片道20分の自転車通勤の道で毎日のように出会う身勝手な運転手と車。
最初の一年は、それらが何のメッセージであるのかを考えて過ぎました。
次の一年は、自分も同じような身勝手と他人の無視をしているのではないかと考え、自分の人間関係を総点検して改善しました。
しかし、現状は何一つ改善しなかった。わたしが受け取るべきメッセージはそんなところには無かったのです。法則による原因探しは脇においてもっと現実的にできることを、わたしは探し始めました。
まずは、運転手さんと丁寧にアイコンタクトを取るようにしました。一旦停止してくださる運転手さんには、それが当たり前の状況でも、必ず笑顔で会釈するようにしました。すると、わたしも気分が良いし、された方も気分が悪い訳がない。それを続けるうちに、だんだん通勤が楽しみになってきました。
当たり前のことに気が付き始めたのは、その頃からです。突っ込んでこられて腹が立つのは、ただ単純に、わたしも突っ込んで行こうとしているからなのですね。自分では全く意識していませんでしたが、わたしの方に突っ込んでいきたい思いが皆無であれば、向こうに突っ込んでこられて腹が立つことなど、あるわけがないのです。最初から、当たり前に道を譲っていればいいのですから。
なるほど、そういうことか。こんなことに気付くのに、わたしは二年もかけたのか。笑い出しそうになりました。
運転手さんをひとりの人間として見つめるようになり、運転手さんお一人お一人に対する愛おしさを感じるようになりました。みなさんお一人お一人に事情がある。うっかりすることもある。そして、みんながそれぞれにたったひとつのドラマを生きている大切な存在なのだと、会釈と微笑の中でそれを確認しながら、確かめながら歩む。 いつしかそれは、みんなと一緒に生きている幸せを噛み締める時間になりました。ささやかながら、この上無く豊かな幸せを見出し、生きる実践の時間となりました。
それでもやはり時々はいらいらして、そのたびに、あ、まただ。リセットリセット(笑)と気分を切り替えるようになりました。通勤道の学びは、ここに答えを見つけ、終わったのだと思えました。いずれは、もう全くいらいらしない時期が訪れるのだろうとも感じました。わたしは、満足していました。考えられる限り、最高の答えに収まったと感じました。
しかし、それは、まだ終点ではなかったようです。わたしの感じ方は、ここから更に変わっていくのです。^^
二年も三年もかけて、身勝手な車と運転手がどうやったら、自分の通勤道から見えなくなるだろうかと考えていました。
身勝手だな、といらいらする度に、わたしもおんなじだな、と笑えるようになりました。向こうにも、何か事情があったのかもしれないな、と考えるようになりました。そのような気付き、そのような考え方の変化は、大きな心の平安をもたらしてくれました。心が大きく乱れないのだから、それは確かに問題のなくなった状態で、自分がたどり着いた結果に、とても満足していたのですね。
しかし、それは終わりではありませんでした。その後更に、わたしの感じ方は変化を見せ始め、少し、異なったところへと変わっていくのです。
それは、先に書いたような「気付き」や「考え方」で得られる心の平安とは全く違う次元。何も感じない、というところへの変化でした。相手が突っ込んでこようがどうしようが、そもそも、相手を身勝手と感じない。そもそも最初から、何一つ問題などない、と感じるところへの変化なのでした。
数年かけて考えてきた問題のそもそもの前提が、無くなってしまった。そして、前提そのものが最初から存在していなかったということこそが、本当にたどり着くべき終点だったと、思われたのでした。
それは、非常な静けさでした。
良いとも悪いとも決めることなく、ただ目の前に起きていることを、ただ、起きているがままに見る静けさです。
向こうが悪いのでもなく、それを見ているわたしが悪いのでもなく、どちらが正しいのでもなく、ただ、それがあるがままにあるという静けさであり、それを、ただ見ているわたしがここにいる、という静けさなのです。それ以上でもなくそれ以下でもなく、そこに始まって、そこに終わってしまう、静けさなのです。
この静けさの中では、まさにその静けさ故に、どんな小さな音も、どんな遠くまでも響き渡る。どんな小さな動きでも、どこまでも波紋となって広がり伝わっていく。この静けさの中でこそ、すべては生まれて現実化していくのだと感じました。
法則を知り尽くしたい、使いこなしたいと願うならば、この静けさを知らねばならなかった。この静けさを知らずに、騒がしい思考のままでわかるはずがなかった。
澄み切っていない鏡に、何を映せるというのか。自分という鏡に何を映そうが、そこに自分が選んだ答えしか見ないのならば何の意味があるのか。
人生が与えてくるメッセージすらも、自分のエゴで色付けしてねじ曲げてしまう。ごちゃごちゃとした波動を発しながら、どうして思うものを引き寄せられるなどと思ったのか。
本物を知るということは、自分の鏡を研ぎ澄ますこと。その鏡を澄み渡らせること。願いをスクリーンに映しだす、というようなことが良く技法的に語られますが、まずはその、映しだすスクリーンを真っ白にしなければ、何を映しても見ることはできない。散らかった部屋をスクリーンにして願いを映しても、現実化するのは混乱でしかないのです。
あなたの人生は、思い通りに、平和に幸せに展開しているでしょうか。それとも、どうやっても不協和音から逃れられずにいるでしょうか。研ぎ澄まし、澄み渡りへの道は、一歩一歩歩むもの。日々、毎瞬の決断の積み重ね。天井なしの学びなのでしょう。











これまでしみついた習慣は、いざという時に現れ、なかなか相手の立場に立った運転とはいかないものでした。
こちらに時間的にも精神的にもゆとりがないと、譲ることすらハードルが高いものに感じました。
アイコンタクトも大切ですね。日常生活の中でも意識していきたい習慣の一つでもあります。
厳しいですね。
さくらみるくさんは、厳しい修業を積んでいるのですね。
寝坊して、遅刻しないように慌てて電車に飛び乗り、コメントを書いています。
混乱状態の中、さくらみるくさんの記事を読み、久しぶりに静けさを感じました。
自分の鏡を研ぎ澄ます前段階として、自己受容を充分にする必要がある人々は、私も含めたくさんいらっしゃると思います。
昨日、「鏡の法則」に記載されているゆるしのワークをし、「自分自身を責めている自分自身」に気づき、その後澤谷先生の著者に記載されている「癒しのワーク」を行い、心が平安になった後、深い眠りに入りました。
澤谷先生が、提案している癒しのワークは、私には、とても効果的です。
私も、本物を識りたいと心から思い、日々切磋琢磨しながら過ごしています。
ありがとうございました。
コメント下さりありがとうございます。
前日に記事を読んだから、意識して運転を、と仰る先生のご姿勢に心を打たれました。
シンプルに、そして、理屈だけでなく体でやってみようとされる
そして、生活全体でひとつの考え方を溶かし込んでみようとされる
先生のなさりかたは、地に足の付いた学ばれ方であり
本当の力になって、ご自身の存在を耕し澄ませていくもの。
禅のような学ばれ方であると感じました。
学ばせて頂きました。
ありがとうございました。
コメント下さり、ありがとうございます。
厳しいですか。そうかもしれません。
3年以上かけたから辿り着けたものであり
最初の一年でここまで腑に落とせと言われるときつかったでしょうね。
そんな気がします。
でも、来るまでは怖かったり難しかったりして苦しみましたが
いざ辿り着いてみると、
こちらの方が比べ物ならず楽で幸せだと感じます。
どこまでも広く明るく、軽い、自由な世界です。
しかも、この幸せは誰にも何にも左右されず、終わりもないのです。
そして、辿り着けたから自己受容はとうに卒業しているかと言われると
そんなこともないのですね。^^
落ち着いて学びに向き合えるだけの最低限の自己受容は、たしかに必要でしょうが
むしろ研ぎ澄ますことでこそ自己受容が進むところも大きいと感じます。
その受容する自己が、エゴの自己であるか
エゴを超えたところの本当の自己であるかを見定める必要があるからなのでしょう。
癒しは必要なのですが、癒される必要があるのはエゴの方であり
エゴが肥大し過ぎると、本質との出会いはむしろ妨げられる危険がある。
だから、本質を学ぶことと癒しとは車の両輪でなければならないのだと思いますが
それとよく似ているような気がします。
>自分の鏡を研ぎ澄ます前段階として、自己受容を充分にする必要がある人々は、私も含めたくさんいらっしゃると思います。
と書かれていますが、
ももさんは実際に、この両方を、同時にバランス良く学ばれておられると思います。
毎日のコメント付けも間違いなくその一部なのでしょう。素晴らしいです。
ももさんを見習って、わたしも励ませていただきたいと思います。
ありがとうございました。