うさぎのひとり言

唐突な思いつきで、脈絡なく不定期に書いてます。

リアルな話

2008-11-16 | Weblog
慈音さんが秘密の話を語るとき、前置きとして『シー、静かに』というアクションを欠かさない。普通、人差し指をつぐんだ口の前に立てるのだが、彼は、足の親指を立て、相手の口の前に立てる。それで充分通じる。仲良しだから。
そんな時の話は、『言ってもいいかな』『ちょっと恥ずかしいけど』『笑われちゃうかな』『いたずらの計画だけど』といったほのぼのした感情を含んでいる。
しかし、もっとシビアなリアルな話の場合、内緒だよって意志を表明するだけでは心配らしく、相手の唇を、がま口の口をパチンと閉めるように、抓んでひねる。別に力は入ってないから痛くないけど、『他言無用』の意志を明確に感じる。
慈音さんにおいて、そういう時はあまりないけど、話の内容が爆弾発言というよりも、彼の中で言葉にするまでの長い時間の熟成が必要だっだ出来事への【本当の気持ち】の吐露であることが多い。この前聞いた話は、7年前の出来事における自分の本心だった。

語る人にとって、ポンポン言葉がこぼれる話は、たぶん、その人にとってほぼ解決済みの、または了解済みのことで、もちろん話すことそのものが、内側に溜まる感情のおりのようなものを流しだす効果を、話す人も聞く人も理解していれば、せめてもの気分転換になるだろう。
けれども、誰にとっても生きている現場は複雑だ。自分と自分ではない人との関係の中で、物事は複雑になり、ねじれていく。その過程の中で、自分の感情の変容を見失ってしまうことさえ起きる。なにが悲しんだか、なにが苦しいんだか、どうしたいんだか、自分の次の一歩を一体どこに出していいのか、どこへ出すべきなのか、果たして自分は出したいのか出したくないのか……。そういった、自分にしか決められないことを決める術を見失ってしまう。
そんな時に、本当に語りたい言葉を見つけることが、どれほど大切か、一度でも経験したことがある人ならば分かるだろう。
時としてお寺は、その言葉を見つける瞬間を共有する場所になる。

私は在家から嫁いだので、お寺を知らない者の目線で見たこと聞いたことを書けば、といった勧誘(?)をいただくことがある。
実際にお寺には、出版業界の片隅で働いていたままなら、私自身、『誰かにとって励まされたり、元気になったりする話だから』と、くどきたくなることがたくさんある。
でも言わない。
人は、なかなか外から窺い知れないものの中身を知りたがる好奇心や、興味本位の野次馬根性を滅却できないものだから、そういった当事者による告白本のニーズは高いのかもしれないが、逆に、人は、他人の欲望を満足させてあげる為に生きているわけではないだろう。第三者のために、人は悲しみを耐え忍んで生きているわけではないだろう。
最近、お寺側からのアプローチが大切だという話を聞くことが多いが、本当にそうだろうか。人が集まることは大事だが、イベントに集う人は、イベントに参加することが目的だよね、普通に考えれば。きっかけとしては有意義だけど、きっかけばかりに重点がおかれて、本来そこへ行こうとしている人たちの場所がなくなるのは本末転倒では?
たとえば、お寺はもっと人々の話を聞けと言われるけど、私は、『この人に話したい』という気持ちがなければ、意味がないと思う。
『言え』とか、『聞く』とか言われて話せるようなことばかりなら、誰だって苦労はしない。リアルな話は、パッケージされたシチュエーションの中でスラスラ話せるものではないのだ。言葉になるまでには時間も必要だし、他言は無用なのだ。
『ここでしか話せない』『ここでなら話せる』という意志に報いることができる【ここ】であるだろうか、ということを阿弥陀如来さまの御本願にたずねていくことのほかに、一体なにがお寺に求められているというのだろうか。浄土真宗のお寺であれば、ほかになにがあるというのだろう。
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