随想

静寂は知恵、
優しさは愛。

見るから聞くへ

2017-02-12 09:06:07 | 2017/H29
「宇宙の意識を見るようにする」という言葉、
ここにこそ、実はつまずきのもとがあります。

…って、どういうことかな?
と思われるでしょう。

「相手の意識を見るようにすることでしょう?
 いいことではないですか!」
と思われるかもしれません。

でもね、
見るということは、
距離を置いた対象を、
そう「対象」を空間を隔てて、
見ることなのです。

そこには見る私と、
見られる「対象」とがあります。

さて、そこで思い出してください。
宇宙の意識はどこにでもある。
しかしどこにでもあるといっても、
分離はない、つまり一つのものなのです。

分離がないものを、
どうやって見るのでしょう?

おそらくアダムスキーは、
ただ物質だけが真なるものだという人(唯物的)や、
物質と精神という2つが真なのだという人(二元論)に、
話しているのでしょう。

唯物的も二元論も、
どちらも間違いではなく、しかし、
どちらも一部だけ考えている人たちでしかありません。

物でもあり、精神でもあるという、
物と精神との一体化まで感じられる人に向かって、
アダムスキーは述べていなかったと思います。

だから「見る」としか、
言いようがなかったのでしょう。

「相手の意識を見る」ことは、
それこそ物理的な私にはできません。
私の意識にこそできるものです。

なぜなら同じ意識、
相手とも私とも、
「一なる」意識であるからです。

そして意識は教えてくれます。
それは見せるというよりも、
そっとささやくように、
「ほら、意識でしょっ、ね!」と。

ところが、相手の意識を、
一生懸命に「見よう」としている人は、

「物理的な、物質のような」意識を思い続け、
距離を置き続けているために、
ありがたい意識を、
区別してしまっているために、
いつまで経っても、
意識に気付けないのです。

そして難しくしているのです。
それからこう言うのです。
「私は『生命の科学』を生かせない」とね。

自分である意識、相手である意識、
その意識の海に、もともといるのに、
意識というものを分離して考えているのです。

例えば、海の中にいながら、
「海を見よう、海はどこにあるのだ?」と
おかしなことをしているだけなのです。

『生命の科学』を読むには、
宇宙の意識とは何か、
それが書いてある部分を寄せ集め、
そこから宇宙の意識とは何か、
ということを考えねばならないのでしょう。

一行や二行だけ読んで、
では試そうなどというものではないのでしょう。
もともと私たちは意識の海にいるのですから、
何をかしこまって、
意識を区別する必要などありましょう。

意識の海にいるのです。
つまり意識なのです。
ありがたいことです。
意識は見るではなく、聞くなのです。
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