こころの万華鏡

日常の中に瞑想があるのではない・・
瞑想が日常に溶け込んでいる

『時の輪』分離したリアリティからの引用②

2016-11-08 10:37:34 | 著籍の紹介



今回もカスタネダ著 『時の輪』の「分離したリアリティ」から

ドン・ファンの名言を二つ挙げたいと思います。

この二つに共通する用語として「見る」という表現がありますが

この表現はカスタネダの全ての著書に頻繁に使用されています。


「見る」とはいうものの、通常の視覚レベルの「見る」

ではないことは明らかなのですが、かと言って

どういう事かにつての体系に則った説明はされていないのです。


読者側の想像に任せている、ということになるのでしょうが

見えざるものを見る目、すなわち「第三の目」という知覚で

どの次元を「見る」のかと、という疑問も残ります。

これについては、また別の機会に詳しく書いてみたいと思います。







戦士は心のある道を選ぶ。

どんな道であれ、心のある道を。

そして、その道に従う。

それから彼は喜び、笑い声をあげる。

戦士は、自分の人生がもうすぐ完全に終わるだろうことを「見て」知っている。

そして他には重要なものなど何ひとつないことを、彼は「見る」のだ。






  *:.。..。.:*・・゜゜・・*:.。. .。.:*・゜゜・*..*・゜゜・*:.。..。.:*・・゜゜・・*




並の人間は勝ち組か負け組かのどちらかで、

それに応じて迫害者にもなれば、犠牲者にもなる。


人が「見ない」かぎり、

正反対のこのふたつの状況は、いつまでも続く。

だから「見る」ことである。

勝利とか敗北とか、苦しみといった幻想は、

それで消える。





  
『 時の輪 』(太田出版)より   ~分離したリアリティ~
















ジャンル:
ウェブログ
この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 『時の輪』 分離したリアリテ... | トップ | Ashra - Nightdust と瞑想音楽 »
最近の画像もっと見る

あわせて読む