませぬ。それだけは自信を持って申し上げます。
 労咳では、殿さまのように、髪の毛が
 抜け落ちたりすることは、絶対にありませぬ。症状が違っておりまする。」
 宗仁は断言した。
 長谷宗仁は五十歳を越した経験豊富な医師で、診立てに狂いを生じたことがなく、
 大阪では名医として信頼されている。
「ならば、わしは一体、何の病いなのだ。」
 秀長は、苛立たしげに問い詰めた。
 剛腹で知られてきた彼にも、原因不明で、悪化するばかりの病いに対する焦りが出始めている。
「それが…、」
 宗仁は返答に詰まった。
「そなたでもわからぬのか。」
「はい。
 正直申し上げて、
 このような症状の病いは、これまでに診たことがありませんし、医書でも読んだことがござりませぬ。」
「そうか…、」
 秀長は嘆息した。
「ただ…、」
 と、宗仁が言葉を濁した。
「ただ、どうした?」
「知り合いの医師に、
 これに似た症状の病いについて書かれたものを読んだことのある、と言う者がおりまする。」
「それで?」
 秀長は先を促した。
 豊臣政権はまだ礎が固まっていない。
 自分に何かがあって、秀吉が政治に口ばしを入れるようにでもなったら、先が思いやられる。
 いまここで死にたくなかった。
「確かに症状はよく似てはおりますが、
 ただ、それは遠い土地の風土病で、大阪におられる殿さまにだけうつる道理がございませぬ。」
「その場所はどこじゃ。」
「伯耆。
 それから、美作でございます。
 しかも、相当に深い奥山に足を踏み入れた者がよくかかる病いだそうで。」
「伯耆や美作の奥山とな?」
 秀長はそんな土地に行ったことがない。意外そうな顔をした。
「ふむ、」
 天井を睨むように見つめ、考え込んだ。
「……、」
 沈黙が続いた。
「……、
 大納言さまには、何か思い当たることでも?」
 宗仁が遠慮がちに訊ねた。
 秀長は、それには答えず、
「そうか、
 西国の奥山か…、」
 彼方の光景でも見つめるように眼を細め、小さく呟いた。
「久しく忘れておったが、
 あのじじいの息のかかった者たちが、まだ生き残っておったのだな。
 山の民、な…。
 千年も奥山に潜み続けただけあって、なかなかにしぶとい連中だ。
 奴らの始末をつけずに放っておくなど、わしとしたことが、迂闊だった。
 ……、奴らが相手なら、この病いも、」
 と呟いたその時、
「うぐっ。」
 秀長の口から、どす黒い血が噴き出た。
 胸の焦げるような激しい痛みが走り、
 秀長は、咽喉をかきむしらんばかりに両手を当て、もがき苦しんだ。
「殿さま!」
 宗仁が、あわてて、秀長を引き起こした。



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西条八十『悲しき子守唄』 2016夏

2016年07月24日 06時04分00秒 | 自選 歌が呼ぶ思い出


     西条八十『悲しき子守唄』  2016夏



 金曜日の夜、
 下谷「さいとう」を出て、人と別れ、
 僕は独りになった。


「あら。久しぶりね。
 今どこなんですか?」
「入谷に来ている。
 お客、多いか?」
「二人だけ。」
「じゃあ、すぐに行く。」

 僕はタクシーに乗り、
 浅草菊水通りに向かった。


「運転手さん。
 そこでいいよ。」
 僕はタクシーを降り、店の前に立った。
 国際通りの裏、菊水通りスナック「ひばり」。
 今の僕は、日本にここしか飲み屋を知らない。











「おい。うたわせろよ。
 もう何か月もカラオケをうたってないんだ。」
 ドアを開けると、ばあさんママに言った。
「いいわよ。」
「じゃあ、『夢淡き東京』からだ。」
 駆けつけ三曲を旨とする僕は、
 立て続けに三曲をうたった。









    悩み忘れんと貧しき人はうたい
    狭い路地裏に夜風はすすり泣く
    ……
    狭い路地裏も 淡き夢の街 東京


 この三年間ほどの僕のテーマ曲だ。


 『さいとう』での酒が回り始めたのか、
 僕は、もっとうたいたくなった。


「もう一曲行くぞ。」
「今度は?」
「あれだ。」

 僕は、年に一回、ここでしかうたわない曲の名を告げた。


    可愛いお前があればこそ
    つらい浮世もなんのその
    世間の口もなんのその
    母は楽しく生きるのよ


「あの歌ね。」
 一番目が終わった間奏の時、ママが言った。
「ああ。」
「お母さん、どうしてるの?」
「死んだ。」
「いつ?!」
「十日ほど前らしい。」


    可愛いお目目よ丸い手よ
    見れば撫でれば悲しみも
    忘れていつか夢の国
    母は涙で笑うのよ


「死に眼に会わなかったの?」
「死んでからメールが一本届いた。」
「それで?」
「それだけだ。」
「いいの?」
「ここで供養をしようと思って、
 昨日東京に戻って、
 うたいに来た。」
「そうなの…。」
「母親と会えるのは、
 ずっと、
 一年に一回、
 ここでだけだった。」
「それでいいの?」
「それでいい。」


    つらい運命の親子でも
    わが子は我が子 母は母
    神さまがだけが知っている
    たまに会う日の子守唄


「いい供養をさせてもらった。
 帰る。
 で、
 カネがない。
 まけろ。」
「はあ?」
「つかいすぎて貧乏になった。
 まけろ。」
「あんたねえ…。」
「まけろ。」
「いくらに。」
「供養代、五千両。」
「わかったわよ。
 本当にケチなんだから。
 その代わり、
 今度東京に来た時も、
 他の店には行かずに、ここに来るのよ。」
「約束する。
 ホイ。五千両。」


 上京の一番の目的は果たした。
 あとは、名人ひろみさんに、二日続けてのマッサージを受けなくてはならない。
 僕は、そそくさと店を出て、
 タクシーに飛び乗った。











 昔、
 僕にも、
 父とか母とか呼んだ人がいた。


 破天荒な放浪者をしている間に、
 さよならの言葉もなく、
 二人とも何処かに行った。

 「あの世」、
 と一口に言っても、
 向こうは天国、
 僕は地獄と、
 行き先が違うから、
 未来永劫、再会することはないだろ。








 ろくでなしは、
 それでいい。




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下谷「割烹・さいとう」 2016年夏

2016年07月24日 00時10分16秒 | 老年期放浪篇


    下谷「割烹・さいとう」 2016年夏



 木曜日から、東京台東区入谷に二泊して、
 昨日土曜日、午後8時過ぎに名古屋に「帰って」来た。


 詳細を語ろうとも思わないが、
 たったの二日で何もかにも全部をやろうと、
 あちこちを小刻みに動き回ったので、
 かなり疲れた。

 疲れすぎたので、
 名古屋の部屋に帰ってきて、
 11時過ぎまでうたた寝をした。



 久しぶりの東京、
 その二日間の光景を、少し、写真にてお送りする。


 まず第一弾は、
 一昨夜金曜日、
 数か月ぶりに、下谷は割烹「さいとう」に行った。
 その夜、「さいとう」は予約で満員御礼だったが、
「世川です。
 隅っこの席でもいいですから、
 なんとかお願いしますよ。」
 と頼んだら、
 テーブルを一つ空けてくれた。
 
 皆さんが、
「あら。世川さん。
 お久しぶり!」
 と言ってくれて、ありがたかった。


 「食べた。食べた!」の2時間だった。


 その料理は、以下のとおり。
 頼んだ順番に。





    ツブ貝煮






    世川大好物の姫サザエ煮





    本日のお奨め刺身






    貝の肝のポン酢和え





    マグロステーキ





    焼けたマグロステーキに、タレをぶっかけて、





 堪能した。


 入谷での1年半、
 この「さいとう」ほどに、僕を可愛がってくれた店はなく、
 入谷を離れて、岐阜や名古屋に移っても、
 あそこのご主人夫妻や従業員の方たちに感謝して止まない。
 「さいとう」が恋しい。


 一昨夜訪れて、
「何かボトルを入れてよ。」
 と言ったら、
 女の子が、
「ボトルはまだ残っていますよ。」
 と微笑んだ。

 入谷を離れて1年近くなるのに、
 まだ、ボトルが残っている。
 こんな店は、他にはない。


 幸福だったので、
 「さいとう」を出て独りになって、
「もう一軒、行くか。」
 河岸を替えた。






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五右衛門奇伝(16)

2016年07月23日 11時50分55秒 | 戦国倭人伝第二部 五右衛門奇伝


        五右衛門奇伝(16)



                



 天正十八年の晩秋になると、
 秀長は、寝床から起き上がることさえままならなくなった。
「もう、観念のし時か…、」
 さしもの秀長も、天井を見つめながら、ため息をついた。
 しかし、彼には、まだやらねばならないことが残っている。
「いや。まだだじゃ。
 ここでわしが果てるわけにはゆかぬ。
 豊臣の家を盤石のものにしておかねば、死んでも死にきれぬわ。」
 秀長は大名たちの病気見舞いも断り、家中に緘口令を敷いて、病状悪化の噂の拡大阻止に努め、
 その一方で、豊臣政権安泰のための手を打ち続けた。
 近衛前久が、極秘に、秀長の大阪屋敷に呼びつけられた。
「大納言殿…、これはまた、」
 病いの噂は聞いてはいたが、眼の当たりにする秀長のあまりのやつれように、前久は言葉を失った。
 しかし、秀長は、前久の驚愕を無視して、
「頼みがある。」
 と短く言った。
 熱で唇が乾いてかさかさになっている。
「関白には話をつけてある。
 すぐに、秀次が関白職に就くように、朝廷を動かしてくれ。
 銭ならいくらでも出す。」
「秀次殿を関白に?」
 秀長は、過日、秀吉との話し合いの直後に、甥の秀次を尾張・伊勢百万石の大名に封じた。
 秀長に次ぐ太守だから、誰もが、秀次を、秀吉の後継者とは目しているが、
 いま、秀吉に、関白の座を下りる気があるのかどうか、となると、
 前久には疑わしく思える。
「本当にそれでよろしいのか?」
 心配げに訊いた。
「よい。
 急ぐのだ。
 万に一つわしが死んでも、秀次の関白就任が取りやめできぬように、
 秀次の近々の関白就任をおおやけにするのだ。
 そのためには、関白就任にふさわしい官位が必要だ。
 秀次が左大臣に就けば、誰も関白就任の前触れだと信じるはずだ。
 秀次を早急に左大臣の座に就けてくれ。
 よいか、近衛殿。
 銭はいくらかかってもかまわぬ。
 利休殿におぬしが直接言えば、すぐに用意することになっておる。」
 こういう時の近衛前久は鋭い。
 秀長が何を目論んでいるのかを、すぐに悟った。
 前久も、豊臣政権下では親秀長派だ。
 秀長が死んでも秀長派が実権を握ってさえいれば、その身は安泰だ。
「左大臣でござるか…。
 よろしゅうごじゃる。やってみましょう。」
 即答した。




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2016年07月22日 22時14分16秒 | 老年期放浪篇


                 



 どうせ、今日の東京株式市場は、ニューヨークに敬意を表した下げで終わるだろう、
 と思い、
 午前10時に「もりちか眼科医院」で受け付けをした後、
 吾妻橋に向かった。


 お世話になった「安達クリニック」のマスク美女二人に、
 お土産の伊勢名物「赤福」を渡し、
 それから隣の薬局に挨拶に行き、
 「TOMTOM」で、パンとラスクを買い、
 隅田川のほとり、アサヒビール敷地内の喫茶店のオープン席に腰を下ろした。


 以前は「23番地」という店名だったその喫茶店は、
 改装をしたのを機に、店名も変えたのだと、店員が教えてくれた。

 「隅田川BAR(バル)」というその店には、
 2~3年前に働いていた従業員は、1人も残っていなくて、
 見知らぬ店に来たような気がした。


 吾妻橋は、小雨だった。
 僕はコーヒーをすすりながら、
 雨に濡れた歩道を眺めた。


 5~6年前、
 昼前の数十分を、毎日のようにここで過ごした。
 小沢一郎支援運動に存在の全てを賭けていた頃だ。
 パソコンを打ち疲れると、ここに来た。
 とても貧乏な頃で、
 コーヒー一杯に特製コロッケ一個が、一日の贅沢だった。


 雀がいて、
 店内をチョコチョコ、餌を求めて歩き回っていて、
 その雀に、食べ残しのコロッケをやるのが、当時の僕の仕事だった。
 足元にコロッケをちぎって置くと、
 チョコチョコ足でやってくると、
 パットとコロッケをくちばしで挟み、
 一目散に飛んで逃げ、
 数分するとまた足元にやって来る。
 そんな繰り返しを何度もやった。


 毎日みたいに、少し汚れた木製の椅子の腰かけていると、
 向こうも、僕を記憶に残しているのか、
 必ず僕の足元にやって来た。

 可愛かった。


「もう、雀はいないのか?」
 あたりを見渡すと、
 向こうの道路の際で、二羽の雀がチョコチョコ走っていた。
 しかし、こちらに来ようとはしない。
 雀たちも、
 改装した店には入りづらくなったのかもしれない。


「コロッケはまだやってるの?」
 と訊くと、
「もう、あれはやめました。
 人気あったんですけどね。」
 女店員が答えた。

 みんな、少しずつ変わっていくのだな、と思った。


 コーヒーを飲み終えて立ち上がり、
 吾妻橋に向かい、
 右手に東武伊勢崎線の電車を見ながら、
 小雨の中を歩いた。
 隅田川は、雨に打たれて、汚れた緑だった。


 僕は、
 一度後にした土地には二度と立ち寄らないことを<放浪の原則>としてきたが、
 何故か、
 この吾妻橋界隈だけは例外になって、
 東京に来ると、そこいらを歩いてみたくなる。


 小雨の吾妻橋を渡り切り、
 タクシーを拾って、入谷「もりちか眼科医院」に引き返した。
 わずか一時間ほどの吾妻橋徘徊だった。


 それにしても、

 あの当時、
 足元をチョコチョコ走って、
 コロッケをパクつく雀たちには、
 ずい分と心を救ってもらったな。


 懐かしい。




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入谷の朝空。

2016年07月22日 22時08分20秒 | 老年期放浪篇


        入谷の朝空。


 午前6時、
 入谷はホテルベッセルイン上野の一室で目覚めた。
 部屋の向きは、僕が部屋を借りていた時と同じ裏側向きで、
 カーテンを開けて下を覗くと、
 1年前と同じ裏露地の光景が見えて、
「ここにも1年半くらい住んだな。」
 あれこれの記憶がよみがえり、
 懐かしい。


 ここを離れて、まもなく1年になるのだ。
 時の流れるのは、いつも、早い。


 昨日は、
 品川駅でのぞみを降りて、
 午後5時に「瀧夜叉」さんと麻布で会い、
 実に長時間、たくさんの量の酒を呑み、語らい、
 それから入谷に飛ばし、
 ホテルに入った。


 このホテルに泊まった目的でもある、
 名人ヒロミさんに90分マッサージをしてもらったら、
 嘘のように躰が楽になった。
「これで、しばらくは大丈夫だよ。
 疲れと眼からだね。」
「そうかい。
 ありがとう。」
 名古屋から買ってきた伊勢名物赤福のお土産を渡し、
 そのまま、さっきまで熟睡した。
 起きたら、腕のしびれもほとんどなくなっていた。


 名古屋は梅雨明けしているが、東京はまだで、
 今朝の入谷の空は梅雨空。白く濁っている。


 さっき、ネットを覗いたら、
 ニューヨーク市場も日経平均先物も、安い。
 放っておいても、今日は下げそうなので、
 相場など眺めずに、
 東京での用事を一つ一つ丹念にこなすことにした。

 まあ、社会が動き出すのは9時や10時になってからだから、
 それまでは、のんびりしていよう。


 煙草が切れたので、
 煙草を買いに降りる。


 また、あとで。




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五右衛門奇伝(15)

2016年07月22日 08時10分29秒 | 老年期放浪篇


     五右衛門奇伝(15)



「ほかの大名の眼も考えろ。
 徳川、毛利、上杉、島津……、
 天下取りの野心を抱いている大名は、まだいくらでもおる。
 お前が早く退いて、二代目の関白を据えれば、
 豊臣の天下は磐石だと思って、皆が天下取りの野心を捨てる。
 それを考えると、次の関白は、わしらと血を分けた秀次以外におらぬ。
 あ奴が関白なら、誰もが納得する。
 秀次には、これまでに、わしが、政の要諦を教え込んできた。
 奴は、わが一族では一番見どころのある男だ。
 歳は若いが、何とか関白職をこなしていける。
 もしもこなせなければ、その時こそお前が助ければよい。」
「しかし、わしの子の鶴松もおるのだぞ。」
 秀吉は自分の幼い息子の名をあげた。
 政権の実験を握る兄秀長に実子がいない以上、自分の後は嫡男鶴松が継ぐものだ、
 と秀吉は信じてきた。
「ふん。」
 秀長が鼻先で嘲笑った。
「鶴松は、まだ三つになったばかりの子供ではないか。
 あんな幼い子供を関白職に就けてどうするのだ。
 他の大名たちに嘲笑れるだけだ。
 豊臣政権はお前だけのものではない。豊臣一族みんなのものだ。それを忘れるな。
 秀次と鶴松は二十も歳が離れておる。
 鶴松は、秀次の後でよい。」
 しかし、秀吉の顔から不満の色が消えない。
「兄者は、子を持った親の気持ちがわからぬ」、そう呟いた。
 秀長が、ギラリと、秀吉を睨んだ。
「十年前、備中高松の竜王山で、ぬしはわしと約束したな。
 信長を殺した後は、わしの言葉に必ず従うと。
 あの時、わしはぬしにくどいほど言ったはずだ。
 これから先、わしを裏切ることは絶対に許さぬと。
 覚えておるな?
 あの約束は、反故になったわけではないぞ。
 わしが死んでも、あの約束は残っておることを忘れるな。」
 その眼光は、備中高松で秀吉に凄んだ時と同じ鋭さだった。
 この眼をした時の秀長には、何をしでかすかわからぬ不気味さがある。
 病いの身と侮るわけにはいかない。
「……、
 言われなくともわかっておる。」
 秀吉は、内心舌打ちをしながらも、うなずいた。



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何故か東京。

2016年07月21日 22時06分32秒 | 近況報告篇


    何故か東京。



 世川行介、
 本日、
 この時、
 何故か東京にいて、
 
 麗(うるわ)しの「瀧夜叉」姫と、
 麻布で、 
 二人には懐かしい青山俊夫君の思い出話なんぞをしながら、
 午後5時から8時半まで、
 呑んで語らい、語らい呑んで、
 3時間半を「熟年デート」で過ごしたのであった。


 すぐ近くにいる君だから、
 呼んであげればよかったかな。俊夫ちゃん。


 とにかく、
 呑んだ!呑んだ!の世界をやった。
 しかも、
 嫌というほど呑んでおきながら、
 僕は貧乏人なので、
 姫のご馳走になってきた。


 いま、
 これまた懐かしの入谷のホテルに着き、
 もう、ベロンベロンではあるけれど、
 間もなく、
 名人ひろみさんのマッサージを受ける。


 明日は、
 午後6時から人と会う約束があり、
 それが終わったら、
 明日のうちに名古屋に帰る。


 酔いながらも、律儀の世川。
 一筆啓上。おやすみなさい。




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