橡の木の下で

俳句と共に

草稿10/14

2012-10-14 10:00:04 | 一日一句

子供神輿行列長くつきゆけり

林檎ほど石榴太りてなほ赤し

亜紀子


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『俳壇』11月号より

2012-10-14 10:00:02 | 俳句とエッセイ

  森より昇る ー町野けい子俳句ー        亜紀子

 

 町野けい子は昭和二十二年生れ、現在は「橡」自選同人として活躍、後進の指導にも当たる。二十代後半に作句を始め、最初は古賀まり子(橡同人)、故福永耕二らの馬酔木の若人向けの句会で薫陶を受ける。町野は当時の俳句修行は相当厳しかったと振り返る。この時代に町野俳句の骨格が作られたと推察される。ところで、まだ子育て始まったばかりの多忙な時代に俳句を選んだということ、これについては母親の影響が濃いようである。母親は中村汀女の「風花」の同人で、町野は子供の頃から歳時記を身近に感じていたという。また吟行や句会に連れていかれたこともあったようだ。五七五は日常当たり前に存在していたのである。

 

読みさしの騎士物語リラの風

 

 処女句集『騎士物語』より。句材は古体な俳句にはないものであるが、五七五の調べが整い無理がなく、二句一章立ての壺をきっちりと押さえているのも、幼いうちから俳句のリズムに馴れ親しんでいたとすると納得される。

 一方、町野の個人史の中にいささか特殊な側面がある。家庭の事情(母親の病、両親の離婚など)により、ミッション系の女子校の寄宿生活を七年間経験する。自身、自分はカトリック修道院で育てられたようなものという。多感な時期をこうした環境に過ごしたことがその人間形成に影響少なからざることは容易に想像できる。

 

たづさへし詩集晩夏の砂こぼす

緑陰の風きてさらふ独り言

 

 町野の詠むものに西欧的な色合いの、しかもどこか陰影の濃い作品の目につくのは、この時代に源泉があるのかもしれぬ。晩夏の詩集の句に読書家として知られる町野の横顔を見る。寄宿舎で一人遊びのように書物に親しんでいた少女が、後年愛読家となるのは当然の姿であろう。町野は若かりし堀口星眠の高原俳句に出会い心酔したと語っている。その当時の星眠の俳句や文章にはシュティフターに似たドイツ教養小説の趣があり、この感覚が相通じたのではないだろうか。それは幼き日に母親から受け取った俳句の世界と、修道院のごとき寄宿生活で培った世界、何より内省的精神世界とを無理なく融合する、あるいは理想的に結ぶ機会であったと思われる。

 

菊酒や黙のうちなる父の情

寒紅をさす鏡中の暗さかな

 

 人の心の襞を表現して余韻の残る句である。町野の作品に人情の機微の影を垣間見ることは先にも触れた。少女期の親元を離れての生活、またその因となった大人の世界を眺めて過ごしたことによるのかもしれない。寂しさと言うだけでは把握しきれない、人間存在の根底の孤独を見据えたところに詠まれている。

 

新涼の薄絹肩をすべりけり

 

 前段の寒紅の句にも含まれている、女性としてのそこはかとなきナルシシズムを見る。ナルシシズムは創作活動において不可欠であるが、それが目的となっては俳句からは離れてしまうだろう。掲句は上品さのなかに、ある種情熱を秘め、詩としてのバランスが維持されている。バランスの良さとは、すなわち俳句としての骨格の堅固さである。題材、表現方法等、町野俳句は多様性に富むが、いずれも最終的にバランスを崩さず己の俳句的美学を貫くのである。さらにその実例を見ていこう。

 

遠すぎる未来五月の飛行船

闇いくつ踏み入れば逢ふ狐火か

 

 口語風な軽やかさを醸しながら読者に確かな印象を刻印する。これも町野の個性の一面である。ややもすると模糊として流れてしまうところを、その一歩手前で留める独特の味なのである。

 

秋風にバンジョーの弦張り直す

楽器みなケースに眠る星月夜

 

 音楽愛好家の夫がデキシーランドジャズバンドを組んで、ドイツに演奏旅行。そのバンドワゴンの旅に随行した折のものである。内助の功を発揮すべくの旅であったようだが、この旅で「橡」誌に特別作品二十句を発表している。町野にとって俳句はもはや自身の存在そのものといえるかもしれぬ。いつどこに、誰と何をしていても五七五が影となり添っている。子らは成人し、夫婦二人となった町野の環境の変化は新たな詩のモチーフを自ずともたらし、読者としては楽しみである。

 

新雪を巻き上げて橇くつがへる

 

 こちらも近作。北海道の雪原で犬橇を繰った折の作。何でも見てやろう、やってやろうの町野の明るい質が生み出す句である。

 

会津への街道濡らす走り梅雨

城見えて会津盆地は豊の秋

被災地へ続く山並梅雨滂沱

 

 町野は婚家、実家ともに東北にルーツを持ち、ことに会津とのゆかり濃く、愛着も深いようだ。震災後は「彼の地の魂に触れる句」を詠んでいきたいと決意を新たにしている。

 

寄生木を染めてドナウの冬落暉

王宮の薔薇銀冠の霜を置く

 

 町野はここ十数年来毎年オーストリア、ドイツに通い佳句をものしている。会津への共感も、ドイツ、オーストリアをホームグラウンドとするかの如き旅も、もとを正せば町野の個人史に内包されたものかもしれぬ。意識的にその題材を選ぶというより自然のうちに掬い上げるという感覚か。作句する我々は意識するとしないに拘わらず、既に己の中に備えてあるものを利用している。それが自ずと作者の個性となって際立つのである。しかし、己の人生行路に従って焦らず、大らかに俳句を醸成してきたかに見える町野は、今意識的にそこをさらに掘り下げた句を開拓しようとしているのかもしれぬ。

 

囀りの森より昇る観覧車

 

 町野俳句というと先ずこの一句を思い浮べる。こちらが町野俳句の骨頂であり、先に述べて来た影は対称的に宿っていると見る。作者は森を抜きん出てゆっくりと回る観覧車を、少し離れたところから俯瞰している。それでいて読者の耳には小鳥たちの恋の唄が降るように聞こえてくる。そしてあたかも今まさに自身が森の上へあがるかのような感覚。この作品以降「森より昇る何々」という句が出てくるようになった。一種雛形となったものである。掲句の鍵は囀りの森であろう。明るく、のびやかで生命感溢れる季節。これはまた町野そのものの持ち味である。

 

帽振つて森におちあふ復活祭

 

 もう一句、「帽振つて」「○○におちあふ」を型に追随する作品が散見されるようになった。ここでも鍵は復活祭という明るい季語であり、一句全体に溢れる歓びの感覚は町野ならではである。

 町野はまさしく団塊の世代に属す。この世代の女性は元気である。社会の本音は分からぬが、男性と肩を並べ対等にものを言い、女性優位の感すらある。町野も常に笑顔絶やさず、しなやか、強靭である。町野と同席の句会は活気に満ちる。ある時珍しく町野が欠席したことがあった。彼女の居ない句会は火が消えたようだとはその日の一同の感想である。

 筆者が町野と初めて出会った当時の印象はどこか女学生風な面影を残し、それでいて落ち着いた物怖じせぬ女性であった。決して人を逸らさぬ大人の快活さというようなものを持っていた。あれから四半世紀、ありきたりな物言いであるが、人の道は誰にも山あり谷ありである。町野はその道を俳句があったからこそ越え来ることができたと語る。繊細で内省的な心性を核に持ちながら、乗り越えてきた道程があの女学生の面差しに現在貫禄をも加えている。それを言うと、体ばかり堂々としてきたと大らかに笑う。

 

向島句座に芭蕉の風かよふ

 

 向島百花園での吟行句会の作品。草花、虫、周囲の新しいビル等々観察の後、園内の茶室を借りて仕出しを取り、続いて句会。筆者も同席した句会で、掲句は印象に残っている。青芭蕉の風の快さに、人生折り返しに到り、俳句三昧境にさしかかった町野の余裕を感じさせられた。来春、第二句集出版と聞く。刊行が待ち望まれる。

 

 


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