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「自由と平等は両立するか?」№06 欧米主導の自由の定義は?

2016年12月28日 | 老人の知恵
 「心地よい定義付けは心に入り易い。」今日の検証を一言で言うとこの言葉になりました。人は皆我慢をし人を気遣って生きています。

 それを「思いやり」と理解している人は良いのですが、「我慢をしている」と思う人には何れ心の破壊に繋がります。心の破壊という所まで行かなくても、「堪忍袋の緒が切れる。」と言う言葉もあるように、だから一部の人は「我慢は良くない、我慢する必要は無い。」と思う人も出て来ます。

 少しくらい人の意に反することなら「貴女の自由にしたら、貴方の思うように自由に意見を述べれば。」と言うように言葉を投げかけられたら、更に少しの意見の違い(少しの迷惑)は迷惑には成らないのでは?と言われたら「我慢するより自分の意のままに生きたい。」「自分をもっと主張したい」「もっと自分らしく生きたい。」と思うようになるでしょうね。

 これが更に進化したら、我慢は良くないこと。「この程度のことは私の自由。」と思うようになる可能性もあります。

 更にこの考えが進化したら(後退したら)人に対する迷惑という定義が段々薄くなり、人に対する迷惑と言う概念も無くなる場合(人)も出て来ます。そうなると「自由=自己中」と言う事に成り、「モンスターペアレンツ」等の、所謂自己中の塊のような、多種の「モンスター・・・・」が発生します。

 「モンスターペアレンツ」は自由の範疇には入らない。と言う人が殆どだと思います。多分今このプログを見ている人も同じ考えだと思います。その貴女に質問しますが、それでは何処からが迷惑で、何処までは迷惑で無いと線引きできますか?

 「モンスターペアレント」が100%迷惑とすれば「何も自由と認めない」と言う極端な事例が迷惑0%と言えますが、それでは何%までのことを迷惑と判断できますか?

 迷惑とはこの様に、人により曖昧な判断基準の上に成り立っているので、迷惑の判断は人によりまちまちです。と言う事は「自由か自由で無いかの判断も人それぞれ」と言う事に成ります。

 つまり、突き詰めれば「自由など存在しない。」と言う結論になってしまいます。では自由は存在しなくて良いのか?と言う疑問も出て来ます。

 続きの検証は次回にします。

 諸悪の根源森喜郎を糾弾する。
小池都知事から「五輪の運営に関しては都の方針で動いて頂きます。」と言ったら、森喜郎は「五輪組織委員会は都の下請け機関では有りません。組織委員会は都の指揮下には入りません。」と言って57億円の出資金を都に返しました。
 五輪経費の分担の話になると、森喜郎は、東京2020は都が開催するのですから東京都が責任を持って経費を負担して下さい。
 なんじゃこりゃ!、この理屈。運営経費の議論では都に責任を押しつけ、経費削減などの議論では、組織委員会の意見を聞きなさいと言う。そしてあちらこちらに裏工作をしまくる。
 経費削減と経費分担議論では丸川五輪担当相も味方に抱き込んでしまう。丸川さんも駄目ですね。

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