小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

高齢者による自動車事故急増の全責任は警察庁と国家公安委員会にある!

2017-01-30 17:08:37 | Weblog
 高齢者による自動車事故の多発が社会問題化している。その原因は二つある。一つは医療技術の進歩や食生活を含む生活習慣の改善で、男女を問わず日本人の平均寿命が延びていることだ。
 だがもう一つの問題のほうが深刻である。はっきり言って警察庁と国家公安委員会の怠慢である。
 私はさる2008年6月10日と25日の2回にわたって警察庁長官宛に文書を送付した。いまから数えると約8年半前である。
 10日に送付した文書の目的は、運転免許証の再発行についての疑問が中心だったが、その中でこう述べている。

 私は今年7月で68歳になりますが、70歳になった日に(私の免許証の有効期限がちょうど切れる日です)免許の更新をしないことに決めています。私はいま毎日のようにフィットネスクラブで汗を流していますが、エアロなどをなさっている方はお分かりですが、インストラクターは毎回新しいステップを考案して指導しています。若い人は1~2回やれば新しいステップをすぐ覚えますが、私くらいの年になると最後までインストラクターの動きについていけないこともしばしばあります。私はバーベルエクササイズやプールでの筋トレメニューでは若い人に負けない体力がありますが、運動神経(反射神経と言ってもいいかもしれませんが)は確実に年とともに後退していることをいやというほど知らされるのがエアロです。私が70歳になった日に、つまり免許の有効期限が切れる日に運転をやめることに決めた最大の理由です。(中略)
 正直に申し上げますが、私は独身時代、平気で酒を飲んで運転していました。酒に強く、かなりの量の飲酒をしても酔っぱらうことがなかったことが、飲酒運転に対する罪悪感を麻痺させていたのかもしれません。その私が飲酒運転をピタッと止めたのは子供が生まれたのがきっかけでした。親になったという自覚が、どんなに酒に自信があっても、また万に一つの可能性であっても、飲酒運転で同乗させた子供を事故に巻き込んだら取り返しがつかないどころか死んでも死にきれないという思いを待ったからです。クルマは「走る凶器だ」という意識を強く持つようになったのもそのときからです。(後略)

 続いて25日に警察庁長官宛に送付した文書では高齢者免許の更新についても具体的な提案をした。

 先の文書で私が満70歳の誕生日に有効期限が切れる運転免許証の更新はしないことを明らかにしましたね。その理由は、健康のために通っているフィットネスクラブでのエアロビクス・レッスンに若い人のようにはとてもついていけないことから、例えば路地から子供が飛び出したような時に、急ブレーキを踏むか、急ハンドルを切って電柱に車をぶつけても子供を避けるかといった、とっさの正確な判断と、その判断を下す反応スピードに自信が持てなくなったからです。
 さらに昨日娘の家に行き5歳の孫と遊んでいてまたショックを受けました。任天堂が発売して大ヒットし、テレビゲーム機の王座をソニーから奪い返したWiiのことは多分ご存知でしょう。そのWiiで遊ぶゲームでやはり大ヒットしたのがWiiフィットです。バランスボードの上に乗っていろいろな種類のフィットネスをする健康ゲームで、バランスゲーム・有酸素運動・ヨガ・筋トレの4アイテムに合計で48種類ものフィットネス・プログラムが詰め込まれているのですが、その中のバランスゲーム(8種類)が実に優れものです。というのは5歳の孫がバランスボードの上でぴょんぴょん跳ね回り、「じいちゃんもやってごらん」と言われ、やってみたのですが、全然ついていけないのです。バランスゲームという名前から単純にバランス感覚を養うためのゲームだろうと思っていたのですが、エアロ以上に反応速度と判断の正確さが試されるゲームなのです。
 で、私の提案ですが、任天堂と共同で判断力や反応速度を3分くらいで測定できる装置を開発し、70歳以上の高齢者の免許更新時には、視力だけでなく、とっさのときの反応スピードと判断力を検査項目に加えられてはいかがでしょうか。現在70歳を超えた人が免許の更新をする場合は民間の教習所で3時間の高齢者講習を受けなければなりませんが、講義を除けば本当に必要なとっさのときの反応スピードや判断力の検査は行われていないのが実情です(実際に最寄りの教習所に高齢者講習の内容を聞きましたが、「15分ほど車に乗ってもらうが、ハンドルを握らなくても乗っているだけでいい」ということでした ※現在はいちおう数分間ハンドルを握らせているようだ)。
 いま私の手元にはインターネットで検索した交通安全白書の19年版(平成)に記載されている「道路交通事故」をプリントしたもの(8ページ)がありますが、高齢者が起こす交通事故は平成元年の3倍に達しています(全年齢層の事故総数は65%に減っているのにです)。この高齢者事故をどうやって減少していくかが、飲酒運転の撲滅とともに全国の警察組織が全力で取り組まなければならない課題だと考えています。(中略)
 私の人生も残りそう長くはありません。私の本職であるジャーナリストとしての活動で、日本の将来と未来を担ってくれる若い人たちのために、私にできることは何かしておきたいと思っているのですが、出版界の現状を考えると本を出すことはまず不可能です。で、マスコミにフェアな主張をさせるためにブログで読売や朝日に厳しい批判を加えたり、今回のように「警察のための国民」から「国民のための警察」に大転換していただくための提言をしたりすることにしたのです。そうした活動にご理解を賜れば私も、この年になっても社会のために何がしかのことが出来たなと思えるのですが…。

 この提案を警察庁長官に行ったのは、最初に明らかにしたように2008年の6月である。その後、高齢者の平均寿命は延び続け、それとともに今日では社会現象にさえなっている高齢者の自動車事故の増加。その全責任は警察庁と国家公安委員会にある。これはもはや彼らの「怠慢」を通り越して「不作為の犯罪」に相当する、と私は厳しく弾劾したい。

 
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講談社のエリート編集者が「妻殺し」の容疑者になったのは? & 年頭雑感

2017-01-13 07:07:37 | Weblog
 昨年の大晦日に投稿した『電通の新人女性社員の過労自殺を無駄死に終わらせないために』の読者数がなかなか減らず、今頃になってようやく今年最初のブログを投稿できることになった。
 今年に入ってもっとも衝撃的なニュースは講談社のエリート社員の「妻殺し」(容疑)だろう。容疑者が韓国人ということなので、日本社会が抱えている「核家族」の問題と一概に結びつけるのは難しいと思うが、「核家族化=少子化」は先進国共通の問題でもあり、韓国では「核家族化」が遅れているようなので、一応その視点からこの問題を解明してみたい。
 まず「核家族」についてはアメリカの人類学者であるジョージ・マードックが定義している。①夫婦とその未婚の子供 ②夫婦のみ ③父親または母親とその未婚の子供 という家族構成を指している。
 日本の場合、1920年(大正9年)には核家族率が55%に達しており、1960年代に入って核家族率は急激に上昇しだしたようだ(ウィキペディアによる)。私は1940年の生まれだが、すでに我が家は核家族だった。父がサラリーマンだったため、田舎(兵庫県柏原)から勤務地の東京に移ったためである。終戦間際に父が当時の勤務地であった中国天津で召集され、敗戦と同時に母が私を含む子供二人と引き揚げ、兵庫の田舎に住むことになった。私にとっては祖父母との大家族生活がこの時期生じた。
 戦後2年ほどで父が帰還し、いったん再び核家族になったが、祖父の他界後、父が祖母を引き取り大家族になった。我が家の大家族時代は祖母の他界まで続いたが、その後は再び核家族になった。父の帰還後、弟が生まれ3人兄弟になったが、祖母がいたから母も子育てに専念できたのだと思う。
 私は結婚と同時にアパート住まいになり、以降は核家族しか経験していない。妻は専業主婦だったが、子育ては二人が限度だった。
 私が結婚したのは1972年だが、それまでOLだった妻は当然のように結婚と同時に専業主婦になった。これは全くの偶然だが、結婚して住んだアパートは新築の6戸(1DK)だったが、入居者の全員が新婚の夫婦で、全世帯が専業主婦家庭だった。当時は結婚すれば退社して家庭に入るのがOLの常識であり、「寿退社」という言葉が流行語になったくらいである。核家族世帯では、子供の世話をしてくれる母がいないため、大半の家が子供は二人までだった。少子化は核家族が生み出した必然の結果であり、先進国に共通した問題でもある(高齢化は所得水準の向上による食生活の豊かさと医療技術の急速な進歩による結果であり、少子化とは無関係である)。
 さて「妻殺し」の容疑がかけられている韓国籍のエリート社員だが、2005年度の韓国での統計によると、核家族率は54%と日本の大正9年以前の状態のようだ(2006年10月3日の朝日新聞夕刊の記事による)。容疑者は41歳ということだから1976年の生まれと考えられ、おそらく来日するまでは韓国で大家族制の生活をしていたのではないだろうか。兄弟も多く、被害者の妻が核家族で4人の子育てをする苦労に心が及ばなかったのではないだろうか。
 ただ容疑者は講談社では初めて育休をとって、子育ての苦労がわかっていたはずだし、朝日新聞のコラムにも自分の子育ての経験について書いていたくらいだから、なぜ妻の愚痴に真摯に耳を傾けてやれなかったのかが疑問である。実際、事件直前の妻とのメールの内容から考えても、容疑者に強固な殺意があったとは考えにくい。おそらく帰宅後の妻とのやり取りから、ついカッとなっての行為だったのではないだろうか。
 また会社での悩みを抱えていたかもしれない。メディアの報道によれば容疑者は編集者として大ヒットの連載漫画を担当し、講談社での将来も約束されていたような感じはするが、それはあくまで表面的な姿に過ぎず、いま出版界はかつてないほどの苦境に立たされている。
 漫画家にしても小説家にしても、ある程度固定読者がつけば明日のことを心配しなくても済むだろうが(ただし明後日はわからない)、編集者に固定読者がつくわけではない。大ヒットの連載漫画を担当し、京大法学部卒という学歴もあって、周囲は「彼の将来は約束されている」と見ていたかもしれないが、そうした周囲の期待は容疑者にとって、かえって大きな精神的負担になっていた可能性はある。そういう精神状態に陥っていたとしたら、妻の愚痴に誠実に耳を傾ける心の余裕はなくなっていたのかもしれない。
 実はメディアが報道しないので一般の人は出版業界の現状を知らないかもしれないが、いまインターネット上で最も広告が多い業種の一つは自費出版業である。自費出版のパイオニアは文芸社だが、いま雨後の竹の子のように自費出版の会社がインターネットの世界にあふれている。
 問題なのは、自費出版専門の会社が競い合っているだけではなく、講談社をはじめ大手の出版社も自費出版事業で何とか本体の屋台骨を支えているという事情がある。
 そのことを私が偶然知ったのは、友人から本を書くように勧められ、いくつか大手の出版社に企画を持ち込んだことからわかったことだ。いま大半の(おそらくすべてと言ってもいいだろう)出版社が著者からの「持ち込み企画」は通常出版としては扱えないとしていることだ。つまり企画を持ち込んでも、通常出版としては取り扱ってくれず、自費出版の部門を紹介されてしまうのだ。
 それも生半可な金額ではない。原稿をデータで渡しても(出版社には編集費用がほとんどかからないことを意味する)、3000~5000部の自費出版費用が300~500万円かかるというのだ。いちおう一流出版社はネット広告はしていないが(自費出版専門業者以外でネット広告を出しているのは幻冬舎くらいだろう)、実際に企画を持ち込んでみて、私自身が「驚き、桃の木、山椒の木」だった。
 一般的に出版社の単行本出版の内訳を、私が知っている限り書いてみる。仮に定価1000円の単行本の場合はこうだ。ただし、私はこのブログ連載の1回目に書いたように、初版が1万部を切った時点でビジネスとしては採算が取れないと考え自ら失業したので、最低でも初版1万部以上という前提で計算してみる。私が上梓した32冊は、おそらくジャーナリストしては空前絶後の冊数だと思うが、初版1万部で計算してみる。
 印刷製本代 50万円(大目に見ている)
 取次への卸(30%) 300万円(1000円×1万部×30%)
 著者への印税(10%) 100万円(1000円×1万部×10%)
 合計 450万円
出版社の粗利益 1000万円-450万円=550万円(1冊あたり550円)
 3000~5000部の印刷製本コストは、用紙代を除けば1万部とほとんど差はないので40~45万円が実費と考えられる。それを著者から300~500万円ふんだくって、しかも流通させた場合の出版社の粗利益は550×(3000~5000)=165~275万円という計算になる(著者への印税を10%としての計算。実際にはほとんどの出版社が自費出版の場合は印税も支払わないから粗利益は1冊あたり650円になる)。
 こういうぼったくりビジネスで出版社本体の屋台骨を支えなければ、会社自体の存続が危うくなるらしい。実際かつてはベストセラー出版社として名をはせ、私の本を13冊も出版してくれた光文社がいま倒産の危機に瀕しているという。自費出版で著者からぶったくらなければ、大手の出版社でも存続すら危うくなるというのが、現在の出版界の実情である。
 そうした状況の中で、容疑者が大きな精神的プレッシャーを抱えていたであろうことは容易に想像できる。きわめて危機的な状況にある出版業界で、編集者として生き残るためには、次々とヒット作を世に出さなければならないからだ。今は黙秘を続けている容疑者だが、落ちるのは時間の問題だろう。

 ついでに指摘しておくが、政府や地方自治体の少子化対策はポピュリズム以外の何物でもない。保育所を増やせば女性の社会復帰の機会は増えるだろうが、その結果として合計特殊出生率は間違いなく低下する。実際全国の大都市としては初めて保育所への待機児童ゼロ宣言を2013年に高らかにうたった横浜市の場合、本格的に待機児童ゼロ対策に乗り出した2010年の合計特殊出生率は1.30だったのに対して13年には1.31だった。わずか0.01ポイントしか上昇していない。その間の全国平均は1.39から1.43に0.04ポイントも上昇しているのにだ。このことは待機児童ゼロ政策が少子化対策にとっては逆効果でしかなかったことを証明していると考えていいだろう。メディアも政府や地方自治体の待機児童ゼロ政策の検証をしていないから、選挙のときの集票対策としては有効なのだろうが…。
 言っておくが、私は待機児童ゼロ政策に反対しているわけではない。ただ、少子化対策にはならないことを検証してみただけだ。それ以外の他意はない。念のため。

 以下、年頭雑感。
 昨日未明、次期米大統領のトランプ氏が記者会見を行った。テレビの速報ニュースを見て、「こんな人が大統領に…」という思いがした。と同時に、アメリカにとって『民主主義とは何か』と改めて問いたい。
 私はこれまで16回にわたって『民主主義とは何か』というタイトルで民主主義が抱えているジレンマを明らかにしてきた。民主主義は基本的にポピュリズムを醸成する政治システムであること。国によって民主主義の概念が違うこと。民主主義の最大の欠陥は多数決原理にあること。そうした民主主義が抱えている宿命的問題点を指摘してきた。
 米大統領選挙で、米メディアによる事前の世論調査が選挙結果と大きく違っていたことが問題にされた。ニューヨーク・タイムス紙は「隠れトランプ支持層への調査が不十分だった」と、世論調査のあり方に反省の社説を載せた。
 世論調査はアメリカも日本も基本的にRDD方式と呼ばれえる調査方法をとっている。RDD方式とは基本的に固定電話番号をコンピューターで無作為に選別して電話をかけて世論調査を行う。その場合、地域ごとの局番に有権者数を比例させる。
 しかし最近はスマホの利用者で、固定電話を持たない人が急増している。そのため、読売新聞や朝日新聞は携帯の090から始まる電話番号にも電話をかけるようにしている。その場合、問題は固定電話と違って地域を特定できないことだ。そのため電話をかけた相手に、どの地域に住んでいるかを聞かなければならない。RDD方式による世論調査は原則自動音声による質問だが、携帯電話番号にかける場合は自動音声による世論調査を行う前に、どの地域に住んでいるかを聞かなければならない。当然人件費がかかるため、携帯電話にも調査していますよ、というメディアの免罪符の域を出ない。
 実際、内閣支持率の世論調査がメディアによって10%を超えるケースもしばしば生じるようになっている。私はNHKにRDD方式による世論調査の限界を伝え、人海戦術による面接世論調査を行うようにすべきだと申し入れたことがある。ただ、その場合は莫大な費用がかかるため、NHK単独では不可能と考え、各メディアと共同で世論調査会社を設立したらどうかとも提案した。問題は、設問内容をどうするかであった。それも私は考えていて、公正で公平な設問をするための第三者委員会を設け、各メディアの意見を聞きながら設問内容を決めればいいと提案した。そうすればメディアによって世論調査の結果に10%を超えるような誤差が生じる余地はなくなるはずである。おそらく今年か来年にはそうなるだろうと私は期待している。
 世論調査方法の問題はさておき、今月20日には米大統領になるトランプ氏が、昨日の記者会見で初めてロシアによるハッキングがあったことを認めた。ロシアがどういう思惑で米大統領選投票の集計コンピューターにハッキングしたのかは不明だが、ロシアによるハッキングが明らかになっても選挙結果は無効にならないというのが、私には理解できない。ロシアにハッキングされた州(少なくとも従来民主党の固い選挙基盤であったウィスコンシン、ミシガン、ペンシルバニアの3州でハッキングされたようだ)で、再選挙をすべきではないかと思う。その場合、選挙のやり直しの費用は莫大になるだろうし、また空白が生じても困るので19日までは大統領職にあるオバマ氏が暫定的に大統領職に留まるべきだと私は考えるが、どうもアメリカ人の民主主義に対する考え方は私の理解を超えているようだ。
 トランプ氏の記者会見では、利益相反も問題になったが、トランプ氏は自分の会社の経営権は二人の子供に譲り、国益と自分が一代で築いてきた企業の利益との相反はあり得ないと主張したが、実は日本にもトランプ氏と同様の事業成功者が首相になったケースがある。そのことを指摘したメディアは今のところ皆無である。
 日本でのケースは言うまでもなく田中角栄氏である。彼は「日本列島改造」論をぶち上げて地方土地バブルを招いたが、そのことによって田中氏が一代で築いた不動産事業が莫大な金脈も手に入れたことを、「のど元過ぎれば熱さ忘れる」日本のメディアはすっかり忘れているようだ。

 もう一つ、やはり昨日のNHK『クローズアップ現代』が取り上げたアニメ映画『この世界の片隅に』についても書いておきたい。
 アニメ映画としては『君の名は』が大ヒットしていることは知っていたが、『この世界の片隅に』がキネマ旬報の邦画部門で第1位になってヒットしていることは初めて知った。原爆投下された広島を舞台に、当時の庶民生活を描いた作品である。このアニメを制作するための費用は、カンパ(出資金)によって集めたという。カンパに応じたのは7000人を超え、7000万円の出資金を得て制作にこぎつけたという。日本の平和は、多くの人たちの犠牲の上に築かれてきたことを思うと、このアニメだけは私も観ようと思っている。平和を守り続けることの大切さを、読者の方たちとも共有したいと思う。
  
 
 
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電通の新人女性社員の過労自殺を無駄死に終わらせないために。

2016-12-31 01:41:13 | Weblog
今年最後のブログを投稿する。
 12月24日の午後9時から放送のNHKスペシャルを見た。討論番組で、『私たちのこれから#長時間労働』というタイトルである。ご覧になった私のブログ読者も多いだろう。
 NHKのオフシャル・サイトでは、この番組の目的をこう書いている。

 大手広告会社・電通の新入社員だった女性が過労自殺した問題などをきっかけに、あらためて是正を求める声が高まる長時間労働。しかし長年指摘され続けながら解消されてこなかったことも事実だ。一体何が解決を阻んでいるのか? 国が10月に初めて公表した『過労死白書』では、先進国で最悪レベルにある正社員の長時間労働が変わっていない現状が示されたうえで、「残業が減らない理由」として「顧客(消費者)からの不規則な要望に対応する必要」が業種を超えて多く挙げられている。長時間労働に依存しながら利便性やスピードを求めてきた社会のあり方は? さらに長時間労働の是正は、人口減少時代での労働力確保や少子化対策という観点からも待ったなしの課題だ。番組では、是正を阻む「壁」とそれを乗り越える方策を、専門家・市民による徹底討論、そして生放送での視聴者の声を交え、具体的に探っていく。

 その意気やよし、と言いたいところだが、不完全燃焼or消化不良の番組だったと結論付けざるを得ない。
 安倍総理が成長戦略の柱と位置付けている「働き方改革」の一環として日本の賃金制度を「同一労働・同一賃金」に切り替えることを打ち出したのは今年の9月10日に開かれた「働き方改革実現会議」の席である。それ以前はサービス残業や長時間労働、正規・非正規の賃金格差などについては学識者・経営者団体・労働者団体などによる「労働政策審議会」(労政審)が中心になって議論を重ねてきたが、労政審を事実上形骸化して政府主導で作ったのが「働き方改革実現会議」である。
 実は2014年4月、政府の「産業競争力会議」(議長・安倍総理)が、成果主義賃金制(「残業代ゼロ」政策)の導入を経済界に働きかけたことがある。その政策目的は社員の賃金を労働時間の長短で決めるのではなく、労働の成果を基準に賃金を決めるという賃金政策の導入にあった。
 当時私は集団的自衛権問題にかかりきりになっており、この「新賃金政策」をブログで取り上げたのは5月21日から3日連続で投稿した『「残業代ゼロ」政策(成果主義賃金)は米欧型「同一労働同一賃金」の雇用形態に結び付けることができるか』という題名の記事が最初である。年末年始、暇を持て余している方は読んでいただきたいが、そういう方は少ないと思われるので要点を述べる。ただし、3回連続の記事の文字数が実数で2万字を超えており、要約するにしてもかなりの長文にならざるを得ないと思う。できるだけ簡略化するつもりなのでご容赦願いたい。

 現行の労働基準法によれば、1日の労働時間は原則8時間、週40時間以内と定められている。その労働時間を超えた時は残業代が発生する。時間外労働に対する割増賃金(残業代)の割増率は25%以上だったが、2010年4月から長時間労働を防ぐため月60時間を超えた残業に対する割増率は50%以上に改定された。いうなら企業に対する懲罰的割増率を労働基準局が設定したのである。が、悪徳企業はこれを逆手に取った。残業が月60時間を超えた場合、超過労働をサービス残業として、会社に申告する残業時間を月60時間以内に収めさせるというせこいやり方を取り出したのだ。電通の新人女性社員の過労自殺も、そうして生じた。
 安倍総理が直々「議長」として作り上げた産業競争力会議の「成果主義賃金制度」(残業代ゼロ政策)は、一応対象を年収1000万円以上の社員に限定しているが、年収が1000万円に満たない社員でも、労働組合の合意が得られれば残業代ゼロ社員の対象にするという。もちろん本人の同意が必要とされてはいるが…。
 欧米諸国は基本的に同一労働同一賃金制度を導入している。日本のような単一民族国家ではなく、多民族国家が圧倒的に多いからである。そのため民族間の格差を解消するために人種や性別・学歴・年齢・勤続年数を問わず「同じ労働価値を提供した労働者には同じ賃金を支払う」という制度が根付いたと考えられる。
 日本と同様単一民族の韓国は超学歴社会で、学歴によって一生が決まるとさえ言われている。日本もかつては学歴社会と言われていたが、欧米文化の浸透によって学歴社会はかなり影を薄めてきた。ただ、日本は高度経済成長時代を経て男女を問わず高学歴化が進み、バカでもチョンでも大学に入れる時代になってしまった。ただし、日本でも欧米でも超一流大学の学生の大半を占めるのは富裕層の子供たちである。その点だけは一致しているのだが、「超」とまではいかなくても一応有名大学への入学は、日本は狭き門であり、欧米とくにアメリカは比較的門戸を広く開けている。その結果、日本の高校生は受験勉強に必至で、青春を謳歌できるのは大学に入ってからである。一方とくにアメリカの有名大学は、入学は比較的容易でも、卒業するのは極めて狭き門である。そのためアメリカの若者たちが青春を謳歌するのは高校生時代であり、大学に入ったあとは卒業証書をもらうために猛勉強しなければならない。
 日本人の多くは欧米でも支配層の白人たちは高学歴社会を形成していると思っているようだが、とんでもない錯覚である。実は一流企業のエリートサラリーマンになったり、政府(州政府も含む)のエリート職員になれるのは、人種のいかんを問わずやはり一流大学の卒業者が大半を占めている。そして大学に入れなかったり(白人社会にも貧困家庭はある)、卒業する能力がなかった白人は工場や建設現場で肉体労働に従事している。当然その世界では白人といえども黒人やヒスパニック系労働者たちとのし烈な就職競争を勝ち抜かなければならない。「悪貨は良貨を駆逐する」のたとえは就職戦線でも同様で、同じ仕事なら低賃金で雇える黒人やヒスパニックが白人から仕事を奪うのは当然である。米大統領選で、トランプ氏が劇的な地滑り的勝利を収めたのは、トランプが大統領になれば、黒人やヒスパニック系労働者に奪われた仕事を、白人の肉体労働者に取り戻してくれるだろうとの期待が大きかったことを意味する。
 また一流大学出のエリート学生の育て方も日本とアメリカとでは大きく違う。日本は知識の詰め込みが教育だと思っている学校や教師が多い(小学校から大学まで)。私はかつてブログで『なぜ小学生に台数の面積計算式を覚えさせる必要があるのか』という記事を書いたことがある。計算式はこうである。
   (上辺+下辺)×高さ÷2
 こういうくだらない計算式を覚えさせることが学力の向上につながると文科省の知識偏重タイプの役人は考えたようだ。
 私なら、そんな計算式を記憶させようとはしない。こういう考え方をするように生徒を指導する。
 同じ大きさの台形が、頭の中に二つあると思ってごらん。そのうちの一つを上下ひっくり返し、二つの台形をピタッとくっつけてみよう。そうすれば平行四辺形(ひし形)ができるね。平行四辺形の面積は一辺(上辺でも下辺でもいい)×高さで、これは長方形の面積と同じだよね。だけど、この平行四辺形の面積は台形2個分だから、2で割らなければならない。そうすれば台形1個分の面積が簡単に計算できるよね。
 この考え方は、台形の面積計算式の論理的説明でもある。公式を覚えることより、公式が作られたプロセスを理解させることのほうが、どれだけ子供たちが論理的な考え方をするための訓練になるか。
 日本の教育方針は基本的に江戸時代からの継続である。江戸時代は、藩の教育施設(藩校)や庶民の教育施設としての寺小屋などが中心だった。いずれも儒教的精神によって運営されており、子供たち(多くは6歳以上から)に知識を教えることが目的だった。そうした教育施設が全国各地に網羅されており、江戸時代の日本人の識字率は世界でも群を抜いていた。
 こうした教育の目的が明治維新以降も継続され、尋常小学校から大学まで一貫した教育体制が作られたものの、「教師は知識を教え、生徒は知識を覚える」ことが教育の目的とされてきた。当然画一的な思考法と、それをベースにした画一的な労働力の育成によって明治以降の近代化は進められていく。敗戦後の日本でも、そうした教育方針は温存され、受験勉強もより多くの知識を身に着けることが重視され、その結果日本の学生は大学で何を学ぶかではなく、どの大学に入学できるかが受験勉強の最大の目的になってきた。日本の学生が青春を謳歌できるのは大学に入ってから、という状態になったのはそのためである。
 一方アメリカの場合は、「自分の頭で考える」能力の開発を教育の中心に据えてきた。そのためディベートという討論教育が高校時代から盛んに行われている。この教育制度は、論争に勝つことが目的であるためレトリック手法(屁理屈を考え出す能力)を身に付けることになりかねず、私はあまり評価していないが、アメリカ社会では人の目の前で殺人を犯しても「私はやっていない」と言い張ることが権利として認められており、そういう社会で生き抜くためにはレトリック手法を身に付けることが大切なのかもしれない。
 そうした日本とアメリカの教育についての基本方針の違いが、雇用・賃金の体系にも大きく反映されてきた。日本型雇用形態として重視されてきた「年功序列・終身雇用」の考え方の原点が、日本特有の知識重視の教育にあったことだけ、とりあえず理解していただきたい。もっとも、そうした画一的教育によって生み出された画一的労働力が、明治維新以降の日本の近代化の原動力になったことは否めない歴史的事実だし、敗戦後の「世界の奇跡」とまで言われた経済復興と高度経済成長を支えてきたことも否定できない。
 が、日本の高度経済成長時代、「世界の工場」の地位を揺るぎないものにした日本の画一的労働力も、その後韓国に「世界の工場」の地位を奪われ、そして中国がその地位につき、今では「世界の工場」はインドやタイ、ベトナム、ミャンマーへと拡散しつつあり、さらに南米諸国やアフリカ諸国にも拡散しようとしている。そうした時代の潮流の中で安倍総理が打ち出したのが「成果主義賃金制度」であった。
 だが、成果主義賃金とはどういう制度なのか、肝心の安倍総理が自ら議長を務めた産業競争力会議から具体的な説明は一切なかった。ために、マスコミをはじめ政党や労働団体から疑問が噴出した。
 たとえば朝日新聞デジタルは14年4月22日8時配信の記事で「仕事の成果などで賃金が決まる一方、法律で定める労働時間より働いても『残業代ゼロ』になったり、長時間労働の温床になったりする恐れがある」と指摘。自民と連立与党を形成している公明党も菅官房長官に「長時間労働の常態化につながりかねない」と懸念を表明。連合も猛烈に反発した。
 このあたりで成果主義賃金という、世界に例を見ない新しい賃金制度について説明しておく必要がある。成果主義賃金は「残業代ゼロ」制度だという誤解が生じた。確かにそういう誤解を生みかねない要素もあった。
 だが、成果主義賃金制度が目指したものは、年功序列型賃金から、労働の成果を基準に賃金体系を決めようというのが本来の目的だった。それなら、なぜ安倍総理は欧米型の「同一労働同一賃金」の賃金・雇用体系を導入しようとしなかったのか。安倍総理は、いきなり「同一労働同一賃金」制度を導入するとか経済界や労働団体から猛反発が生じるだろうと考えたのだと思う。しかし私は意味不明な成果主義賃金を持ち込むなら、日本型雇用・賃金体系を廃棄して、欧米型の同一労働同一賃金を日本に根付かせるべきだと考えた。言っておくが、安倍総理が成果主義賃金制度を持ち出した時点では、まだ「働き方改革」の「は」の字もなかった時だ。
 ここで「同一労働同一賃金」とはどういう意味なのかを整理しておこう。こんなわかりやすい言葉が、実は大きな誤解を生むことになったからだ。当時書いたブログの記事をそのまま引用する。

 ここで読者に理解していただきたいことは「同一労働」の意味である。アメリカにおける「同一労働」は労働の結果としての成果、つまり会社への貢献度が基準となっているということだ。つまりAさんが10時間働いて生み出した成果と、Bさんが5時間働いて生み出した成果がまったく同じならば、時間当たりの賃金はBさんはAさんの2倍になるということなのである。そのことをとりあえずご理解いただいて、日本の雇用・賃金体系はどうあるべきかについて考えてみたい」
 この年、大企業は9年ぶりにベースアップに踏み切った。安倍総理の要請に応じて、言うなら政経労の三者そろい踏みで実現したベースアップだった。
 このベースアップにメディアもそろって好感を示した。「憲法違反の賃上げ」だということを知りながら、その指摘すら行わずに諸手を挙げて支持した。「お前らアホか」と言いたい。「憲法違反の賃上げ」ということを知らなかったとしたら、もっとアホと言わなければならない。
 憲法に違反している法律は、言うまでもなく労働基準法である。労働基準法では、賃金の形態を「基準内賃金」と「基準外賃金」に分類している。
 基準外賃金のほうから説明しよう。その方がわかりやすいからだ。
 労働基準法で基準外賃金の対象とされているのは、主に三つだ。扶養家族手当、住宅手当、通勤手当、である。すべて「属人的要素」つまり個々の従業員の個人的な諸事情に対して支給されている手当で、会社で仕事をした労働力に対する対価として支給される賃金ではない。そういう意味では年齢・学歴・勤続年数を基準にした基本給は、本来「基準外賃金」である。これらの要素は「職務遂行に要する労働力の価値」とは無関係だからだ。
 これに対して基準内賃金は、基準外賃金を除くあらゆる名目の手当てを含む賃金を指す。労働基準法では、時間外労働(残業、休日出勤など)に対する割増賃金の割増率の基準になる賃金である。
 ところが今春9年ぶりに行われたベースアップは、本来の意味での基準内賃金の底上げではない。慣行として連合(旧総評系)などが容認してきたせいもあるのだろうが、日本におけるベースアップは基準外賃金の中の基本給(年齢・学歴・勤続年数)に物価変動を加味して自動的にアップすることにしたということである。こうしたベースアップは本来、労働基準法に違反している。
 が、日本の労働基準法は「使用者は、労働者が女性であることを理由として、賃金について、男性と差別的取り扱いをしてはならない」(第4条)としているだけで、年齢・学歴・勤続年数の「3基準外賃金」についての差別的取り扱いは認めている。はっきり言って憲法違反の法律だが、労働組合側も慣行として容認してきたし、輸出関連の大企業に対して安倍総理が要請したベースアップも、総理自身はそのことを百も承知で行っている。
 そう言い切れるのは、竹中平蔵氏が著書『日本経済の「ここ」が危ないーーわかりやすい経済学教室』で、「安倍晋三内閣(※第1次)で同一労動同一賃金の法制化を行おうとしたが、既得権益を失う労働組合や、保険や年金の負担増を嫌う財界の反対で頓挫した」と述べていることからも明らかである。

 成果主義賃金制導入の失敗で、再び安倍総理が第1次内閣時に法制化しようとして頓挫した同一労働同一賃金の法制化の試みを再復活させようとしていることが読者にもお分かりになったと思う。
 ここで明らかにしておく必要があると思うが、「基本給」という名目の賃金は欧米諸国にはない。日本の基本給は年齢・学歴・勤続年数によって自動的に決められており、ベースアップや時間外労働の割増賃金、賞与、退職金などの算出基準になっている。なぜ日本だけが「基本給」という賃金を認めてきたかというと、すでに述べたように画一的教育によって育成された画一的労働力を産業振興のベースにしてきたからだ。
 一方日本の労働基準法は、すでに明らかにしたように憲法違反の法律である。
安倍総理は第1次内閣の時から基本給制度を廃止して同一労働同一賃金制度を導入しようとしたこともすでに書いた。が、アベノミクスの最大目的として掲げた「デフレ脱却」のために日銀・黒田総裁に命じて円安誘導と金融緩和を行い、膨大な為替差益を生じた輸出関連の大企業にベースアップを要請した。だがベースアップは基本給のかさ上げであり、安倍総理が目指してきた同一労働同一賃金(すなわち基本給の廃止を意味する)と明らかに矛盾している。
 安倍・黒田ラインによる「円安誘導・金融緩和」はデフレ脱却によって日本の工業製品の国際競争力を回復することが目的だった。安倍・黒田ラインは、日本の工業製品の国際競争力が回復すれば、従業員の賃金が上昇するだけでなく、円安によって日本の工業製品の国際競争力が回復し、メーカーは生産力を増大するために設備投資を行い、それが下請け企業にも波及して再び日本は高度経済成長時代の活気を取り戻すだろうと夢見た。が、そうはならなかった。
 アベノミクスが失敗した理由は、今年9月1日と10日に2回に分けて書いた長文のブログ記事『アベノミクスはなぜ失敗したのか』に書いたので繰り返さないが、若者の自動車離れが急速に進み、家電製品の花形だったテレビはすでに全家庭に普及しており、国内需要が伸びたのはスマホだけという状況の中で、スマホの普及によってパソコンの需要も急激に減少するといった事態も生じ、日本メーカーはリスクが大きい輸出拡大のための設備投資には走らなかったためだ。結果、日本のメーカーは為替差益でぼろ儲けをしただけというのが、アベノミクスが招いた結果だった。
 そのことをいまだにわかっていない安倍・黒田ラインは、さらに金融緩和を進め「マイナス金利」という致命的な金融政策をとった。その結果金融機関はどういう方策に走ったか。不動産関連投資への節操なき融資である。昨年から今年にかけて金融機関が行った不動産関連投資は、バブル期の不動産関連投資を上回る規模にまで達した。その結果が、都心部や武蔵小杉などに林立したタワーマンションである。
 先日テレビの報道番組で見たが、給料がなかなか上がらないため、不動産投資に走るサラアリーマンや主婦が急増しているという。タワーマンションの部屋をローンで買って賃貸に回し、賃貸収入とローン返済の差額を小遣いの足しにするのが目的のようだ。が、少子高齢化で、賃貸物件の需給関係が崩れだした。投資家は期待していたほど家賃収入が得られず、ローンは返済しなければならず、自転車操業にもならない赤字になっているという。
 家賃収入を当てにして不動産投資に走った投資家は、当然ながら一部屋だけではなく、複数の物件をローンで買っている。彼らがローン返済に行き詰まって破綻(自己破産)するのは目に見えている。そのつけは無節操に不動産関連の融資を行ってきた金融機関が払うことになる。来年はバブル崩壊後の金融機関の危機的状況を上回る状態に、金融機関は陥る。日本の金融機関で生き残れるのはどこだろうか。メガバンクと言えども安穏とはしていられないはずだ。

 話がちょっと横道にそれすぎた。同一労働同一賃金の話に戻る。
 同一労働同一賃金についての私の基本的立ち位置を明らかにしておく。一刻も早く法制化すべきだ、というのが私の考えだ。今までさんざん安倍総理に対する批判をしておいて何事かと思われる方が多いと思う。
 私が安倍総理の賃金政策を批判してきたのは、彼には賃金政策についての確たる哲学がないことを証明しただけだ。
 少子高齢化は、いかなる政策によっても歯止めをかけることは不可能である。その理由は、これもさんざんブログで書いてきたが、少子高齢化が始まったのは大家族制が崩壊して核家族制に移行したこと。また女性の高学歴化が進み、女性の生き方・価値観が大きく変化したこと。この二つの要因が重なったことに尽きる。
 私が結婚した時代は、女性は仕事を辞めて家庭に入るのが通例だった。そのころすでに核家族化は始まっていたが、少子化も同時に進みだした。大家族時代には新しい子供ができれば、その子の兄や姉は祖父母が面倒を見てくれたが、核家族化の下では母親一人でたくさんの子供の面倒は見きれない。私の世代で、すでに女性の合計特殊出生率は2.0前後になっていたと思う。
 その後、女性の大学進学率が急上昇を始める。また当時は基本給に男女差があったが、男女雇用均等法の施行により基本給における男女差がなくなった。同時に会社の女性社員に対する扱いも大きく変化する。従来は女性社員は男性社員の補助的扱いをされていたが、女性社員にも男性社員と同様の権利と責任が生じるようになった。結果、女性は母親になって子供を育てることより、社会で自分の能力を高め、働き甲斐を強く求めるようになった。少子化の原因はそうした社会構造の変化による。
 だが、バカな政治家は保育園を作れば、保育園が祖父母代わりになって小さな子供の世話をして、母親が子供を作りやすくなるだろう考えた。理論的には、そうなる可能性も否定はできないが、実際には保育園に子供を預けることができた母親は次の子供づくりに頑張るのではなく、社会復帰して仕事にやりがいを求めるようになった。一人っ子家庭が増え、女性の合計特殊酒精率が1.5を切ったのはそういう社会構造の変化のためである。はっきり言えば、保育所を作れば作るほど合計特殊出生率は低下する。政治家は票のため、選挙のとき真逆の政策を訴えている。これはもうバカを通り越して詐欺と同然だ。
 さらに問題なのは、日本の労働生産性はOECD(先進国)で最低ランクに位置付けられていることだ。日本人の能力が他の先進国より劣るのであれば、労働生産性が低いのは当然だが、そんなことはない(と思いたい)。
 日本人は勤勉だといわれている。二宮尊徳以来、日本の教育方針の重要な一つに「勤勉さ」を重視するようになった。「勤勉さ」を測る尺度は労働時間しかない。机にしがみついて、仕事をしているふりをすることが「勤勉さ」の証明になる。そういう悪しき伝統が、知識重視型の教育方針と相まって日本社会に根付いてきた。
 そうした発想を転換させなければならない。安倍総理が第1次内閣以来の信念ともいえる同一労働同一賃金制度導入が、そうしたことを目的としたものなら、私は大歓迎である。が、だとしたら大企業にベースアップを求めた理由がまったくわからない。何度も繰り返すが、ベースアップは世界に例を見ない日本特有の年功序列賃金体系の根本をなす基本給の底上げを意味するからだ。その部分に手を付けずに同一労働同一賃金制度の導入はあり得ない。安倍総理に哲学がない、と決めつけざるを得ないのはそのためだ。
 電通の痛ましい過労自殺事件を契機に、日本の経営者や管理職は発想を大転換してもらいたい。机にしがみつく時間を基準にした「勤勉さ」を部下に求めることは罪悪だと考えてもらいたい。むしろ残業時間が多い部下を指導できない上司は「無能だ」という烙印が押されるような企業風土を構築してもらいたい。過労自殺した彼女の死を無駄にしないということは、単に会社の消灯時間を早めることではない。短い勤務時間内に密度の濃い仕事をやり、きめられた勤務時間になればさっさと退社する社員が大きな顔をできるような企業風土を構築することに、企業が本気で取り組めば、彼女の死は無駄ではなかったことになる。またそういう企業風土の構築に日本が成功すれば、本当の意味の同一労働同一賃金制度は、法律で制度化しなくても自然にそうなる。当然日本の労働生産性は世界一とまでは言わないが、世界のトップクラスに入れるだけの能力を日本人は持っている、と私は考えている。
 またそういう時代を迎えることができれば、正規・非正規の社員格差も自然消滅する。会社にとっても、正規・非正規に分けて社員を採用する意味がなくなるからだ。

 今年最後のブログが、当初考えていた以上に長くなってしまった。その上12月14日に投稿したブログ『緊急提言ーー「カジノ法」(IR法)に私は条件付きで賛成する。その条件とは…』の読者が2週間経っても増え続けており、なかなか更新できないでいる。最悪大晦日の早朝には強行更新するつもりだが、正月休みに「頭の体操」をするくらいの軽い気持ちで読んでいただければと願う。
 最後になったが、私のブログの読者に「よいお年を」。
 
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緊急提言ーー「カジノ法」(IR法)に私は条件付きで賛成する。その条件とは…。

2016-12-14 11:02:42 | Weblog
通称「カジノ法案」と呼ばれている総合型リゾート(IR)法がきょう成立する運びになった。
この法案は議員立法であり、与党だけでなく民進など野党議員も加わっての立法だった。この法案の成立をもって、きょう14日に臨時国会は茶番劇の幕を閉じる。そして明日15日には安倍総理がロシア・プーチン大統領と、北方領土問題・平和条約締結・経済協力などを巡って胸襟を開いて(?)首脳会談に臨む。

野党もだらしなければ、ジャーナリスト(メディアの記者)もだらしがないこと、この上なし、と言いたいほどの低レベルだった。
私自身のIR法に対する姿勢を明らかにしておく。「条件付き賛成」である。その条件はあとで述べる。
問題はIR法が何を目的にしているのか、肝心なことを野党もジャーナリストもまったく問わなかったことだ。ただひたすら「ギャンブル依存症」の増加を憂うるかのごときスタンスで、反対派の議員(野党だけでなく公明にもいる)や「社会の木鐸」を自負するゴミのようなジャーナリストたちが、上から目線で批判しただけである。

IR法案を国会に提出した超党派の議員連盟がIR法の必要性をどう説明したかはよくわからない。メディアとくに新聞は立法の趣旨を読者に伝えることなく、法案の欠陥のみを重箱の隅を突くような姿勢で批判しているだけだからだ。
私自身はIR法の趣旨をこう勝手に理解している。これは「条件付き賛成」の条件の一部をなす重要な要素なので、そのことをブログ読者は頭の片隅に置いて読んでいただきたい。
いま日本では外国人の訪日が急増している。海外でも日本食ブームが生じており、外国人の目にはなぜか日本が輝かしく見えているようだ。そのことは日本人の一人として、私も喜ばしく思うし、多少誇りたい気持ちにもなる。スポーツの世界でも日本人の活躍が目立つ。フィギィアやスキーでも世界をリードするスターが続々と出現しているし、ゴルフや野球でも世界レベルの活躍をする選手が続出している。来年のプロ野球シーズン終了後には、べーブルース以来と本場アメリカでも評判の大谷選手が大リーグに挑むようだ。彼が世界の頂点に立つ日を、夢見ない日本人は一人もいないだろう。そういう意味では私は健全な「愛国心」を持っていると自負している。ま、安倍さんが国民に押し付けようとしているような「愛国心」ではないかもしれないが…。
IR法についての私の理解を述べる。
昨年まで続いていた中国人観光客の爆買いブームは去ったが、中国人も含め観光目的の外国人の訪日は依然として好調だ。が、爆買い目的ではないから訪日外国人の数は増えても、日本に落とす金は逆に減少しているのが実態だ。
そこで観光目的の訪日外国人に、せっかく日本に来てくれるなら、もっと金を使い、かつその使い方に満足してもらえるような総合型リゾート(IR)施設を作ろう、というのが「カジノ法案」の立法趣旨だと私は理解している。というより、そういう理解に立って総合型リゾート施設の建設と運営をしてもらいたいと願っている。
さて、ではどうしたらそのような運営ができるかを考えてみよう。これが私が「カジノ法案」に賛成できる条件である。
まず、客層のターゲットを観光目的の訪日外国人に限定する。具体的にはカジノ施設への入場は観光ビザを持った外国人に限定する。でも金をあまり使う機会がない日本人の高額所得者や富裕層(高額所得者ではなくても資産をたくさん持っている人)には、納税証明書や資産を証明できる公的書面(固定資産税の納税証明書や所有株式の配当や売買による利益に対する分離課税を証明できる書類等)の提示によってカジノ施設への入場を許可することができる。金持ちの日本人にもどんどん金を使ってもらいたいからだ。
こうしたカジノ施設への入場制限を加えれば、反対派議員や「社会の木鐸」を勝手に自負しているゴミのようなジャーナリストの心配、すなわち「ギャンブル依存症」の増加は完全に防げる。
次にカジノ施設でのギャンブルについてだが、世界一フェアな運営を行うことが重要である。私はラスベガスやマカオなどカジノ施設に入ったことは一度もないし、ギャンブルは現役時代に賭けマージャンを楽しんだくらいで、パチンコ、競馬、競輪などの公的ギャンブルに手を出したことは一度もない。が、カジノにはマフィア(あるいは暴力団)が裏で動いているという話はよく聞くし、実際多くのカジノ施設は客を食い物にしているようだ。
そこで、日本のカジノのディラーには準公務員の資格を与え、常に身辺のチェックを行い、暴力団関係者と絶対に接触できないようにする。そうすれば、外国人観光客から「日本のカジノは世界一フェアだ」という評判がSNSなどで世界中に拡散し、そうした効果によって観光目的の外国人の訪日がさらに増え、彼らがギャンブルだけでなく日本の文化や伝統に触れる機会や、日本食だけでなく日本人の平和志向精神にも触れる機会も増えることが期待できる。
こうした結果は、日本の安全保障にも間接的に大きな効果を持つことすら期待できるのではないかと思う。これが私の「条件付き賛成」の趣旨である。

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憲法審査会が再開されたが、自民党草案は「改正」か「改悪」か? ⑤

2016-12-09 05:22:46 | Weblog
 今回は第3章「国民の権利及び義務」について、自民党「改憲草案」を検証する。
 日本国民が享有する基本的人権を保障した11条「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことの(※「が」とした方がいい)できない永久の権利として、現在および将来の国民に与えられる」という条文は、自民改憲草案においても基本的に踏襲されている。
 が、次の12条についての自民草案には問題がある。現行憲法はこうだ。
「この憲法が国民に保障する自由および権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。また、国民は、これを濫用してはならないのであって(ここまでは自民草案も基本的に踏襲している)」「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」とある。その後段の部分を自民草案はこう改ざんしている。
「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し」(※ここまではいい)「常に公益及び公の秩序に反してはならない」
 私自身、約8年前からブログを書いているが、ジャーナリストとして書いたことには当然責任と、自分自身の生き方としてブログで主張したことに反する行為をしないという意味での義務を負うべきことは自覚している。
 が、「公益」や「公の秩序」など考慮したこともないし、考慮する必要もないと思っている。だいたい、「公益」に反するか否かはだれが決めるのか。政府を批判したり、反政府活動を行うことが「公益に反する」とでも言いたいのか。
 さらに「公の秩序」は誰が決めるのか。確かにデモ活動などは交通の妨げになることはあるし、だから「秩序あるデモ」に抑え込むため機動隊が出動して規制している。これからは機動隊による規制だけでなく、デモ活動そのものを「公の秩序に反する」行為とみなし、犯罪者として取り締まろうとでも言いたいのか。
 憲法が保障する基本的人権とは、『広辞林』によれば「国家権力によって侵すことができない、人間が人間として当然持つべき基本的な権利。生存・身体・言論・信教の自由権、勤労の権利など」である。民主国家においては、あらゆる自由が保障されているわけではなく、自由の範囲に対する制約は憲法ではなく法律で定めるのが「立憲主義」の在り方だ。人を殺したり、物を盗んだり、飲酒など危険な状態で自動車を運転したり、といったことは「犯罪行為」として国家権力の一部である警察が取り締まればいいのであって、犯罪を防止する目的で法律を作るために国会という立法府が存在する。憲法によって基本的人権に制限をかけようというのは、独裁国家のやり方だ。

 次に問題なのは18条である。現行憲法にはこうある。
「何人も、いかなる奴隷的拘束も(※「を」のほうがいい)受けない。また犯罪に因(よ)る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」
 この条文を自民草案はこう改ざんしている。
「何人も、その意に反すると否とにかかわらず、社会的又は経済的関係において身体を拘束されない。
2 何人も、犯罪による処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」
 現行憲法は、「いかなる奴隷的拘束」としているが、自民草案では「社会的又は経済的関係において身体を拘束されない」と、拘束されない条件を付けている。実はこの条文に先立つ14条において自民草案も現行憲法を基本的に踏襲しており、「すべて国民は、法の下に平等であって、…政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」としている。が、18条においては身体を拘束されないケースは「社会的又は経済的関係」としており、14条で差別を禁じた「政治的」行為は身体拘束の対象にされている。
 草案18条は、先の戦争で「政治的拘束」により反政府的活動を封じ込めてきた「大政翼賛会」をほうふつさせる条文である。自民党はどういう国づくりを考えているのか、党内から「おかしい」という声がなぜ出てこないのか。そこまで安倍総裁の独裁的権力が隅々まで浸透してしまっているのだろうか。

 現行憲法21条は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。 2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」となっているが、自民草案は現行憲法の2項を3項に移し、2項として次の条文を挿入している。
「前項の規定に関わらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社することは、認められない」
 12条草案と同様、ここでも「公益及び公の秩序を害する活動や結社」を排除しようとしている。同じ批判を何度も繰り返したくはないが、政治権力が「公益や公の秩序を害する」と見なせば、権力に対する批判や安保法制に対する反対運動を排除できることになる。自民草案も一応21条の1項は踏襲しているが、「集会、結社および言論、出版その他一切の表現の自由」は、権力の維持を侵さない範囲に抑え込まれてしまう。というより、それが目的の条文としか考えにくい。

 現行憲法24条は婚姻についてこう定めている。
「婚姻は、両性の合意によってのみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」
 この条文に関して自民草案は新たに1項を加え、さらに3項(現行憲法の2項)を書き換えている。まず新設した1項はこういう条文だ。
「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は互いに助け合わなければならない」
 この条文自体は当り前のことを書いているだけのように一見思えるが、実は3項で書き換えられた文章に重ねると、とんでもない意味を持ってくる。現行憲法の2項では「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族」と記されている個所を自民草案は「家族、扶養、後見、婚姻及び離婚、財産権、相続並びに親族」と書き変えている。
 なぜそう書き換える必要があったのか。24条に続く25条の事実上の改変を正当化することが、実は自民草案の目的なのだ。現行憲法25条は表現などの自由を保障した21条と並び基本的人権を保障した2大要素のもう一つである国民の権利を保障している。現行憲法25条はこう記している。
「すべて国民は、健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する。
2 国はすべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」
 これは生活困窮者に対する「生活保護制度」の根幹をなす条文である。が、24条2項の書き換えによって「家族」や「扶養(兄弟や子供を意味する)」「後見(親族を意味する)」の義務化を目的にした改変である。で、厚労省のホームページで「生活保護制度」について調べてみた。厚労省のホームページによれば制度の趣旨と受給資格についてこう記している。
「資産や能力等すべてを活用してもなお生活に困窮する方に対し、困窮の程度に応じて必要な保護を行い、健康で文化的な最低限度の生活を保障するとともに、自立を助長することを制度です」
「生活保護は世帯単位で行い、世帯員全員が、その利用しうる資産、能力その他あらゆるものを、その最低限度の生活を維持するために活用することが前提でありまた、扶養義務者の扶養は、生活保護法による保護に優先します」
「預貯金、生活に利用されていない土地・家屋等があれば売却等し生活費に充ててください」
 この説明に若干の疑問を持った私は厚労省の生活保護課に電話して聞いた。明確な答えが返ってきた。
「皆さん誤解されているのですが、世帯全員(単身者でも)が居住している土地・家屋を所有していても、それを処分しなければならないということではないんです。ただ、アパートなどの家賃支払いがないので、家賃相当分の支給はありません」
 厚労省のホームページの記載を続ける。
「働くことが可能な方は、その能力に応じて働いてください」
 この説明についても厚労省の生活保護課に尋ねた。
「まだ働けるでしょうと、どんな仕事でもしてくださいなどとは言っていません。その方のキャリアや能力に適した仕事を探してもらうという意味です」
 扶養義務者の扶養について厚労省はこう説明している。
「親族等から援助を受けることができる場合は、援助を受けてください。そのうえで、世帯の収入と厚生労働大臣の定める基準で計算される最低生活費を比較して、収入が最低生活費に満たない場合に、保護が適用されます」
 この説明にも私は疑問を持った。「親族等とはどの範囲まで言うのか」と。厚労省生活保護課はこう答えた。
「扶養義務者を意味します。扶養義務者とは世帯全員の両親、子供、兄弟までです。おじとかおばとか兄弟の連れ合いなどは含んでいません」
 しばしばテレビの番組で、生活保護費の支給を受けた直後にパチンコ屋に直行する人たちがいることは私も知っている。パチンコに興じる人たちにとって、パチンコで遊ぶことが「健康で文化的な最低限度の生活」を享受する権利の範囲に入るのかどうかには私も疑問をもつ。また、正業に就かない暴力団の人が自分の生活状態を偽って生活保護を受けているケースもある。
 そうした状況をどうしたら改善できるのか。
 自民改憲草案の12条に「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」とある。
 私は生活保護者のケースについて、生活保護を受ける権利には、責任及び義務が伴うことが必要だと考えている。
 生活保護の金銭的援助は、その前提として「働くことが可能な方は、その能力に応じて働く」ことが義務付けられている。が、「能力に応じて働く機会」を厚労省や、生活保護を認定し、保護費を支給する地方自治体の市町村(社会福祉事務所)は用意していない。
「働きたくても働けない」あるいは「働く機会がない」と思っている人が多い。その人たちに「働く機会をつくる」「社会が求める働きの能力を高める」…そういう機会をつくったらどうか。でも市町村単位では無理だ。都道府県単位で、言うならケアハウス(厚生施設)をつくり、そこに生活保護者を集めて共同生活をしてもらう。そしてケアハウスには生活保護者が自分の「働きの能力」を高め、「働く意欲」を生み出す施設を併設する。
 刑務所などの更生施設と違って、やりたくない仕事や作業技能を無理やり押し付けてはならない。あくまで本人の、どういう仕事をしたいかを最優先する。そして本人がしたい仕事について社会(企業)が求める能力を身に付けさせることに、社会復帰させるための最大の努力を払う。それが厚労省が生活保護者に対して行う本来の義務ではないだろうか。「健康で文化的な生活を保障する」ための金銭的援助を行うことより、生活困窮者が自助努力によって、その困難な生活状態から抜け出せるような施策を講じるのが「生活保護制度」の本来の目的ではないかと、私は思う。

 基本的人権に関する最後の大きな問題は「財産権」についての改ざんである。財産権について現行憲法29条はこう記している。
「財産権はこれを侵してはならない。
2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するように、法律でこれを定める。
3 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができる」
 この条文の2項を自民草案は次のように改ざんしている。
「財産権の内容は、公益及び公の秩序に適合するように、法律で定める。この場合において、知的財産権については、国民の知的創造力の向上に資するように配慮しなければならない」
 またしても「公益及び公の秩序に適合」させるという、基本的人権に対する国家権力による縛りができるように現行憲法を改悪している。
 先の戦争において日本の国家権力は武器・兵器の製造のために寺院の梵鐘はおろか、国民の財産である金属類を(いちおう「自主的」という形式は取ったが)事実上没収した。戦時中の国家権力が国民の財産権を「天皇や国家のため」という「公益及び公」の要請によって収奪したことを想起させる条文である。
 さらに知的財産権については、事実上「言論や報道の自由」に対して縛りがかけられる内容になっている。「言論や報道の自由」は憲法が日本国民に保障した基本的人権のなかでも思想・信条・信教の自由とともに最も尊重されなければならない自由であって、その自由の下に行使する個人または集団の行動が、旧オウム真理教のような他人の生存権をも奪うような犯罪行為を伴わない限り、国家権力が「国民の知的創造力の向上に資するよう配慮」を強要すべきことではない。現に、現行憲法の下でも徐々に「ポルノ解禁」は進められてきた一方、行き過ぎた行為に対しては今でも法律で十分に規制できている。
 国は賭博行為を基本的に禁じていながら、パチンコや競馬、競輪、競艇などの賭博行為を許容してきたし、わずか6時間の審議で「カジノ解禁」まで衆院を通過させてしまった。勤労者の所得税や消費税収入の伸び悩み、そのうえ法人税だけは引き下げるといったアベノミクスの失敗を補うための苦肉の策であることは明白だが、観光立国の引き金にしたいというなら観光目的で来日する外国人のみを出入りできるようにすべきだと思う。
 いずれにしても公認賭博業界(パチンコ、競馬など)を指導しているのは国家権力の執行者である警察だ。実際、そうした賭博業界の指導・監督を名目とした「公益法人」は警察官僚の天下り天国になっており、業者と公権力の癒着がはなはだしいことは周知の事実である。

 憲法は本来国家権力の乱用を防ぐために、国家権力の権能に制限を加えるのが目的のものだ。だから現行憲法は、「国民の権利を保障し、みだりに国家権力による国民の権利の侵害をさせない」ことが目的として作られている。この現行憲法の精神は、「アメリカに押し付けられた」などという口実で絶対に侵してはならないものだ。
 確かに現行憲法には、現実とそぐわない問題もあることは私も認める。だから現行憲法の三大原則である「主権在民・基本的人権の順守・平和主義」の精神を現代社会においても侵されないように一部を書き換えたり、あるいは「加憲」したりする必要はあるかもしれない。そういう問題については各政党や、憲法学者たちが提案し、国民的議論を経て現行憲法を修正する必要はあるだろう。私は憲法学者ではなく、一市民の目線で自民改憲草案の意味を読み解いているだけなので、それ以上踏み込むことは差し控える。(続く)

 
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憲法審査会が再開されたが、自民党草案は「改正」か「改悪」か? ④

2016-12-06 07:46:01 | Weblog
 今回のブログでは現行憲法の前文と第1章「天皇」に関する自民改憲草案を検証する。
 現行憲法は旧仮名遣いで書かれているため、現代語に直す。とくに前文の主要な部分は
「主権在民」について述べた重要な条文である。

「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由がもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を規定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理念を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に(※「を」とした方がいい)信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ(※「に陥ることなく」とした方がいい)、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いずれの国家とも、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって(※「自国のことのみに専念するのではなく、いずれの国家も無視してはならず」とした方がいい)、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と(※「いずれの国とも」とした方がいい)対等(※「な」を挿入したほうがいい)関係に立とうとする各国の責務であると信じる(※「立つことを誓う」とした方がいい)。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力を挙げてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」
 
 この前文に続く第1章「天皇」の第1条及び第2条にはこうある。
「第1条 天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この(※「その」とした方がいい)地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」
「第2条 皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」
 ところで皇室典範の第1章「皇位継承」の第1条にはこう定めている。
「皇位は、皇統に属する男系の男子がこれを継承する」

 この現行憲法における「主権在民」と「天皇の地位」に関して、自民改憲草案は前文でこう記している。結論から言うと、アナクロニズムもいいところだ。
「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権のもと、立法、行政及び司法の三権分立にもとづいて統治される。
 我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、いまや国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
 日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
 我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。
 日本国民は、良き伝統とわれわれの国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する」

 自民改憲草案は「主権在民」をいちおう謳(うた)いながら「日本国は…国民統合の象徴である天皇を戴く国家」としている。「戴く」とは『広辞林』によれば「敬い仕える」という意味であり、「天皇が国民に君臨する国家」ということになる。自民改憲草案はそのあとにとってつけたように「国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される」と記しているが主語がない。
「統治する」のは誰で、「統治される」のは誰か。少なくとも「天皇を戴く国家」である以上、天皇が統治されるわけがなく、統治するのが天皇でなければおかしい。そう解釈すると、天皇によって「統治される」のは国民以外に考えられない。それ以外の文理的解釈は憲法学者ではなくても文学者でも不可能だ。
 また「我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し」とあるが、「先の大戦」について触れるのであれば、まず当時の日本がアジアの諸国とその国民に多大な犠牲を強い、また日本国民を軍国主義思想に染め上げて貴い命を「天皇の名の下に」奪ってきた権力についての深い反省がまず述べられるべきだろう。それに、敗戦による「荒廃や幾多の大災害を乗り越えて」日本を「国際社会において重要な地位」に復活させたのは、ひとえにわが国民の努力のたまものであり、国家が主要な役割を果たしたわけではない。
 もちろん戦後の政府による経済政策や外交政策を全否定するわけではないが、それらの政策を成功に導いたのはわが国民の努力と英知のたまものであって、それなくして今日の日本はありえなかった。たとえば「絶対にうまいコメは作れない」とされてきた北海道で新潟産「コシヒカリ」や秋田産「あきたこまち」より高値で取引されるほどの銘柄米「ゆめピリカ」を作り出したのは、ほかならない北海道の米研究者と稲作農家の必死の努力のたまものである。
 日本人は遺伝子組み換え技術による食品(たとえば大豆など)を科学的根拠もなく拒否するきらいもあるが、コメに限らずタネなし果実(スイカやブドウなど)は事実上遺伝子組み換えの技術によって品種改良を行ってきた結果である。ただフラスコの中で遺伝子操作をするか、いろいろな品種の植物を自然環境の中で掛け合わせて遺伝子組み換えをするかの違いだけだ。私自身は遺伝子組み換えの大豆に対しても全く抵抗がない。
 いま京大・山中伸也教授が創り出したips細胞の研究が世界中で医療革命を起こすと期待されているが、これはフラスコの中で行われた遺伝子操作による。遺伝子組み換えによる大豆に拒否感を持つ人は、フラスコの中でips細胞によって作られた人工臓器の移植に対しても拒否するのだろうか。
 また東工大・大隅良典栄誉教授が発見した「オートファジー」という、細胞が不要なたんぱく質などを分解する仕組みが、将来パーキンソン病などの神経系病気の予防や治療法の開発に結びつくことが期待されているが、これもフラスコの中での遺伝子組み換え技術がなければ実用化に至らないが、遺伝子組み換えの大豆を拒否する人はこの治療も拒否するのだろうか。
 話が横道にそれたので、自民改憲草案批判に話を戻すが、要するに私が言いたいことは、いかなる既存の価値観や先入観にも捕らわれることなく、幼児のように白紙の状態から様々な問題に疑問を持ち、幼児のような素直さで物事をゼロから考える習慣を、私のブログ読者は身に付けてほしいと願っているだけだ。

 自民改憲草案には「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り」という件(くだり)件(くだり)があるが、そんなことは憲法が国民に要請すべきことではない。
 憲法は権力を縛るものであり、国民(在日外国人も含む。当然在日米軍兵士も対象になる)を縛るのは法律である。そして国民を縛る法律は、基本的に犯罪行為から国民(在日外国人を含む。在日米軍兵士も対象)を守るために国民から選ばれた国会議員たちが作る(立法府である国会の務め)。まして自民草案にあるような「国と郷土を誇りと気概を持って自ら守る」といった道徳的なことは、憲法や法律が国民に要請すべきことではない。愛国心や郷土愛は、私は私なりに持っているつもりだが、その持ち方は人それぞれであって国が関与すべきことではない。一律の愛国心や郷土愛を国民すべてが持つことは、かつて軍部が支配していた時代を想起させるだけだ。もっとも安倍総理は、そういう時代に日本を先祖帰りさせたいのだろうが…。
 さらに自民改憲草案には空恐ろしいことも記載されている。「和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」という個所だ。
「和を尊び」は当り前のように一見見えるが、思想や意見の相違を認めないという意味に拡大解釈されかねない。この文の前に「基本的人権を尊重するとともに」という件があるが、基本的人権とは『広辞林』によれば、「国家権力によって侵すことができない、人間が人間として当然持つべき基本的な権利。生存・身体・言論・信教の自由権、勤労の権利など」である。基本的人権は「尊重されるべきもの」などではなく、国家権力も冒してはならない、人間が人間として当然持っている基本的な権利であり、「家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成」しなければならないとすること自体が、国家権力による基本的人権への重大な侵害である。
 国家のために国民が存在するのではない。国民のために国家が存在する。だから近代民主主義の大原則が「立憲主義」とされてきたのである。現に「国家のために国民が存在する」と考えている政府がある。中国や北朝鮮などの共産主義国だ。日本共産党は、中国や北朝鮮のような国づくりは目指していないが、国民の多くからそのような誤解を受けていることを素直に認め、いまの日本共産党が目指しているようなリベラル政党として党名変更も含めて再スタートすべきだろう。そうでないと野党間の選挙協力もなかなか実を結ばない。横道にそれすぎないため、次に移る。

 自民改憲草案はこうも述べている。「われわれは、自由と規律を重んじ…活力ある経済活動を通じて国を成長させる」と。「自由」と「規律」は基本的に相反する概念である。もちろん「自由」がいかに大切で重要な権利であったとしても、たとえば「人を殺す」自由など民主国家においては認められるわけがない。しかし「規律」(事実上、法律を意味する言葉。地域社会や企業・団体などの組織内規則もあるが、国家権力がくちばしを挟む対象ではない)は、個人に許される最低限の自由を侵害しないことが絶対条件になる。憲法が基本的人権の重要な要素である「思想・信条・宗教・言論」などの自由を保障するのは当然だが、「規律を重んじる」ことを国民に要請するのは事実上、国民の権利の侵害を意味しかねない。
 前文の最後の一文も問題だ。
「日本国民は、良き伝統とわれわれの国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する」
 冗談もいい加減にしろ、と言いたくなる。
 私たち現存する日本国民に課せられた最大の義務は、二度と戦争をしない国づくりを支え、平和な社会を後世に引き継いでいくことだ。そのためには、アメリカのようなエゴ丸出しの国の腰巾着になるのではなく、まず環アジア・太平洋の諸国、体制が異なる中国や北朝鮮とも友好的な関係を築き(もちろんアメリカも排除しない)、現行憲法前文にあるように(私が注釈を加えた内容で転記する)「われらは自国のことのみに専念するのではなく、いずれの国も無視してはならず、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、いずれの国とも対等な関係に立つことを誓う」ことで、環アジア・太平洋の平和と発展に貢献できる日本国の建設を成し遂げることが、現存する日本人の最大の責務でなければならない。憲法が、国民に要請できる最も重要な一点はそれだ。
 
 最後に天皇の地位に就いて簡単に触れておく。現行憲法では皇位の継承についてはまったく触れていない。現天皇が退位の意向を示されたとき、自民党内で憲法改正論が噴出した。が、現行憲法ではまったく触れていない皇位の継承問題を契機に、天皇の退位を認めるためには憲法の改正が必要だ、などというたわごとは、天皇の退位を無理やり改憲の口実にしようという意図が見え見えだった。結局、天皇の退位を改憲のきっかけにすることはいくらなんでも無理ということになり、退位を巡っての改憲論は影をひそめたが、問題は天皇の地位を大きく変えようという意図が自民改憲の目的に含まれている。
 その意図は、前文で「日本国は…天皇を戴く国家」というアナクロニズム丸出しの表現だけでなく、第1章「天皇」に関する条項でもあらわれている。
 現行憲法では「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって」と天皇の地位が定められているが、自民改憲草案の第1章第1条では「天皇は、日本国の元首であり、日本国および日本国民統合の象徴であって」と、かつての天皇制復活を想起させる条文になっている。『広辞林』によれば、元首とは「国家の主権者。国民のかしら。国際法上、外国に対して国を代表する者」という意味だ。
 しらじらしくも自民改憲草案では「天皇は、日本国の元首」と規定しておきながら、天皇の地位を明文化した後に続けて「日本国および日本国民統合の象徴」と、現行憲法での天皇の地位を踏襲している。まったく相反する天皇の位置付けである。論理的整合性をどう説明できるのか。
 それはともかく、皇位の継承についての皇室典範は時代錯誤だと言いたい。「皇位は、皇統に属する男系の男子がこれを継承する」という条文である。
 なぜ男系男子でなければならないのか。私は性別にかかわらず皇位継承権者の第1位は天皇の第1子とすべきだと思う。実際、日本の皇室が必ずしも男系男子によって継承されてきたわけでもないし、イギリスなど諸外国においても性別を問わず第1子に第1位の継承権が与えられているケースの方が多いのではないだろうか。おそらく国民の大多数は私と同じ意見だと思う。

 現行憲法においては日本国の「国旗」と「国歌」についての定めはないが、自民草案では第3条でこう定めようとしている。
「第3条 国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。
2 日本国民は、国旗および国歌を尊重しなければならない」
 この定めは明らかに国民の思想・信条の自由に対する国の規制を意味する。私自身は「日の丸」は世界一美しい旗だと思っているが、「日の丸」を仰いで国への忠誠心を抱くことはない。オリンピックなどで、「日の丸」が中央に高く掲げられると、素直に喜ぶが、それだけのことだ。
 ついでに「君が代」については天皇制を想起させる歌なので、あまり好きではない。もっと行進曲的な感じの国歌に変えた方がいいと思っている。(続く)


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憲法審査会が再開されたが、自民党草案は「改正」か「改悪」か? ③

2016-11-27 11:24:39 | Weblog
 自民改憲草案に対する批判を続ける。今回も9条「改悪」に絞って検証する。正直前回のブログは中途半端な終わり方だった。私のブログは長文なので、しばしば友人たちからクレームを付けられていた。とりわけ9月1日と10日の2回に分けて書いた『アベノミクスはなぜ失敗したのか?』は全文で2万字を超えており、雑誌に掲載すれば20ページを超える長文だった。そのため、友人たちから「疲れる」という指摘をいただき、11月21日に投稿した憲法改正問題の検証記事は6000字を超えた時点でストップした。実はこの原稿はすでに21日前に書き終えており、前回ブログの閲覧者の増減状態を見ながら投稿することにした。そのため、前回ブログを読まれた方はやや消化不良を生じたかもしれない。

 前回のブログで私が検証した事実の一つを想起していただきたい。第2次世界大戦後、国連を中心とした国際平和秩序がそれなりに構築され、第1次世界大戦、第2次世界大戦で列強同士が激しく争った「植民地獲得競争」は、ほぼ完全に終焉した。唯一現代の国際社会で「侵略戦争」を行ったのはフセイン・イラク軍によるクウェート侵攻だけである。この事実を認めない人は、日本の平和についても憲法についても語る資格がない。
 そして「湾岸戦争」の発端となったイラクのクウェート侵攻は世界に激震を生じた。クウェートは国連に提訴し、「国連軍」がまだ創設されていなかったため「多国籍軍」と称する事実上の「安保理によるイラクへの軍事制裁」が発動された。
 第2次世界大戦以降の、国際間の紛争は、アメリカの妄想によるイラク戦争(フセイン・イラクが大量の核兵器・生物化学兵器を隠し持っている、という妄想)と、イスラム過激派が起こした9・11同時多発テロを契機にアフガニスタンを事実上制していたタリバン政権による「国家によるアメリカへの攻撃」と、これまたアメリカが確たる根拠もなくタリバン勢力を攻撃したケースのみである。
 アメリカが世界中で最も信頼している同盟国のイギリスは、アメリカの要請を受けてイラク戦争に参加したが、イラクは核兵器も生物化学兵器も隠し持っていなかったことが戦後明らかにされ、イギリス政府は国民から猛烈な批判を浴び、それ以降イギリスはアメリカにも距離を1歩置くようになった。
 これらのケース以外に国際間の紛争は、戦後一度も生じていない。この重要な事実を事実として認めるか否かが、憲法改正問題についてのスタンスを決定づける。
 しかし、戦後、国際間の紛争は上記したケース以外に生じていないが、同盟国や親密な関係がある国の国内紛争に、アメリカや旧ソ連が傀儡政権を助けるために軍事介入したケースは多々ある。アメリカが他国の内戦に傀儡政権を支援するために軍事介入し、結果的に日本独立のきっかけとなった「朝鮮戦争」やベトナムの国内紛争に軍事介入して世界から非難を浴びた「ベトナム戦争」、ハンガリーの反政府運動やチェコのプラハの春を戦車で押しつぶした旧ソ連は、明らかに内政干渉であり、国連憲章51条が認めた「集団的自衛権」などではまったくありえない。
 そうした観点から考えれば、国連憲章51条が定めた「集団的自衛権」を行使したのは、フセイン・イラク軍に侵攻されて、国連安保理に救済を求めたクウェートだけである。
 国連憲章は、国連加盟国に対し「国際間の紛争の平和的解決」を義務付けており、もし加盟国が他国から侵略を受けた場合は国連安保理があらゆる権能(非軍事的および軍事的)の発動を認めており、他国から侵略された加盟国は国連安保理が紛争を解決するまでの間に限って「個別的又は集団的自衛権」の発動を憲章51条で認めている。
 にもかかわらず、同盟国の傀儡政権を「他国からの攻撃ではなく、国内の反政府勢力からの攻撃」から軍事的に守るために行った行為(国連憲章のいかなる条文も認めていない内政干渉)を正当化するために米・旧ソ連が強引に主張してきたのが「集団的自衛権の行使」という屁理屈にもならない口実による軍事介入だった。そしてアメリカの傀儡政権である日本の自民党を中心とした勢力が、内閣法制局の公式見解として定義したのが「同盟国や親密な関係にある国が攻撃された場合、自国が攻撃されたと見なして同盟国や親密な関係にある国を軍事的に支援する集団的自衛権を、日本も固有の権利として有しているが、憲法の制約上行使できない」というデタラメ解釈をしてきたのである。
 改めて再確認しておくが、戦後「集団的自衛権」を行使したのは、フセイン・イラク軍の侵攻を受けたクウェートだけである。「個別的」(自国の軍事力、日本の場合は自衛隊)であるにせよ、「集団的」(密接な関係にある他国の軍事力、日本の場合は在日米軍)であるにせよ、日本が他国から攻撃された場合にのみ行使できる「自衛のための軍事行動」である。だから国連憲章は、自衛権を発動する条件として「国連安保理が紛争を解決するまでの間」に限っている。

 が、安倍内閣が閣議決定し、衆院・参院で強行採決した安保法制は、単に従来の内閣法制局のデタラメ解釈を変更しただけでなく、日本政府の勝手な判断で密接な関係にある国が攻撃を受けた場合、その国からの要請がなくても軍事行動ができることにした。「戦争法案」と言われる所以はそこにある。安保法制による「武力行使(個別的及び集団的)の新三要件」を明らかにしておこう。
 ①我が国に対する武力攻撃が発生したこと、又は我が国と密接な関係にある国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること。
 ②これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと。
 ③必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと。
 この「武力行使の三要件」について、いざというとき誰が判断するのか。まさか最新鋭の人工知能を擁したロボットではあるまい。ということは、時の内閣と総理大臣が判断することになるのは自明である。たとえば①の前半部分は自明であるとしても後半部分の「我が国の存立が脅かされ…明白な危険があること」に恣意的な判断が入り込む余地がないとは言い切れない。②においても「他に適当な手段がないこと」は誰がどうやって証明するのか。③の実力行使を行う場合も、誰が武力行使の「必要最小限度」の範囲を決めるのか。

 憲法改正の気運が国民の間で定着しだしたことを、これ幸いと安倍総理は自民党の党則を変更してまで総裁任期を3年延長し、自らの手で何が何でも憲法を改正しようとしている。
 確かに現行憲法は現実とそぐわない部分もある。たとえば「主権在民」と言っても、現行憲法自体、帝国議会で成立され、日本が独立を回復したのちも国民の審判を仰いでいない。
 国権と地方自治権の関係も明確ではない。柏崎刈羽原発の再稼働を巡って再稼働に反対の元民進党で無所属の米山隆一氏が新潟知事選で勝利したとき、菅官房長官は「県民の意思は尊重しなければならない」と記者会見で述べた。(もっとも地元の柏崎市長選挙では容認派が勝利し、原発再稼働を巡って県と市でねじれが生じたが)
 一方、沖縄では県知事選、那覇市長選、衆参国政選挙のすべてで普天間基地の辺野古移設反対派が勝利を収めている。なのに、政府はアメリカとの約束のほうが県民の総意より優先すると考えている。
 実は「辺野古移設をためらうな」と主張している読売新聞読者センターの方と議論したことがある。論点は二つに絞られた。
 一つは日本の安全保障の観点である。普天間基地が世界一危険な基地であることについては政府も認めているくらいだから、問題にもならなかった。問題になったのは、果たして辺野古基地は「日本の安全保障のためなのか」それとも「アメリカの東・南シナ海ににらみを利かせ、中国の海洋進出に対する抑止力のためなのか」という点だった。私が論点をそう絞ると読売新聞読者センターの方はしぶしぶ「両方の目的があるんでしょうね」と言った。私が、本土からはるかに離れた沖縄の米軍基地が、なぜ日本の安全保障にとって欠かせないのか、と問い詰めると黙ってしまった。
 もう一つは「総意」を巡っての解釈だった。読売新聞読者センターの方は「沖縄県民のすべてが米軍基地に反対しているわけではない」と主張した。私も沖縄県民のすべてが米軍基地に反対しているわけではないことくらい承知だ。基地で働いている人や、在日米兵を相手に商売している人たちにとっては基地がなくなることは自分たちの生活を直撃する。そういう人たちにとっては基地がなくなることは困るに決まっている。が、今の沖縄では、そういう人たちが声を出せないことも理解できる。政治は、そのために機能しなければならない。
 民主主義という政治のシステムは「多数決原理」という大きな欠陥を抱えているが、一歩後退二歩前進あるいは一歩前進二歩後退を繰り返しながら、2000年以上の歴史を経て人類は蟻の歩みではあっても民主主義の政治システムを少しずつ成熟させてきた。その歩みを一気に後退させようというのが安倍改憲の意味するものだ。自民改憲草案の検証を続ける。

 前回の検証記事でも述べたが9条はその1条だけで憲法の第2章をなしている。その章目次が現行憲法の「戦争の放棄」から「安全保障」に変更されている。「安全保障」のためなら戦争するよ、ということだ。さらに9条は3つに分けられ、「第9条(平和主義)」「第9条の2(国防軍)」「第9条の3(領土等の保全等)」とされた。
 第9条の1項は現行憲法1項をほぼ踏襲しているかに見えるが、微妙に改ざんされている。現行憲法では「(武力行使は)国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とされているのを「(武力行使は)国際紛争を解決する手段としては用いない」と書き変えている。つまり、私の頭の悪さを証明しているのかもしれないが、「国際紛争の解決」以外の目的なら武力行使もいとわないと読める。どういうケースを想定しているのかは、不明だ。
 さらに現行憲法の2項は完全に削除され、「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない」と書き変えられている。自衛権は、すでに明らかにしたように我が国が他国から侵略された場合にのみ行使できる権利であり(国連憲章51条の規定)、自衛権を発動せざるを得ないケースはずばり「国際紛争を解決するため」ではないのか。明らかに自民草案は1項と2項で矛盾をきたしている。それとも私の頭が悪すぎるのか?

 自民草案の「第9条の2(国防軍)」に移る。この条文は、明白にこれまでの自衛隊の矛盾を解決することを目的としている。現行憲法は「戦力の保持」を禁じており、そのため自衛隊は「戦力」ではなく「実力」だという苦しい規定をしてきた。「戦力」ではないのだから、当然自衛隊は「武力行使」ができないことになっている。たとえばPKO(国連平和維持活動)に自衛隊が参加する場合も護身用の軽武器しか持つことが許されなかった。いま問題になっている南スーダンでの「駆けつけ警護」は、現に戦闘状態にある地域の邦人などを助け出すために自衛隊員が駆けつけることを意味しており、軽武器では不可能な任務になる。戦車などの重兵器は想定していないが、護身用ではなく攻撃用の武器が必要になる。国民的議論を経ずして、そこまで現行憲法下で踏み込んでもいいのか。良し悪しはともかく、安保法制を可決したからといって現行憲法の枠組みを閣議決定だけでそんなに簡単に変えてよいものなのか。
 自民草案の9条の2ノ3項で「国防軍の武力行使の範囲」が定められている。
「国防軍は、第1項に規定する任務(我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保すること)を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協力して行われる活動及び公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる」とされている。ここでの問題は「国連安保理の要請」という絶対に外してはならない前提を意図的に無視していることだ。つまり、アメリカの要請にも、時の内閣が「国際社会の平和と安全を確保するため」と解釈すれば、たとえばイラク戦争のようなケースにも「国防軍」が「国際協力」の名のもとに参加できる余地を作ったことである。「戦争法案」の骨子となる条項がここに記載されている。安倍総理がいち早く、この改憲草案を手土産にトランプ次期大統領と面談し、良好な関係を築けた事情がここに隠されている。

 最後に第9条の3(領土等の保全等)を検証する。9条の2に比して極めて単純で明快だ。が、その目的のために安倍総理は領土奪還の戦争を始めるつもりなのか。とりあえず条文を転記する。
「国は主権と独立を守るため、国民と協力して、領土領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない」
 一見、日本の正当な権利の確保を訴えているように思えるが、現に韓国に実効支配されている「竹島」をどうするのか。また旧ソ連に不法占拠され、今もロシアに実効支配され続けている日本固有の領土である「北方四島」問題をどう解決するつもりなのか。
 従来日本は領土問題は平和的に解決することを目指し、水面下も含めて外交ルートや首脳会談を重ねてきた。が、「領土等の保全等」の条項が憲法第2章『安全保障』の中に含まれ、かつ9条の2「国防軍」の規定に続いて規定されていることに、私は大きな危惧を覚えざるを得ない。しかも「国民と協力して」とされていることは先の大戦で一般国民(女性も含めて)も巻き込んだ歴史的事実をほうふつさせるものがある。私の杞憂にすぎなければいいのだが…。

 憲法9条についての自民改憲草案の検証は、とりあえずこれで終える。
 しかし安倍政権による憲法改悪は、9条にとどまらない。現行憲法が世界に優れて理想を高々と掲げているのは9条に象徴される「平和主義」だけではない。「主権在民」「基本的人権の保障」を含む三大原則が踏みにじられようともしている。先に述べたように、「国権」と「地方自治権」の関係など現実社会が生み出している矛盾を現行憲法が抱えていることも事実だ。
 果たして自民改憲草案は、そうした問題にどう対応しようとしているのか。この検証作業は今後も続ける。
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憲法審査会が再開されたが、自民党草案は「改正」か「改悪」か? ②

2016-11-21 01:14:49 | Weblog
 自民党改憲草案検証の続きを書く。すでに衆院・参院で憲法審査の特別委員会がスタートした。民進党も自民党の改憲草案に対する個別的な対案を出すことにしたようだ。現実的に蓮舫・野田執行部が党内をまとめきれるかどうか疑問は残るが、いちおう党として自公に対決する姿勢を固めたようだ。前回のブログで現行憲法9条は記載したので、まず自民党改憲草案の9条を記載する。

第9条(平和主義)
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。
2 前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。
第9条の2(国防軍)
1 わが国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮者とする国防軍を保持する。
2 国防軍は、前項の規定による任務を遂行する際は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。
3 国防軍は、第1項に規定する任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協力して行われる活動及び公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。
4 前2項に定めるもののほか、国防軍の組織、統制および機密の保持に関する事項は、法律で定める。
5 国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪または国防軍の機密に関する罪を犯した場合の裁判を行うため、法律の定めるところにより、国防軍に審判所を置く。この場合においては、被告人が裁判所へ上訴する権利は、保障されなければならない。
第9条の3(領土等の保全等)
国は主権と独立を守るため、国民と協力して、領土領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない。

 まず多くの国民が抱くであろう印象は、自民党改憲草案は現行憲法に比してえらく細かくしたな、ではないだろうか。最大限、善意に解釈して「解釈改憲」の余地を極力排するためと受け取れないこともないが、本音は「国防軍」なる軍隊が武力行使をできるケースを細かく定めることによって、現行憲法の「解釈変更によって自衛隊が行使可能にした武力行為の範囲(限界)」をさらに拡大することに、安倍自民党の改憲目的があると考えるのが文理的解釈だろう。
 そのことはおいおい検証していくが、その前提として読者の方たちにご理解していただいておきたいことがある。
 現行日本国憲法9条は、『前文』『第1章(天皇)1~8条』に次ぐ『第2章』に記載されている。そして第2章は9条の一カ条のみである。自民の改憲草案も第2章は9条の一カ条のみだ。つまり日本国憲法の三大原則の一つとされている「平和主義」に関する記載は、前文と第2章9条のみである。そのことを前提に自民党改憲草案を読む必要がある。
 まず現行憲法との大きな違いは第2章のタイトルに反映されている。
 現行憲法第2章のタイトルは『戦争の放棄』である。
 一方自民党改憲草案の第2章タイトルは『安全保障』と改ざんされている。
 つまり、安全保障のためなら、戦争してもいいよ、というわけだ。そして戦争するためには、単なる「実力」にすぎない自衛隊を『国防軍』なる「戦力」に改組しようというのが自民草案の最大の目的である。もちろん『国防軍』は専守防衛のための「実力」ではなく、「安全保障」を口実にした攻撃可能な「戦力」に変えることを意味する。
 私は現行憲法の一部が今日では非現実的であることは、認める。この連載ブログの①でも明らかにしたが、現行憲法は日本が主権国家ではない占領下で、かつ国民の審判を仰がずに国会での審議だけで制定されたものであり、現行憲法の3大原則のひとつである「国民主権」が無視された憲法の制定だったことは否定できない。
 そういう意味では日本という国の在りようを、国民自らが選択できる憲法に改正することは大切なことだと思っている。
 とりわけマッカーサーが、巨大国家アメリカを相手に国民が全滅してでも対米戦争を続けようとした日本の軍部と、その軍部の言いなりになっていたメディア、さらにメディアの報道を信じて現在のIS(「イスラム国」)のような精神状態にあった日本人と日本を、二度と戦争が出来ないようにしようとした占領政策は、やむを得ない選択だったかもしれない。実際、日本が降伏した直後に厚木飛行場に降り立ったマッカーサーが発した第一声は「日本人は12歳の子供と同じだ」だった。
 そんな、かつての日本に戻ることは、たとえ安倍総理が望んでも絶対に不可能だ。では、なぜ安倍総理は改憲に自らの政治生命を賭すのか?
 実は、今世紀に入って以降、日本人の憲法観は少しずつ変化しつつあった。護憲勢力の中心だった社会党が分裂して、かなりの旧社会党議員が保守勢力の一翼として誕生した旧民主党に呑み込まれ、護憲派のよりどころがなくなったことも原因して、現実社会に合うよう憲法を改正することによって、これ以上の解釈改憲ができないよう権力に縛りをかけた方が現実的だ、と考える人たちが増えだしたのである。そうした国民の意識の変化を見て自民党が改憲のチャンスが到来したと考えたのは、ある意味当然だった。
 実際、1955年に自由党と日本民主党が合併して(保守合同)自民党(正式名:自由民主党)が誕生して以来、憲法改正は党是になっていた。が、憲法改正には国民の反発が強く、改憲の党是は事実上棚上げ状態が続いていた。が、国民の意識が少しずつ変化してきたのをチャンスととらえた自民党の強硬派が作ったのが自民の改憲草案である(公表は2012年4月)。
 が、国民の意識は各メディアの世論調査によれば、かなりぶれだしている。憲法論議そのものには「賛成」派が過半数を超える一方、9条の変更には「反対」派が60%近くを占めている。とりわけ安倍政権下での改憲には多くの国民が疑念を抱いており、右寄りのメディアであるフジテレビと産経新聞の共同世論調査でも「安倍政権下での改憲」には55%が反対している。大多数の憲法学者が「違憲」と判断している安保法制を強行成立させた、安倍政権による憲法改正に対する危惧が国民の間で根強いことを意味している。

 では自民改憲草案の具体的検証に移る。今回は9条に絞る。すでに9条だけで成り立っている憲法第2章のタイトル(見出し)が現行憲法の『戦争放棄』から『安全保障』に改ざんされていることは書いた。
 次に大きな特徴は現行憲法9条の第2項をすべて削除し、書き換えたことだ。改めて現行憲法9条第2項を記しておく。
「前項の目的(国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する)を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」
 この規定を削除して自民草案は「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない」とした。この連載ブログの1回目(10月31日投稿)で明らかにしたが、当時の吉田茂首相は共産党・野坂参三議員の「戦争一般放棄とすべきではなく、防衛戦争は認めるべきだ」との質問(要旨)に対して「国家正当防衛権による戦争は正当なりとせられるようであるが、私はかくのごときことを認めることは有害であろうと思うのであります。近年の戦争は多くは国家防衛権の名において行われたることは顕著な事実であります」と答弁している。
 この吉田答弁は、連合国(事実上アメリカ)の占領下において日本の安全保障義務を当時はアメリカが負っており、日本としては経済再建を最優先すべきだという吉田首相の基本的考えに基づいており、吉田首相自身は「日本丸裸」主義者ではなかった。実際、吉田氏は総理引退後に書いた自叙伝『大磯随想・世界と日本』で「日本が経済力においても技術力においても世界の一流国と伍していけるようになったこんにち、日本の安全保障をいつまでも他国に頼ったままでいいのか」と記している。

 ちょっと話が横道にそれるようだが、しばしば主要な駅頭で「憲法9条が日本の平和をまもってきた」と主張する護憲団体がある。本当にそうか。もし彼らが言うように「憲法9条が日本の平和を守れるなら、日本の法律が犯罪を防いだか?」と問いたい。それが事実なら、日本に警察は要らないことになる。
 が、「アメリカの核の傘が日本の平和を守ってきた」「日米安保条約が日本の平和を守ってきた」「在日米軍が日本の平和を守ってきた」といった類の「神話」にも私は与さない。
 戦後、日本が平和だった本当の理由はこうだ。
 第2次大戦後、世界で侵略戦争は1回しかなかった。湾岸戦争の発端になったフセイン・イラク軍によるクウェート侵攻だ。イラク側にもそれなりの「正当な理由」があったのだが、そのことについては触れない。横道にそれすぎるからだ。
 第2次大戦後、国連が発足して今や世界の大半の国が国連に加盟している。国連の憲法とでもいうべき国連憲章は、国際間の紛争について、加盟国すべてに武力での解決を禁じている。もし侵略戦争を始める国があったら国連安保理が侵略を阻止するあらゆる権能を有しており、また侵略を受けた国は安保理が紛争を解決するまでの間、「個別的又は集団的自衛の権利」を行使することを認めている。
 第1次および第2次世界大戦の結果として国連が発足し、国際間の紛争もフセイン・イラク軍のクウェート侵攻以外、皆無になった。つまり、植民地主義はもはや過去のものとなった。日本が戦後平和でいられたのは、国際社会の劇的変化による。
 おそらく、日本が自衛隊を解散して、米軍基地をすべて撤廃しても、日本を攻撃する国は皆無であろう。ただし、尖閣諸島は中国に実効支配される可能性はある。
 北方領土問題にしても、私たち日本人にとっては旧ソ連軍による不法占領だが、では日本の「同盟国」であるはずのアメリカがロシアに対し「北方四島は日本固有の領土であり、日本に返すべきだ」と、一度でも言ってくれたことがあるか。安倍政権が安保法制を成立させたことに対してオバマ大統領が「尖閣諸島は日米安保条約5条の範疇だ」とリップ・サービスしてくれたが、公式文書になっていない一大統領のリップ・サービスなど、もうすでに反故になっていることを私たち日本人は肝に銘じておくべきだ。現に次期大統領のトランプ氏は選挙中の公約を次々に反故にしている。
 
 しかし旧ソ連の崩壊による冷戦時代の終結は国際社会に、国連憲章が想定していなかった新しいリスクを生むことになる。民族紛争と、宗教対立が原因のテロ行為の活発化である。
 冷戦時代には旧ソ連の支配下で共産党一党独裁体制により民族対立が抑えられてきた東欧諸国で、民主化に伴う民族紛争が一気に火を噴いた。チェコスロバキアはチェコとスロバキアに分裂し、ユーゴスラビアに至ってはスロベニア、マケドニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、コソボの6国に分裂した。チェコスロバキアの場合は平和的に分裂したが、ユーゴスラビアの場合は血で血を洗う争いによって分裂した。一方、ドイツのように西と東が平和的に民族統一を成し遂げたケースもある。現在でもウクライナで民族紛争が勃発し、ロシア系民族が多数を占めていたクリミア自治共和国が国民投票でいったん分離独立したのち、ロシアに編入した。東部2州でもロシア系民族がウクライナからの分離独立を目指して政府軍との間で戦争状態が続いている。
 さらに、これは冷戦終結とは直接の関係はないと思われるがイスラム過激派がテロ集団と化し、パキスタンのイスラム過激派タリバンが米貿易センタービル2棟にジェット機2機で自爆体当たりテロを行った。またアメリカが勝手に行ったイラク戦争でフセインは殺害したものの、結果的に無政府状態になったイラクでアルカイダ系のスンニ派過激主義者集団が勢力を拡大し、さらにシリア内戦に介入してISと改称しイスラム国樹立を宣言、シーア派市民を狙った無差別テロを繰り返している。
 こうした冷戦後の国際紛争に日本が巻き込まれる可能性があるか、と考えれば、仮に日本が非武装状態になっても戦争に巻き込まれる可能性は天文学的確率であろう。安倍政権ががなり立てている「日本を取り巻く安全保障状況が劇的に変化した」などというたわごとは、それこそ「為にする口実」でしかない。
 が、残念ながら国際社会環境が第2次世界大戦後、劇的に変化したといっても自国の軍事力が最大の外交手段であるという状況には変化がない。事実上、核兵器の使用など不可能ということは世界の常識であるにもかかわらず、米ロ中は核の力に頼った覇権主義を捨てようとしないし、アメリカから「悪の枢軸」「テロ国家」と名指して非難された北朝鮮が挑発に乗ったふりをして使えもしない核に国の総力を挙げているのも、そうした事情による。(続く)
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緊急提言:米大統領選の大番狂わせはなぜ生じたのか?--メディアが理解していないアメリカの選挙事情

2016-11-13 12:19:21 | Weblog
 11月9日に投稿したブログ『電通がなぜ?……「超一流企業」がブラック化した理由』の訪問者・閲覧者が毎日増え続けている状況だが、どうしても緊急に投稿しなければならない事情が生じた。米大統領選の結果を巡って世界中に大混乱が生じているからだ。

 米大統領選で、なぜ大番狂わせが生じたのか。
 残念ながら日本のメディアも政治・外交評論家もまったく分かっていない。12日の『NHKスペシャル』では「隠れトランプ」の存在をつかめなかったと分析し、13日のTBS『サンデー』は放送時間を大幅に延長して「ポピュリズムの浸透」と総括した。見当はずれもいいところ、と言いたい。
 トランプ氏の選挙戦術は、確かにメディアや既存の政治家の意表をつくものだった。「きわめて巧みだった」と言えなくもない。ことさらに挑発的言動を繰り返し(メディアは「暴言王」と評したが)、既存の権威に立ち向かった。最初は「何をバカバカしいことを言っているのだ」と米国民の多くもそう受け取っていたはずだ。が、「ウソも100回つけば信じて貰える」という格言もある。繰り返し繰り返しトランプ氏の挑発的言動(ネガティブ・キャンペーン)を耳にした米国民の中に、「本当にそうかもしれない」という思いが生じ始めたのが、雪崩現象的なトランプ勝利の要因の一つであろう。

 が、決定的な要因は、これだ。
 問題はアメリカの選挙制度にある。アメリカは大半の州で選挙人(民主党または共和党の大統領候補に票を投じる権利を持つ人)の総取り制である。たとえば「この州を制する候補が大統領になる」という神話が定着しているほどの激戦区・オハイオ州の選挙人は18人。全米の選挙人総数は538人で、過半数は270人。オハイオ州の選挙人は勝利に必要な270人のわずか6.6%にすぎない。なのに、なぜオハイオ州がそれほど重要な地位を占めているのか。そのことを理解しているジャーナリストや政治・外交評論家は一人もいない。
 おっと、私だけは理解しているが…。
 実はオハイオ州は地政学的にきわめて重要な地位を占めている。アメリカ本土だけでも東海岸と西海岸では3時間の時差があり、オハイオ州は東海岸と1時間の時差がある。アメリカでも大半の州はそれぞれの州の標準時で午前8時から投票が行われるが、なかには午前0時から投票が行われる州もある。
 一般的に民主党は東海岸に面した州と西海岸に面した州に強く、共和党はその中間に位置している州に強いとされてきた。日本のように時差がなく、全国一斉に同時刻の投開票が行われる国と違って、アメリカは標準時の差により東海岸から順次投開票が行われる。
 日本の選挙もそうだが、メディアは投票を済ませた人から「だれに投票したか」を聞く。いわゆる「出口調査」である。そのため日本ではメディアが『選挙特番』では午後8時の開票開始時点で、バタバタと「当確者」を発表する。もちろん開票率ゼロなのにだ。それはアメリカでも同様で、東海岸に面した州の開票結果を開票率ゼロの時点で各メディアは発表する。その報道が有権者の投票行動に大きな影響を与えるのが、実は民主党支持層と共和党支持層が拮抗しているオハイオ州なのである。つまりアナウンス効果が最初に大きく発揮される州なのである。そしてオハイオ州の開票報道が次々に他の州の有権者の投票行動に反映していく。「オハイオ州を制したものが大統領になる」という神話はこうして定着するようになったのである。そのオハイオ州をトランプ氏が制した。流れが一気に加速したのはそのためだ。
 実際、全米の有権者の投票総数はヒラリー氏のほうがトランプ氏より上回っていたが、選挙人総取り制(「ドント方式」という)によってトランプ氏が獲得した選挙人のほうがヒラリー氏を上回ったため、トランプ氏が次期大統領になれたというわけだ。

 トランプ氏は周知のように政治経験がまったくない。彼はなぜ共和党から出馬しようとしたのか。はっきり言えば民主党から出馬しても、知名度や政治経験豊富なヒラリー氏に勝ち目がないからにすぎなかった。実際、彼の党員歴を見ればそのことが分かる。
① 1989~1999 共和党
② 1999~2001 アメリカ合衆国改革党
③ 2001~2009 民主党
④ 2009~2011 共和党
⑤ 短期間だが、どの政党にも所属していない。おそらく、この時期大統領候補に名乗りを上げるにはどの党を選ぶべきかを考えていたと思われる。
⑥ 2012~現在 共和党
 そうした経歴から、トランプ氏はどういう選挙戦術をとれば共和党の大統領候補になれ、共和党の大統領候補になった場合、どういう選挙戦術をとればヒラリー氏に勝てるかを必死に考えたと思う。
 その結果、彼が考え出したのが、民主党の選挙基盤を根こそぎ自分の味方にすることだった。そこにビジネスマンとして大成功を収めた経験が生かされたのだろう。
 日本ではビジネス社会でも競争相手に対するネガティブ・キャンペーンはかえって消費者に不愉快な思いをさせるケースが多く、ネガティブ・キャンペーンはほとんど行われない。私が知っている限り日産が新型サニーを売り出した時、トヨタのカローラを念頭に置いて(つまり名指しはせず)「隣の車が小さく見えます」というネガティブ・キャンペーンを行ったのが唯一のケースではなかったかと思う。
 が、アメリカではビジネス社会でのネガティブ・キャンペーンの張り合いは日常茶飯事であり、トランプ氏もその手法でビジネスを成功させてきたのではないか。
 が、選挙人獲得競争で、トランプ氏は多分自分でも予想していなかったほどの地滑り的勝利を収めてしまった。だが、ビジネス社会と違って大統領選挙におけるネガティブ・キャンペーンは有権者に対する公約でもある。大統領になった途端、トランプ氏は「君子、豹変す」でネガティブ・キャンペーンの公約を次々に修正し始めた。
 トランプ氏が大統領になった途端全米の大都市で「反トランプ」デモが爆発的に生じたからではない。もともとトランプ氏のネガティブ・キャンペーンは単なるビジネス的手法にすぎなかったが、国民に対する約束であることに、トランプ氏がようやく気が付いたためだ。
 そうなると、トランプ氏は、国民とくにトランプ氏の選挙人に票を投じた有権者に対する裏切り行為を行ったことになる。既に民主党の大きな選挙基盤であり、選挙人もアメリカ最大の55人を擁するカリフォルニア州では、アメリカ合衆国からの離脱運動が始まっており、ネットで「ドナルド・トランプ」を検索すると早くも「暗殺」という項目が出ているほどだ。
 言っておくが、もしトランプ氏を暗殺するとしたら、それはヒラリー氏の支持者ではなく、トランプ氏を支持した有権者だ。
 
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電通がなぜ?……「超一流企業」がブラック化した理由

2016-11-09 08:17:38 | Weblog
 自民党改憲草案の検証(続編)は次回に延ばす。今回は日本最大の広告代理店で、文系大学生の就職希望先でもトップクラスを誇ってきた電通が、実は「ブラック企業」だったことが明らかになり、メディアも大々的に報じているので、その背景を検証することにした。なおこのブログ記事は、かつて労働組合で活動されていたI氏からアドバイスを受けたことを明らかにしておく。

 11月2日のNHK『クローズアップ現代+』を見た。「隠れブラック企業の実
態に迫る」というタイトルだったが、残念ながら「隠れブラック企業」の経営者の責任を問おうとする内容ではなかった。現場責任者が成績を上げるために残業記録を改ざんし、実際の勤務時間を法定内に抑えるよう従業員に強制していたという内容に終始していた。そうした現場の勤務実態を知らなかったとしたら、そもそも経営者としての資格がないという視点が番組にはなかった。
そもそも時間外勤務(サービス残業を含む)が常態化した時期は二段階に分けられる。
 最初は日本が高度経済成長を続けていた時代、自動車産業や電機産業は工場の24時間フル稼働を行っていた。が、正規社員が24時間フル勤務するようなことはありえなかった。正規社員はシフト制で、過重労働にならないように会社も配慮していた。当時のタイムカードは絶対であり、会社もごまかすような事は出来なかった。にもかかわらず24時間フル稼働が可能になったのはおもに農村からの出稼ぎ労働者(季節労働者)の存在があったからだ。
 が、当時は大家族制が一般で、家長は出稼ぎで稼いだ金を農村地帯に住む家族に仕送りして一家の生活を支えてきた。
 が、1960~70年代にかけて家族形態が大きく変貌する。日本だけでなく先進国はすべて核家族化への道を歩みだした。さらに日本では(他の先進国の実態は知らないので)若者たちの高学歴化が急速に進みだした。男性だけでなく、女性の高学歴化も急速に進んだ。
 その理由は簡単だ。核家族化によって自分たちの子供の世話を、大家族時代と違って父母(子供たちにとっては祖父母)に委ねることが出来なくなったからだ。私は1940年の生まれ(昭和15年)だが、結婚と同時に実家から離れて自分の家庭をつくった。
 すでに女性の高学歴化は始まっていたのだが、私が結婚した時代はまだ「女性は結婚すれば専業主婦になる」という社会的慣習が続いていて、妻は仕事をやめて専業主婦になった。当時は高度経済成長時代でもあり、亭主の稼ぎで十分家庭生活を維持できる状況でもあった。
 が、核家族化とともに個々人の生活スタイルも大きく変貌し始めた。高学歴の女性は子育てが終わると、自分の生きがいとして自分の能力が発揮できる仕事や趣味をやりたいと考えるようになった。
 また社会も大きく変化するようになった。そのころすでに少子化が始まっており、「寿退社」は会社にとっても有能な女性社員を失うことになることに気付き始めたのだ。こうして女性の出産・子育て後の社会復帰が緊急の課題となった。が、女性も社会復帰はしたいけれど、子育ても放棄できない。保育園に対する母親のニーズが急速に高まったのはそのせいだ。
 私の妻は二人の子供を、何の疑問も持たずに幼稚園に入園させた。私も妻に仕事をさせようなどと考えたことがなかったから、妻が選んだ幼稚園に子供を通わせることにした。が、子供たちが小学生に入るころになると、妻は自分の生きがいを家庭外に求めるようになった。仕事もそうだったし、ママ友たちとの交流からテニスや華道、お茶、はてはダンスまで趣味の範囲を広げていった。その時代は、まだ結婚した女性にとって仕事の場はスーパーのレジ係くらいしかなかったためでもある。
 そういう時代は終わった。企業が本気で能力のある女性を結婚・出産後も重要な仕事に復帰してもらいたいと考えるようになったからだ。
 そうなった理由はいくつか考えられるが、はっきり言ってIT技術は男性より女性のほうが適している。医者でも、外科手術や歯科医などは手先が器用な女性の方が有利ではないかと思う。だいいち、外科医や歯科医に頭の良さはあまり関係ない。実際山中伸也教授(京大)が手先が器用で目指していた外科医になっていたら、ips細胞は世に出なかった。福島大学附属病院での腹腔鏡手術も、病院側が手先の器用さではなく頭の良し悪しで担当医を選び、難しい手術を任せていたから悲劇が続出した。
 ただ、これは日本の教育制度のためかは分からないが、物事を論理的に考える思考力は、まだ男性に及ばないような気がする。ただこれは一般論であって、男性顔負けの思考力を持つ女性も少なくない。だから、男性か女性かの差より、やはり日本の教育制度がもたらした結果ではないかという気がする。
 いずれにせよ、有能な女性の社会進出によって、大卒という学歴だけはあるものの、企業が求める能力を有していない男性の働き口が極めて狭くなっていることは紛れもない事実である。
 かつて日本の高度経済成長を支えた中卒男性は「金の卵」と言われ、部品メーカーなどの中小零細企業から引っ張りだこだった。彼らは、いわば徒弟制度のもとで日本の工業力を支える部品加工の技能を磨いていった。「下町のロケット」で有名になった東大阪の工場や、東京では蒲田に集積していた部品メーカーなどが、世界に冠たる部品加工の技能者を輩出してきた。
 が、そうした技能の継承者が日本でどんどん少なくなっている。大卒の高学歴者が、そういう3K(きつい・汚い・危険)の仕事を拒否するようになったからだ。大学もまた教育をビジネスと考えているから、大学生としての能力がなくても、高卒者もどんどん受け入れてしまう。だいたい能力=暗記力と考えているから、論理的思考力に欠けている学生でも一流大学に入学できてしまう。一方大卒者は能力がないにもかかわらず、学卒者としてのプライドだけは一人前に持っている。そういう大卒者がたどる道はブラック企業で、中卒者でも十分勤まるような仕事にしかありつけないことになる。

 原点に戻って、なぜブラック企業がなくならないのか、論理的に考えてみよう。
① 核家族時代を迎えて若い人たちの仕事に対する価値観や生活スタイルが大きく変化したこと。
② そうした若い人たちの生活スタイルに、飲食店やコンビニが過剰に対応したこと。たとえば日本でコンビニの第一歩を踏み出したのは、いまでも最大手の「セブン・イレブン」だが、当初の営業時間は午前7時から午後11時までだった。セブン・イレブンに続いてファミリーマートやローソンなどがコンビニ業界に進出し、営業時間の長時間競争を始めた。さらにコンビニに若い買い物客を奪われた大手スーパーが営業時間の長時間化を始めた。たとえばスーパー最大手のイオンは午前7時から午後11時までを基本的な営業時間にしている。
③ スーパーにしてもコンビニにしても同業他社との競争が激しく、薄利多売の競争に走らざるを得ない。一方営業時間を延長して同業他社との競争に勝たなければならない。飲食店も同様なジレンマを抱えている。そのため、営業時間を延長しても、正規社員を増やせない。パートで正規社員の過重労働を補うにも限界がある。労基法の縛りがあるから、正規社員の勤務時間を改ざんして、事実上のサービス残業を強要することになる。

 飲食業やコンビニなど小売店のブラック企業化はかなり前から知られていたが、日本を代表する広告代理店の電通がブラック企業になっていたことは、私も事件が起きるまではまったく知らなかった。メディアの報道によると、最近のクライアント(広告主)が紙媒体(新聞・雑誌など)広告→テレビCM→ネット広告に急速に方向転換しており、中高年社員はそうした時代の流れに対応できないため、ネット世代の若手社員にシワ寄せが集中したようだ。
 こうした悲劇は欧米ではまず生じない。宗教観による違いだと思うが、雇用形態が日本のような終身雇用・年功序列ではなく(この伝統的な日本型雇用形態もバブル崩壊以降、大きく崩れつつあるが)、同一労働・同一賃金の雇用形態が根付いているからだ。だからネット世代と同じレベルの仕事が出来なければ、さっさと首にできる。そして首にした中高年社員の代わりにネット世代の若手社員を増やす。だからネット世代の若手社員に過重労働のシワ寄せが生じることもない。
 ごく最近アメリカのITベンチャー企業の社長が社員の最低賃金を700万円に引き上げると発表し、日本でも大きな話題になった。その会社の社長はすでに全米で有数の富裕層になっており、これ以上自分の資産を増やしても使い道がないということで、会社の利益を社員に還元することにしたようだが、社長の兄の大株主が株主の権利を侵害したとして訴訟を起こした。社長の考えも大株主の兄の考えも、やはりキリスト教的宗教観に根差している。もちろん社長が社員の最低賃金を700万円に引き上げたからと言って、社員の長期雇用を保障したわけではない。役に立たなくなったら辞めてもらうというのが欧米の雇用制度の前提だからだ。

 もう一つ日本でブラック企業が急速に増えだしたのは労働組合がそうした時代の変化に対応できなかったことにも要因があるようだ。
 いまから60年前の1955年当時の労組の組織率は35%だった。それ以降組織率は徐々に低下していったが、82年までの27年間はかろうじて30%台を維持していたようだ。そのころから日本はバブル景気に突入し、不動産をはじめゴルフ会員権、美術品、高級ブランド商品などの資産インフレが始まった。その結果、一部の富裕層の総資産が急増し、彼らの税負担を軽減するため竹下内閣が3%消費税の導入を行った(89年4月)。
 消費税の導入は大多数の中間所得層(当時は国民の大多数が自分は中流階級に属すると考えていた)の懐を直撃する。所得格差が一気に広がりだした。この時代に労働組合は本来の社会性(低所得層の生活向上を目的とする活動)を次第に失って行く。こうした労組の変質が組合員だけでなく非組合員の失望を生み、組織率低下に歯止めが効かなくなったようだ。
 一方、政府は加熱しすぎたバブル景気を冷やすための政策に転じた。しかも軟着陸ではなく、強制着陸を図ったのだ。具体的には90年3月に大蔵省(当時)が金融機関に対して「総量規制」(不動産関連への融資を抑制)の行政指導を行った。日銀も呼応して急激な金融引き締めに転じた。こうして日本経済は不況への道を転がり出す。「失われた20年」の始まりである(その間一時的なITバブルでやや景気が持ち直した時期もあったが、リーマンショックで再び不景気に戻り、さらにアベノミクスの失敗で、いまや「失われた30年」に向かって日本経済はまっしぐらだ)。

 安倍総理はいま「働き方改革」の柱として「同一労働・同一賃金」の雇用形態導入を打ち出している。そもそもは2014年5月に年収1000万円以上の社員に適用する賃金制度として総理が導入した「成果主義賃金制度」が原型である。このとき私は同一労働・同一賃金制の導入を前提にしないと空理空論に終わるという趣旨のブログを3回にわたって投稿した。私のブログは自民党議員の大半が読んでいるようで、安倍内閣はかなり私の主張を政策に取り入れている。が、自分にとって都合のいい部分だけを取り入れており、そんなご都合主義的なやり方で日本経済の立て直しができるわけがない。
 安倍総理が「働き方改革」の一環として導入を目指している同一労働・同一賃金は、案の定経団連から猛反発を食った。「日本の賃金体系に合わない」というのが経団連の主張だ。日本型雇用形態として定着していた「終身雇用・年功序列」は事実上崩壊しつつあるが、大企業や官公庁は正規社員や公務員の首を簡単には切れない。電通の悲劇も根本的な原因はその点にある。

 かつて大家族制のもとで高度経済成長を続けてきた日本では、現役の正規社員が高齢者の生活を支えてきた。が、大家族制が崩壊し、女性の高学歴化が進み、女性の社会進出も進み(男女雇用均等法が女性の社会進出を支えた側面もある)、核家族化時代に入って若い人たちの生きる目的や価値観も大きく変化する中で、さらに医療技術が急速に進んだ結果、少子高齢化社会という負のレガシーが日本に大きくのしかかってきた。
 私は1940年の生まれで、私の世代までは社会保障制度も崩壊しないだろうが、今の現役世代が高齢者になったときには間違いなく彼らの生活を支える社会保障制度は崩壊しているだろう。誰の目にもそうした時代の到来が見えるようになるまで、目を瞑ってきた政治の怠慢と言わざるを得ない。
 問題は、経団連が反対している同一労働・同一賃金制度の導入に、連合が無関心を装っていることだ。連合は建前として正規労働者と非正規労働者の賃金格差をなくせと主張しているが、連合の主張は非正規社員の賃金を上げろとしか言わない。企業が社員に支払える給与の総額(パイ)が増えない限り、非正規社員の賃金を増やせば、正規社員の賃金を引き下げざるを得ない。が、連合は正規社員の労働組合であり、正規社員の賃金を下げてまで非正規社員の賃金を上げろ、とは口が裂けても言えない。
 日本はこれからどういう道を選択すべきかが、いま問われている。
 自公政権の対抗軸であるべき民進党も、この問題に正面から向き合おうとしていない。連合が支持母体だからだろうか?
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