小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

狂い出したNHKにつける薬はないのか?

2018-01-15 03:00:05 | Weblog
 公共放送としてのNHKの放送姿勢が問われている。NHKスペシャルもクローズアップ現代も、政治問題から逃げ回っているのだ。NHKが大スポンサーである相撲協会の不祥事も、NHKだからこそ膿を出し切る努力をすべきなのに、それからも逃げ回っている。14日のサンデースポーツでは春日野親方が解説を担当したが、その冒頭で親方が多少謝罪めいたことを述べたが、それで禊が済んだと思っているのか。いや、NHKとしては、それで幕引きをしたいのだろう。
 日曜討論について書く。6日には各政党党首の個別インタビュー番組を放送した。問題は日本共産党の志位委員長へのインタビューだ。日本共産党は日ごろから中国共産党や北朝鮮の独裁体制を批判し、日本共産党は独裁政治は行わないと主張している。が、それが嘘っぱちであることが、明らかになった。
 先の総選挙で日本共産党は大敗した。当然、志位執行部は責任をとって総辞職して新体制を構築すべきだったが、志位執行部の支配体制は盤石である。党内で執行部の責任を問う議論も生じていないらしい。ということは日本共産党には党内民主主義がゼロの組織だということがはっきりした。日頃、日本共産党の主張には共鳴できる点も少なからずあっただけに、党内民主主義がまったく機能していない実態に、私は愕然とした。日曜討論の司会者は、日本共産党のそうした独善的姿勢をまず問うべきだった。政策論はそのあとの話である。
 私はNHKのふれあいセンターの責任者(スーパーバイザー)に「NHKは何を考えているのか」と猛烈に抗議した。責任者は恐縮して、担当者に必ず伝えると約束した。
 昨14日の日曜討論では南北会談の「成果」についておもに専門家や学者に意見を聞く討論番組を放送した。それはそれで構わないが、慰安婦問題に関する日韓合意を巡って日韓関係がぎくしゃくしている中で、あえてその問題を避けて南北会談の「成果」を、各政党の開港関係責任者に議論させるのではなく、外野席の学者たちに無責任な議論をさせたのはなぜか。
 それでも、南北会談によって朝鮮半島の緊張が多少緩和する兆しが見えたようだが(現に米トランプ大統領は、「アメリカとともに北朝鮮に対する圧力と制裁を強化する」としてきた安倍総理をつんぼ桟敷において、「金正恩委員長と良好な関係を築きたい」と述べている)、南北会談の「成功」によって日本の安全保障環境にどのような変化が生じたのかという、私たち日本国民の最大関心事に、日曜討論の司会者は全く触れなかった。私は当然NHKのふれあいセンターの責任者に猛烈に抗議して、この最重要な問題を避けてなぜ今南北会談をテーマにしたのかと厳しく追及した。責任者は「申し訳ありませんでした」と謝罪して再び「担当者には必ず伝えます」といったが、NHKの体質が変わらない限りこうした放送姿勢は変わらないだろう。
 安倍総理は第2次政権の誕生以来、一貫して「日本と取り巻く安全保障環境は厳しい状況にある」として日米同盟の深化の必要性を強調し、内閣法制局による国連憲章51条のでたらめ解釈すらひっくり返し、「交戦権」を否認した憲法9条2項も無視した集団的自衛権行使容認の安保法制を強行採決した。
 そのうえ北朝鮮がアメリカの核の脅威に対する抑止力として核・ミサイル開発を強行するようになると、安倍総理は「日本を取り巻く安全保障環境は戦後かつてないほどの厳しさを増している」と主張し、メディアがその欺瞞性を暴くことができなかったことを「これ幸い」と解散・総選挙を強行して改憲勢力の勝利を収めることに成功した。
 安倍総理は、日本の安全保障環境を再整備すると称した日米同盟の深化を図り、北朝鮮の「挑発」に対する抑止力として軍事力の強化を図りつつある。 
 が、よく考えれば、これほど矛盾した話はない。日米同盟の深化によって日本の安全保障上のリスクが軽減できるのであれば、なぜ「抑止力」として自衛隊の軍事力を強化する必要があるのか。また日米同盟の深化をうたい、「会話で解決する時期は終わった。圧力と制裁を強化して北朝鮮に核・ミサイルの開発を断念させるまで、日本はつねにアメリカと100%友にある」とことさらに北朝鮮を挑発して、北朝鮮から「有事の際には日本を真っ先に火の海にする」とあからさまな敵視宣言をされている。
 いったい安倍総理の安全保障政策は、日本の安全保障環境のリスクを軽減できたのか、それともかえってリスクを増大させることになったのか、中学生でもわかるだろう。
 南北会談について、日本政府はまったくコメントできない。当たり前だ。「会話で解決する時期は終わった」と、発言が日替わりに変わるトランプ大統領が最も強硬姿勢だった時期に、「アメリカと100%ともにある」と宣言してしまった手前、ここでまたどう転ぶかわからないトランプ大統領に振り回されて対北朝鮮政策をころころ変えたりしたら、安倍総理は鼎(かなえ)の軽重を問われることになる。
 安倍総理にとって幸いだったことは、この時期、バルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)を歴訪する日程が組まれており、いま遠く離れたバルト三国の首脳に一生懸命「北朝鮮に対する圧力・制裁の強化」で協力を求めている。バルト三国は日本の経済援助がほしいから儀礼的に安倍総理の要請に応えることを表明して安倍総理の顔を立てはしたが、もともとバルト三国の北朝鮮との関係はほとんどない。北朝鮮にとっては痛くもかゆくもない「圧力と制裁の強化」だ。
 そもそも、抑止力とは何か、ということについてメディアも政治家も真剣に、そして論理的に考えたことがないのではないか。たとえばリベラル色を強めている朝日新聞ですら、昨年末に連載した『変わる安全保障:抑止力を問う』のシリーズで、「抑止力」についてこう定義している(12月29日付朝刊)。

攻撃してくればダメージを与えるという姿勢を事前に示すことで、相手に攻撃を思いとどまらせるという軍事力の役割。相手に抑止を効かせつつ不測の事態を防ぐには、軍事的対応を実行する「意図」と「能力」を相手に正確に認識させることが必要とされる。日本の抑止力は日米安保に基づく在日米軍をはじめとする米国の攻撃力に強く依存しているのが実情だ。北朝鮮問題では、恐怖を感じている相手を追い詰めると、かえって攻撃を誘発する「抑止と挑発のジレンマ」も指摘されている。

 この定義のうち後段については、たぶん私が一番先にハルノートの挑発に乗って日本が無謀な対米開戦に踏み切ったことを例にとって、日米韓が北朝鮮に対して軍事的挑発を強めすぎると北が「窮鼠、猫を噛む」の虚に出かねないことを警告した。それを論客としても知られる丹羽宇一郎氏がそっくりパクった主張をTBSの時事放談でしたことがあるが、軍事的抑止力の強化はかえってリスクを高めることになりかねないというのが歴史的教訓だ。
 日本が北朝鮮を挑発しない限り、北朝鮮が日本に対して敵視政策をとることはあり得ないと私は考えているが、仮に北朝鮮の核・ミサイル開発によって日本の安全保障が脅かされると仮定しても、最も有効な抑止政策は、これまでも何度も書いてきたように「拉致問題を一時的に先送りしても北朝鮮との平和条約交渉を進め、北朝鮮の政策を軍事優先から経済優先に切り替えさせるために経済援助に踏み切るべき」である。
もともと北朝鮮は日本が統治していた時代に工業振興政策を進めてきた経緯もあり、かつてはアジアにおける先進工業地域でもあった。日本の援助によって韓国が先進工業国の仲間入りができるようになったのと同様、北朝鮮も先進工業国の仲間に入れるようになれば、日本をはじめアメリカや韓国、中国、ロシアなどとの経済的互恵関係が強まり、北朝鮮の政治体制の安定にもつながる。北朝鮮にとっても、また日本や韓国、アメリカにとってもそうした経済的関係を強めることが、軍事力に頼る必要がない最大の抑止力になりうる。歴史から学ぶということは、そういうことだ。アメリカの挑発に乗ってバカげた戦争を始めた日本が、今度は北朝鮮に対するバカげた挑発を繰り返して北朝鮮の暴発を招こうとしている。「馬鹿につける薬はない」という。
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韓国・北朝鮮の南北会談の陰で、蚊帳の外に置かれた安倍総理の安保・抑止政策の意味を問う。

2018-01-11 07:33:14 | Weblog
 またも安倍総理は蚊帳の外だったようだ(「ようだ」と書いたのはメディアの報道がこの見方でほぼ一致しているからだ)。もちろん朝鮮半島における南北会談のことだ。
 すでに会談の結果はテレビのニュースや新聞でご承知だと思うので繰り返さないが、会談は北朝鮮のペースで進んだという。韓国側は何とか北朝鮮の核開発にストップをかけようと何度も試みたが、北朝鮮の頑なな姿勢を変えるには至らなかった。それでも米トランプ大統領は韓国の文大統領と深夜の電話会談で、「北朝鮮と対話する用意がある」と伝え、改めて平昌オリンピックが終了するまで米韓合同軍事演習を行わないことを確認した。
 南北会談が行われる前も、会談中も、会談が終わってからも、安倍総理周辺からはいかなるメッセージも発せられることはなかった。そりゃ、そうだ。「会話の時期は終わった。圧力と制裁で北朝鮮に核・ミサイル開発を断念させるまで、日本は100%米国とともにある」と言い張ってきた手前、トランプ大統領が話し合い解決に一歩踏み出すことは想定外のことだったのだろう。トランプ大統領が、安倍総理には何の事前相談もせずに(つまりトランプ大統領に恋焦がれている安倍総理を蚊帳の外に締め出して)、勝手に文大統領と電話会談を行い、北朝鮮との対話の可能性に踏み込んだからだ。
 韓国側は会談に際し、「朝鮮半島の非核化」について北朝鮮と何らかの前向きな合意を取り付けたかったようだが(韓国メディアはそうした希望的観測を振りまいていた)、実際には会談で非核化の話は一切出なかったという。そのうえ北朝鮮代表団の首席代表・李祖国平和統一委員長が報道陣にこう断言した。
「我々が保有する水爆や大陸間弾道ミサイルは、徹頭徹尾アメリカを狙ったもので、同族(韓国)や中露に向けたものではない」と。
 この発言には、日本の名前がない。日本なんかとるに足らずとみているのか、それともアメリカと戦争になった時には、これまでも北朝鮮首脳が公言してきたように「真っ先に日本を火の海にする」つもりだからなのか。
 私はこれまでも何度もブログで書いてきたように、安倍総理の安全保障政策は、かえって日本のリスクを高めているのではないかという疑問を呈してきた。
「集団的自衛権行使容認」を決めた安保法制にしろ、日米同盟の深化にしろ、安倍総理にとっては抑止力の強化と安全保障を高めるための政策だったはずだ。が、その結果、日本はトランプ大統領から「防衛装備品」を押し付けられ、北朝鮮からは敵視され、さらに「非核三原則の見直し」発言まで公然と飛び出している。日本の安全保障や抑止力の面から考えると、かえってリスクが増大しただけではないのか。
 日本が抑止力を高めるために自衛隊の軍事力を強化すれば、それは直ちに日本の隣国や周辺国への脅威になる。北朝鮮の核が、日本にとって脅威だというなら、北朝鮮がアメリカの核を脅威に感じて核・ミサイル開発に狂奔するのは、安倍総理の「抑止力の論理」とまったく同じである。安倍総理が自衛隊の軍事力強化の理由をいくら「北の脅威に対抗するため」と声を張り上げても、日本のかつての過ちを忘れていないアジア諸国の人たちにとっては、やはり「脅威」に映るだろう。
 そもそも世界の強国による軍拡競争は、常に【仮想敵の軍事的脅威に対する抑止力】として行われてきた。あれだけ悲惨な戦争を繰り返してきた日本は、「抑止力幻想」からいち早く脱皮することが大切なのではないか。
 実際世界は二度の世界大戦の経験から、戦争による国際紛争の解決という手段を根絶するために国連憲章を作り、国連憲章に基づいた国際連合を作った。国連憲章は日本の憲法の原型をなすもので、だから「平和憲法」として国民に広く定着してきた。
 国際紛争を解決する手段としての戦争(軍事力の行使)は、先の大戦以降ほぼなくなった。例外はイ・イ戦争と湾岸戦争の二つだけだが、ともにその遠因はヨーロッパ列強による中東の分割支配がもたらした後遺症といえなくもない。
 基本的に戦争の目的の大半は、経済的権益の拡大もしくは維持にある。過去の二つの大戦も、そうだった。が、日本を含め、そうした目的をあからさまに公にするわけにはいかず、それなりに「大義名分」のオブラートで戦争の真の目的を包み隠してはきたが(日本の場合、「大東亜共栄圏」とか「八紘一宇」といった「理想」を掲げた)、真の目的は経済的権益の拡大や維持にあった。
 だから戦後の世界は国連の下で国際紛争の平和的解決の道しるべを構築すると同時に、GATTをはじめ自由貿易の旗を掲げることで経済的権益の衝突を防ぐ努力を重ねてきた。その推進役を担ってきたのが、戦後のアメリカでもあったが、その結果アメリカは財政赤字と貿易赤字という双子の赤字を抱えるようになった。トランプ大統領の保護主義政策が米国民の心をとらえたのも、そうした一面が大きい。
 確かに外交力が軍事力に依存する要素は大きいが、日本は戦後、軍事力に頼らずに外交力を高める努力を重ねてきた。そうした歴代政権が重ねてきた努力を灰燼に帰す様な事態に、いま日本は突入しつつある。憲法論議が始まろうとしている今、私たち日本人には何が問われているのかを、今一度原点に立ち返って考えてみようではないか。メディアの果たす役割が問われている。
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新年所感  私の「異論」がなぜ説得力を持つのかーー「知識」で主張しようとしないからだ。

2018-01-05 02:02:17 | Weblog
 遅ればせながら、明けまして新年おめでとうございます。読者の皆さんは正月3日間、どうお過ごしでしたでしょうか。私のように「毎日が日曜日」という方もおられるでしょうし、あるいはお勤めの方の中には「例年は5日が仕事始めだが、今年は金曜日に当たるので1日だけ出社してもあまり意味がないから仕事始めは週明けの9日から」と、年末の12月29日から合わせて11連休という優雅な方もいらっしゃるのではないかと思う。
 かくいう私自身は現役中から正月を挟んで約1か月近くは仕事もなく、ひたすら家族サービスと図書館通い、ゴルフ、フィットネスに集中していた。いまは図書館通いをしなくても、図書館で必要と思われる書籍を探さなくても、インターネットという史上最強のリアルタイム百科事典があるので、何かを調べようとするときの効率が著しく向上した。
 それは私の性格でもあるのだが、あまり人が気に留めないようないことに疑問を持つというか、引っかかるのである。あるいは突然、ほとんど人が疑問に思っていないことに、ふと「なぜ?」と幼児のように疑問を抱く習性が身についている。今日のブログは正月らしく、余り肩肘を張らずにすむことから書くが、私の思考法の一端でもあるので参考にしていただければと思う。
 あらかじめお断りしておくが、私はウィキペディアを「お気に入り」には入れていない。私のインターネットのトップページはヤフーにしているが、私にとってはグーグルよりヤフーのほうが使い勝手がいいだけのことである。検索方法は皆さんと同じように一つか二つ、あるいは三つになることもあるが、調べたいことについてキーワードを入力して検索する。たまたま多くの場合、ウィキペディアの解説が検索トップに出てくるので参考にすることが多いが、メディア関係者の多くは「ウィキペディアはだれでも自由に書き込めるので、あまり信用できない」と勝手に決めつけているようだ。はっきり言って、そう思っている人は自分の能力に自信がないからだろう。たぶん実際に能力がないのだろう。自信があればウィキペディアの解説をうのみにせず、疑問に思ったことを論理的に検証すれば済む。つまり「疑問に思う」能力に欠けているから、ウィキペディアの解説を読むと自分自身が汚染されてしまうという恐怖心を抱いているからとしか考えられない。
しかしウィキペディアにも問題がないわけではない。編集方針が権威主義に凝り固まっているからだ。だから投稿者が新鮮な解釈をした場合、必ず「出典が不明確」とか「独自研究の可能性がある」といった否定的な注釈がつく。ヤフーやグーグルで「集団的自衛権 誤解釈」とか「国連憲章51条 誤解釈」などのキーワードで検索をかけると検索トップに私のブログ記事が出るが、もし私がこの記事をウィキペディアに掲載しようとすれば、記事の根拠である出典として何十回も「国連憲章51条」を出すしかない。誰かの著作物を「出典」として明記したところで、その著作物も自分の主観で書いたもので、出典を明記したからといって記事の信頼性が増すわけではない。私はそうしたウィキペディアの欠陥を踏まえたうえで、ウィキペディアが提供してくれる「知識」に頼らず、自分の論理を構築するための手掛かりとして利用させていただいている。
 そうしたことを前提に、私が最近ゴルフをしながら感じた幼児的な「素朴な疑問」をどう解決したかのプロセスを書く。この冬は今のところ暖冬で「小春日和」の日が冬になっても多い。とくにゴルフをしていると、10時ころから14時ころまではゴルフ用の薄手のブルゾンを着ていると汗をかくほどの暖かさの日が多かった。が、私のメンバーコースは丘陵地帯にあるので、日が落ちるのが早く、15時ころになると太陽が隠れてしまうためヘアウェイでも急速に体感温度が低くなる。「秋の日はつるべ落とし」といわれるが、その意味は秋は日没後の薄明かりの時間帯が短いことであるが、丘陵地帯のゴルフコースでは周囲を山で囲まれているため日没が平地よりかなり早い。当然空はまだ薄明るく、しかしコースはヘアウェイでも日陰に入ってしまうため体感温度が急速に低下するというわけだが、私が幼児的発想で疑問を感じたのは「太陽は東からのぼり、西に沈む」という「常識」の根拠についてだった。そこでとりあえず、私が疑問を解くキーワードとして選んだのが「地球の自転」である。検索をかけると、やはりウィキペディアの解説がトップに出た。その冒頭部分を転記する。

地球の自転(ちきゅうのじてん、Earth's rotation)とは、地球が自身の地軸の周りを回転すること(自転)である。回転方向は東向きであり、地軸の北方向を正とすると右手回りである。北極星からは反時計回りに見える。

 この解説で、私は「地軸」とは何かということを調べる必要性を感じた。調べたら「北極点と南極点を結ぶ運動しない直線を指す」とある。実際ウィキペディアの解説記事には地球が右回りの回転をしている動画も載っている。そこで私はこどもが中学生時代に使っていた世界地図・日本地図の教科書を引っ張り出した。日本列島が北海道から九州まで、体の柔らかいゴルファーのフィニッシュ状態のような弓なりの形状をしていることを改めて確認した。ここで急きょ「日本の標準時」を検索することにした。日本の標準時地点が兵庫県明石市にあることは知っていたが、日本に時差がないのはどうしてかという疑問が生じたためである。そこで今度は「日本の標準時」で検索した。やはりウィキペディアの解説が検索結果のトップに出ており、「標準子午線は東経135度の経線」とある。だとしたらその経線上には多くの都市があるはずだ、と私は考えた。実際ウィキペディアによれば東経135度上にある都市は京丹波市・福知山市(京都府)、豊中市・丹波市・西脇市・加東市・小野市・三木市・神戸市(西区)・明石市・淡路市(兵庫県)、和歌山市(和歌山県)と12もあり、明石市はその一つに過ぎないことがわかった。私や皆さんが勝手に決めつけていた「常識」が、いかに非論理的な思い込みでしかなかったことにお気付きだろうか。
 そこで私の頭脳は飛躍を始める。経線を基準にする限り、日本列島の東端は北海道・根室岬になる(北方領土は除く)。「太陽は東から昇って西に沈む」のなら、根室岬の夜明けが一番早いはずだ――果たしてそうなのか。そこで「日本の夜明け」で検索してみた。ところが検索結果は坂本龍馬の名言とされている「日本の夜明けは近いぜよ」に関することばかり。そこでこのキーワードに「日本で一番早い場所」を加えて再度検索をかけてみた。国立天文台が「初日の出」という条件付きでこう解説していた。
初日の出がいちばん早い場所は、どういう条件で考えているかによって大きく違います。ですから、まず、考えている条件をはっきりさせる必要があります。
まず、日本の国土全体で初日の出がいちばん早い場所は南鳥島(みなみとりしま)で、初日の出の時刻は午前5時27分です。南鳥島は、東経約154度、北緯約24度という、本土のはるか南東の海上にある島です。
しかし、南鳥島に定住している人はいません。人が定住している場所でいちばん早く初日の出を見られる場所は、小笠原の母島だと思われます。日の出時刻は午前6時20分です。ただ、周辺のどの島に人が定住しているかによって、若干答えが違ってくるかもしれません。
それでは、島を除くとどうなるでしょう。北海道・本州・四国・九州でいちばん早く初日の出を見られるのは富士山の山頂で、日の出時刻は午前6時42分です。標高が高い場所では平地(標高0mの場所)より日の出が早くなりますので、もっと東にある標高の低い場所よりも、初日の出を先に見ることができるのです。
山も除いて考えるとどうなるでしょう。北海道・本州・四国・九州の平地でいちばん早く初日の出を見ることができるのは、千葉県の犬吠埼(いぬぼうさき)で、日の出時刻は午前6時46分です。
北海道の納沙布(のさっぷ)岬のほうが犬吠埼よりももっと東にありますので、初日の出も早くなるように思えます。しかし、おおよそ南東の方向に行くほど、初日の出の時刻は早くなりますので、より南にある犬吠埼のほうが、北の納沙布岬より日の出時刻は早くなるのです。
しかし、1年中いつでも、南東ほど日の出時刻が早くなるわけではありません。夏至の前後には、日の出はおおよそ北東の方向に行くほど早くなりますし、春分・秋分の頃には、東に行くほど日の出は早くなります。そのために、日の出をいちばん早く見られる場所の順番も、季節によって違ってくるというわけです。
(文中の日の出時刻は2012年の値ですが、年による違いはほとんどありません。)

 常識を疑ってみると、思いもよらぬことが見えてくる。もう一度皆さん、いろいろな常識を疑ってみませんか。「自分はとんでもない思い込みをしていた」ことに気付けば、あなたの思考力は格段に向上する。例えば今年は憲法改正問題が大きくクローズアップされるが、憲法問題を考える時、私は次のような数々の疑問を思い浮かべる。ここから先は、正月気分を忘れてもらいたい。
① 憲法上、日本は「戦力の不保持」と「交戦権の否認」が義務付けられている。政府はこれまで自衛隊は憲法が定める「戦力」には当たらないとして「実力」という意味不明な定義をしてきた。つまり「実力組織」である自衛隊が保持する兵器類は戦闘能力を有しない「張子の虎」あるいは「竹光」ということになる。徳川時代末期、日本来航の外国船を威嚇するために釣鐘を逆さにして並べて大砲に見せかけたという笑えない実話があるが、本当にそういう解釈でいいのか。
② ま、そういうエピソードは別として、自衛隊の「実力=国際法上は紛れもなく戦力」は専守防衛のためにしか行使できないということだが、「防衛」という言葉には広義の意味で「自分を守るために、やむを得ず行使する攻撃力」も含まれるが、「専守防衛」ということになると「自分を守るためだけの行為」しか許されず、反撃も許されないことを意味する。だとしたら有事の際、我が自衛隊は「戦わずして逃げる」しか方法はない。そりゃ、保持している兵器が「釣鐘」のようなものだったら、逃げるしかないわな。私が言いたいのは「専守防衛」などという「防衛」は絶対にありえないということだ。安倍政権が攻撃力を有する自衛隊を憲法に明記するというなら、憲法をいじる前に、「専守防衛」の欺瞞性を国民に明らかにしてからの話ではないか。
③ 共産党を含む「護憲派」が主張する「憲法9条が日本の安全を守ってきた」という主張は本当に正しいのか。自明のことだが、憲法は自国の権力は規制できても、他国の権力を規制することはできない。「憲法9条が日本の安全を守ってきた」と言うなら、日本の憲法だけが特別で、他国の権力も規制できることを証明してもらいたい。ちなみに、第1次大戦においても、第2次大戦においても「永世中立」を表明して戦火から免れようとした国はヨーロッパにいくつもあったが、国民皆武装で自衛体制を整えていたスイス以外の「永世中立国」はすべてドイツ軍に蹂躙された。「歴史は繰り返す」と言うが、日本だけは例外だというなら、例外であることを証明すべきだ。証明できずに「ただ信ぜよ」と言うなら、それはもはや宗教の世界と同じだ。
④ 前項とは逆も真なり。「日本が安全だったのは、アメリカの核の傘で守られてきたから」という論理も同様だ。実際、アメリカの「核の傘」が日本の安全保障にとって大きな役割を果たしているのなら、北朝鮮の核・ミサイル開発におびえる必要などないではないか。トランプ大統領が来日したとき、米製兵器(防衛装備品?)を日本に押し売りしたのは「有事の際、アメリカの核の傘が日本を守ると思っているのなら、とんでもない楽天家だ。自分の国は自分たちで守れ。そのための兵器を買いなさい」という要求だ。だから政府筋(石破氏など)も「いざというとき、アメリカが自分たちの血を流してまで日本を守ってくれるという保証はない」と、最近になって言いだしている。アメリカに守ってもらえるという確信がないのなら、なぜ沖縄県民の気持ちを踏みにじってまで沖縄の米軍基地を維持する必要があるのか。しかも、アメリカが日本に押し付けた「基地協定」は、同じ敗戦国だったドイツやイタリアと比べても著しく屈辱的な内容であることが明らかになっている。日本政府にとって沖縄は「植民地」に過ぎないのと同様、アメリカにとって日本は「属国」なのだろう。有事の際、日本はアメリカを頼りに出来るのか出来ないのか、そのことを安倍政権が明確にしない限り、憲法論議にもうかつには乗れない。また、そのことをあいまいにしたままで憲法改正を数の力で押し切ろうという姿勢を、黙って許すほど日本国民はおろかではない。
⑤ 最後に「抑止力」についても考えてほしい。④で述べたことと関連するが、日本にとってアメリカの核や日米同盟が本当に抑止力になっているのだろうか。もしそうなら、日本は「専守防衛のための実力組織」である自衛隊を整備する必要性は、限りなく少なくて済むはずだ。ところが、実際には自衛隊の「実力」は韓国や中国も警戒心を持つほどに強力になりつつある。日米安全保障条約に基づいて、日本有事の際にはアメリカが約束している日本防衛の義務を果たしてくれることが確実なら、自衛隊の「実力」は10年以上前の状態でも十分なはずだ。なぜ政府は自衛隊の「実力」を「専守防衛」能力をはるかに超えるまで整備するのか。「いざというとき、本当にアメリカが日本防衛のために自国兵の血を流してくれるか確信が持てない」と言うなら、沖縄県民に犠牲をなぜ強いるのか。沖縄県民に犠牲を強いる時だけ「日本の安全保障のため」「沖縄の米軍基地は日本にとって最大の抑止力」などという言い訳をするな。言うこととやることが、真逆ではないか。

 このほかにも皆さんに考えてもらいたいことはいっぱいある。たとえば集団的自衛権。国連憲章51条には集団的自衛権行使の許容条件として二つが明記されている。一つは、当たり前といえば当たり前だが、「個別的」も「集団的」も、自国が他国から攻撃を受けた時に行使できる権利(だから「自衛権」)で、「密接な関係にある他国」の防衛などはまったく許容していない。もう一つは自衛権の行使も、国連安保理が紛争を解決するまでの間という期限付きだ。
 この国連憲章51条の規定を全く無視したのが安倍政権による安保法制である。安保法制が憲法に違反しているか否かをうんぬんする前に、安保法制が国連憲章51条違反であることを明確にすべきなのだが、今回はここまでで止めておく。
 ただ、最後に一言。メディア関係者や政治家とくに野党の国会議員諸君は閣僚の失言の揚げ足取りや不祥事ばかり追求するのではなく(してもいいが、ほどほどにという意味)、もっと本質的な問題を追及してほしい。
 たとえば昨年末に日銀・黒田総裁が突然「物価上昇率が2%に達しなくても」と、利上げの可能性を示唆する発言をした。これほど野党議員をなめてバカにした発言を、私はこれまで見たことも聞いたこともない。黒田氏が金融政策の転換を示唆したのは、マイナス金利政策によって日本の金融機関が窮地に陥っていることにやっと気づいたからに他ならないが、目的を達成していないのに金融政策を転換するということは、一連の金融緩和策が失敗だったことを認めたことを意味する。本来なら、こうした金融政策の転換は、まず日銀総裁が責任を取って辞任した後、次期総裁が行うことだ。金融政策を180度転換しても総裁を続投できると黒田氏が読んだのは、野党がなめられている証拠だ。
もともと黒田氏が金融緩和策を金融政策の中心軸に据えたのは、第2次安倍政権が誕生したときの経済政策である「脱デフレ不況」のための2本柱であった(金融緩和による円安誘導と大胆な財政出動による需要喚起)の一つを忠実に実行してきたことによる。金融緩和によって金融機関は窮地に陥ったが、市場にあふれ出た金が富裕層を介して株や不動産に向かい、日経平均はバブル崩壊後の最高値を更新、都心部の商業地や大都市近郊の住宅地の地価上昇を招き、バブル期を超える高値で取引される不動産も出てきた。政府はそれを持ってアベノミクスの効果が出ていると称するが(有効求人倍率がバブル期を超えていることもアベノミクスの成果と自己都合解釈を重ねているが)、肝心の消費者の消費マインドは一向に回復の兆しが見えない。安倍総理は今年の春闘で経済界に3%以上の賃上げを要請し、経団連も会員企業に対して安倍総理の要請にこたえるよう異例の通達を出したが、たとえ3%以上の賃上げが実現したとしても消費は回復しない。なぜか。このブログでは答えは書かない。理由を読者の皆さんが考えてほしい。今年78歳になる老人にバカにされたくないだろう。
 一つだけ、この問題を論理的に説くためのヒントを差し上げておく。
 安倍さんが主張しているように、有効求人倍率はバブル期を超えた。人手不足が続き、パートやアルバイトの時給も上昇している。ファミレスなどは、従業員対策のために稼ぎ時の元日を休店にしたところもある。そうなったのは、別にアベノミクスの効果ではない。大胆な財政出動による公共工事の推進によって求人は増えた。そんなことは、別に安倍さんでなくても当たり前の現象で、その当たり前の現象を超える現象が生じている。それがアベノミクスとは関係ない、と私は言っているのだ。これが重要なヒントなのだが、ここまで述べたことで有効求人倍率がなぜバブル期を超えたか、の本当の理由がお分かりになっただろうか。ま、無理だろうね。
 バブル期の現役世代人口と、現在の現役世代人口を比較してみてごらん。少子化の波はとっくに押し寄せており、現役世代人口が激減しているのだ。有効求人倍率が上昇するのは当たり前だろう。有効求人倍率がアップしたのはアベノミクスのせいではないのだ。
 このように、答えは極めて単純で、難しく考える必要などまったくない。集団的自衛権問題についても、私は専門知識に一切頼らず、ひたすら物事を単純化して結論を出しただけだ。そうして出した結論に、専門家の憲法学者たちが脱帽してくれている。「知識に頼らない」ことがいかに重要か。だが、そのためには「知識に頼ろうとしない習性」を日ごろから身につけることが政治家やジャーナリストには大切な心構えになる。これが、実は結構難しい。学生時代に、知識に頼ることを日本人は習慣づけられているからだ。
 知識に頼らない人づくり。これが教育改革の基本柱にしなければならない。そのためには教育者の改造から始める必要がある。「知識は忘れるためにある」--誰かがそんなことを言ったかどうかは知らないが、どうせ忘れられるようなことは覚えさせる必要はない。たとえば、関ヶ原の戦いが西暦何年だったか、などという知識は入学試験には必要かもしれないが、試験が終われば必要がなくなる知識だ。それより、関ヶ原の戦いがどういう意味を持っていたのか、なぜ不利だったはずの東軍が大逆転の勝利を収めることができたのかを自分の頭で考える訓練を重ねたほうが、その後の人生ではるかに役に立つ。ただし、そう書くと大半の読者の頭にすぐ浮かぶのは、司馬遼太郎氏の解釈だろう。司馬氏の解釈を記憶していること自体が、実は論理的思考力を働かせるうえで邪魔になるのだ。そのことを、骨の髄から身に沁み込ませてほしい。読者の皆さん、いまからでも遅くない。今日から見ること聞くこと、あらゆることに疑問を持つ習慣を身につけてほしい。これまでは、読者の大半は競馬馬と同じだった。自分で視野を狭くしていた。
 今日から、自分の視野を狭くしている知識は捨てよう。といっても無理な話だよね。私も分かっていて言っている。パソコンのメモリは新しいのと取り換えれば消えるが、人間の頭脳に蓄積された知識は自分の意志では消せない。認知症になればいやでも頭の中のメモリは劣化していくが、意図的に認知症になることも不可能だし、認知症は記憶力だけでなく思考力も失われるようだから、やはり認知症にはなりたくないよね。だとすれば、努力で「知識に頼らない思考力」を身につけるしかないということになる。今年は、そのための第一歩を踏み出す年にしてみないか。

 私は立憲民主党本部や無所属の会の有力議員にも私のブログを発信しているのだが、肝心の議員たちからはなしのつぶてだ。バカな事務局員や秘書がブロックしてしまっているためだ。心あるメディアの記者が、それなりの議員に「こういうブログを書いている人がいる」と伝えてくれれば、私は選挙にはかかわらないが、ボランティアとして政策面のアドバイスは惜しまないつもりだが…。



 









































































































































































































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今年最後のブログーーアベノミクスと安全保障政策を検証する。

2017-12-30 05:37:44 | Weblog
 今年最後のブログになる。当初は2回目で「建設業界の談合体質など経済事犯問題」について、3回目で脱原発問題について書くつもりだったが、韓国政府が慰安婦問題に関する日韓合意を破棄するかの動きに出たため、予定していた二つの問題は先送りする。このブログでは、「一強体制」を回復した安倍政権の5年間の総括を行う。
 ただ当初予定の経済事犯問題について、私が書きたかったことだけ簡潔に述べておきたい。日本は経済犯罪について甘すぎる。だから談合体質や贈収賄、脱税などの経済事犯がいつまでたっても絶えない。日本もアメリカ並みに経済事犯に対する罰則を厳しくすべきだ。司法取引制度については日本もアメリカで行われている司法取引を一部導入したため、リニア新幹線工事を巡る談合について大林組が「実は」と名乗り出たため明るみに出たが、日本は経済事犯が犯罪者にとって「割に合う商売」なのだ。アメリカでは、経済事犯に対しては厳しい罰則が待ち受けている(連邦裁判になった場合。小さな事犯は州法の対象になり、州の裁判所で裁かれるため甘い判決を出す州もある)。連邦裁の場合は原則、得た不正の利益あるいは得ようとした不正の利益の3倍の課徴金を課すのが原則である。たとえば1億円を脱税した場合、日本では重加算税を課せられても3000万円くらいは手元に残るが、アメリカでは課徴金が3億円課せられる。日本ははっきり言えば脱税天国であり、特に今年は財務省理財局長だった佐川氏が森友学園への国有地払い下げ疑惑に関して「記録はすべて破棄した」と安倍総理や昭恵夫人の関与を隠ぺいし続けた論功行賞として(と言われている)、国税庁長官に昇進したことへの国民の反発が大きく、脱税者が爆発的に増えるのではないかと予測されているが、私は脱税はお勧めしないが、税務署の調査に対しては「領収書などの記録はすべて破棄してしまったので、私の記憶に頼って申告した」と、調査を拒否することは大いにお勧めする。多少は胸のつかえが下りるかも…。
 次に脱原発問題だが、政府が以前として原発を「ベースロード電源」と位置付けているのはいただけない。私は12月17日のNスぺ『激変する世界ビジネス“脱炭素革命”の衝撃』を見て、かなり衝撃を受けた。このテレビ番組を見るまで、私は日本の太陽光発電の技術が世界の最先端を走っていたと勝手に思い込んでいた。実際日本における太陽光発電パネルのパイオニアである旧三洋電機の機能材料研究所長だった桑野氏に何度も取材したことがあり、間違いなく日本が太陽光発電の実用化で世界をリードしていた時期があった。が、いまその地位が中国にとって代わられ、しかも世界的規模で推進されている太陽光発電の流れに日本は完全に「置いてきぼり」にされているというのだ。日本政府の産業政策は、常に既存の産業界の意向を重視してきたが、そのつけがこうした事態に象徴的に表れている。石油ショックのときはさすがに重厚長大重視から軽薄短小重視にかじを切ったが、それは産業界全体の意向でもあった。電力産業界が脱原発に背を向けている現在は、産業界の意向に逆らえないという日本政府の体たらくが原発政策に表れていると言えよう。
 安倍政権5年の検証に戻る。

 政策を検証する場合、通常は内政と外政の両面で行うが、今回は内政における最重要政策であったアベノミクスの検証と、内政・外政の両面にわたる安全保障政策について検証してみる。
 まずアベノミクスだが、効果はまだ十分に表れていないというより、アベノミクスそのものがあらゆる面で中途半端だったため、一見すると株高・企業の収益回復・有効求人倍率・失業率改善などで成果を上げているように見えるが、その一方で従業員の実質賃金は低下し、消費は伸び悩み、株や不動産といった資産バブルの恩恵を受けた高額所得者など富裕層は別として、一般庶民は景気回復の実感を持てない状態が続いている。結果的に、持てる者と持たざる者の所得格差はかつてないほど拡大している。
 ま、安倍さんが「そういう状態を目指したのがアベノミクスだよ」とおっしゃるなら、総理自ら自負するようにアベノミクスは順調と言ってもいいのだが、朝日新聞12月26日付朝刊の記事によれば、総理は衆院を解散して総選挙を目前にしたころ周辺に、「私がやっていることは、かなりリベラルなんだよ。国際標準でいけば」と語ったというから、だとすれば、そういう視点で私もアベノミクス5年間の検証を行うことにする。総理が私のブログにいちいち目を通していたとは思わないが、私がブログで提言したことを部分的にアベノミクスがパクってきたことを、この際明らかにしながら検証作業を進めていく。
その前に、一つだけお断りしておくことがある。私は野党勢力の一部と違って安倍さんを敵視しているわけではない。実際、安倍さんの政策のリベラルな要素はこれまでもブログできちんと評価してきた。たとえば安倍さんは労働組合の総代表であるかのように、経済界に対して毎年賃上げを要求してきた。今年の春闘に関しても、経済団体に3%以上の賃上げを要求している。最低賃金の底上げにも熱心に取り組み、その上昇率は正規社員のベースアップ率を毎年上回ってきた。かつて日本の最低賃金制は生活保護水準以下と酷評されていたが、そうしたアンバランスも解消された。そういう面は、安倍さんが胸を張るようにアベノミクスがリベラルな要素を含んでいることを、私も認めるにやぶさかではない。日本共産党が常にお経のように唱えている「自民党政権は大企業優先」では必ずしもないことも認める。が、アベノミクスと安全保障政策は、総理の「善意」とは裏腹に、皮肉な結果を生んでいるのだ。そのことを証明する。
 私は第2次安倍政権誕生直後の2012年12月30日に『今年最後のブログ……新政権への期待と課題』と題するブログ記事を投稿した。その一部を転記する。別に先見の明を誇るわけではないが、いや内心では誇ってもいるが、この時点でこれだけの卓見を論じていたのは、私以外にいないと確信を持っている。

 まず新政権の最大の課題は、国民の新政権に寄せる期待が最も大きかった経済再建だが、妙手ははっきり言ってない。安倍内閣が経済再建の手法として打ち出しているのは①金融緩和によるデフレ克服②公共工事による経済効果の2点である。
 金融緩和だが、果たしてデフレ克服につながるか、私はかなり疑問に思わざるを得ない。日銀が金を貸す相手は一般国民ではなく、主に民間の金融機関である。では例えば銀行が二流、三流の中小企業や信用度の低い国民にじゃぶじゃぶ金を貸してくれるかというと、そんなことはありえない。優良企業が銀行から金を借りてくれなくなってからもう20年以上になる。いくら優良企業と言っても、銀行が融資をする場合は担保を要求する。そんな面倒くさいことをしなくても優良企業なら増資や社債の発行でいくらでも無担保で金を集めることが出来るからだ。
 そもそもリーマン・ショックで日本のメガバンクが大打撃を受けた理由を考えてほしい。国内に優良な融資先がなく、金融緩和でだぶついて金の運用方法に困り、リーマン・ブラーズが発行した証券(日本にもバブル時代に流行った抵当証券のような有価証券)に大金をつぎ込み、リーマン・ブラザースが経営破たんしたあおりを食って大損失を蒙り、金融界の再編成に進んだことは皆さんも覚えておられるだろう。金融緩和で銀行に金がだぶついたら、また危険な投機商品に手を出しかねない。自公政権の金融緩和政策に世界の為替市場が敏感に反応して急速に円安に進み株も年初来の最高値を記録したが、そんなのは一過性な現象に過ぎない。とにかく市場に金が回るようにしなければ、景気は回復しないのは資本主義経済の大原則だ。
 そのための具体的政策としては、まず税制改革を徹底的に進めることだ。まず贈与税と相続税の関係を見直し、現行のシステムを完全に逆転することを基本的方針にすべきだ。つまり相続税を大幅にアップし、逆に贈与税を大幅に軽減することだ。そうすれば金を使わない高齢の富裕層が貯め込んでいる金が子供や孫に贈与され、市場に出回ることになる。当然内需が拡大し、需要が増えればメーカーは増産体制に入り、若者層の就職難も一気に解消する。そうすればさらに内需が拡大し、メーカーはさらに増産体制に入り、若者層だけでなく定年制を65歳まで拡大し、年金受給までの空白の5年間を解消できる。ただし、このような税制改革を実現するには二つの条件がある。一つは相続税増税・贈与税減税を消費税増税の2段階に合わせて、やはり2段階に分け消費税増税と同時に行う必要がある。その理由は当然考えられることだが、消費税増税前の需要の急拡大と、増税後の需要の急激な冷え込みを防ぐためである。
 その場合、贈与税の考え方そのものを一変させる必要がある。相続税は相続人にかかるが、贈与税は贈与人にかかる仕組みになっている。その基本的考え方を変えなければならない。相続税の負担は相続人が支払うのは当然だが(相続者はすでに死亡しているから課税できない)、贈与税に関しては贈与人が贈与税を支払うだけでなく、非贈与人は収入として確定申告を義務付けることである。その場合、総合課税にすると計算がややこしくなりサラリーマンなど通常は確定申告せずに済む人たちの利便性を考えて分離課税にして、しかも通常の課税システムのように贈与額に応じて納税額を変動させるのではなく、たとえば一律10%の分離課税にすることが大切である(税率は別に10%にこだわっているわけではないが、贈与する側にも贈与される側にもできるだけ負担が少なくして、頻繁に贈与が行えるような仕組みにすることがポイントになる。またこのシステムを導入することと同時に現在の非課税贈与制度を廃止し、消費税のように完全に一律課税制にすることも大きなポイントになることだけ付け加えておく)。いずれにせよ、相続税を軽く贈与税を重くしてきたのにはそれなりの時代背景があったと思うが、時代背景が変われば課税の在り方についての発想も転換する必要がある。税金に限らず専門家は従来の考え方からなかなか抜け出せないという致命的な欠陥をもっている。私たちはつねに従来の考え方(つまり常識)に疑問を持つ習性を身に付けるよう心がけたいものだ。そうでないと日本はこの困難な状況を脱することが出来ない。
 また所得税制度も改革の必要がある。内閣府が「国民生活に関する世論調査」を始めたのは1958年(昭和33年)である。この年の調査では「中流」意識を持っていた国民は約7割だったが、60年代半ばには8割に達し、日本のGNP(国民総生産)が世界第2位になった68年を経て70年以降は約9割に達した。79年に内閣府が発表した『国民生活白書』では「国民の中流意識が定着した」と宣言している。
 が、消費税が導入され、さらにバブルが崩壊して以降国民の「中流」意識の変化はどうなったか。実は内閣府はその調査を中止してしまったのである。理由は私が言うまでもなく賢明な皆さんはお分かりであろう。「中流階層」の年収レベルは明確ではないが(内閣府が行ってきた意識調査はあくまで個々人の意識であって、「中流階層」の年収を基準に調査したものではなかった)、少なくとも97年以降は年収299万円以下の層と1500万円以上の層が増加する一方で、300~1499万円の層は減少しており、現実には格差が拡大傾向にある。もっと厳しく、結婚して子供二人がいる4人家族の標準世帯で、30年の長期ローンを組んで(ということは少なくとも30歳代)小さくとも持ち家(マンションを含む)を買える条件として年収500~700万円を「中流階層」と定義したら、どの程度の国民が「中流階層」の範囲に入るだろうか。政府は怖くてそういう調査ができないことは明らかである。私の勘ではおそらく3割に満たないのではないか。おそらく4人家族の標準世帯で年収が500万以下の「下流階層」は5割を超えるのではないか。消費税増税はそういう世帯を直撃する。
 しかし私は消費税増税はやむを得ないと考えている。ただ食料品などの生活必需品を非課税あるいは軽減税率にするのではなく、「聖域なき」一律課税にして、低所得層には生活保護対策として所得に応じて所得税を軽減すべきであろう。少なくとも4人家族の標準世帯の場合は所得税は非課税にする必要がある。その一方年収1000万円超の層は累進的に課税を重くし、年収2000万円以上の高額所得層の所得税率は50%に引き上げる必要がある(現行の最高税率は40%)。
 なぜ生活必需品を非課税あるいは軽減課税にすべきではないかというと、 国産ブランド牛のひれ肉とオージービーフの切り落としが同じ生活必需品として非課税あるいは軽減税率の対象になることに国民が納得できるかという問題があるからだ。読売新聞のバカな論説委員は「新聞は文化的存在だから非課税あるいは軽減税率の適用」を社説で2回にわたって主張したが、アメリカでは『タイム』と並ぶ2大週刊誌の『ニューズウィーク』が紙の刊行をやめた。アメリカでも日本と同様活字離れが急速に進み、パソコンやモバイルで電子書籍を読む人が急速に増加している。日本でも朝日新聞が有料のデジタル版を出しているが、まだ購読料が高いためか(紙媒体と同時申し込めばプラス500円で済む)普及に至っていないが、全国の有力地方紙を買収し、地方の情報もデジタル端末で読めるようにすればいっきに電子版は普及するだろう。自分たちだけがぬくぬくと高給を取りながら終身雇用・企業年金制度を維持するために新聞だけを特別扱いせよなどとよくも恥ずかしげもなく言えたものだ。
 税の問題はこの辺で終わるが、待ったなしの状況にあるのがTPP(環太平洋経済連携協定)交渉への参加問題である。自民党は選挙期間中「聖域なきTPP交渉には参加できない」と主張して、TPP交渉に参加する姿勢を打ち出していた野田民主党(選挙ではTPP交渉参加を主張しなかったが)に圧勝した。
 私自身は、野合政党であり、連合と旧小沢チルドレンをバックにした輿石幹事長に足を引っ張られながら、最後の土壇場で自公の協力を取り付けて、少子高齢化に歯止めがかからない日本の将来のための布石を何とか打った野田前総理を政治家として高く評価している。野田前総理は、選挙で農民票を失うことを覚悟でTPP交渉参加の方針を打ち出していた。「民意」と言えば体裁はいいが、「民意」はそれぞれの職業や生活環境、時代背景によって異なる。先に述べたように国民の90%以上が「中流」意識を持っていた時代もあったが、いま「中流」意識をもてる国民がどれだけいるか、そのことを考えるだけでも「民意」なるもののいい加減さがわかろうというものだ。

 このように、政権発足直後のアベノミクス(安倍政権の経済政策)の矢は2本だった。3本目の矢である「成長戦略」が接ぎ木されたのは13年春になってのことだ。それはそれで別にかまわないが、金が市場に回るようにしなければ消費は回復しないし、消費が回復しなければ経済も活性化しないことは、おそらく中学生レベルの理解力があればお分かりになるはずだ。
 このブログを書いた時点では私も分からなかったが、消費税導入時に竹下内閣が「欧米先進国に比して日本の所得税率は高額所得者にとって過酷すぎる」と主張していたことのまやかしを、安倍政権が15年に改正した所得税法で「日本の高額給与所得者への給与所得控除は欧米先進国に比して甘すぎた」と、竹下内閣のウソを明らかにして(そのことにすら、メディアはいまだ気付いていないが)控除額の上限を引き下げた(実施は16年、17年と2回に及び、さらに今回の税制改革でも引き下げを拡大しようとしている)。安倍政権は今回の税制改革で法人税の引き下げも行おうとしているが、二度とメディアは騙されてはいけない。
 一度詐欺に引っかかった人は、2度も3度も引っかかるらしく、そういう人の名簿が詐欺師の間で高額で取引されているようだが、メディアが2度、3度と騙されるようなら、もうメディアとしての資格がない。安倍内閣も竹下内閣と同様、都合のいい課税対象基準だけを欧米先進国と比較して税制改革を正当化しようとしているが、個人の所得税にしろ法人の所得税にしろ、日本は控除対象がかなり多いのではないかという気がする。私にはそこまで調べる手立てがないが、メディアは世界主要国に支局を設けており、主要国の税制を調べることは容易なはずだ。日本と違って「自己責任」意識が強い欧米では、日本のような至れり尽くせりの控除(法人の場合は引当金)は行われていないのではないかと思う。メディアはもう少し、メディアらしい仕事をしろ、と言いたくなる。

 次に安倍政権の安全保障政策だが、結論から言えば日米同盟の深化によってかえって日本はリスクを多く負うことになった。
 朝日新聞が12月22日から3回にわたって『(変わる安全保障)抑止力を問う』と題した記事を連載した。抑止力の在り方について根本的問題を追及するかと思ったが、そうではなかった。抑止力についての基本的概念が間違っているからだ。 連載が終わった後の29日、日本が取るべき安全保障政策について識者(3人)にインタビューしてそれぞれの意見を集約した記事を掲載した。問題はその締めくくりとして記載した「抑止力」の定義である。そのまま転記する。
「攻撃してくればダメージを与えるという姿勢を事前に示すことで、相手に攻撃を思いとどまらせるという軍事力の役割。相手に抑止を効かせつつ不測の事態を防ぐには、軍事的対応を実行する「意図」と「能力」を正確に認識させることが必要とされる」
 抑止力は、相手に対抗できる軍事力だけではない。いや、それどころか軍事力に抑止効果を期待すること自体が、もはやアナクロニズム的発想だということに、リベラル志向が強いとされる朝日ですらわかっていない。
 確かに冷戦時代は体制と体制が双方の「正義」を振りかざして対立していたから、「軍事力には軍事力で」といった抑止力が必要だった。体制による対立が氷解したいま、最大の抑止力は経済の相互依存関係に移っている。現に日本もアメリカも、相手に対する警戒感は捨ててはいないが、二国間の問題を軍事力によって解決しようとは、日本もアメリカも中国も考えていない。それは、「もし軍事衝突したらお互いに受ける打撃が大きいから」という理性が働いているからではない。経済的な相互依存関係が、軍事衝突によって壊れることによる大きなマイナスを理解しているからだ。
 はっきり言えば、最大の抑止力は、リスクの大きい国との経済的依存関係を強めることだ。前にもブログで書いたが、北朝鮮との関係においては、拉致問題を先送りしても平和条約交渉と経済関係の構築を最優先すべきだ。そうすることが、北朝鮮にとっても日本にとっても最大の抑止力になる。北朝鮮も、日本との関係が良化すれば、意地を歯ってアメリカの核に対抗する必要がなくなり、民生のためにも経済力に力を入れるようになる。
 抑止力を軍事力に頼るという発想から抜け出すことが、日本にとって最大の抑止効果を生む。その観点から日米同盟の在り方についても考え直すべき時に来ているのではないだろうか。

 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今年最後のブログ① 日本政府はなぜ慰安婦問題の解決を許したのか。

2017-12-27 01:12:49 | Weblog
 今年最後のブログを書く。長くなるので、1日おき3回に分けて投稿する。
 わたくしごとでは、一時、今年いっぱい持つかな、と思ったほど健康状態が悪化し、何度か入退院を繰り返した。数週間にわたってブログも中断を余儀なくされたし、一時は体重も7~8kg落ちた。
 私の母は、順天堂大学病院で胆石の手術を受けた際、医療器具の消毒が不十分で緑膿菌に侵され、42歳の若さで命を失った。父はその後、再婚したが、その継母もくも膜下出血で倒れ、帰らぬ人となった。まだ60歳だった。父は若いころ肺結核にかかり、東大病院で手術し、手術は成功したがろっ骨3本を切断する大手術で、以降家族旅行しても大風呂には入らず、家族風呂のある施設にしか行かなかった。その父は、82歳まで天寿を全うした。
 私は今年7月、喜寿を迎えることができたが、昔の男性の平均寿命からすれば十分長生きしたほうだと自らを納得させ、医師から余命を宣告された時は、残された時間をどう生きるかと考えたほどだった。病院のベッドの上で、それまでの人生を振り返りながら、波乱に満ちた77年間だったが、思い残すようなことはなかったと、自らに言い聞かせた。
 幸か不幸か、いまは健康を取り戻し、こうしてブログ活動も再開でき、唯一の趣味ともいえるゴルフにも復帰できるようになった。以降、私のゴルフ・プレーは、すべてのホールをパーで上がったことにすると決めた。たまたま組み合わせになったパートナーにはスタート前に「私はもう認知症になったので、パーの数だけ打ったら、後の打数は数えられないので、常にパープレーで上がったことにしますから、スコア・カードの私の打数はすべてパーの数を書いてください」とお願いし、皆さん笑いながら「いいですよ」と言ってくれる。が、時にハンデをあげてもらうために、オール・パーのスコア・カードを提出しようとしてパートナーにアテストを頼んでも、だれもサインをしてくれない。顔見知りの友人ですら、そうなのだ。人間とは、なんと冷たい動物なのかと、悲哀をかみしめる昨今である。
 ゴルフに次ぐ趣味はフィットネスだったが、フィットネスもいちおう復帰はしたが、体調を崩す前のようには無理をせず、いまは週に1~2回、ジムで30~40分ほど汗を流す程度に抑えている。水泳やスタジオでのレッスンに参加していた時は、いわば学校の授業のように「今日はあれとこれ」という感覚で、多少疲れていても無理をしてしまっていた。健康のために始めたフィットネスだったが、かえって健康を害する結果になったのでは、元も子もない。
 飲酒は前々からかかりつけ医に「量はほどほどに。必ず休肝日を作るように」と指導は受けていたが、1年365日、入院中を除いてアルコールを切らしたことはなかった。極端な話、1泊2日のドックに入ったときでも、ひそかに缶ビールを2~3本持ち込んで個室の冷蔵庫に隠し、一般病棟が就寝時間になるのを待ってビールを飲みながらテレビを見るほどだった。
 その私が、いったん、ピタッと飲酒をやめた。医師から禁酒を指導されたことがきっかけだった。とにかく入院時のγ‐GTPが1300くらいになったのだから、医師が飲酒を命じるのも当然だった。
 で、退院して、家に保管していたアルコール類はすべて処分し、飲酒を断行することにした。結果は恐ろしいほどで、健康状態はみるみる回復し、11月にはγ‐GTPも200を切り、私は自分で勝手に禁酒を解禁することにした。ただ前のような飲み方はやめた。週に2~日、夕食時に缶ビールを1本飲む程度に飲酒量を減らした。こうして無事に2018年を迎えられそうである。

 今年1年がどういう年であったか、メディアはクリスマス明けから恒例の10大ニュースを競って発表しだした。それぞれの家庭でも。大晦日には家族そろってテレビを見ながら「我が家の10大ニュース」選びに熱中するのではないだろうか。
 今年最後のブログでは、私がこれまであまり書かなかった、来年以降にも持ち越されるであろう3つのテーマについて書く。
① 慰安婦問題。
② 建設業界の談合体質など経済事犯問題。
③ 脱原発問題。

今日は第1回目として、いったん「最終かつ不可逆的に解決」されたはずの慰安婦問題を取り上げる。
旧日本軍が引き起こした慰安婦問題が、いまだに日韓両国間ののど元に突き刺さったとげとして、年を越す懸案となってしまった。この問題に対する対応を誤ると、国際社会から日本国は国家としての尊厳を問われることになる。政府はそのくらいの気概を持って、この問題に取り組んでもらいたい。対応を誤ると、真っ先に被害をこうむるのは、おそらく在日韓国人になる。彼らが、心無い人たち(その人たちも日本人なのだが…)のヘイトスピーチの対象になり、心に癒しがたい傷を負うことになる。私たち日本人は「先の大戦」という重い荷物だけでなく、「人種差別民族」と言われても仕方がない過去を背負っている。「人種差別は日本人だけではない」という反発があるかもしれないが、それなら「日本人はこうやって人種差別を克服した」と、世界のお手本になりたいと私は思う。私たちが生きるこの国の尊厳は、私たち自身が作り上げていかなければならない。
いまさら河野談話が正確な事実に基づいていたのかどうかとか、金儲けの手段として「慰安婦狩り」の捏造「ノンフィクション」作品を発表して一躍時の「ヒーロー」になった吉田清治氏の罪をあげつらったところで、はたまた吉田氏を「ヒーロー」に仕立て上げた朝日新聞記事の偏向を追及したところで、いま振出しに戻ってしまった慰安婦問題の解決に一歩でも近づけるわけではない。
問題は、いまさら慰安婦問題の真実を解明することではない。歴史学者やジャーナリストにとっては、政治的に決着すべき問題ではなく、今後も出来うる限り真実を解明するための努力を怠るべきではないが、国家間においてはこの問題は政治的に解決済みの問題である。もはや日韓両国間に横たわっている懸案事項ではない。私はそういう認識からスタートする。
たとえば河野談話。安倍総理は一時、河野談話の作成過程の検証プロジェクトを立ち上げ、河野談話を否定しようとしたことがある。河野談話は短期間に一部の元慰安婦の「証言」を基に作成されたことはすでに明らかにされており、かつ「軍の関与」についても証拠はない。河野氏のリベラルな思想が、氏の思い込みを強めたきらいはあると思われる。また村山談話と異なり、閣議決定を経たものではないことも、河野談話の権威性が疑問視される理由になっている。だが、河野官房長官が慰安婦問題について「軍の関与」を認めた談話を発表したのは1993年8月だ。以降、20数年にわたって政府は河野談話を黙認してきた。いまさら見直すことは、政治に対する信頼を根底から覆す行為に等しい。メディアや学者が河野談話の検証を続けることは当然だが、政府が河野談話を否定するために作成過程を検証するというのは、国際社会からの批判を浴びてもやむを得まい。民間の研究や検証作業は尊重した上で、政府は真摯に慰安婦問題の解決に向けて韓国政府と話し合うべきだったし、またその結果としての合意であったはずだ。実際、合意内容は、多少の玉虫色的な部分はあったにせよ、「最終的かつ不可逆的な解決」に至ったことに、多くの日本国民は胸のつかえを下したのではないだろうか。
2015年12月28日、両国政府は「日本軍の慰安婦問題を最終的かつ不可逆的に解決した」と、それまで日韓両国間に横たわっていた懸案を解決した旨、国際社会に向かって高らかに発表した。合意事項の文書化はされなかったが(その理由は不明。文書化しなかった理由について、メディアはなぜ菅官房長官の記者会見の場で追及しなかったのか? 私自身、このブログを書くに際してネットで調べて初めて知った)、両国政府(直接的には交渉を重ねてきた日韓の外相)が記者会見を開いて発表した。「言った、言わない」のたぐいの蒸し返しはナンセンスだ。
韓国内で、この合意では不十分だ、という声が、その後巻き起こったらしい。朴前大統領を巡る様々な疑惑が少しずつ明らかにされ、最終的には朴前大統領は辞任を余儀なくされ、逮捕までされた。が、日本政府が朴政府との交渉過程で不正(贈賄など)を働いたというならともかく、少なくともそうした事実は明らかにされていない(絶対になかったとは言い切れないが…)。で、ある以上、国際間の約束事は政権交代が行われようと、遵守しなければならないというのが国際秩序を保つための基本的ルールである。
もし日本側が韓国・文政権の要求に屈して合意の破棄に応じて再交渉を始めるようなことがあったら、これは右とか左とか、あるいは保守とかリベラルとかの政治思想や政治的立ち位置の問題ではなく、国家としての尊厳を放棄することを意味する。ということは、韓国において前政権が行った国際間の約束事を、国内世論に押されて破棄しようとしている文政権は、自ら国家としての尊厳を放棄したことを意味する。これが、私の文理的解釈である。
政権が変わるたびに、前政権の約束事を破棄するといったことが許されるなら、そういう国とは今後いかなる約束も出来ないという、毅然とした姿勢を日本政府は示すべきである。もっとはっきり言えば「わかった。合意の破棄には応じてもいいが、日本政府は二枚舌を使い分けるような国とは、たとえ隣国であってもお付き合いしかねるので、今後二国間の直接交渉は一切しない。つまり国交を解消させていただく」と、韓国政府に最後通告を発すべきである。最後通告は、必ずしも宣戦布告を意味するものではない。
日本政府が、そうした毅然とした姿勢を示せば、国際社会は日本国と日本国民の誇りの高さを改めて認識してくれる。
さらに言えば、韓国の市民団体が韓国内だけでなく、アメリカの主要都市で韓国系アメリカ人が多い都市で「少女像」を建立していることにも、政府がいちいち神経をとがらせる必要もない。それどころか、ソウルの日本大使館前の「少女像」に、大使館員が毎日花束を手向ける「神対応」を示せば、韓国内の対日世論は逆転するかもしれない。「神対応」に感動するのは日本人だけではない。毅然とした姿勢と、大人の対応、それが今の日本外交に求められている。
慰安婦問題のぶり返しで、日本政府がどういう対応を示せるか…世界が注目している。



[追記]
27日午前1時過ぎに投稿したこのブログは、あらかじめ韓国で行われていた康京和(カン・ギョンファ)外相直属の作業部会が、慰安婦問題解決の日韓合意に至る過程を検証した報告書をこの日に発表することなど、私は全く考えてもいなかった。
ただ韓国政府が合意の見直しを進めようとしていたことは周知の事実であり、韓国政府が具体的な行動に出た場合のことを考えて、日本政府がとるべき姿勢について論じたまでである。
昨日の日本政府の対応は、河野外相の毅然たる姿勢に見られるように、国際間の約束事に対する重みを十分理解されていると思われる。このブログで私が蒸し返したように、日本も安倍総理がかつて「軍の関与」を認めた河野談話の作成過程の検証プロジェクトを立ち上げようとした時、それを支持した一部の国際感覚ゼロのメディアは別として良識あるメディアは一斉に批判した。私も河野談話が十分な検証をせずに、また閣議決定も経ずに官房長官としての地位を利用して自分の信念的感覚で発表した河野談話については厳しい批判をしたが、河野談話の発表直後に当時の政府が「必要にして十分な検証結果とは言えない」として再検証作業を進めることを明らかにしていればともかく、20数年間にわたって歴代政府が河野談話を黙認してきた以上、河野談話に示された慰安婦問題についての認識は国際社会に定着していると考えるべきで、いまさら安倍政権が作成過程の検証を行うということは国際社会における信義の問題になると批判してきた。
幸い安倍総理は「河野談話を見直すつもりはない」とプロジェクトを解散したが、同様の火の粉を今度は韓国政府が浴びることになる。
私はこのブログ記事で、日本政府は国交断絶の覚悟で対応すべきとしたが、いきなりは早すぎる。いま日本政府が取るべき対応は、「万が一、韓国政府が日韓合意を一方的に破棄するようであれば、日本政府としては冬季オリンピックへの参加を見送らざるを得ない」と内外に公表することであろう。こうした対応をすれば、この問題は一気に国際社会に拡散して、韓国政府は国際社会で孤立化する。そうなった時はじめて、韓国政府と韓国世論をあおった韓国メディアは、とんでもないことをしてきたことに気が付くだろう。
歴史認識はつねに勝者の側の認識が基準になる傾向が国際社会にはある。「勝てば官軍、負ければ賊軍」というわけだ。中国との間にくすぶっている歴史認識の相違についても、いまはとりあえず棚上げにして友好関係を深める方向に向かっているが、火種は残したままだ。日中間で経済摩擦が生じたり、尖閣諸島の帰属問題で激しく衝突したりするような事態が生じれば、旧日本軍の「残虐行為」が蒸し返されるのは火を見るより明らかだ。
そうした事態が生じないように、日中関係が良好な今こそ日中両政府が協力して、例えば「南京事件」などの歴史認識問題を可能なかぎり検証する作業を行っておくべきである。「いま、せっかくいい関係になりつつあるのだから、そーっとしておこう」といった事なかれ主義が、戦後70年たってもくすぶり続ける遠因になっていることに、そろそろ日本政府も気づいていいころだと思うが…。



































































































































































































































































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集団的自衛権容認だったのか、枝野私案は? 国会での憲法論議に一石を投じることにした。

2017-12-23 04:17:23 | Weblog
 21日のBSフジ『プライム』は憲法改正問題を巡って与野党の憲法調査会の幹部議員が本音で激論を行った。なかなか見ごたえがあったが、面白かったのは先の総選挙で大躍進を遂げた新党・立憲民主党の代表・枝野幸雄氏が、かつて集団的自衛権行使容認とも取れる私案を打ち出していたことを巡っての白熱した議論だった。自公だけでなく、希望の議員も枝野私案を集中攻撃、立憲議員がかわいそうになったほどだった。枝野私案についての私の見解は後で述べるとして、憲法論議に一石を投じることになることを期待して、今回のブログ記事を書くことにした。

 第2次安倍政権が発足したのは12年12月である。安倍総理は直ちに、集団的自衛権行使容認の理論的裏付けづくりを期待して、第1次政権時代に発足させ、退陣後はいったん解散していた「総理の私的懇談会」の安保法制懇を再発足させた。(※安保法制懇の位置づけについてはメディアによって異なり、朝日・毎日は「総理の私的懇談会」と位置付けたのに対して、読売・産経は「政府の諮問機関」と位置付けて権威付けを意図的に図った。もともと第1次政権時の位置づけは全メディアが「私的懇談会」と位置付けており、第二次政権で安倍総理が安保法制懇を再開したときも、閣議の場で安保法制懇に諮問したという事実はなく、菅官房長官も一度も安保法制懇について「政府の諮問機関」と位置付けて説明したことはない)
 集団的自衛権については、1972年に内閣法制局が「我が国が直接攻撃されていないにもかかわらず、密接な関係にある国が他国から攻撃された場合、他国に協力して共同で防衛する権利」と定義した上で、「我が国も国際法規上、固有の権利として持ってはいるが、憲法の制約によって行使することはできない」とする解釈がこれまで定着していた。
 が、安保法制懇は安倍総理の要望に応えて「我が国の存立が脅かされる事態には、限定的だが集団的自衛権を行使できる」という新解釈をねつ造して安保法制の理論的支柱にしようとした経緯がある。こうして集団的自衛権の行使を容認する安保法制を巡って与野党やメディアの論争にとどまらず、国民的議論が巻き起こり、安保法制反対の国民運動が全国各地で澎湃として生じたのが「平成の大闘争」である。
 この反対運動の担い手の主役として登場したのが学生たちの「シールズ」や「ママの会」であり、その流れで参院選や総選挙で野党の選挙協力を呼びかけたのが「市民連合」である。
 このブログで集団的自衛権問題をイチからぶり返すと、また1万字を超える長文のブログになりかねないので、要点だけ書いておくと、根拠となった国連憲章51条は「他国から攻撃を受けた国連加盟国は(※国連憲章が成立したのは先の大戦中の1945年6月で、国連が発足したのは大戦が終結したのちの10月である)個別的または集団的自衛の権利を行使してもいいよ」という趣旨の条文である。
 実は国連憲章は、終戦後の世界秩序の確立のために連合国が中心になって作った憲章で、日本の平和憲法の理念の原型ともなった。つまり、国際連合の加盟国は国際間の紛争が生じた場合、その紛争を武力によって解決することを禁じ、話し合いによる平和的解決を義務付けた。が、それまで世界の歴史は苦い経験を重ねてきており、例えば国際社会に対して「中立宣言」を行い、それを承認した国は当該国が他国から侵略された場合は、その国を共同で防衛する義務を負っていたにもかかわらず、実際には無防備の中立国が攻撃されても防衛義務を果たさず、侵略を傍観したという歴史的事実があり(国民皆武装で侵略を防いだスイスだけが侵略を免れた)、紛争が生じた時に当事者間の平和解決が不可能な場合は、国連安保理に非軍事的制裁を課したり(経済制裁など)、それでも解決できなかった場合には核攻撃も含むあらゆる軍事的解決手段の行使権能を付与することにした(憲章41条及び42条)。
 しかし国連安保理のうち常任理事国の5か国(先の大戦の戦勝国である米・英・仏・ソ・中。※フランスは厳密には戦勝国ではなかったが英チャーチルの強力な要請によって常任理事国になった)が拒否権を与えられたため、安保理に付与された紛争解決のためのあらゆる手段をとりうるという強力な権能を行使できないことが予想されたため、「安保理が紛争を解決するまでの間に限って」自国を防衛するための二つの軍事力の行使を認めたのが憲章51条である。つまり、侵略を受けた国が行使できる自衛権は、個別的(自国の軍事力。日本の場合は自衛隊)と集団的(同盟など密接な関係にある他国の軍事力。日本の場合は米軍)軍事力行使の権利である。それ以上でも、それ以下でもない。
 たとえば日本が他国から侵略を受けた場合は、日米安全保障条約の規定によって米軍が自衛隊に協力して日本を防衛する義務を負っており、それが日本にとっては集団的自衛権である。だからアメリカで日米間に貿易摩擦などが生じるとジャパン・バッシングの格好の理由として「安保タダ乗り論」や「日本人はアメリカのために血を流さなくてもいいのに、なぜ我々アメリカ人は日本のために血を流さなければならないのか」という安保条約の片務性を訴える主張が反日感情に火をつけてきたこともある。
 つまり72年の集団的自衛権に関する内閣法制局の解釈が文理性を欠いており、そのことをおそらく私だけが終始一貫して主張してきた経緯もあり、だから「集団的自衛権 誤解釈」や「国連憲章51条 誤解釈」をキーワードでネット検索すれば、憲法学者や大学教授連中の論文やメディアの論説を差し置いて、私が2014年6月10日に投稿したブログ記事『なぜ「集団的自衛権」の誤解釈が定着したのか?…岸元総理は日米安保の意味を正しく理解していたのに…」が、常に検索トップにランクされている。私の文理解釈はネット検索して、この記事を読んでいただければ反論の余地はないと自負している。
 自慢話は置いておいて、枝野氏の「改憲私案」問題に話を戻す。
 いったい枝野私案とはどういうものだったのか。『文藝春秋』の2013年10月後に掲載されたもので、『改憲私案発表 憲法第9条 私ならこう考える』という特集記事の中で枝野氏が発表した論文を指す。問題になった個所を転記する。

「我が国に対して急迫不正の武力攻撃がなされ、これを排除するために他に適当な手段がない場合においては、必要最小限の範囲において、我が国単独で、あるいは国際法規に基づき我が国の平和と独立及び国民の安全を守るために行動する他国と共同して、自衛権を行使することができる」
「国際法規に基づき我が国の安全を守るために行動している他国の部隊に対して、急迫不正の武力攻撃がなされ、これを排除するために他に適当な手段がなく、かつ、我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全に影響を及ぼす恐れがある場合においては、必要最小限の範囲で、当該他国と共同して、自衛権を行使することができる」

 実はこの枝野私案に対して今年11月5日、「これ(後段)は集団的自衛権ではないか」という指摘があった。それに対して枝野氏は、こう答えている。
「日本を守るために日本が発動するのは個別的自衛権です。日本を守るために米軍が行動するのは、米国にとっては集団的自衛権の発動ですが、その米軍と共同行動をとっても、日本にとって集団的自衛権の行使になるわけではありません。この点の誤解をされている方が多いようです」
 実は枝野氏の『文藝春秋』論文には、直接的には「集団的」という表現は一か所もない。ただ、二つの文章をよく読み比べると、前段が日本の「個別的自衛権」を意味し、後段は日本の「集団的自衛権」を意味していると解釈できる。枝野氏の弁解は、やや無理がある。枝野氏自身が、集団的自衛権についての正確な理解に欠けていたためと思われる。
 かといって枝野氏を責めるつもりはない。私のブログ記事を読んでいない方のすべてと言ってもいいほど、集団的自衛権に対する理解として、72年の内閣法制局の解釈が頭にこびりついてしまっているからだ。
 また内閣法制局自体が、米ソ両大国の「自己都合」解釈をまともに受け入れてきたことに、そもそもの原因がある。
 よく考えてみてほしい。戦後、集団的自衛権を「行使」してきた国は、アメリカとソ連だけである(例外はゆいつ湾岸戦争)。湾岸戦争の発端はフセイン・イラクが突如クウェートに侵攻したことによって勃発した。先の大戦以降、他国による侵略行為は、この一つだけしかない。ただ、先の大戦までの侵略戦争とは一線を画す必要があるのだが、このブログではイラクのクウェート侵攻には踏み込まない。
 しかし先の大戦後、アメリカとソ連は「集団的自衛権」を何度も行使してきた。どういうケースだったか。侵略戦争は一度も生じていなかったのに…。
 そう書けば、読者の皆さんは「あっ」と気が付かれるだろう。それでもお分かりにならない方は、申し訳ないが、論理的思考力が中学生レベル以下であり、私のブログを読む意味がない。私はいかなる読者も排除するつもりはないが、理解できない読者にとっては時間の無駄というアドバイスをしているだけだ。
 国連憲章は国内の内紛を想定していない。だから国連憲章が安保理に付与した紛争解決のあらゆる権能は、「国際間の紛争」に関してだけである。ベトナム戦争でアメリカがフランス(ベトナムのかつての宗主国)と南ベトナムのゴ・ジェンジェム政権の要請でベトナム内戦に軍事介入したケースなどを、アメリカが「集団的自衛権の行使」と正当化してきたことが、そもそも日本でも大きな誤解釈が蔓延するようになった遠因だった。
 また、そのような米ソの「自己都合解釈」をそのまま認めることが、72年当時の日本政府にとっては好都合だったのかもしれない。
 上の2行に網掛けをしたことの意味がお分かりだろうか。日本の政治家やジャーナリストは「ものすご――くお人好し」のせいか、72年の内閣法制局解釈についても、「当時の政府には、そういう解釈をする必要性があったのかも…」という素朴な疑問を抱いて、改めて検証してみようという習性がない。
 実は、この年5月に沖縄が日本に返還されている。またその少し前の70年には日米安全保障条約の自動延長があり、日本は高度経済成長の真っ只中にあった。1ドル=360円というブレトン・ウッヅ体制下で日本製品の国際競争力は急速に強化し、アメリカは対日貿易赤字に苦しんでいた。71年8月、ニクソン米大統領は一方的にドルと金の兌換を停止(いわゆるニクソン・ショック)、先進10か国の蔵相が米スミソニアン博物館でドル切り下げを決定、1円=308円にレート変更された(この新固定レートも長くは続かず、73年には変動相場制に移行する)。貿易赤字と財政赤字という双子の赤字に苦しんでいたアメリカは、沖縄返還の代償としてアジアにおける自由主義陣営の防衛について、当時の日本の国力に応じたそれなりの貢献を要求していた可能性がある。が、日本政府としては、為替レートの変更による産業界への打撃に加え、アジア防衛の片棒まで担がされたのではたまらないと考えたのではないか。なぜ72年という時期に内閣法制局が集団的自衛権の定義をわざわざ行い、憲法の制約によって行使できないとしたのか……。そのくらいの疑問は持ってよね。大学くらい出てるのだから。

 枝野氏が立憲民主党の党首にならなければ、また立憲民主党が最大野党に躍進していなければ、おそらく蒸し返されることもなかったであろう4年も前の雑誌論文が、いまごろになって急浮上したのは、2020年憲法改正を自身の政治生活の総仕上げにするつもりの、安倍総理とその取り巻きによる策略としか言いようがない。
 枝野氏自身は、この記事は「集団的自衛権の行使を容認したものではない」と主張し、12月2日にはツイッターで「自身が民主党時代に公表し、集団的自衛権の行使容認を含む憲法改正私案について『有効ではない』と述べ、撤回した」と日経が報じた記事を引用、この問題に蓋をしようとしたが、民進党から希望の党に鞍替えした長島氏が批判を展開、21日の『プライム』でもこの問題がぶり返されたというわけだ。長島氏の批判は以下のとおり。
「???明らかに、容認しています。当時、私はそれを直ちに支持しました。笑 容認していないのならば、なぜ今になって撤回するのでしょうか?一度自ら公開論文として提案したものなのですから、どの点で誤りに気付いたのか、考え方を変えたのか、きちんと説明する責任があると思うのですが如何」
 確かに私が読んでも、枝野氏の記事は前文は個別的自衛権について語り、後文は集団的自衛権について語っているとしか受け取れない。この問題をあいまいにしたまま国会での憲法論戦に入っていくと、立憲民主党はかなり苦しい戦いを余儀なくされる。やはり率直に、集団的自衛権についての自分の考えが、72年の内閣法制局見解に引きずられていたため、論理的整合性に欠けた主張をしていた時期があったと認めたうえで、「個別的自衛権も集団的自衛権も、日本が攻撃された時に日本が行使できる権利であり、個別的自衛権は自衛隊の軍事力行使を意味し、集団的自衛権は、個別的自衛権の行使だけでは攻撃を阻止できないときに国連や同盟国のアメリカに支援を要請できる権利である。したがって、日本が攻撃されていないにもかかわらず、自衛隊が米軍の支援を可能にした安保法制は違憲法案であり、その違憲性を糊塗するような憲法9条の改正は、いかなるな条文であろうと認めることはできない」という論理で改憲派に立ち向かうべきであろう。そういうスタンスを確立することが、安倍総理の野望を打ち砕くゆいつの道である。
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志位委員長はなぜ総選挙大惨敗の責任を問われないのか……日本共産党の体質を問う。

2017-12-17 02:19:55 | Weblog
日本共産党とはどういう組織なのか。
国会中継やテレビ討論などでは時々いいことを言うなと思うこともあるのだが、今回の総選挙で21議席→12議席へと大敗しても、執行部はだれも責任をとろうとしない。執行部の責任を追及する党員すら一人もいないのはなぜか。
「野党共闘で立憲民主党と選挙協力したから」という言い訳だけが聞こえてくるが、もともと共産党候補者は小選挙区ではほとんど勝てない。今回の選挙では沖縄1区で赤嶺氏が普天間基地問題の追い風を受けて当選したが、志位委員長をはじめ他の10人は全員比例ブロックでの当選である。立憲民主党との選挙協力で当選者が減ったわけではなく、比例区で大敗したというのが実態だ。
では、共産党への支持率が大幅に低下したのかというと、実はそういうわけでもない。政党支持層が固いのは公明・共産・自民の3党である。とくに共産党は政党助成金を必要としないほど固い支持層を誇ってきた。共産党と同じく組織票という固い支持層に支えられている公明党もやや当選者を減らしたが、共産党のような大惨敗ではない。それでも公明党の支持母体の創価学会では執行部の責任論が浮上しているという。ナノに、大惨敗した共産党では執行部の責任論がまったく浮上していないのだ。責任ある公党として、党内民主主義が機能していないのか。
あっ、そうか。共産主義と民主主義は相容れない概念だったのか。北朝鮮は国名に「人民民主主義」という6文字を入れてはいるが、彼らにとって民主主義とは「独裁主義」の別名にしか過ぎないことはだれも否定しない。いや、そもそも朝鮮語を日本語に翻訳した誰かが「独裁」を誤訳して「民主」と訳してしまい、それがいつも間にか定着してしまったのかもしれない。
正直、私も若いころはマルクス思想にかぶれた時期があった。革命を目指し、職業革命家になろうと考えたこともあった。
が、私の性格で、いかなることも妄信しないという論理的懐疑心が、マルクス思想への疑問を駆り立てることになる。私は学生時代、学業そっちのけで過激派の学生運動に身を投じた。「反帝反スタ」をスローガンに掲げた過激派組織の論理は黒田寛一という人を教祖にしていた。黒田氏の「反帝=反スタ」論は「場所的論理的同一性」という、当時は私もこの意味不明な表現に無性にカッコ良さを感じたものだった。当時の風潮として、感性に訴える非日常的表現がもてはやされていた時代で、「疎外」とか「アウフヘーベン」「止揚」などといった哲学用語が日常的に使われ、そういう言葉を乱発することのカッコよさと、意味も分かっていないのに、そうした言葉を使うことでわかっているかのような錯覚と自己満足に浸っていた時代でもあった。
私はそれなりにヘーゲルやサルトルなどの哲学書を読みふけり、私なりの理解を深めていたつもりだったが、そうした私の目からすると、哲学用語を今日でいう「流行語」のように浅はかに口にしてわかったようなふりをしている連中が不愉快でたまらなくなった。
とりわけ「反帝」と「反スタ」がなぜ革命の同一目的になるのか、なぜ「反帝」と「反スタ」が場所的論理的同一性なのかが、私にはどうしても理解できなかった。「論理的」の意味くらいは理解できないこともないが、黒田氏の造語である「場所的」の意味が私にはまったく理解できなかった。当時は、自分の感性を日常用語では表現できないような場合、自分だけが感性的に最もふさわしいと考えた言葉を造ることが、いっぱしの文学者であり哲学者であるかのような風潮が蔓延していたせいもあったと思う。
で、私は黒田氏とは全く別の方法で、なぜしいたげられた人たちのために革命を起こした革命家たちが、権力を握った途端独裁政権の樹立に奔走するのか、またどうしてそういうことが可能になったのかを、マルクス思想の原点にさかのぼって、原因を遡及することにしたのだ。
そして私なりに得た結論は、マルクスの「社会主義社会と共産主義社会における生産と分配」論と「プロレタリア独裁」論に、革命後の政権が腐敗したあらゆる原因があると確信するに至ったのである。
まずマルクスの「生産と分配」についての定義。
●社会主義社会では、人々は能力に応じて働き、働きに応じて受け取る。
●共産主義社会では、人々は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る。
次いで「プロレタリア独裁」についての主張。
●資本主義社会から転化する過渡期においての国家は、プロレタリアによる革命的独裁の時期が必然。
この考えが、いわゆるスターリン主義の原点にあることに、私は気付いた。つまりスターリン主義はマルクス主義を信奉する共産主義者たちの革命が成功した場合の必然的結果だったのだ。その論理的解明を行う。おそらく歴史上はじめてのことだと思う。
社会主義社会や共産主義社会における、マルクスが定義した「生産と分配」のあり方は、資本主義社会の健全な発展を追求したケインズも否定はしないだろう。本当にそういう仕組みを作ることが出来るならば、の話だが…。
社会主義社会においても共産主義社会においても、マルクスが分配の前提とした「人々が能力に応じて働く」ことが出来るようにすることは、資本主義社会においても資本家や会社経営者が永遠に追い求めている「青い鳥」だ。
たとえば、私が日本の総理大臣としての能力を持っていたとしよう。で、どうしたら私は総理大臣になれる? 私が自分で決めることが出来るのか? もしそうしたことが可能なら、日本には数万人の総理大臣が誕生することになる。ひょっとしたら数十万人、数百万人かもしれない。人間は誰でも自分の能力を過信する傾向があるからだ。
と、なれば、いったい誰が私に総理大臣の能力があると決め、総理大臣に任命することが出来る? 総理大臣は最高権力者だから、だれも決める力を持っている人はいない。では、私は少し我慢して「影の総理」と言われる官房長官に地位に甘んじることにしよう。官房長官の地位なら、その上に総理大臣がいて、「お前を官房長官にしてやる。その代り、俺には絶対逆らうなよ」と約束させられ、私は官房長官の地位に就くことが出来たとする。官房長官の地位に就いた私は、総理大臣の2分の1か3分の1くらいの人事権を持つ。当然、私は私の地位を脅かすような能力のある人間は遠ざけ、私に忠実な人物を登用する。こうして「鉄のピラミッド」のごとき官僚組織が完成する。
「能力に応じて働く」社会のシステムは、資本主義社会でも社会主義社会・共産主義社会でも、結果的に変わらない。ただ、資本主義社会には欠陥だらけではあっても民主主義という機能が作用するから、絶対的な独裁権力を築くことは極めて困難である。が、社会主義や共産主義の社会ではどうか…。その検証は、「分配」の検証の後でする。
マルクスは「分配」については、社会主義社会では「働きに応じて」、共産主義社会では「必要に応じて」と定義した。「必要に応じて」は置いておくとして、資本主義社会でも資本家や経営者は、労働者に対して「働きに応じて」昇給したり減給したりすることが理想的と考えている。問題はどうやって「働きに応じた分配の方法」を構築するか、だ。
安倍総理は成長戦略の一環として「成果主義賃金制度」や「同一労働同一賃金制度」を実現しようとしている。まさに、マルクスが理想とした「生産と分配」の体系ではないか。日本共産党は、「ついに安倍内閣はマルクスの軍門に下った」と、大喜びしてもいいはずだ。あっ、それで志位さんは先の総選挙で大敗北しても、委員長の地位が安泰なのか?
資本主義社会であろうと社会主義社会であろうと、分配(給与などの収入)が「能力に応じて働いた」結果(成果)に対する対価と考えると、いったい誰が「能力に応じた仕事」を与え、仕事の成果をどういう基準で査定するかという悩ましい問題が残る。最近人事や社員の成果に対する査定にAI(人工知能)を導入しようと試みる会社が出てきたが、それは人間(上司や人事部)が査定することの困難さを企業トップも認めたことの証左でもある。もちろんマルクスが、将来「能力と労働の成果」をコンピュータが査定する時代が来るなどということを想定して「生産と分配」の関係を論じたわけではない。
資本主義社会(あるいは自由主義社会、民主主義社会と規定してもいいだろう)では、まだ弱者には救済方法がある。「自分の能力が正当に評価されていない、成果に対する報酬(給与)が不公平だ」と思えば、自分の能力を正当に評価してくれそうな会社に転職する自由がある。が、社会主義や共産主義の社会では、そうした自由がまったくない。完全に上司が部下の生殺与奪の権限を握っており、またそうした「鉄のピラミッド」の支配体制に対し、マルクスが「プロレタリア独裁」論によってお墨付きを与えてしまったからだ。私に言わせれば、マルクスは彼自身の善意や理想とは裏腹に、世界人類を最も不幸にした思想家ではないかと、私は思っている。歴史上、彼ほど世界人類に大きな思想的影響を与えた人物はいないからだ。
共産主義社会になると、もっと滑稽な事態が生じる。「権力」がなくなり(人類すべてが完全に平等になるから「権力」は存在しなくなる)、「人々は必要に応じて受け取る」ことが出来るという。もちろん何かを必要とするかしないかは自分で決められる(もし自分が決められないとなると、そこには必ず「権力」が必要になる)。さあ、世界中のすべての女性が2カラットのダイヤモンドを「自分には必要だ」と主張したらどうなる。暴力によらず、平和的に分配するには、どうしても「分配を決めるための権力」が必要になる。「権力」というのは、人類社会が組織の存続を維持するために、原始社会の時代から事前発生的に必要としてきた。「権力」を完全否定するのは、実はマルクスが忌み嫌ったアナーキズム(無政府主義)でしかあり得ない。どこまで「青い鳥」を追いかけても、人類社会から「権力」を廃棄することは不可能であり、事実アメリカが独裁者・フセインを抹殺した後のイラクは無政府状態になり、「イスラム国」(IS)なるテロ組織が台頭したではないか。
またいかなる組織(国家も一種の組織と言える)においても、組織の権力者が最優先することは権力の維持である(歴史上、例外がまったくなかったわけではない。たとえば徳川幕府最後の将軍・慶喜は日本国家の分裂による外国からの侵略を防ぐために、将軍職を放棄して大政奉還に踏み切った)。権力を維持するために、マルクスが歴史的必然とした「プロレタリア独裁」論は、権力者にとってこれ以上都合のいいお墨付きはなかったことはすでに述べた。共産主義体制の国の権力者が、マルクスを神格化してきたのは、そうすることによって地位の保全を図ることが出来たからだ。
「権力は腐敗する」とは言い古された名言だが、必ずしも権力者自身が権力を行使して、例えば不正蓄財を図ったりするからとは限らない。権力者は、自らの権力を強固なものにするため、強力な人事権を駆使して信頼できる人物で周囲を固める。そうした行為は、別に共産主義社会に特有なことではなく、日本が戦後、民主主義のお手本としてきたアメリカで、現に権力を握ったトランプ大統領が行ってきた人事が明白に物語っている。
 私は5月か6月ごろに書いたブログで、「忖度」が今年の流行語大賞の本命になると予想したが、ただ「忖度」という言葉がジョーク交じりにあちこちで使われるようになることを予想していたわけではない。山本七平氏が、その生涯をかけて解明しようとしてきた日本人の精神構造の根幹をなす要素の一つであることを、いみじくも籠池氏が口に出したことで、「忖度すること」が日本社会では組織の潤滑油になっていることを、籠池氏自身は意図せずに明々白々にしてしまったからだ。山本氏自身は、私が知っている限り、忖度という日本社会の根っこにある精神風土を解明していない。「空気」や「水」という言葉に着目したのは彼らしいが、「空気」や「水」を形成している日本社会の精神風土こそ、まぎれもなく「忖度すること」であり、日本社会では良好な人間関係の維持に欠かせない要素なのだ。
 だからモリカケ問題にしても、安倍総理自身が友人のために直接便宜を計らったりしたつもりはないかもしれないが、例えば安倍総理が加計氏との親密な関係を萩生田氏に見せかける行為自体が、萩生田氏に「忖度を働かせろよ」と暗示しているに等しい行為なのだ。権力者は、そういう方法で、自らは手を汚さずに権力を不正に行使することもあるという恰好なケースでもある。
 ただ民主主義社会では、メディアが権力に対してチェックを怠らないし、メディアを通して国民も権力に目を光らせることが出来る。野党も国会で手厳しく追及できる。が、そうした機能が社会主義・共産主義の国には一切ない。むしろ、権力者を守るために秘密警察が反体制派と目した人物は徹底的にマークする。メディアの報道も検閲されるし、SNSでの権力者批判は直ちに削除される。日本共産党は、いまでは「反スターリン主義」を口先では標榜しているが、日本共産党の「反スターリン主義」が意味することはスターリンの残虐性に対する批判であって、それ以上でもそれ以下でもない。
歴史上、暴君ネロはひょっとしたらスターリン以上に残虐な暴力政治を行ったかもしれないし、そうした残虐性は属人的要素によることが多い。現代社会でも、暴力と弾圧によって批判勢力を封じ込めて支配体制を構築している権力者は少なくない。日本共産党は今では「反スターリン主義」を標榜しているが(過去にはスターリンに盲従していた時代もあり、今日では「間違いだった」と認めているが、「なぜ間違ったのか」の総括はいまだにしていない)、「反スタ」の旗を最初に掲げた黒田氏や氏の後継者たちもいまだに「スターリン主義とは何か」の定義すらしていない。
そもそも「スターリン主義」と規定できる、何らかの政治思想体系があるのか、私はすでに述べたように学生運動に熱中していたころから疑問を抱いてきた。暴力と弾圧による支配体制のことを「スターリン主義」というなら、現代の資本主義国家にもスターリン主義者は数多く存在するし、北朝鮮の金正恩委員長やシリアのアサド大統領もスターリン主義者ということになる。
かといって、暴力によらずして独裁体制に近い権力者も、現に今の日本にいるではないか。暴力的残虐性を伴うか否かは、独裁体制とは必ずしも直結しないし、いわゆる「スターリン主義」とは何の関係もない。
かなり前にもブログで書いたが、安倍政権は必ずしも社会的強者優先の政治は行っていない。経済団体に対して毎年、執拗に労働組合委員長顔負けの賃上げ「闘争」を行っているし、高額給与所得者への税負担強化や低所得層への税負担軽減も進めている。「働き方改革」で、若い能力のある人にとって働き甲斐のある社会を作ろうと、「同一労働同一賃金」という社会主義的賃金体系を法制化しようともしている。日本共産党は、なぜ安倍政治のそうした側面を評価して、安倍政権が進めようとしている社会主義的政策をバックアップしようとしないのか、私には不思議でならない。

私は第1次安倍内閣がスタートさせた安保法制懇のときから、当時の安倍総理が考えている日本の「安全保障」についての考えを批判してきたし、集団的自衛権行使容認が憲法9条に抵触する以前に、国連憲章51条に抵触することを数限りなくブログで告発してきた。北朝鮮問題に関しては、日米同盟の深化が、かえって日本の安全保障を危うくしていることを、おそらく日本で唯一指摘してきた。もし、日米同盟の深化が、日本の安全保障の強化に寄与しているなら、日本が防衛力を強化しなければならないのはおかしいではないか…私はそういう疑問を持たざるを得ないとも主張してきた。この単純な疑問は、単純だからこそ誰も否定できない。
いわゆる「共謀法」については、私は判断できないとブログで書いたことがある。計画段階から犯罪容疑として捜査をするという、277もの対象案件の中身がまったくわからないし(メディアが報道しないから)、ただすべてをひっくるめて「事前(犯罪が行われる前の計画段階から)捜査は人権侵害だ」という主張には、無条件には納得しかねるからだ。実際、20年前に「共謀法」が成立していたら、オウム真理教のテロ事件は未然に防げたかもしれないと思うからだ。
またアベノミクスについては、少なくとも金融政策については失敗すると、私は最初から書いてきた。「少なくとも金融政策については」と但し書きを加えたのには、もちろんそれなりの理由がある。第2次安倍政権が誕生した時のアベノミクスは3本ではなく2本だった。覚えている人が、政治家やメディア界の人でもどのくらいいるか? 別に威張るわけではないが、私の記憶力は人並みすぐれて劣っている。だから学生時代、記憶が重視される学問はことごとく不得手だった。英語、社会、化学や生物などの理科、得意だった数学や物理も、高3になってやたらにたくさんの公式を覚えなければならない微積分や電気が教科に入ってきた途端、大嫌いになったくらいだ。
だからアベノミクスについて記憶しているのは、ブログで徹底的に批判を繰り返してきたからだ。それもエコノミクスのような方法論ではなく、中学生にでも理解できるような単純な論理で検証したからである。
最初のアベノミクスの2本の矢は、①大胆な金融緩和によるデフレ不況からの脱却、②大規模な財政出動による公共事業の推進、であった。3本目の柱である「成長戦略」が加わったのは、政権発足の3~4か月後である。アベノミクス批判は散々してきたので、ここではもう繰り返さない。詳しく知りたい人はネットで「小林紀興 アベノミクス批判」で検索してみてほしい。
いずれにせよ戦後最長の政権になることがほぼ確実になった安倍政権の功罪は、田中角栄政権と同様、政治史の検証対象になることだけは間違いない。

私が、この日本共産党の検証ブログで安倍政治にまであえて触れたのは、実は日本共産党の「宗教性」を明らかにするためであった。これまで選挙のたびに順調に票を伸ばしてきた共産党は、自分たちの主張が国民から支持され出したと、思い上がってしまった。しかしNHKの月例世論調査における政党支持率には、とくに共産党躍進をうかがわせる数値は反映されていない。今年に入ってからの支持率の推移は、3.2→4.4(2月)→2.8→3.2→2.7→2.7→3.3→2.8→2.6→2.7→3.1(11月)で、スポーツ競技の採点方法のように最高と最低を除いて平均値を計算すると支持率は2.9となる。総選挙が行われた10月は平均値より0.2ポイント低いが、その程度の差は誤差の範囲内で、共産党支持者が減少したとは言えない。つまり、これまで共産党の議員がほとんどの選挙で増え続けてきたのは、共産党の支持層が厚くなったわけでも何でもなく、他に選択肢がなかった無党派層が気まぐれで共産党に1票を投じただけのことだったのである。そういう現実を冷静に分析することなく、この世の春を謳歌するがごとき姿勢で野党共闘の柱になろうとした思い上がった姿勢が、今回の総選挙で無党派層から手厳しく扱われたと考えてもいいだろう。
ということは、これまでの選挙戦術をリードしてきた志位執行部の責任であり、なぜ党内で執行部責任を問う声が上がらないのか…そこに共産党が抱える最大のジレンマがある。つまり、党内民主主義が共産党にはそもそもないのだ。スターリン主義を民主主義に対峙する組織体制だと考えると、日本共産党こそスターリン主義のかたまりのような組織と言っても過言ではない。執行部の責任を問う声も上がらなければ、執行部から責任を痛感する声も出ない。これはもう、宗教組織としか言いようがないではないか。
 

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最高裁のバカげたNHK裁判の判決が引き起こした波紋が…。

2017-12-13 04:23:35 | Weblog
 昨夜、時事通信社が以下の記事をネット配信した。記事のタイトルは『NHK、受信料の負担軽減検討=支払困難の視聴者対象』である。
 私は12月7日投稿のブログ『NHKとの契約・受信料義務化裁判で最高裁大法廷のロートル判事が下したアナクロニズムな判決とは…』と題した記事で、最高裁判事(裁判官)は六法全書を暗記できるだけあって記憶力は抜群だが、論理的思考力は中学生以下だと断じたが、どうやら時事通信社の記者も同様のようだ。あっ、ごめん。論理的思考力は中学生以下だと思うが、記憶力が最高裁判事ほど抜群かどうかは私の知ったことではない。
 私のブログ読者も、時事通信社の記者の論理的思考力が中学生以下であるか否かを、転載した記事を読んで(タイトルも含めて)考えてみてほしい。私が駆使している論理的思考方法の一端を垣間見ることが出来るかもしれない。

 NHKは12日の経営委員会で、受信料の負担軽減策を検討する方針を固めた。一律値下げではなく、経済的に支払いが困難な視聴者が対象になるもようだ。2018年度からの次期3カ年計画に盛り込む。

 経営委終了後、石原進委員長(JR九州相談役)が明らかにした。経営委は同日、負担軽減の具体策検討を外部の有識者で構成する受信料制度等検討委員会に諮問した。答申をふまえて、今年度中に負担軽減策を決める。

 NHKは現在、生活保護受給者や社会福祉施設入所者、重度の障害者らを対象に受信料の全額または半額を免除している。負担軽減策では減免の対象拡大が議論される見込みだ。

 放送センター建て替え資金を積立金で賄える見通しが立ったため、視聴者への還元策が検討課題となっている。16年に当時の籾井勝人会長が受信料の一律値下げを提案したものの、経営委は見送った経緯がある。

 時事通信社記者の頭の悪さがお分かりいただけただろうか。
 とりあえずヒントを差し上げよう。
NHKの受信料制度は世帯及び事業所単位になっている。受信料の額は同一だが、受信料支払いの「義務」の基準は異なる。世帯にかかる受信料は、その家に何台テレビがあろうと一律だが、事業所の場合はテレビの設置場所ごとに受信料が発生する。しかし事業所でテレビを見ている人は、自分の家でもテレビを見るだろう。NHKは受信料を二重取りしていることになる。
これだけのヒントでは記者の頭の悪さをお分かりにはならないだろうから、もう一つ決定的なヒントを差し上げる。
放送法64条1項はNHKとの契約の義務についてこう記載している。「協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない(以下略)」と。この条文によれば、NHKと受信契約を義務付けられているのは「受信設備を設置した者」である。

「ものすご―――く、大きな」(ごめん。『笑点』の見すぎだった)ヒントを差し上げたのだから、もう賢明な読者はお分かりと思うが…。
 放送法は明確に「設置した者」と契約義務者を規定している。設置した者は当然だが、人間である。「世帯」という運命共同体と同一視しているのはNHKの勝手な解釈であって、最高裁判所の判事はこの根本的な矛盾に気づいていない。それに事業所からも、それも設置した場所ごとに契約を要求するのは、安倍総理の「自衛権超拡大解釈」による安保法制よりえげつないと思わないか。
 まず、時事通信記事の基本的誤りの一つは「契約者」=「視聴者」と勝手に決めつけ、最高裁判所判事以上に放送法の理解が出来ていないことだ。改めて強調しておくが、NHKが契約を迫り受信料を請求しているのは個々の視聴者ではなく、世帯の場合は世帯主、事業所の場合は経営者である。NHKの主張や最高裁判事の判決を、何の疑問も持たずに「あ、そうですか」と納得してしまうから、こういうおかしな記事を書いても平然としていられるのだ。
 同記事にはこうもある。「NHKは現在、生活保護受給者や社会福祉施設入所者、重度の障害者らを対象に受信料の全額または半額を免除している」と。この記事はフェイク・ニュースである。家族に生活保護受給者がいても、一人でも生活保護を受給していない人がいる世帯からは容赦なく受信料をとりたてている。生活保護を受給している人が「テレビを設置したのは私だ。だから契約の義務も受信料支払いの義務もない」と主張しても、「でも生活保護を受けていない視聴者がいるでしょう」と、法律を無視したことを言う。
 すでにブログで何回も書いてきたが、法律そのものが、テレビは一家に1台の時代から一人1台、1部屋1台へと広がって言っている時代を反映していないアナクロニズムな状態になっていることに基本的問題がある。もちろん、そういう状態を長年放置してきた政府と、そうした状況に胡坐をかいてきたNHKの責任ではある。最高裁判所判事は法律の専門家でありながら、放送法そのものが時代錯誤の状態になっていることに気付かないアホだということが、今回の判決で証明された。
 今回の判決では、注目されていたスマホやタブレットなどの端末については触れなかった。触れなかったということは契約と受信料支払いの義務を認めなかったことを意味する。放送法64条は明確に「協会の放送を受信することのできる受信設備」と記載している。当然スマホやタブレットも対象になる(受信できない端末も一部ある)。なぜ最高裁判事は、スマホやタブレットでテレビを受信している人を放送法64条の対象にしなかったのか。やはり最高裁判事は間が抜けているとしか言いようがない。
 実は放送法64条1項には、私が「以下略」とした部分にこういう記載がある。「ただし、放送の受信を目的としない受信設備…を設置した者については、この限りではない」という但し書きだ。確かにスマホやタブレットは「放送の受信を目的」とはしていないかもしれないが、「協会の放送を受信できる」機器であることは否定できない。スマホやタブレットを「放送の受信を目的としていない」とするなら、「私は確かにテレビを設置してはいるが、放送の受信が目的ではない。DVDを見るためのモニターとして設置した。テレビ以外に専用のモニターはどこにもないからね」と言い張る人が出てきてNHKが提訴したら、裁判官は頭を抱えることになる。
 そもそも放送法が時代錯誤なものになっていることを、メディアはしっかり認識してほしい。そしてNHKの受信料体系がすでに制度疲労を生じていることも混乱を招く原因になっている。その原因も法律のアナクロニズム化を放置してきた政府とNHKの責任なのだが…。
 受信料問題を根本的に解決するには、放送法もNHKの受信料制度も「受益者負担」の原則を確立することから始める必要がある。具体的には目に障害がある人を除き、1歳児以上のすべての人に(観光目的の短期滞在の外国人は除く)、一律受信料の支払いを義務化することだ。そうした制度改正の上で、生活保護受給者や障碍者への免除、住民税非課税などの低所得層への軽減処置を制度化すべきではないか。
 さらに受信料支払いの義務化を法制化する以上、NHKは契約者(=思潮社)との間に対等な「権利と義務」に基づく同意が必要になる。もちろん個々の契約者との間でいちいち同意を取り付ける必要はなく、法律でNHKの放送内容(コンテンツ)について公共放送としてふさわしいものであることを義務付ければいい。法律は私たち国民が選出した国会議員たちが、立法府である国会で決めればいい。国会で法律が成立すれば、国民との間に同意が成立したことになるからだ。
そして会計検査院のような独立したNHKの番組に対する検査機関を設置し、視聴者からの告発に基づいて放送の停止を命じることが出来るくらいの権限を与えることも必要だ。
 またNHKそのものの再編成も必要だろう。BS放送はもともとはアナログ放送時代の難視聴地域対策として始まったいきさつがある。いま地上波がデジタル化して難視聴地域対策としてのBS放送はその使命を終えた。
 BS1などはNHK総合よりも公共性の高い番組も放送しており、そうしたコンテンツは地上波に移行して、BS部門を分離民営化し、地上波放送で行っている娯楽番組の大半はBSに移行してしまう。朝ドラや大河ドラマ、紅白歌合戦のようなNHKの遺伝子的番組は地上波に残してもいいが、民放と競い合うような娯楽性が高いドラマなどは基本的にBSに移す。
 NHKのBSが民営化されて良質な娯楽番組を提供するようになれば、テレビ離れが急速に進んでいると言われる若者層を、再びテレビの世界に取り戻すことも可能になる。そうなれば民放もBSに力を入れざるを得なくなるし、クライアントも戻ってくるだろう。考えようによっては最高裁のバカげた判決は、NHK改革の大きな契機になるかもしれない。
 
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安倍総裁3選の芽は消えたのか?--モリカケ疑惑隠し総選挙の圧勝で危機を乗り切ったはずだったのに…。

2017-12-11 05:50:06 | Weblog
 中央省庁の官僚(特にキャリア組)は、「空気」を読むのが出世競争に生き残るための必要十分条件である。「空気」を読み損ねると、一気に出世街道のレールから外れてしまうからだ。
 財務省理財局長から国税庁長官に出世した佐川氏の場合はどうか。
 東大経済学部を1982年に卒業して大蔵省入省、主流の税務畑を歩み、88年に近畿財務局理財部長、2004年主計局主計官、08年主税局総務課長を経て16年6月に理財局長に就任、この時期に国有地の森友学園への払い下げ問題で国会に参考人招致され、「森友学園側との交渉記録はすべて破棄したが、法令どおりに交渉は行った」と証言、安倍総理や昭恵夫人への疑惑波及を防いだ功績で17年7月には国税庁長官に昇格した、と言われている人物だ。佐川氏にとって残るポストは、財務省事務次官だけで、これまでは最有力視されてきた。
 が、前回のブログで書いたように、佐川氏の運命が一転しそうなのだ。事務次官ポストが危なくなったどころではなく、更迭の可能性すら急浮上したようだ。が、国税庁長官に地位にある人を更迭するにしても、財務省にはそういう「偉いさん」を遇するポストがない。かといって天下りは今禁止されており、とりわけ佐川氏の人事にはメディアが目を光らせているから、行き場がない。文科省の天下り問題で責任をとらされた前川氏と同様、当面は浪人するしかなくなる。
 もし、そういう事態になると、安倍総理としても安穏としていられない。前川氏の場合、頭にきて内部告発に踏み切ったのかどうかは知らないが、佐川氏がもし前川氏のように「どの道、自分の人生は終わった」とやけくそになって内部告発に踏み切ったら、安倍総理とお友達閣僚たちの運命はどうなるか? 「神のみぞ知る」ということかな…。

 11月1日に安倍第4次内閣が発足して40日になる。
 野党から「モリカケ疑惑隠し」と批判を浴びながら、北朝鮮からの「襟裳岬上空をかすめる弾道ミサイル発射」という「たなぼた」的プレゼントが届いたのを危機脱出の絶好の好機ととらえて臨時国会冒頭で解散し、その作戦が見事に効を奏して総選挙で圧勝して再び「安倍一強体制」をいったん回復したものの、9日に閉会した特別国会でモリカケ疑惑が新たな局面を迎え、「総選挙で禊は済んだ」ことにはできない状況になっている。今回の窮地は、さすがの安倍総理の剛腕でも逃げ切れないのではないか。
 大相撲の世界では、日馬富士が起こした暴力事件は、相撲協会としては日馬富士に引退させることで幕引きを図りたかったようだが、そうはいかなかった。この事件の真相はいまだ闇の中で、カギを握る貴乃花と貴の岩が協会の事情聴取にも応じず(貴乃花は協会の呼び出しに応じてはいるが、「事件は私の手を離れた」と聴取には一切応じようとしていない)、真相は依然として闇の中だ。
 モリカケ疑惑も、日馬富士の暴力事件と同様、疑惑解明のカギを握るとされる安倍昭恵夫人と加計孝太郎の参考人招致を求める野党に対して、「丁寧に」「真摯に」としていた政府・自民党が一切応じず、真相は闇の中のままだ。
 が、外堀は徐々に埋められつつあるようだ。特別国会終盤になって事前価格交渉の経緯の一部を、現在の理財局長である太田氏もしぶしぶではあるが認め始めた。ということは、財務省が組織として安倍一強体制はもう持たないと、見切りをつけたのかもしれない。
 財務省の姿勢が一変したのは6日の衆院国交委員会。昨年3月に近畿財務局と森友学園との間で価格交渉が行われていたことを、富山理財局次長が認めたことで明らかになった。そのいきさつは前回のブログ(7日投稿)の冒頭に「緊急割り込み記事」として、いったん投稿した後で急きょ書き加えた。
 さらに、この事前価格交渉のいきさつの詳細が朝日新聞の報道で明らかになった。同紙によると、学園の籠池前理事長が近畿財務局に「新たなごみが見つかった」と報告したのが3月11日、その4日後財務省の田村国有財産審理室長(当時)が籠池氏と面会、この日を境に価格交渉が一気に加速したという。なお、田村氏は昭恵夫人付きの女性職員が問い合わせた時対応した人物だという。
 田村氏との面会の席で籠池氏は「昭恵夫人から聞いていただいていると思う」と言い(まぎれもなく暗黙の圧力)、「新たに見つかったごみの処理の対処」を要求したという。田村氏は「重大な問題と認識する」「「明日財務局のほうからうかがう」と応じた。この面会での会話はすべて録音されており、特別国会で開示された。この日を境に、交渉は一気に加速したという。
 その後、財務局職員が籠池氏に「反省している」と全面的に屈服(近畿財務局がすでに汚染土撤去を完了したと報告していたため)、森友学園は賃貸から買収に方針を転換し「買収価格の上限は1億6千万円」と財務省に伝えている。財務省側は、汚染土撤去費としてすでに1億3200万円支払っていたことから、「1億3000万円以下の金額はあり得ないが、ゼロに近い金額まで努力する」と「誠意」を見せ、さらに森友学園側の要求に応じて最終的に折り合った金額1億3400万円の分割払いまで認めた。国有地を公益目的で売却した過去5年間の「公共随意契約」1214件のうち、分割払いを認めたのはこの1件だけという。
 大阪地検特捜部も、土地取引の経緯に関して市民による背任容疑の告発を受け、本格的な捜査に乗り出した。特別国会が終了したいま、財務省理財局や近畿財務局の関係職員をはじめ、佐川国税庁長官も、当然聴取の対象になる。昭恵夫人からもおそらく事情を聴くことになるだろう。昭恵夫人が、この土地に作る予定だった「瑞穂の国記念小学院」の名誉校長の職に就いていた時期、籠池氏に「主人からです」と、100万円が入った封筒を渡した事実と、その目的についても明らかにされなければならない。
 もはや昭恵夫人が、この国有地払い下げ問題に深く関与していたことは隠しきれない。総理はかつて「私の妻が関与していたとしたら、私も責任をとって総理を辞任するだけでなく議員も辞職する」と、国会で答弁したことがある。いまさら「記憶にありません」は通用しない。
 その安倍総理は、野党の昭恵夫人の参考人招致要求に対して「妻のことは私が答える」と言いつつ、実際には特別国会での野党の追及から逃げ回っている。安倍総裁の3選をとりあえずは支持しつつ禅譲を狙っている岸田自民党政調会長も、特別国会で「モリカケ問題に国民の多くが疑問を持っている。総理は説明責任を果たすべきだ」と追及して見せた。この土壇場で総理をかばうような質問をすると、禅譲が難しくなると読んだのだろう。
 こうした状況の中、次期総裁候補として突然河野外相の名前が浮上した。世論調査ではポスト安倍の最有力候補であり、安倍氏が自民党総裁に返り咲いた総裁選でも、一般党員票ではトップに立った石破氏が、来年9月に迫った総裁選で総裁に選出されるようなことになったら、当然安倍一強体制を支えてきたお友達は一気に冷や飯を食わされることになる。
 では時期を早めて岸田氏を、ということになるとマスコミから「安倍院政政権だ」と批判を浴びかねない。河野氏の名前が突如浮上したのは、「安倍総裁の3選はない」と、お友達も見切りをつけたことを意味しているのかもしれない。
 
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NHKとの契約・受信料義務化裁判で最高裁大法廷のロートル判事が下したアナクロニズムな判決とは…

2017-12-07 00:13:38 | Weblog
≪緊急割り込み記事≫ 朝日新聞のネット配信によって、森友学園への国有地売却に関して、昨年3月下旬に近畿財務局と学園との間で国有地売却の価格交渉が行われた事実を、昨6日の衆院国交委員会で財務省の富山理財局次長が認めたことが明らかにされた。
 これまで財務省は不動産鑑定士による同地の鑑定価格が出る前の事前価格交渉の有無について一貫して否定してきた。が、今年8月、NHKと朝日新聞が価格交渉があったことを報道し、立憲民主党の森山氏が委員会で事実確認を求め、富山氏が昨年3月24日に価格交渉を行っていた事実を認めたという。価格交渉が行われた日に学園側が同地の購入を申し入れており、価格交渉の席で近畿財務局は同地の汚染土撤去作業に1億3200万円をすでに支払っていることを明らかにしたうえで「売却額はそれ以上安くはできない」と主張、学園側は「払えるのは1億6000万円以下」と対応したという。
 同地の鑑定価格(更地)9億5600万円は2か月後の5月末に出たが、その翌月に国はごみ撤去費8億2000万円を値引きして1億3400万円で森友学園に売却した。なおごみの撤去費とされた8億2000万円は不当な高値であることを会計検査院が指摘していることは周知である。
 同省の当時の理財局長であった佐川氏は、国有地払い下げの記録はすべて廃棄したと国会で証言、安倍総理をかばいきった論功行賞として国税庁長官に出世したと言われているが、特別国会で国有地払い下げ問題が再浮上し、野党の追及で再び窮地に陥った総理の側近が「トカゲのしっぽ切り」に踏み切ったのかもしれない。もし、早晩、佐川氏が更迭されるようなことがあったら、私の推測が裏付けられたことになる。


 やはり最高裁大法廷はNHK勝訴の判決を下した。最高裁は男性が主張してきた「契約の自由」を認めず、契約と受信料支払いの義務化を容認したからだ。
 私は前回のブログで放送法64条と、64条に基づいて作られたNHKの受信料制度の問題は、分けて考えるべきだと書いた。
 まず放送法についてだが、NHKとの契約を結ぶのは「協会(日本放送協会=NHKのこと)の放送を受信することのできる受信設備を設置した者」と規定されている。「者」とは人であり、受信設備を設置した者がだれかを、NHKは明確に特定しなければ、契約できないことになる。ひとり暮らしの場合は、ほかに設置できる人はいないのだから、NHKと契約する人も明らかだが、2人以上の家族世帯の場合は、家族のだれが受信機を設置したかを突き止めなければならない。また家に受信設備が1台しかない場合は、いちおう世帯主が設置したとみなすことが出来るだろうが、複数台ある場合は、放送法64条を素直に読む限り、1台ごとに設置者と契約しなければならないことになる。
 この文理的解釈は、放送法64条が「契約の自由」を保障した憲法に違反するか否かとはまったく別次元の問題である。たとえ「契約の自由」にも一定の制約があり、公共放送については自由が制限されるという拡大解釈が出来たとしても、複数台の受信設備がある家庭においては、1台ごとに設置した者を特定して、1台ごとに設置者と契約する必要がある。放送法64条には、間違いなくそう書いてある。
 次に受信料の支払い義務の問題だ。これも二つの要素に分けて考える必要がある。
 ひとつはだれが支払い義務を負うかという問題だ。受信設備を設置した者というのは、テレビを買った人のことなのか。テレビは昔と違って、いま一人1台の時代だ。私は仕事をしていたころ、私が見るテレビはLDKと寝室と書斎の3か所にあった。さらに子供たちは大学生になったころから自分の個室にテレビをそれぞれ持っていた。私は買ってやった記憶がないので、自分がバイトで稼いだ金で買ったのだと思う。こうした場合、放送法64条の規定によれば、私は3台分の、子供たちもそれぞれNHKと契約する必要があるはずだし、契約した以上その契約に従って受信料を支払う必要も生じるはずだ。放送法64条が憲法に違反しているかどうかは知ったことではないが、受益者負担の原則が無視された法律であることだけは間違いない。
 もう一つは一人の人が複数の受信設備を設置した場合、その人が同時に複数台の受信設備を利用することは、聖徳太子でも無理だ。なのに、ある人が複数台の受信設備を設置したとしたら、その人は設置した受信設備ごとに受信料を支払わなければならないことになる。実際、私の昔の友人は個人事務所を構えていた時は、自宅と事務所と二重に受信料を払っていたという。こういう矛盾を放置しておいて、受信料支払いの義務を容認したのが頭のいい(おっと、論理的思考力は中学生以下だが、六法全書を暗記する記憶力だけは人並みすぐれているという意味)最高裁判事たちが下した結論だ。
 一つ目の問題と二つ目の問題を重ねてみると、より矛盾が明確になる。私の場合、当時は家の中に3か所テレビを置いていた。だが、3台のテレビを同時に見ることは、すでに述べたように不可能だ。もしNHKから3台分の受信料を請求されたら、「ふざけるな」と間違いなく追い返す。が、子供たちはどうか。LDKのテレビは私が設置したから、子供たちには受信料の支払い義務は当然ない。しかし、自分たちの部屋のテレビは、子供たちが設置したのだから子供たちにそれぞれ支払い義務が生じるはずだ。そう解釈しなければ、放送法64条は違憲か合憲かを論じる以前に、法律として無効だと私は考える。ブログ読者の皆さんはどう思う?
 最後の義務と権利の関係だ。この関係くらいは判決の中で明確にしてほしかったが、最高裁は全く触れなかった。つまり、権利のない義務だけをテレビ設置者に求めたのだ。NHKに対する要求はせいぜい公共放送にふさわしい「良質な番組を制作すること」だけだった。
 ならば、今後NHKが放送するあらゆる番組を最高裁判事がチェックして、視聴者の代わりに良質な番組か否かを判断し、NHKに対するお目付け役になってくれるのか? そんなことがあり得るはずがない。では、視聴者にその権利を保証してくれたか。それもない。ということは、NHK自身が自分たちで番組の良質性を判断しろということを意味する。そんなことが、NHK職員にできるか。良心的な職員が真面目にその役割を果たそうとしたら、たちまち僻地に飛ばされる。それが、NHKに限らず組織を存続させるための鉄則だからだ。
 最高裁判事は、「義務」をあまりにも軽々しく考えていないだろうか。「権利」とか「責任」とか「自由」など、私たちが生きている社会において個々人が自覚して自らを律すべきことの意味を、あまりにも軽く扱われては困るのだ。
 現行憲法は、大日本帝国憲法が国民の「権利」や「自由」より、国家や天皇のために生きるために国民が負うべき「義務」や「責任」を重視しすぎてきたことへの反動から、「権利」や「自由」を過大しすぎている面が多少あることは私も認める。
 極端なことを言うと、例えば「権利」や「自由」にしても、人を殺したり、他人の物を盗んだりする「権利」や「自由」まで憲法が認めているわけではない。そんなことは、ことさら強調するまでもなく常識と言えば常識である。
 だから、公共放送との契約については憲法が保障している「契約の自由」の範疇から逸脱していると判断するのであれば、「公共放送と国民の関係」一般論を根拠にすべきではなく、NHKが公共放送としてふさわしい番組作りと放送体制を構築しているか否かの検証から、契約の自由について論じるべきであった。
 私も公共放送の重要性を否定しているわけではない。が、前回のブログでも書いたように、アナログ放送時代に難視聴地域対策のために始めたBS放送を、その使命が終わったのちもBS放送を継続するためにエンターテイメント番組をどんどん増やし、なぜ公共放送が民放と対抗して視聴率争いに奔走するのか、という今の放送体制に対する警鐘を最高裁大法廷は、なぜ鳴らさなかったのか。
 私はNHKのBS放送がくだらない番組ばかり流しているとは言わない。地上波放送よりはるかに公共放送にふさわしいコンテンツも多いことは認める。私はだから、地上波で放送しているエンターテイメント放送はすべてBSに移行し、BSの質の高い番組を地上波に移したほうがいいとすら考えている。そうすれば、地上波の受信料の値下げも可能になるし、BSの受信料が高くなって運営が困難になれば、その時点で改めて放送体制と受信料体系について抜本的な対策を講じたらどうか、とも考えている。職員を首にできないという理由を最重要視して、そのためにBS放送を継続するというなら思い切ってBSは民営化し、CMを入れることで採算をとることを考えてもいいのではないか。質の高いエンターテイメント番組をNHKがBSで放送するようにすれば、いまの民放のBS放送も競争上、質の高いコンテンツに注力するようになるかもしれない。 
 だが、基本的には若い人たちのテレビ離れをNHKだけの努力で食い止めることは不可能だ。企業努力で、時代の流れに竿を指すことは、はっきり言って無理だ。たとえばアベノミクスによる黒田・日銀総裁の大胆な金融政策によって一時的に円安が進み、自動車など輸出産業の国際競争力が回復したものの、メーカーが設備投資をして安倍総理の期待に応えたかというと、メーカーはそうしなかった。円安で輸出競争力が強化されたにもかかわらず、メーカーはドル建て輸出価格を据え置いて為替差益をがっぽりため込むという経営方針を採用した。国内市場が、少子化と若者の自動車離れで縮小しているため、設備投資をして生産量を増やすことは、メーカーにとって極めてリスキーな経営を余儀なくされるからだ。
 金融機関も同様だ。日本の企業はなぜかシェア至上主義で、これまでは規模の拡大競争に奔走してきた。その結果、都心部だけでなく郊外の住宅街でも銀行は出店競争を繰り広げてきた。住宅街の資金需要はせいぜいのところ、住宅ローンや自動車・教育費のローンくらいしかない。郊外の金融機関支店の役割は、資金需要にこたえるためではなく、預金集めのためであった。だからかつては年金受給資格が近くなった顧客には、年金の振込先として指定してもらおうと、若手の営業社員にはノルマさえ設けて金集めに奔走していた。
 いまはどうか。表向き嫌な顔こそしないが、年金の振込先に指定されることにいい顔をしない。現に年金の振込先の手続きをする場合、昔(そんなに大昔の話ではない)なら手続きはすべて金融機関が代行してくれたし、お土産までくれた。いまは手続きのためのはがき(もちろん切手など貼ってない)をただでくれるくらいで、極端な話、提出先の社会保険事務所の住所すら「お客様がお調べください」と言われる始末だ(支店の管轄内の社会保険事務所の場合は、そこまで冷たくないが)。だから今メガバンクは一斉に郊外の住宅街から逃げ出そうと、こぞって店舗網の縮小と人員の削減計画に取り組もうとしている。生き残るための「脱出作戦」だ。
 そういう時代に、公共放送という看板だけで、NHKが企業努力をせずに生き残るということの是非を、最高裁はどう考えているのか。若い人たちのテレビ離れが進行している中で、公共放送の在り方を根本から問うた上で、受信料体系と契約の義務化を、最高裁には論じてもらいたかったが、前回のブログで書いたようにしょせん無理な話だった。最低、受信設備設置者負担という現行の受信料制度の矛盾くらいには気づいてもらいたかったのだが、それもロートル判事の能力の限界を超える話だったのかもしれない。(了)
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