車椅子に乗って看護スタッフに押してもらってルミの方に来かかった人物を見て、窓の向こうとこちらで同時に声を上げた。
「ガビョンさん?!」
声は聞こえなかったがルミはそう言ったようだった。カン・マエもまた思わず小さくだが声を出した。
ルミがそう言ったように見えたのは口の動きからだった。そしてルミは組んだ足を解いて立ち上がり、その人物に向かって歩み寄った。
確かにそれは韓国に居て痴呆症と肝機能障害の治療と療養をしているはずの、かつてのマウスフィルの首席オーボエ奏者でその昔はソウル市響の首席オーボエ奏者でもあったキム・ガビョン氏だ。
ルミがガビョン氏を抱擁し、スタッフと話をするのを見ながらカン・マエは横の佐々木博士に訊ねた。
「彼がここにいることについて、私は何も聞いてないのですが?」
声音に詰問調が混じるのは何事も自己に関係する事で知らない事があるのを我慢できない性格からである。これを、カン・マエの人となりについて韓国の友人筋からすでにレクチャーされている佐々木博士は、頭の中でだけため息を漏らしておいて答えた。
「あの方については特にトゥ・ルミさんの件とは関係が無いのですが、肝機能障害と痴呆症の関連において私の研究と重なる部分がありまして、ルミさんの症例の研究と治療の報告を向こうとやり取りしている過程で派生した事例の治験としてお預かりすることになったんです。」
「偶然ではありませんね?」
「ええ、偶然ではありません。あのお二人を会わせることで治療の相乗効果を期待しています。事は神経の問題ですから精神的情緒的な影響力は充分にあると踏んでいます。あとはその程度がどのくらいかを計りたいのです。」
「なるほど、ガビョン氏には効果があるかも知れませんな。」
「ルミさんの方にも、です。」
「ルミの方に、ですか?ルミは聴覚神経の方だから情緒的な問題はないと思いますが。」
「治療の面からだけ言えば、そうです。しかしルミさんは独り異国の地に居て同国の人など親しく言葉をかわす相手に乏しい環境ということを考えねばなりません。ルミさんはとても勉強熱心な方で日本語もかなりお上手になっていますがストレスがないわけではありません。貴方もこうして時々いらっしゃっているのに唯の一度も彼女に会おうとしないばかりか、いらっしゃった事さえ伏せておくように言われる。これで私も職員や研究員に緘口令を敷くのはたいへんなんです。」
「それは申し訳ないと思っているのです。ですが今はまだ私が来た事やこうしてここにいる事を伏せておきたい訳があります。」
「ほう、もうそろそろいい加減でその訳というのを聞かせていただいてもいい時分じゃないかと思うんですが?いつまでもこのまま黙っていられるとは思いませんよ。私が言わなくても、口が軽いと言うのでなく誰かの口が滑ってしまう事はありますでしょう。もうそろそろ綻びが出てきそうな様子は感じているんですよ?たとえそうなっても私としては責任が負えないのでねえ。」
「脅し、ですか?私に脅しは効きませんが。」
「いえ、想定し得る事態の告知です。」
「分かりました。その事態とやらに手を打つことにします。」
「手を、ですか?どういう手をです?」
「それは今は申し上げられません。しかし早急に打ちますがご迷惑はお掛けしません。」
「どんな手かは存じませんが治療の妨げになってはいけませんから事前に教えていただきますよ。」
結局、カン・マエがどんな手を打とうとしていたのかは分からず終いになった。ポケットの携帯電話の呼び出し音がそれを遮った。忌々しそうに電話を取り出し画面の着信者表示を読むと、親指で弾き出すほどの勢いでスライドさせた。
「よほどの緊急なんでしょうな、こちらから掛けるまでは呼び出さないように頼んであったはずです!」
険しい表情でそう吹き込んだカン・マエの顔色が、向こうの話を聞くうちに赤みを帯びた怒色から薄白く変わった。そして鋭く小さい舌打ちをして口を開いた。
「すぐ帰ります。そちらに着くのは今夜になりますが着き次第事務局に行きます。では!」
今度は握り潰しそうな勢いで携帯電話を畳んでポケットに突っ込み、佐々木博士に向き直って言った。
「急用ができました。申し訳ないがこれで失礼します。後をよろしくお願いします。」
これだけ言って博士を置き去りに、足早に出て行ってしまった。
そして、待たせてあったタクシーに乗って大学の門を出るところで再び携帯電話が鳴った。電話に出ると今度は鬼の形相と言っていい表情で電話に怒鳴り上げ、運転手を縮み上がらせていた。
それからは石のように押し黙り、京都駅から新幹線で名古屋に向かった。名古屋からは特急で松本まで行く。全行程2時間40分ほどで長野に戻るのだが、戻って向かったのは「サイトウ・キネン・フェスティバル実行委員会事務局」だった。
・・・・・・・・・シーン3に続く・・・・・・・・・・
「ガビョンさん?!」
声は聞こえなかったがルミはそう言ったようだった。カン・マエもまた思わず小さくだが声を出した。
ルミがそう言ったように見えたのは口の動きからだった。そしてルミは組んだ足を解いて立ち上がり、その人物に向かって歩み寄った。
確かにそれは韓国に居て痴呆症と肝機能障害の治療と療養をしているはずの、かつてのマウスフィルの首席オーボエ奏者でその昔はソウル市響の首席オーボエ奏者でもあったキム・ガビョン氏だ。
ルミがガビョン氏を抱擁し、スタッフと話をするのを見ながらカン・マエは横の佐々木博士に訊ねた。
「彼がここにいることについて、私は何も聞いてないのですが?」
声音に詰問調が混じるのは何事も自己に関係する事で知らない事があるのを我慢できない性格からである。これを、カン・マエの人となりについて韓国の友人筋からすでにレクチャーされている佐々木博士は、頭の中でだけため息を漏らしておいて答えた。
「あの方については特にトゥ・ルミさんの件とは関係が無いのですが、肝機能障害と痴呆症の関連において私の研究と重なる部分がありまして、ルミさんの症例の研究と治療の報告を向こうとやり取りしている過程で派生した事例の治験としてお預かりすることになったんです。」
「偶然ではありませんね?」
「ええ、偶然ではありません。あのお二人を会わせることで治療の相乗効果を期待しています。事は神経の問題ですから精神的情緒的な影響力は充分にあると踏んでいます。あとはその程度がどのくらいかを計りたいのです。」
「なるほど、ガビョン氏には効果があるかも知れませんな。」
「ルミさんの方にも、です。」
「ルミの方に、ですか?ルミは聴覚神経の方だから情緒的な問題はないと思いますが。」
「治療の面からだけ言えば、そうです。しかしルミさんは独り異国の地に居て同国の人など親しく言葉をかわす相手に乏しい環境ということを考えねばなりません。ルミさんはとても勉強熱心な方で日本語もかなりお上手になっていますがストレスがないわけではありません。貴方もこうして時々いらっしゃっているのに唯の一度も彼女に会おうとしないばかりか、いらっしゃった事さえ伏せておくように言われる。これで私も職員や研究員に緘口令を敷くのはたいへんなんです。」
「それは申し訳ないと思っているのです。ですが今はまだ私が来た事やこうしてここにいる事を伏せておきたい訳があります。」
「ほう、もうそろそろいい加減でその訳というのを聞かせていただいてもいい時分じゃないかと思うんですが?いつまでもこのまま黙っていられるとは思いませんよ。私が言わなくても、口が軽いと言うのでなく誰かの口が滑ってしまう事はありますでしょう。もうそろそろ綻びが出てきそうな様子は感じているんですよ?たとえそうなっても私としては責任が負えないのでねえ。」
「脅し、ですか?私に脅しは効きませんが。」
「いえ、想定し得る事態の告知です。」
「分かりました。その事態とやらに手を打つことにします。」
「手を、ですか?どういう手をです?」
「それは今は申し上げられません。しかし早急に打ちますがご迷惑はお掛けしません。」
「どんな手かは存じませんが治療の妨げになってはいけませんから事前に教えていただきますよ。」
結局、カン・マエがどんな手を打とうとしていたのかは分からず終いになった。ポケットの携帯電話の呼び出し音がそれを遮った。忌々しそうに電話を取り出し画面の着信者表示を読むと、親指で弾き出すほどの勢いでスライドさせた。
「よほどの緊急なんでしょうな、こちらから掛けるまでは呼び出さないように頼んであったはずです!」
険しい表情でそう吹き込んだカン・マエの顔色が、向こうの話を聞くうちに赤みを帯びた怒色から薄白く変わった。そして鋭く小さい舌打ちをして口を開いた。
「すぐ帰ります。そちらに着くのは今夜になりますが着き次第事務局に行きます。では!」
今度は握り潰しそうな勢いで携帯電話を畳んでポケットに突っ込み、佐々木博士に向き直って言った。
「急用ができました。申し訳ないがこれで失礼します。後をよろしくお願いします。」
これだけ言って博士を置き去りに、足早に出て行ってしまった。
そして、待たせてあったタクシーに乗って大学の門を出るところで再び携帯電話が鳴った。電話に出ると今度は鬼の形相と言っていい表情で電話に怒鳴り上げ、運転手を縮み上がらせていた。
それからは石のように押し黙り、京都駅から新幹線で名古屋に向かった。名古屋からは特急で松本まで行く。全行程2時間40分ほどで長野に戻るのだが、戻って向かったのは「サイトウ・キネン・フェスティバル実行委員会事務局」だった。
・・・・・・・・・シーン3に続く・・・・・・・・・・