追憶の彼方。

思いつくまま、思い出すままに、日々是好日。

同じ穴の貉(ムジナ)

2024年02月06日 | 政治・経済

同じ穴の貉(ムジナ)

破茶滅茶元首相の銃撃死によって、パンドラの函が開いたかのように一挙に各界の汚物が噴出した。統一教会問題、オレオレ詐欺、自民党の裏金詐欺等止まるところが無い。悪事の限りを尽くした破茶滅茶のお陰で日本はモラル無き国家に成り果ててしまった。悪事の薫陶を受けた安倍派幹部7人衆を筆頭に、「金の亡者」と化した醜い連中が国会議事堂の内外を右往左往し、魑魅魍魎もかくやとばかり、百鬼夜行の様相を呈している。ブログ「安倍神社建立」で触れた通り、本居宣長の(神)の定義によれば、「悪事をしてもそれが他を圧倒する程の悪事であれば、神に成れる」として居り、この様な神は祟りをもたらすのを常とするので、これを慰撫する為に祀られる事が多い。破茶滅茶の場合も奇特な御仁が居て長野県の白樺林の中に【安倍晋三大人のみこと(命)】を祭る神社を建立し、神として祀っているので、「死人に口なし」とばかりに安倍に全責任を押し付けた幹部7人衆、流石に祟りを恐れたのか、国民の方はそっちのけ、安倍さんの名前を汚し申し訳ないと、平身低頭謝罪する始末、薄汚れた名前を更に汚すとは、ひっちゃかめっちゃか、最早支離滅裂である。

この様な魑魅魍魎が跋扈する穴倉を覗くと、彼等は(ムジナ)に姿を変えて居り、罪人集団・自民党を支援する(ムジナ)でごった返している浅ましい光景が手に取る様に見て取れる。公明党、財界、検察、国税、医療業界団体、宗教団体、一部メデイア、甘い汁に群がる選挙民、と言った(ムジナ達)が犇めき合い、見返りを求めて我先にと自民ムジナを支えるおぞましい光景である。

公明党は過去、自民党に(暴力団とのスキャンダル問題)を握られ、更には(政教一致政党)だ、と脅迫される等叩きまくられた結果、それ以来自民党から離れなく成って居り、創価学会の強力な集票力が自民党の悪政を支える大きな源泉となって居りその責任は重大である。

次に責任が重いのが財界である。国民政治協会と言う自民党の政治資金団体がある。同党への年間25億に昇る政治献金の受け入れ窓口だが、総務省が開示したこの団体の政治資金収支報告書を見ると、どのような団体・企業が毎年、幾ら寄付をしているのか一目瞭然である。例えば日本医師連盟は2.5億と断トツ、日本自動車工業会8千万、を筆頭に電機、鉄鋼,石油、不動産その他の業界団体、薬剤師連盟等の顔も見える。更に業界団体とは別に個別企業としてトヨタ、住友化学各5千万、日立、キャノン、5大手商社等と続く。彼等は何の見返りも無く寄付などするわけがない。補助金や自分達に有利になるような法律制定等寄付金以上の見返りを得ているのである。

これとは別に現在、集団巨額脱税事件である裏金問題の温床となった政治資金パーテイー(政治資金を集める目的で会費を徴収して行なわれる宴会)がある。派閥と政治家の裏金資金荒稼ぎの手段である。政治家個人に対する企業・団体献金は禁止されているので、政治家個人の政治団体や、政策集団(=派閥)がパーテイを行う。パーテイ費用は売上げの2割程度、丸儲けである。派閥の場合はパーテイ券の販売ノルマを議員ごとに設定し、ノルマ以上の分は政治家にキックバックする、或いはノルマ以上の分は派閥に上納せず手元に留保する。これ等が派閥や政治家個人の裏金となる。裏金とは「経理上、正式な出入金記録簿に記載せずに蓄財された金銭の事、銀行口座に残って居ようと、事務所の金庫や引き出し或いは懐の財布に保管していようと、或いは又使用済みであろうと、正式な出入金記録が為されていない金は全て「裏金」である。裏金は犯罪であり、後で記載しても裏金であったことに変わりはないし、犯罪を犯した事実は消えない。ぬすっとが盗品を返せば済むと言う話ではないのである。裏金を公表して収支報告書を修正すれば、政治活動費だから使途を明らかにする必要が無いという理屈は成り立たない。政治活動費は政党から交付されるが、派閥が交付する物は政治活動費ではなく(パーテイ収益金)なので、その使途を明らかにする必要がある。

この様なマネーロンダリングを検察は不問に付したが、我々は決して許してはならない。

この様に自民党を堕落させたのは、唯々諾々と何のためらいも無く資金を提供する財界に大きな責任がある。経団連の十倉雅和会長(住友化学の無能会長)は、自民党への政治献金について「その負担は企業の社会貢献だ、何が問題なのか」と開き直ったが、物事の本質が全く分かっていない。そもそも30年前、企業団体献金を禁止する代わりに、毎年300億円以上の政党交付金が配られ自民党には約半分交付されている。激変緩和の為、5年間の猶予期間がおかれただけである。献金を許すなら交付金は取止めるべきである。政策をカネで買うかのような財界・企業と政治献金の関係を見直すべき時が来ている。両者の関係は愚かな母親が自制・反省の効かない息子に金をせびられ、唯々諾々と金を出し続け、息子を堕落させる構図と全く同じである。

次のムジナは検察と国税である。彼等は内閣をトップとする行政機関の一部門、法務、徴税と言う巨大な権力を与えられているが、彼等に公正な法の番人としての機能を期待するのには無理がある。彼等は国民の公僕であるが、そんな意識は皆無、先輩たちの生きざまを見て、如何に出世し優雅な生活を送ろうか、其の為には内閣に忖度する事はあっても、彼等の意向に反する行動など所詮期待できない。過って小沢民主党代表や村木厚子厚労相局長の冤罪事件にある様に政権に不都合な人間を抹殺し、或いは成績を上げる為には平気で文書の改竄等の不法行為を厭わず、しかも組織を挙げて組織防衛に走る、国民の公僕としての矜持等全く期待できない連中である。検事総長の超一流企業役員への天下りを見ると、多い人間で10社、少ないので4社と目も眩むばかりである。今回検察が捜査を中途半端な状態で打ち切った不可解な行動の裏には、財界意向を酌んだ検察OBの差し金があったとの噂も飛び交っている。財務省も裏金に課税する気配すら見せず、やり過ごす気配が濃厚である。

政党交付金が政治家個人に政策活動費として支給されるが、政策活動に使われていると言う理由で一切公表されず、しかも非課税となっている。しかし使途を公表しなければ、政治活動に使っているかどうか不明である。私用に使っていたとすればその分は課税対象であるし、選挙の買収資金として使われている可能性が極めて高い。何れにせよ一幹事長に50億円もの巨額資金が供与され、その使途が一切不明の儘等と言う様な事が許される訳がない。

更に国会議員の給与とは別に支給される「調査研究広報滞在費」(旧・文書通信交通滞在費)の使途公開も自民党の抵抗で手つかずのまま放置されている。世界一高い国会議員報酬に上澄みされた儘である。今政権与党は国民の怒りの矛先をかわす為、派閥の解消を声高に叫んで居り、政治資金の透明化や、金塗れの政治を正そうとの考えは全く無い。立憲民主党は政治資金の相続・贈与を禁止し世襲を抑制を図ろうと、政治資金規正法改正案を準備しているが、世襲議員の集団である自民党が賛成する可能性は皆無に近い。この様に自民党がやりたい放題をやっているのは政権交代の緊張が無いからであり、その責任は選挙民にある。日本の国政選挙の投票率は50%前後を行き来しており世界の順位は139位と極めて低く、その理由は(興味がない、行っても何も変わらない、魅力的な候補者がいない)等の投げやりな言葉が目に付く。結局国民のモラールの低さが政治を劣化させ,その結果が国民自らにブーメランとなって帰ってくることに思いが至らないのである。棄権は罰金の対象となるシンガポールやオーストラリアが90%超の投票率となっているが、そのような制度は自民・公明が受け入れることは絶対にあり得ない。国民は自衛手段として、選挙では立候補者の好き嫌いは考えず、兎に角、目をつぶって自民・公明以外の人間に投票する事しか無いのではなかろうか。

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グリニッチセンター世界地図の勧め(7)最終―2

2024年01月24日 | 文化・文明

グリニッチセンター世界地図の勧め(7)最終―2 控え書き 

「ヨーロッパはピレネーで終わる」「アフリカはピレネーで始まる」。中世、隣国フランスがイベリア半島を蔑み、或いは異国趣味で語る時の言葉である。イベリア半島は、総じてピレネー山脈に繋がる山岳地の地形が多く、一部北部の「青いスペイン」と呼ばれる地域以外は乾燥した厳しい自然環境の中に有り、世界最大のコルクの産地、柑橘類の世界有数の輸出国としては有名だが後は世界に誇れるものは痩せた山岳地帯に放牧されたイベリコ豚程度であった。この貧しい環境がレコンキスタでイスラム勢力を半島から追い出すのに成功した高揚の中で、否応なしに胡椒や金銀抱負と噂される東洋への膨張を駆り立てた。ヨーロッパ諸国が地中海周辺にかまけている隙をついて、地の利を生かし海外に打って出たポルトガル・スペインは大航海時代をリードし海洋帝国としての地位を得た。

しかしその目的達成に至る両国の行動様式は大きく異なるものであった。スペインは武力により植民地を作り、その土地から富を収奪する事を主目的とし、宗教はその手段として利用する面が強かったが、ポルトガルは植民地主義はとらず、貿易の拠点造りとキリスト教の布教が主目的であった。この様な行動パターンを考える時、コロンブスがアメリカに辿り着き、スペインがその植民地化に没頭したことは、南米を徹底的に疲弊させ、その後遺症を今に至るまで引きずることになってしまった反面、日本(ジパング)にとっては不幸中の幸いであった。

日本に初めて西洋文明をもたらしたのはポルトガルであった。1543年、3人のポルトガル人の種子島漂着、49年のF・ザビエルの鹿児島上陸である。43825日、3人のポルトガル人を乗せ、マカオからシャム(タイ)に向っていた中国のジャンク船が台風の影響を受け種子島南端の門倉岬に漂着した。日本の西洋との最初の出会となった記念すべき日である。時の島主・種子島時尭は3人のポルトガル人が所有していた火器に興味を示し、金2,000両の大金で2挺を譲り受けた。これが世に言う「鉄砲伝来」であり、「南蛮貿易」の契機となった。日本からは銀・金・刀剣などが輸出され、ポルトガルからは鉄砲・火薬・中国の生糸などと共に西洋の日用品や食べ物等の文物、言葉がもたらされた。食べ物…パン、ビスケット、カステラ、コロッケ、金平糖、バッテラ(大阪の鯖の押し寿司)】【日用品等…コップ、たばこ、シャボン,かるた、ジョゥロ、ビードロ(硝子…製造法は中国から移入)、マント】。柔軟な頭の持ち主だった織田信長は西洋文化に敏感で、地球が球体であることも即座に理解し、バナナやカステラ、金平糖を好んで食し、宣教師が連れて来た奴隷の黒人を気に入って「弥助」と名付け側近に取立て,本能寺の変まで忠誠をつくしたと伝わっている。又南蛮風の鎧兜だけではなく、西洋の帽子やマントも取り入れた。特に有名なのは信長が上杉謙信に贈った下記のマントで山形・上杉神社に保蔵されている。

種子島時尭は買い入れた銃と火薬の使い方を習わせ、職人に命じて模倣したものを造らせて(種子島銃)製造に成功、大名や将軍に献上した。又1挺を平安時代から鋳物産業が栄えた大阪の堺に送り、鉄砲製造に火が付いて各地に高い技術力を誇る鉄砲鍛冶がうまれた。戦国時代、日本では銃の瞬発力や火薬の爆発力は共にヨーロッパ製のものより高性能のものが用いられていたと言われている。ポルトガル人がもたらした2挺の銃が戦国時代の戦術に革命的変革をもたらし、織田信長による「天下統一」を促進することになった。

種子島漂着から6年後の1549年8月、日本人・ヤジローに導かれ鹿児島に上陸したのがフランシスコ・ザビエルである。ザビエルはフランス留学中、モンマルトル聖堂で「生涯を神に捧げる」と誓った7人の仲間と世界宣教を目的とする「イエズス会」を創設、この考えに賛同したポルトガル王・ジョアン3世の依頼でインド・ゴアに赴任、インド各地・モルッカ諸島で宣教を続け、洗礼を受けた鹿児島出身の武士・ヤジロー(安二郎)に出会って、日本行きを勧められたのである。

ザビエルは1549年9月には、薩摩国の守護大名・島津貴久に謁見、宣教の許可を得、更に日本全国の許可を得るべく京都で天皇や征夷大将軍へ謁見を試みたが失敗した. しかし山口で守護大名・大内義隆との謁見に成功し、天皇に贈呈しようと用意していたインド総督とゴア司教の親書の他、珍しい献上品(望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、メガネ、書籍、絵画、小銃等)を提供し、これらの品々に喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認め、更に当時既に廃寺となっていたのをザビエル一行の住居兼教会として与えた。これが日本最初の常設の教会堂となった。ザビエルはこの廃寺で一日に二度の説教を行い、約2ヵ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人にものぼったと伝わっている。しかし言葉の壁と通訳のヤジロウのキリスト教知識の無さもあって布教は困難を極めた。2年経過後、日本での宣教は他の宣教師に任せ中国での宣教の為ゴアに帰国したが、こちらも思うように進まず、1552年の暮れ失意の中で死去した。

1569年、ザビエルの後を継いだ宣教師のルイス・フロイスが信長の居城・岐阜城を訪問し、京都での布教が認められる様、信長に助力を求めた。信長は彼等の訪問を大いに歓迎し、京都における布教を認めキリスト教を保護し続けた。信長は教会堂(南蛮寺)の建築許可、安土城下における教会とセミナリヨ(神学校)の建築許可、巡察使の接見等、キリスト教の布教に大いに貢献した。

(日本のザビエルゆかりの聖堂は、カトリック神田教会(千代田区)、関町教会(練馬区)、山口サビエル記念聖堂および鹿児島カテドラルザビエル教会には、ザビエルの遺骨が安置されている。)

豊臣秀吉は信長の政策を継承しキリスト教布教を容認、1586年5月大阪城内でイエズス会に布教の許可証を発給している。しかし、肥前の大村純忠がキリシタン大名となり長崎をイエズス会に寄贈する等植民地化の様相を呈し始めた事、長崎がイエズス会領となり要塞化され、長崎の港からキリスト教信者以外の者が奴隷として連れ去られている等の噂を仏教界から耳にし、1587年にはバテレン(宣教師等関係者)追放令を出した。秀吉の究極の狙いはポルトガル人を介さない通商路の開拓に有ったのである。

秀吉の跡を継いだ家康もキリスト教への締め付けと貿易継続の間で揺れ動いた。1600年オランダ船が備後(広島)に漂着、その後平戸に商館を設立ポルトガルの貿易独占体制に風穴を開け、イギリス、中国も進出、競争は熾烈となった。1612年、幕府は幕府直轄地に禁教令を出し、カトリック信者であるポルトガルの宣教師やキリシタン大名らを国外追放した。 1637年島原、天草地域で、島原の乱が勃発した。キリシタン大名有馬晴信が国替えとなり、後任の大名が江戸城改築普請役を受けたり、島原城を新築したりで年貢の加重取り立てや、厳しいキリシタン弾圧を開始した為、百姓を主体とする武力闘争に発展した。徳川幕府はオランダ海軍に援軍要請し、双方大きな犠牲の下に一揆は鎮圧したが、これを契機にポルトガルとの関係を断絶しオランダ人以外も追放して鎖国体制を確立した。又全住民を地元の寺院に登録させキリスト教禁教令を強化、日本のキリスト教徒は地下に潜伏することになった。隠れキリシタンの発生である。

主役はポルトガルからオランダに替わった。1609年オランダ東インド会社が長崎のオランダ平戸商館を通じた国際貿易を幕府から許可を得ていたが、布教しない事を条件とされていたプロテスタントのオランダ人は島原の乱の功績により国際貿易を独占することになった。8代将軍徳川吉宗は、殖産興業、国産化奨励の方針から海外の物産に関心を示し、オランダ船で西洋馬を輸入し洋式馬術、馬医学を学ばせた。又1720年(禁書令)を緩和してキリスト教に関係のない書物の輸入を認め、青木昆陽等にオランダ語を学ばせるなど、海外知識の導入を積極的に行った。青木は「和蘭文訳」「和蘭文字略考」といったオランダ語の辞書や入門書を残し、前野良沢等の「解体新書」や杉田玄白「蘭学事始」に繋がった。洋学は蛮学(南蛮学)から蘭学へ移行したのである。

19世紀前半には長崎や江戸以外の地でも私塾や大名家で蘭学やオランダ語学習が行われるようになった。江戸の芝蘭堂、 長崎の鳴滝塾、大阪の適斎塾等有名塾では塾生が数千人にも達した。緒方洪庵が開設していた大坂の適塾では、大村益次郎福沢諭吉等を輩出している。1823年ドイツから医師シーボルトが来日し長崎の郊外に私塾を開き、高野長英等の医師門下生を育てたが、一時帰国時、持ち出し禁止の日本地図が露見し再入国禁止、関係者の大量処分と言うシーボルト事件に発展した。そうした中で1844年、オランダ国王の使節が軍船で長崎に来訪し、江戸幕府に「貴国の福祉を増進せんことを勧告する」と言う内容の親書を手渡したが、これが神経質になっていた幕府に開国圧力と捉えられ1849年、蘭書翻訳取締令が出される事になった

幕末1853年、アメリカの黒船来航に端を発し、開国を余儀なくされ、それに伴い、英語、フランス語、ドイツ語による新たな学問が流入するようになり明治維新へと繋がって行った。

 

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グリニッチセンター世界地図の勧め(6)

2024年01月12日 | 文化・文明

グリニッチセンター世界地図の勧め(6)最終ー1   控え書き 

***日付け変更線…… スペイン出航時、5隻270人の乗組員で出発したマゼラン艦隊が3年の航海を経て世界周航を達成出来たのはエルカーノ船長が率いる18人だけであった。その生き残りの一人にイタリア・ヴェネツイアの天文学・地理学の専門家であるピガフェッタと言う人物がいたが、彼は南半球航海中、北極星が見えない為大きな星雲を頼りに航路を定めたと伝えられて居り、これが後年マゼラン星雲と呼ばれる事となった。  過ってペルー在勤中チリへの出張時、砂漠の中のパンアメリカン・ハイウエーのタクシーの窓から見えたのが此の大マゼラン星雲であった。

彼のもう一つ大きな任務に航海日誌を付ける事があった。出航以来毎日欠かさず日記を付けその内容は詳細を極め、南アメリカや東南アジアの当時の文化や社会を生きいきと伝える近代最初の民族誌ともなったが、最後の一隻が、世界一周達成目前にアフリカの西にあるヴェルデ岬諸島に立ち寄った時、ピガフェッタの日記では水曜日であるはずがヴェルデ岬諸島では木曜日であることを知り大変驚いたと記録されている。スペイン帰港後乗組員が自分達の記録した日付が絶対正しいと主張したため大騒ぎになり、ローマ教皇のところに使者が出される事態にまで発展したのである。現在では自明の理であるが、西回りに地球を一周すれば日付けが一日遅れる(経度15度毎に1時間遅れる)事を実感した世界最初の人間になったのである。 此の事が発端となって時差が意識されるようになった。( 註;地球は経度360度だがその一回転には24時間を要するので、経度が15度異なると1時間の時差が生ずる。旅行者が15度移動するたびに時計の針を1時間ずつずらしていくと、世界を一周したとき、時刻は正しいが日付が1日異なることになる。)

マゼラン艦隊は地球の自転とは逆向きに世界を一周したため、地球が自転した回数よりも彼らが地球の周りを回った回数が1周少ない。つまり、彼らが見た日の出の回数は出発地のスペインにとどまっていた人々が見た回数より1回少なくなったのである。もし、一行が逆の向きで世界一周をしたならば、一行は地球の自転の回数に加え、さらにもうひと回りしてしまうことになるため、日付は1日多くなってしまうことになっていたのである。

 

「国際日付変更線の設定」……世界のグローバル化の進展により人間の交流や物流が世界的に行われるようになるに従い、全世界的に標準的な時刻の設定の必要性が高まった。1884年(明治17年)の国際子午線会議において、英・グリニッジ天文台を基点とするグリニッジ子午線が(本初子午線)に採用され、世界の標準時(タイムゾーン)が整備されることになった。これに呼応して日本は1886年に明石市がある東経135度を日本標準時子午線に決定した。即ち太陽が明石市の真上に来た時に日本全体が12時(日本の正午=午後0時=標準時)とする事が決まったのである。

又本初子午線を基準に東経と西経が180度の地点で重なる経線が日付変更線となるが、島などの陸地を通るときは陸地を避ける様変更を加え、又同じ国で日付が異なると不便なので、同じ国は同じ日になるように変更を加えることが認められている。ベーリング海峡・アリューシャン列島のところでZ字型に折れ曲がっているほか、東西南北四半球に跨るキリバス共和国の場合国内標準時を首都のある東半球側を基準にした為、大きく西半球に食い込むことになった。

前述(註)の通り地球は経度360度でその一回転には24時間を要するので、経度が15度異なると1時間の時差が生ずる為、日付変更線上が世界で最初に新しい日を迎えた時(午前0時)、日本は前日の3時間前(21時)となる。計算は(180-135)÷15=3時間。同様にロンドンは12時間前正午12時,敢えて計算すれば(180-0)÷15=12又は24÷2=12である。従って日本とイギリスの時差は9時間、地球は西から東に自転しているので 日本の正午はロンドンは夜の3時と言うことになる。 更にニューヨークの標準時子午線は西経 75 度なのでロンドンとの時差は75÷15=5時間となり日本との時差は9+5=14時間、日本の正午はNYでは14時間前、前日夜の10時と言うことになる。何れにしても時差の計算はイギリスをベースとするのが便利である。日本とシドニーの時差は1時間(フライト時間は9時間半程度)、時差ボケは全くないが、ニュージランド・オークランドとは3時間あるので,人によっては影響がある。ニューヨークとロス・シアトルの時差も同じく3時間である。(フライト時間は6時間半程度)

【メートル法の発明】…大航海時代はメートルという長さの単位を生み出した。従来長さの単位は古代エジプト等で使用されていたキュービット(権力者の肘から指先の長さ、2キュービットで約1メートル)等地域時代によりバラバラであった。しかしながら大航海時代を経てグローバル社会の進展に伴い、長さの単位がまちまちな状態では不都合が多く世界で統一する必要性が生じた。これに最も熱心に取り組んだのは、既に地球測量の実績を持つフランスであった。1795、(北極と南極を結ぶ子午線上)における赤道から北極までの距離(地球の円周の4分の1=1万km)の1000万分の1の長さを「1メートル」として定め、実際の測量に基づいてその長さを表す(メートル原器)が作られ、 1889年の第1回国際度量衡総会においてメートル原器が長さの標準として国際的に採用された。その後計量学の技術的発展を反映し、より精度の高い基準に見直しが行われている。

【地球自転の速度】……地球の赤道の長さは約4万Km、赤道上の1点は一日24時間で1回転するので時速に換算すると1700Km、目も眩む速さである。これを秒速に直すと1700÷(60x60)=0.47Km=470m、音速が340m/秒なので音速より早く回転していることになる。尚日本は北緯35度なので自転速度は1374Kmとなる(教科書に出ている)が、未だ音速より早いことになる。地表では人も音を伝える空気も一緒に回転して居る為、自転の影響を受けない。超音速飛行機の中で普通に会話できるのも機内の空気が人と一緒に動いて居り、それと同じ理屈である。  北極・南極の自転速度(ゼロ)は理解できるが、音速と同じ速さで回転する緯度の地域は何処か?計算が大変!!。

グリニッチセンター世界地図の勧め(7)最終ー2   控え書き へ

 

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グリニッチセンター世界地図の勧め(5)

2024年01月07日 | 文化・文明

グリニッチセンター世界地図の勧め(5)

    ……コロンブスに対する評価その他 へ 

歴史的評価には「公正中立」などと言う事は極めて少ないと考えた方が良いのではないだろうか。評価は時々の政権や思想の影響を受け大きく変化し時には逆転する事すらある。特に最近では実証的研究が進み、価値観の変化や人権意識の高まりで歴史上の人物やその事績に対する評価も大きな変化をみせている。

2020年5月米ミネアポリスで発生した白人警官による無実の黒人に対する殺傷事件を契機に黒人差別反対運動が暴徒化し、黒人奴隷売買が大規模化する切っ掛けとなった(コロンブスのアメリカ新大陸発見)に対する歴史的評価の見直しが本格化した。従来の白人、ヨーロッパ等による(コロンブス礼賛の歴史評価)の見直しを迫る運動として、様々な記念碑や銅像の破壊が始まった。奴隷制を容認したアメリカ・リッチモンドのジェファーソン・デヴィス(南部連合大統領)、リー将軍(南軍指揮官)の銅像が倒されただけでなく、6月10日にはボストンで到頭コロンブス像の首が落とされるという事態となった。 更に動きはヨーロッパに飛火し、イギリス・ブリストルでは奴隷商人の銅像が倒されて海に投げ捨てられ、オックスフォード大学では(南アメリカ鉱山王・人種差別主義者セシルローズ)の銅像撤去で揺れて居り、ロンドンではインド人に対する人種差別的な言動で有名なチャーチルの銅像が破壊される恐れがある為、鉄板で覆われたという。さらにベルギーではコンゴを植民地化し、過酷な黒人弾圧を行った国王レオポルド2世の銅像にも被害が及んでいる。

ボストンの首の無いコロンブス銅像

コロンブスに対する歴史的評価の見直しが必要だと言われる所以は、コロンブスがアメリカ大陸を発見しただけではなく、先住民のいる土地を強奪し、彼等の金銀財宝を略奪し、更には彼等を奴隷化して植民を行い、その産物を収奪する等、白人社会が労せずして優雅な生活を享受できると言う道筋を開いたからである。

彼の手法はコルテスやピサロの様な一旗揚げ度いコンキスタドールに受け継がれ、マヤ・アステカ文明やインカ文明を滅ぼし、インデイオの多数の生命と共に巨額の金銀がスペインに持ち去られる事になった。

1519年ハプスブルグ家のスペイン王カルロス1世が神聖ローマ皇帝カール5世として即位し、カトリック教会の擁護者となった。 スペインは16世紀から17世紀のヨーロッパに於ける覇権国家的な地位を得、スペインは初めての「太陽の没することなき帝国」となったが、其の財政的裏付けはコロンブスやコンキスタドール達が道を開いた中南米からの収奪した富であり、其れとは裏腹に、以降5世紀以上に及ぶラテンアメリカの従属と低開発・後進性が規定される事となった。スペインは王室の浪費と属国オランダとの独立戦争、フランスとのイタリア戦争、イギリスとの戦争等あい次ぐ戦争に戦費が嵩み国力は一気に衰退し、それに呼応してスペインの成功に触発されたオランダ、イギリス、フランス等ヨーロッパ各国の植民地主義に火が付いた。他人の犠牲により労せずして優雅な生活を得られる手法に飛びついたのである。犠牲国はアメリカからアジアに飛び火した。

コロンブスや多数のコンキスタドール達の罪は勿論重いが、それを奨励し支えていたスペイン王室や、信者獲得に狂奔したカトリック教会、植民地獲得に乗り出したイギリス等のヨーロッパ列強の責任は遥かに重大である。

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グリニッチセンター世界地図の勧め(4)

2023年12月30日 | 文化・文明

グリニッチセンター世界地図の勧め(4                                                                航路開拓に名を借りた白人の悪行 

大航海幕あけ時代の初期、香料の集散地インドにはポルトガル人のバスコダガマが、アフリカ南端の喜望峰経由の東回り航路を開拓し、ポルトガルがこの航路の要所要所に植民地を作って航路の利権を独占、高価な香辛料などの貿易による莫大な富を得ていた。 当時、既に地球は丸いという事は周知されて居り、東回りが無理なら、未知の航路ではあるがヨーロッパから西へ進めば、インドに到達出来る筈だと考えたのが「イタリア・ジェノバ人のコロンブス」であった。野心家コロンブスは、香料利権で後れを取っていたスペインの王室を説得しスポンサー契約を得て、西回り航路開拓のため、インドを目指して西へと出港したが、幸か不幸か西に向かった海の先にアメリカ大陸が横たわっていたのである。コロンブスは最期まで「自分はインド(東アジア)に到着した」と信じ込んでいて、4回も航海を重ねた。最初の航海で原住民インデイオから強奪した金銀宝石に味を占め、2回目の航海では装甲兵・騎兵隊。軍用犬からなる大軍団を従え、強奪と殺戮を繰り返した。例えばコロンブスが名づけたエスパニョーラ島(現ハイチ、ドミニカ共和国)に関する記録では、300万人のインディオが住んでいたが、コロンブスが来てから50年後の1542年には、この美しかった島に生き残ったのは、ただの200人だったと報告している。キューバ等のカリブ海諸国でも同じことが行われた。  「黄金探し」を国是とするスペイン海軍はコロンブスのコンキスタ(征服)手法を踏襲する事となった。

コロンブス自身は多額の黄金も香料も発見できず島の開拓も進まなかった為、スペイン王室にも見放され失意のうちに亡くなった。しかしその後、探検家アメリゴヴェスプッチがそこはインドではなく、新大陸である事を発見した。スペインはトルデシリャス条約の境界線の西側に広大な世界を手に入れることになったのである。

スペインは東洋に抜ける海路を探る為次々と探検隊を派遣し、盛んに海上探索を行った結果、1517年にメキシコ(ユカタン半島)に上陸、翌18年から入植が始まった。この広大な入植地をスペイン人は、(ヌエバ・エスパーニャ=新しいスペイン)と呼んだ。ローマ教皇のお墨付きにより、先住民がいる土地を自分達スペインの土地と呼ぶ事に何のためらいも無かった。ここに南米先住民・インデイオの悲劇が始まったのである。

メキシコ湾東側の西インド諸島

ユカタン半島には、古代のマヤ文明が存在しており、15世紀にはアステカ王国が繁栄していた。

1519年、征服者(コンキスタドール)・コルテスがスペイン国王の承認を得て、植民都市の内陸部への植民地拡充を進める途中アステカ国王と遭遇、白人の騎兵に驚いた国王が思わず恭順の意を示し、財宝を差し出した。此の財宝に驚いたコルテスは各地に軍隊を派遣し貴金属・財宝の強奪を始めた為、反撃に出たアステカ軍との戦闘が始まり、反アステカのインデイオを味方につけたコルテスが勝利、3万人の命と共にアステカ王国は滅亡した

メキシコのインディオ人口に関しては、コルテス征服以前に2500万人あまりだったのが、わずか50年間で100万人に激減した、という数字が上げられている

スペインの代表的なコンキスタドールとして(コルテス)と並び称されるのが、インカ帝国を滅ぼした(ピサロ)である。   コロンブスの成功に触発され、一旗組が続々と新大陸に渡ったが、ピサロもその一人、まともな教育を受けて居らず、乱暴で見境なく殺戮を行う兵隊上がりの人間であった。ピサロは太平洋の彼方にあると信じられていた黄金の国(ジパング・日本)を探す為に探検に乗り出し、1524年から太平洋岸を南下してペルー上陸を企て、何度かの失敗の後、「黄金郷」インカ帝国の存在を確信し、一旦スペインに戻って国王カルロス1世に征服の可能性を説き、1529年にヌエバ・カスティーリャ(新しいカスティーリャ王国、スペインの前身)の総督に任命され、国家事業としてのインカ帝国征服の指揮権を得た。

インカ帝国は高度な国家機構を持ち、道路網も整備されていたので、ピサロの率いるスペイン軍も進撃しやすかった。スペイン軍はインカ王アタワルパの陣に対面した際、従軍司祭がアタワルパにキリストの教えを受け入れるかと問い、聖書を手渡した。スペイン語はおろか、聖書の意味すら理解できないインカ王がそれを投げ出すと、これを「冒涜」だと言いがかりを付け、火砲で武装したスペイン騎兵が攻撃を開始、わずか3分ほどで2000人以上が殺され、王も捕らえられて、後に処刑された。1533年インカ帝国は滅亡し、ピサロは首都クスコに無抵抗で入り、それとは別に海岸部に新都リマを建設した。クスコは後にインカ帝国の傀儡皇帝であったマンコ・インカが反乱を起こした際、破壊された。こうしてピサロは征服者として大成功を収め、新たな首都リマを建設した。しかし土地の領有をめぐり内紛が生じ、スペイン国王の支持も失い1541年自宅で暗殺された。

ピサロなき後スペイン本国から行政官が派遣され、豊富な銀山開発が行われたが、過酷な労働にインデイオが動員され、インカ帝国時代に1000万人を越えていた人口が、1570年に274万人にまで落ち込み、1796年のペルーでは108万人になったと推計されている。こうしてインデイオの犠牲で採掘された銀は各地の植民地経済の形成に使用された後に、スペインに送られたが、スペイン国内での産業の育成等有効に使われる事はなく、王室や貴族の間での浪費やカトリック信仰防衛のための対外戦争の戦費のために使われた。

 この二人のコンキスタドールに対するメキシコ、ペルー、スペインの評価はどうであろうか。                          スペインでは2002年ユーロ導入まで流通していた1000ペセタ紙幣の表面がコルテス、裏面がピサロの肖像が使用されていたことで彼等が如何に英雄視されていたかが伺い知れる。

メキシコではアステカ王国の圧政に苦しんでいたインデイオが多数いたこともあり、コルテスはスペインの文化を持ち込み、近代化に功があったとする感情もあり、メキシコ文化はアステカ等先住民固有の文化がペイン文化と融合したものであるとの認識が一般的である。

一方、現在のペルー人は、インディオはもちろん、混血であるメステイーソの多くも自らのルーツを「インカ人」と捉えており、「ピサロは先祖が築いたインカ文明を破壊した人物」という認識が強いこのためリマ建都400周年を記念に1935年にピサロの故郷のスペイン・エストレマドゥーラからリマ市に贈られたピサロの騎馬像は、市民の反発で騎馬像は、リマ市内の旧市街のリマック川沿いの城塞広場に、台座のない状態で捨て置かれている。

グリニッチセンター世界地図の勧め(5 最終……コロンブスに対する評価その他 へ 

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