無明長夜もかくばかり…

食のこと、家族のこと、ペットのことや日々の雑感… 
手探りをしながら、書き綴っていきたいと思います。

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ありがとう そしてさよなら

2015-06-01 | 犬猫


本日(6月1日)未明
金四郎が天寿を全うしました。
15歳でした。

いろいろ書きたいことはあるけど
今はまだ気持ちの整理がつかず
何か書くと泣きそうになるので
私の近況などより、金四郎は元気なのか、
とご心配を頂いている方々に
取り急ぎ報告いたします。

もう少し経って、気持ちが落ち着いたら
金四郎の思い出など語りたいと思います。


金ちゃん…
頑張ったね。
いずれオレがそっちに行ったら
またいっぱい遊ぼうね。

ありがとう。

そして

その日まで、さよなら。
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53歳のハローワーク

2013-08-27 | 生活


老けたな…

というより、年相応の顔とはこういうものだろう。
チョンマゲを切り、20数年間一度も剃らなかったヒゲを剃った。
顔を洗うときに、ヒゲで泡を立てていたのに
妙にツルツルして、なにか違和感がある。
自分の年をヒゲとチョンマゲに、若作りした服装で誤魔化していたが
本当の53歳とは、こういうものなんだろう。
鏡に映る、リアルな中年男を眺めて溜め息などついてみる。

7月の締め日を以て退職した。
最初の会社への入社からフリーを経て、最後の会社まで
ちょうど30年間というデザイナー生活に終止符を打った。

言い訳になるが、このデザイナーとて望んでなったわけではない。
そもそもは、絵を描く仕事に就きたかったが
如何せん、実力の中途半端さでそれも叶わず、最初の会社に拾われた。
不慣れな仕事に、何度も挫折しそうになった。
それでも続けていくうちに楽しくもなり、少々の自信もついた。
しかし、自分の実力をして一番のピークは
おそらく20代後半から、30歳くらいまでであったろう。

30代半ばに、仕事はアナログからデジタルに移行し
新たな可能性も見えたものの、それでも早く生まれすぎた。
もっと若い頃にデジタル時代が訪れていたら
また違った可能性もあったろう。

ま、所詮は愚痴だ。
「たら」「れば」を言い出したらキリがない。

ここ数年は、台頭してくる若いデザイナーのセンスに恐れおののき
もう自分の時代ではないことを思い知らされた。
デザイナーなど、年を取ってもできる仕事ではない。
もちろん、あくまでも自分の場合ではあるが。
本来なら、管理職になるべきなのだろうが
自分の器ではないことは、充分にわかってる。
すでに、過去に会社を一軒潰しているのだ。
かといって生涯現役でいるほどの実力もない。
なによりも気力が萎えてしまっている。

となれば、転職をするしかない。

数年前から、漠然と考えていた飲食業。
中でも好きな「やきとん」屋
そこに自分の居場所を求めようと思っていた。

ここで何度も書いているが、両親は料理人であった。
そのDNAが…などと格好つけるつもりはない。
それがあったら、とっくに店を継いでいたろう。
結婚するまで、メシの炊き方すら知らなかった男だ。
親父が衰え、店を畳んだとき、オフクロに言われた。

「さとし、一緒に店をやらないか?」と。

それすら無視した親不孝息子である。
今になって思うと、悔いばかりが残るが
それもまた愚痴…

退職して一ヶ月半
目星をつけていたやきとん屋に連絡。
53歳という年齢に、やや渋っていた様子だったが
取りあえず面接だけはしてくれるというので
履歴書を書いて店に出向く。



履歴書なんて、それこそ30年ぶりに書いた。

面接してくれたのは、店長とおぼしき
おそらくは、まだ30歳そこそこの若者だ。
なにしろ飲食業は未経験だ。
家でしてた料理だって素人料理である。
それでも自分の思いを真摯に伝えたし
あちらもちゃんと聞いてくれ、手応えは悪くなかった。

「では、2~3日中にご連絡します」

そして3日が過ぎた。
連絡はない。
もしかして、履歴書に書いた電話番号が違っていた?
こちらから確認のため、電話を入れる。
担当者が不在のため、折り返し電話をくれるというので
念のため、電話番号をもう一度伝えたが音沙汰なし。

そのやきとん屋は系列店が多くあったので
その他の店や、店のHPにも問い合わせてみた。
ある店は無視、またある店はキッパリと
「その年齢じゃ無理だね」と断られた。

53歳という年齢が重くのしかかる。
しかし、と考えてみる。
もし自分が逆の立場だったらどうだろう。
オレだって社会人を30年も経験してる。
面接官として面接に立ち会ったこともある。
例えば同じ未経験者で一人は18歳、もう一人は53歳だったら
迷うことなく18歳の若者を選ぶだろう。
ヘタをすれば、自分の親に近い年齢の未経験者など
使う方だってやりにくいだろう。

年を取った…

そう。年を取るというのはこういうことなのだ。
年齢という大きな枷が、やりたいこともやらせてくれない。
残酷だが、これが現実なのだ。
若ければ、まるで乾いたスポンジのように水を吸収するが
年を取っているというだけで、水さえ与えてもらえない。

最早なり振りなど構っている場合ではない。
家でデンと構えて、パソコンを覗いて
寝っ転がって携帯で電話している身分ではないのだ。
自分から外に出て探すしかない。

とある、もつ焼きをメインとした居酒屋。
お世辞にもキレイとも広いとも言えない店内は
人の活気で溢れていた。
入りきれない客は店外で並んで待っている。

ふと見ると、店頭に求人の看板が掲げられている。
年齢は書かれていない。
ダメ元で電話番号をメモり、帰宅して
翌日、おそらく仕込み中であろうという時間に電話をしてみる。

「あ、うち、そういうの関係ないですから」

「そういうの」とは、もちろん年齢のことだ。
早速、翌日面接に来いとのこと。


で、今日

狭い店内の脇にある、そろしく急な階段を上って
二階にある事務所のようなところに通された。
面接してくれたのは、先の店長と同年代くらいだろうか。

履歴書を渡し、アンケートのようなものを書かされた。
とにかく、自分の思いを正直に伝えるだけだ。
変な期待はするのはよそう。
「手応え」なんてものは、こちらの勝手な思い込みだ。

「昨日電話でおっしゃってましたが、
 うち、そういうの関係ないですからね」

早合点する気はないが、何かしらの光明が見えた気がした。

面接を終え、店を出る。
ちょうど昼時だったので、昼メシでも喰おうかとウロウロしていたら
さっきの面接官からメールが届き、シフト表が添付されていた。
明日から来い、とのことだ。

舞い上がるような気持ちだった。
幾ばくか頂いた退職金で、2~3ヶ月は生活はできる。
しかし何もしないで、今日が何曜日かも忘れるような生活から
一刻も早く脱したいと思っていた。

とにかく採用はされた。

家族に採用の報告。
続いて、送別会で温かいメッセージをくれて送ってくれた仕事仲間や
何度も心配のメールをくれた悪友、
一緒に呑み歩いたノンベたちに報告。

そして優しくも厳しい言葉をくれた、唯一の肉親である姉には
何もしてやれなかった両親への、遅すぎる親孝行として
いつか自分の店が出せる日が来たら
両親のやっていたラーメン屋の屋号をつけるつもりでいると報告した。

「やっぱりカエルの子はカエル?
 しっかりお金を貯めて開店できるといいですね」

そのメールに返信しながら両親のことを思い出したら、止めどなく涙が出た。


「ところで豚てきってなに?とにかく頑張れ!」


「豚てき」じゃなくて「やきとん」ね。
姉貴らしい結びだな。

報告した人たちからも、温かい返信を頂いた。

さ、明日からやきとん屋のオヤジになるべく修行が始まる。



ところで

この日の留守中、オークションで落札したDVDが届くはずだったが
どうやらポストからはみ出ていたらしく盗難に遭った模様だ。
なのに、全然悔しくないから不思議だ。
どこまでも単細胞にできているらしい。


オレの思いを無視した
クソ居酒屋ども憶えていやがれ!
人の恩義は信じるが
やられたらやり返す。


倍返しだ!



と、話題のドラマの台詞を
自分を鼓舞する意味で引用してみた。








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マンシンソーイの男

2013-04-03 | 生活


やや以前の話になる。
2月の初旬の月曜日こと。

本来であれば、その前の土曜日は
オフクロの墓参りに行くはずであった。
しかし、そのちょっと前にぎっくり腰になり
加えて寒さのピークでもあり
翌週に墓参りの日延べをしたのがいけなかったのか。
しかし、後になって思うと、その土曜日は2月にはめずらしい暖かい日で
要は、自分のずぼらからくる日延べであった。

天のオフクロが罰を与えたのだろうか…


寒い月曜日の夜。
バイクで帰宅中、ふとコンビニに寄りたくなって
路肩にバイクを停めて買い物をした。
用を済ませ、さて帰ろうとした時であった。



チェーン式のガードレールをまたごうとしたら
ぎっくり腰の影響か、足の上げ方が足りなかったようで
そのチェーンに、上げた足のかかとが引っ掛かってしまった。
そのまま顔面から転倒…

鼻の頭に激痛が走った。
血が出ている。
バイクのミラーで確認すると、鼻の頭の皮がめくれている。
メガネの鼻あてが当たったのか、左目の脇も切れている。
出血が少ないのがせめてもの幸い。



メガネはツルがポッキリと折れ、レンズも傷だらけだ。
それでもメガネがないと何も見えないから
片方の耳にひっかけて、カバンからティッシュを取り出し
血の流れている鼻を押さえつつ
運良く、そばにあったドラッグストアに入る。
消毒薬と絆創膏を買って、簡単に手当をして帰宅を急ぐ。

走行中、右手の肘から手首にかけてがやけに痛い。
バイクのアクセルを回すのがつらい。
痛みを我慢しながら、スピードを出さずに帰路を急ぐが
次第に右手の痛みが増してきた。

これはいけない…
外傷だけなら、このまま帰るつもりだったが
もし骨折でもしていて、翌日に腫れ上がっていたりしたら…

急に不安になってきてしまった。
とにかく病院に行こう。
家の近所にあるT病院のERに直行することにした。

まずは外傷の治療だ。
やはり縫わなければならないらしい。
局部麻酔をされ、ちくちくと鼻の頭を縫われる。
50数年生きてきて、体を縫うようなケガもなければ
手術なども未経験のことだ。

ガッチリと鼻の頭に絆創膏を貼られて、手術は終わり。
気になっていた右手のレントゲンを撮ってもらう。
骨折はしていないようだが、まるで力が入らない。



翌日

午前中に病院で再診。

「うん、大丈夫ですね。お風呂も入れますよ」

この程度のけがは、医者からしてみたらどうって事はないらしい。
美人の形成外科の先生に、薬を塗られて絆創膏を貼られておしまい。

問題は右手だが、一晩寝ると今度は左胸が痛む。
あまりに一瞬のことだったので、よくは憶えていないのだが
無意識にボクシングスタイルのような形を取ったようだ。
左手の外側にも擦り傷があって
その握った左手の拳で、左胸を強打したようだ。
日が経つにつれ、息をするのも痛いほどで
咳などしようものなら、激痛が走る。

そこから地獄のような一週間が始まった。
鼻の頭に右手、左胸…
治りかけたぎっくり腰も、また再発。
まさに満身創痍だ。
バイクに乗ることもできない。

その週の土曜日。
一日遅れの墓参りだ。
さすがにこの状態で、松戸までバイクではいけない。
うちの墓は非常に不便な立地で、最寄り駅のどこからも遠く
しかも高台にあるから、歩いて行くにはつらい場所だ。
取りあえず実家に行って、叔父の運転する車で連れて行ってもらった。

明けて月曜日。
鼻の頭の抜糸の日だ。
傷跡は黒ずんで、若干窪んでしまった。
ま、女性ならともかく、50過ぎたオッさんだ。
今さらクヨクヨ悩むほどの色気などはないが…

あれから2ヶ月あまり。
最後まで痛かった右手も、ようやく治まってきた。
治りが遅かったのは、寒さのせいもあったろう。
寒い季節にケガをすると、こんなにもつらいものなのか。
精神的にも心細くなってしまう。

とにかく、ここ2年ほどはロクな事がない。
一昨年の血まみれクリスマスに始まり
まさに大殺界オソルベシだ。

もう少したって、誕生日が来たら
プレゼントは、新しいメガネがいいな…

それよりもなによりも
墓参りだけはちゃんと行かなければならぬわい。



嗚呼…無明長夜もかくばかり…


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お気に入りの一杯にウラミイッパイ…

2013-01-19 | 淡々麺


昨年末、事務所の移転があった。
旧事務所から歩いて行ける距離。
神保町交差点付近だ。

以前、西巣鴨から越してきた時は
千代田区という名前の響きに興奮してしまったが
場所的には、神保町というより、九段に近い。
とはいえ、以前から好きな街のひとつだったので
越してきた当初は、昼休みには随分と探索したものだ。
しかし何年もいると、いろいろと不便さが見えてくるもので…

不便といったって、歩いて行けるのだから不便でも何でもないのだが。

ラーメンは土曜日に喰うものと決めていたのだが
最近は、土曜日もキッチリと休みようになったので
むしろ、平日に喰いに行くことが多くなった。
となると、事務所からサクッと歩いて行けるところがいい。

土曜日に通っていた時に見つけた店。
その店が、新事務所のすぐそばなのでありがたい。

最近のお気に入りの店『Soup(スープ)』
店名の通り、出汁の味に力を入れているらしい。
メニューは塩、味噌の二種がメインで
どういうサイクルで変わるのかはわからないが
「限定」というものがある。



メインメニューの塩ラーメン。
以前は「地鶏だし淡麗塩Soup」という長ったらしい名前だった。
今は、シンプルに「塩ラーメン」

あの『神名備』の神名備そばに匹敵するような美しいラーメン。
あっさりとした味だが、しっかりと出汁が出ている。
固めの細麺も嬉しい。



もう一つは味噌。
これも、以前は「地鶏だし熟成味噌Soup」。
現在は「味噌ラーメン」。
ビジュアル的には似ているが、しっかりとした味噌味。



そして、今現在の限定は、煮干し。
独特の苦みが旨い。

はぁ…

近くには、まだまだ旨い店が多くて
すっかりリバウンドしてしまったワタクシだというのに…

ただひたすらに、弁当におにぎりを作って我慢をしておるのです。

怨みますぜ、ホント。




嗚呼…無明長夜もかくばかり…

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さとし、長生きしろよ

2013-01-18 | 家族


2012年10月21日、日曜日

いつものようにダラッとした午前の微睡み。
ノンビリとテレビなどを眺めていた。

携帯が鳴る。
従兄弟のトオルちゃんからだ。

滅多に鳴らぬ身内からの電話…

となると、嬉しい内容ではないことが多い。
トオルちゃんの母、オレの叔母が危篤とのこと。
3年前に危篤の報が来て、お見舞いに行った。
一時は、本当に危ない状態であったが、奇跡的に回復し
その後、トオルちゃんの弟・ヒトシちゃんの自宅に引き取られた。

それから3年。

「もう危ないんだよ…今日、明日かも知れない」

次に続く言葉こそ言わなかったが
「顔を見に来てやってくれ」と言いたかったのだろう。

場所は、千葉県の市原市。
ここからだと2時間近くかかるだろう。
しかし息子を除く親類の中で、おそらく一番叔母に可愛がってもらったのはオレだ。
行かぬわけにはいかない。
サッとシャワーを浴びてから出かける。

病院では叔母の息子、トオルちゃんとヒトシちゃんが待っていた。
既に叔母の意識はなく、目も見えていない様子だ。
しかし、こちらが声をかけるとそれに反応する。

病室で、叔母を見舞ながらいろいろと話した。
取りあえず、心の覚悟はできた。
おそらくこれが最後になるだろう。
日も暮れかけてきたので、暇をする。



10月23日、火曜日。
朝起きると、トオルちゃんからメールが入っていた。

「母 テル 10月22日23時25分
皆様のお見舞い、ご声援の甲斐なく永眠いたしました」

最後に、せめて顔を見ることが出来てよかった。

叔母は87歳。
オレがガキの頃は、実家のある松戸の家のそばに住んでいた。
トオルちゃんとヒトシちゃんは、オレの兄貴みたいな存在で
とくに次男のヒトシちゃんは年も近かったので
よく土曜日の夜には遊びに行って、夜遅くまでだべっていたものだ。
ここだけの話、悪いことはほとんどヒトシちゃんに教わった。
酒、タバコ、その他いろいろ…
小学生にしては、ませた音楽を聴いていたのもヒトシちゃんの影響。

そして、叔母の家に行くもう一つの楽しみは晩メシだった。
黄色いカレーに、厚めに切ったプレスハムを焼いた「ハンバーグ」
インスタントラーメンを初めて喰ったのも、叔母の家だった。
料理店だった実家のラーメンやカレーは商売用、いわばプロ仕様だ。
家庭で作る、黄色いモッタリとした甘口のカレーは
子どもには嬉しいご馳走だった。

通夜は、その週の金曜、告別式が土曜日。
仕事を休まずに済み、さらに日曜は休めるよう配慮されたスケジュールだ。



葬儀は滞りなく終わった。



話が前後するが、遡って、お見舞いに行った21日のこと。
病院の喫煙所で、ヒトシちゃんから意外なことを知らされた。

元々、母方の家族は北海道出身で、現在も親類が北海道に住んでいる。
その親類の中に、芦別という町に住む従兄弟・タツルちゃんがいて
3人いるタツルちゃんの子どものうち、二人は東京に出てきていることは知っていた。
長男は音楽の道を志し、すぐ下の妹・メグミも東京に来ていた。
もちろん二人とも学校を卒業し、ともに成人している。

そのメグミが、この夏8月に
住んでいた新宿のマンションから飛び降り自殺をしていたという。
まだ20代半ばだったはずだ。

20年以上前になるが、一度だけ、兄弟三人揃って東京に遊びに来たことがある。
オレは既に働いていたこともあり、スケジュールが合わなくて
長男と次女には会えず、奇しくも死んだメグミとだけ会うことができた。

北海道芦別市は、有名なドラマ「北の国から」の富良野の隣町。
ガキの頃に家族で遊びに行ったことがあるが、冬は相当に雪深い
よく言えば、自然に囲まれた街…悪く言えば何もない所だ。
そういうところで育ったメグミは、初めて来た東京の夜景が気に入ったようで
亡くなったオフクロと一緒に、池袋のサンシャイン60に遊びに連れて行った。
展望台からの夜景を、楽しそうに見ていた顔を覚えている。
後にも先にも、メグミに会ったのはそれきりだ。
大人になって、東京に出てからはどんな生活をしていたのかは知らない。
詳しくは聞かなかったが、水商売のようなこともしていたらしい。

どんな理由があったかはわからない。
同じく東京に住む兄に相談したり、いや、兄ばかりではない。
こちらには親類がたくさんいるのだし、どんな力にもなれたろう。
まだ20数年しか生きていないのに、死を選ぶような辛い目にあったのかと思うと心が痛む。
それよりも、遺体を引き取りに来たメグミの父・タツルちゃんの心を思うと…



叔母の葬式から一週間。
亡くなった叔母の妹、これもオレの叔母だが
その下の叔母から一通の封書が届いた。

ん?なんで叔母から?

手紙の文面を見て驚いた。
叔母の息子・シュンイチロウ。これもオレの従兄弟だ。
そのシュンイチロウが、今年の3月に亡くなっていたとのことだった。
年はオレよりひとつ下の51歳。

ハッキリ言うと、このシュンイチロウはオレとはそりが合わなかった。
ガキの頃は会うとケンカばかり、しかも取っ組み合いだ。
もちろん、お互いが大人になってからは普通に対応はしていたが。
彼には子どもが二人いたが、後に離婚して一人暮らしをしていた。
精神面で弱い所があり、一時は仕事もしていないようだった。
だが、最近は市民グループや、都内の障害者のケアセンター等の手伝いで
忙しくバイクで走り回っていたらしい。

このシュンイチロウの死は、母である下の叔母と
彼の弟意外には、誰にも知らされなかった。
下の叔母とは、通夜のときも葬儀のときも顔を合わせているし
弟とは、通夜で酒を呑みながらいろいろと話をした。
精神を患ってからは、ちょっと変わり者になっていたので
敢えて葬儀に来ない理由も聞かなかったが
シュンイチロウの話も出たというのに…

ショックだった。
若くして亡くなったこと以上に
なぜ教えてくれなかったのだろうと。

母方の祖母の法事があるので、電話をしたが通じず
心配した弟が、シュンイチロウのアパートを訪ねると
布団の中で眠るように死んでいたという。
医者から処方されたらしい風邪薬が枕元にあったので
もしやと、遺体を解剖したらしいが、自殺に可能性は極めて低いとのこと。
死因は病死ということだった。
もちろん遺書はなかったが、彼は常々母親と弟には言ってたらしい。
自分が死んだら、葬儀も墓も戒名も要らない。
骨は海に散骨して欲しい、と。
さすがにそういうわけにはいかないので、祖母の墓に入れたらしいが。

すぐに弟にメールをすると、詫びの返信がきた。

「親子兄弟の間でも色々ありましたが
交通事故や火事などで他人様を巻き添えにしないで静かに逝った事が
最後の親孝行だね、と、おふくろと話をしました。」

最後の親孝行…
ま、そう思って納得するしかないだろうが、オレは納得できなかった。
親より先に死んで、何が親孝行か。
最もしてはいけない、最大の親不孝ではないか!

病死のシュンイチロウは仕方ないが、メグミは自殺だ。
都会でどんな辛いことがあったかは知らないが
たくさんの身内がいるのに、誰にも相談せず
親の顔を見に北海道に帰ることもしないで
損傷した痛ましい遺体となっての再会…
先立たれた親はどんなに辛かったことか…

オレ自身も、親不孝者だと思うが
それでも、親の死を見届けたことだけが唯一の親孝行だと思っている。

なんだか、暗い話になってしまった。



トップの画像は、叔母の家族だ。
後列左から二番目が亡くなった叔母。
オレのオフクロは前列一番左。
10人もいた兄弟は、今は上の二人だけだ。

この年になると、周りの人間の死を多く見ることになる。
これは仕方のないことだ。
先年、亡くなった印刷屋の社長が言っていた。
人間は死亡率100%だ、と。

叔母は、北海道生まれ。
今はロシア領になってしまった、いわゆる北方領土の樺太(からふと)で生まれ育った。
戦争で、命からがら北海道内に引き上げてきたという。
後にオフクロに聞いた話では、侵略してきたソビエト兵に
火炎放射機で焼き殺される寸前だったらしい。

叔母家族は戦後、先に東京に出てきたオフクロを頼って一家で上京。
いろいろと苦労はあったろうが、たくさんの孫や曽孫にも恵まれ
子どもらに見守られて息を引き取った。

奇しくも、叔母、シュンイチロウ、メグミと
親、子、孫の三世代の身内が亡くなってしまった2012年であった。


もう40年以上前のこと。
当時、まだ下の叔母は札幌に住んでいた。
その旦那さん、死んだシュンイチロウの父親が病気で危篤と聞いて
オフクロや、このたび亡くなった叔母達と北海道へ飛んだ。
オレが、まだ幼稚園の頃だ。
結局、その旦那さんは、オレ達が着いて間もなく亡くなった。
下の叔母は二十代で夫を亡くし、女手一つで二人の子を育てた。
初めて葬式というものに立ち会い、旦那さんの遺体が火葬されてお骨となった時
当時はまだ中学生だったであろうか、娘に先立たれたタツルちゃんがオレに言った。

「さとし、長生きしろよ」と。



叔母の孫や曾孫たち。
オレのオフクロも、今生きていれば曾孫の顔を見られたはずだ。


やはり長生きはしなければならぬ。


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