アリの一言 

オキナワ、天皇制の現実と歴史などから、
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「平和の礎」に朝鮮人犠牲者の刻銘を

2016年10月13日 | 沖縄と戦争

       

 「『平和の礎』への朝鮮人犠牲者刻銘についての陳情書」が、さる6日の沖縄県議会文教厚生委員会で審議されました。
 陳情書は9月23日に翁長雄志知事と新里米吉県議会議長宛てに提出されました。提出者は、沖縄戦における朝鮮人犠牲の問題に一貫して取り組んでいるNPO法人「沖縄恨之碑の会」(安里英子代表)です。陳情書の要旨はこうです。

 ことし「平和の礎」には84名の犠牲者が新たに刻銘されたが、その中に朝鮮半島出身者の名前はなかった。この8年間に朝鮮人の名前は1人追加されただけで、合計447名のままとなっている。「国籍を問わずすべての戦没者の氏名を刻んで永久に残す」とされた「平和の礎」の作業は、朝鮮半島から動員されて沖縄戦で犠牲になった人々については立ち止まったまま、大きな課題として残されている

 日本政府は、「皇国の臣民」として120万人に及ぶ朝鮮の人々をアジア太平洋戦争に動員しながら、戦後はその生死すら確認せず、未帰還者の調査もしていない。日本軍の兵士、軍属であったにもかかわらず外国籍であるからとして補償・救済の道から排除している。当時の俸給すら供託して払い戻し請求に応じていない。沖縄では朝鮮出身者の何人が死亡し、何人が未帰還か不明のままである。

 「恨之碑の会」は今回具体的に2名(クォンさんとパクさん)の刻銘を要求しています。いずれも沖縄32軍直轄の朝鮮人部隊(特設水上勤務第104中隊)に所属し、クォンさんは爆死、パクさんは「芋を盗んだ」として同郷の仲間4人とともに日本軍に首を斬られました。
 外国人の刻銘には「沖縄戦で亡くなったことを証明する資料の添付」(「刻銘対象者認定要綱」第3条4)が必要とする「公的死亡認定書類」の「壁」があり、それによって申請が却下されてきました。

 「恨之碑の会」は「この壁を沖縄県が独自に取り払わない限り、『平和の礎』への朝鮮人刻銘作業は前に進むことはできない」とし、県と県議会に対し次の4点を要求しています。

 「平和の礎」にクォンさん、パクさんを刻銘する。
 朝鮮人の刻銘基準は弾力的に運用する。
 沖縄戦に動員された朝鮮人とその犠牲者について沖縄県が独自に調査を進める。
 沖縄の戦場から帰還できなかったすべての朝鮮人犠牲者の名前が刻銘されるよう積極的な施策を講じる。

 6日の県文教厚生委員会では、担当課長が「沖縄戦での死亡を証明する書類がなくても、それを補完する資料があれば申請は可能」(7日付沖縄タイムス)との前向き答弁がありました。11月には陳情者(「恨之碑の会」)の参考人陳述も行われる予定です。

 糸満市・摩文仁の「平和の礎」は1995年(大田昌秀県政)に設立され、24万1414人が刻銘されています(2016年6月現在)。国別の内訳は、沖縄県14万9425人、県外の都道府県7万7417人、米国1万4009人、英国82人、台湾34人、朝鮮民主主義人民共和国82人、大韓民国365人(朝鮮人は合計447人)。

 沖縄県援護課によると、沖縄戦の戦死者は、沖縄一般住民約9万4000人、沖縄県出身軍人・軍属2万8228人、県外出身日本兵6万5908人、米軍1万2520人とされていますが、「平和の礎」の刻銘数はそれぞれこの数字を上回っています(沖縄県出身者については、1945年9月以降も沖縄戦が原因で死亡した人なども刻銘の対象になっています)。

 これに対し、沖縄戦に軍夫などで強制連行された朝鮮人は1万人前後にのぼるとみられます。そのうち死亡者がどのくらいか分かっていませんが、447という刻銘数が比較にもならないほど微少であることは歴然です。

 天皇制日本帝国の植民地となった朝鮮の人々は、沖縄戦においても、その刻銘においてさえ、今なお差別され続けているのです。

 「恨之碑の会」の「陳情」を、私たち「本土」の人間は、決して沖縄の問題として傍観することは許されません。朝鮮人犠牲者の刻銘の推進を要求するとともに、翁長知事が4項目の要求(とりわけ「県独自の調査の実行」)にどう応えるか、注視していく必要があります。
 
 (写真右は「恨之碑の会」が2006年に読谷村に建立した朝鮮人軍夫を追悼するモニュメント「恨之碑」=金城実作)

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