第44回 ニッポン号の世界一周

毎日新聞社のニッポン号が世界一周に挑みます('Д')ノ


昭和12年の春から初夏にかけて、日本中を熱狂の渦に巻き込んだ朝日新聞社
の『神風号』・・・

その人気は、新聞の販売部数にも反映され、当時の朝日新聞の売上げは、他の
新聞社を大きく引き離す結果になりました。

朝日第一のライバルである毎日新聞にしてみれば、その成功を横目で睨みつつ
も、心中穏やかでいられるはずがありません。

売上げの落ちた各販売店からも、当然「何とかならないか!?o(`ω´*)o」との
声が、毎日新聞本社に寄せられました。

もちろん毎日新聞社でも、ただ手をこまねいて見ていたわけではありません。

「神風号の飛行を上回る大飛行とは何か?(;`・ω・´)」

昭和12年の秋頃から、社内では密かに『世界一周大飛行』の計画が進行して
いました。


しかし、太平洋と大西洋、二つの大洋を飛び越える飛行機となると、そう簡単に
準備出来るものではありません。

これまで毎日新聞社では、アルテアなどの優秀な外国機を使用していましたが、
国産の神風号の後となっては、やはり国産機を使用しての飛行が求められます。

太平洋を無着陸で横断出来るほどの航続距離を持った国産機・・・

白羽の矢が立てられたのは、渡洋爆撃などの活躍で航続距離には定評のある
海軍の『九六式中型攻撃機』・・・いわゆる『中攻』と呼ばれる双発機でした。


海軍の九六式中型攻撃機

しかし、現役バリバリの軍用機の使用を、海軍がそう簡単に認めるはずがあり
ません。

が、海軍の中にも山本五十六海軍次官ら、この飛行の意義を理解してくれる人
たちがいました。

それらの人々の協力と粘り強い交渉の結果、ようやく骨組みだけの中攻一機
の貸与が決りました。

毎日新聞社では、これを旅客仕様に改造し使用することになりました。


そして、昭和14年7月3日付けの新聞に『世界一周大飛行』の社告を発表。

5日に、使用機と7人の乗組員を発表します。

当初機長には、自社の羽太文夫航空部次長が内定していましたが、支那事変
で陸軍に応召中だったために叶わず、当時民間航空の第一人者といわれた満
州航空の中尾純利飛行士を航空部に招いて、一任することになりました。

以下、副操縦士・吉田重雄、機関士・下川 一、技術員・佐伯 弘、通信士・佐藤
信貞、通信士兼機関士・八百川長作、それに親善使節として毎日新聞航空部
長の大原武夫も乗組むことになりました。

機名は、『神風号』と同じく一般から公募され、14日、応募総数132万9558通
の中から梨本元帥宮殿下の御採決で『ニッポン号』と命名。

8月3日、羽田飛行場にて盛大な命名式が執り行われました。


左から中尾機長、吉田副操縦士、佐伯技術員、下川機関士、
八百川通信士兼機関士、佐藤通信士、枠内は大原航空部長


ところで、今回のニッポン号の世界一周飛行には、神風号や航研機のように、
世界記録を狙うといった目標はありませんでした。

もちろん国産機で初めての世界一周、しかもかねてより念願の太平洋無着陸
横断という壮挙にも起つわけですから、それだけでも大きな意義はあったので
すが・・・

以下は、今回の大飛行の意義を謳った『世界一周大飛行』小冊子よりの抜粋
です。

事変下に この壮挙!!

歴訪三十六ヶ国との親善と在外同胞へ一層祖国愛鼓吹のために

「・・・今事変によって一億の国民が斉(ひと)しく印象づけられた事は多々あるであろ
うが、航空に多大な関心を持つに至った事実はわが航空日本にとって喜ぶべきで
あろう・・・(中略)・・・この空中戦のニュースを万里の波濤を越えた異境にある在外同
胞はどんなに感激して知ったことであろう。われ等の母国は今戦っているのだ!!
故国はどうしているだろうか!!国際情勢はどうだろう。在外同胞の憂国の至情は
凝って献金となり遥かの空から母国に寄せている。われ等はこの多数在外同胞に
如何に感謝し如何にして激励、慰謝すべきか。
建国二千六百年を明年に控えて本社は世界一周五大陸歴訪飛行の壮挙を決行せ
んとする所以(ゆえん)もまたここにあるというべきだ。現下の国際情勢必ずしもこの
世界一周大飛行に好適の条件ではないであろう。然(しか)も敢(あえ)て本社がこれ
を実施せんとするのは、この「翼の使節」によって歴訪三十六ヶ国との親善と、祖国
と在外同胞とを一層強く固く結びつけ、同胞諸兄姉の祖国愛に新たな息を吹き込ま
んとするためである・・・」(毎日新聞社・刊 本社機ニッポン 世界一周大飛行・・・より)


目的は、あくまでも歴訪国への親善と在外同胞への激励・・・ですから、先を
急ぐ必要はなく、コース上の寄航地も細かく設定されていました。

予定コースは、羽田から、まず一旦札幌(千歳)に飛んで、ここで満タンに給油
を済ませてから、一気にアラスカのノームまで約4300キロの北太平洋を横断
します。

北米大陸に入ると、そこから太平洋沿岸沿いに南下。シアトル、オークランド、
サンフランシスコ、ロサンゼルス等を歴訪して、ニューヨークまで北米大陸を
横断。

更にマイアミまで南下して、メキシコ湾を西に横断。中南米の各都市を訪問し
ながら、アンデス山脈を越えて、ブラジルのナタールへ向かいます。

そこからアフリカのダカールまで、約3300キロの大西洋を横断。

沿岸沿いに北上して欧州に入り、マドリッド、パリ、ロンドン、ベルリン、ローマ
を歴訪して、『神風号』とほぼ同じ南方コースをたどって、日本へと戻るという、
まさに大飛行なコースです。

出発日も8月26日と決まり、この日は羽田飛行場で盛大な出発式も行われ
ることになりました。


8月26日―

ニッポン号の飛行には、出発日から試練が付きまといました(´・ω・`)

まず、出発式に臨むために、整備元の三菱の格納庫からトラックで引き出さ
れる際に、カーブに差し掛かった所で太いロープが左のプロペラに引っかかり、
羽根の一つを曲げてしまうというトラブルが発生しました。Σ(゜Д゜)

これには、たまたま同じ飛行場にあった同型機(大和号)のプロペラと交換して、
急場をしのぎましたが、一歩間違えれば出発式の中止にもなりかねない不測
の事態でした。


その後ニッポン号は、地上滑走をしながら、見送りの大観衆の待つ出発式場
へと見参。

ニッポン号を心待ちにしていた大観衆には、心憎い演出となりました


地上滑走しながら姿を見せたニッポン号

本当は、このトラブルの為に事前に引き出せていなかっただけなんですけどね・・・
(^ω^;)


盛大な出発式の様子

そして、約3万人の大歓呼を浴びながら、午前10時27分―

札幌近郊の千歳飛行場へ向けて、羽田を離陸。

それに先立ち、飯沼さんが操縦する朝日新聞社機、セバスキー式高速通信機
『汐風(しおかぜ)』と、大日本航空の旅客機2機が、露払い役で祝賀飛行を行い
ましたが、飯沼さんの『汐風』は、しばらくニッポン号に付き添って歓送しました。


セバスキー式2PA-B3高速通信機 『汐風』号


ニッポン号に付き添って見送る『汐風』

千歳では、太平洋横断に備えて燃料の補給。

ところが、増加タンクにまで一杯に入れられた燃料のおかげで重量オーバー。

タイヤもパンクしそうな過荷重に離陸も危ぶまれたため、積載していた7名分
の落下傘や応急用の無線機などの荷物をいくつか降ろすことになりました。

降ろされた中には、3本あった酸素ボンベの内の2本があったのですが・・・

この事が、次の試練の布石になってしまったのです。('Д';)


8月27日―

この日の気象通報によると、ノームまでのコース上には発達した低気圧がい
くつかあって、あまり好ましいとはいえない状況でしたが、折悪しく南からは
台風も接近していました。

「これ以上日延べしても状況は悪くなる一方だな・・・よし、やろう!」

中尾機長の決断により午後3時4分、ニッポン号は、千歳飛行場を飛び立ち
ます。

北海道東端の落石から幌莚(パラムシル)島までは、千島列島を左に見なが
らのコース。

この辺りまでは天候も悪くなかったので、目視による飛行が行われました。

しかし、幌莚島を過ぎた辺りで、低気圧に突入。

雲中で視界は失われ、北西の風も強くなってきたので、ニッポン号では針路
を見失わないよう決死の飛行が続けられました。

「しかし、このまま風に流されては、カムチャッカの3千メートル級の山々に
衝突しかねない。また、このまま雲中での飛行を続けていれば、翼も凍りつ
いてしまう・・・」

そう判断した中尾機長は、ニッポン号の機首を上空に向け、高度6300メート
ルで、雲の上に出ました。

外気温は-25度・・・しかも、これだけ高空だと空気も希薄になっています。

無電や天測等を分析した結果、コース上を正確に飛んでいることは確認され
たのですが、今度は乗員の酸欠による苦闘がしばらく続きました。

ニッポン太平洋横断記 

本社親善使節 大原武夫手記

「・・・暫(しば)らくして胸苦しくなり寝ているのやらもがいているのやら朦朧(もうろう)と
してわからなくなる。八百川君がやって来て「苦しいでしょう」と酸素パイプをくれる。
忽(たちま)ちわれに還る。操縦席の後に寝ているとまた忽ち苦しくなり、座席に帰る。
八百川君はじめ全員、乗務員室からひょろひょろとした足どりで僕のところに来て吐
き出す如く酸素!と一言いう。吸わせると勇んで乗組員席に出て行くが、一分たたぬ
中(うち)にまた来て酸素と訴える。三、四度これを繰り返し最後に黙って僕の側の歩
廊に倒れてしまう。驚いて酸素管を与え座席につかせる。ふと見ると佐伯君も機関士
席の廊下につぶれている。佐藤君は自席にうなだれてつぶれている。僕は手管二本
を二人に持って行く。乳豆口金皆飛んでしまう。ガラス窓は白く凍って外は見えぬ。
飛行機は人力をはなれてひとりで動いている。際限なく月に向って昇りつづけている
気がしてならぬ。操縦席を見ると二人とも首を垂れ後からは椅子の背しか見えぬ。驚
いてさめた佐伯君の背をたたき「操縦者に酸素をやれ」と突き出す。この間僕も何度
廊下に倒れたか、時計を出し十時半だったのははっきり憶えている。飛行機がどんど
ん落ちて行くのを感じたのは夢か現(うつつ)かわからない。後で聞くと高度六千米以
上を一、二時間飛んだ、外気温度零下二十五度、操縦席前のガラス厚く凍りプロペラ
の氷割れてパチパチと機体を打つ。酸素を使い果し皆気絶した時が一時あったように
思う。しかしこれは僕だけの印象だ。皆の話を綜合してよく検討しないと夢か現か確
かなことはいえぬ・・・」(8月30日 大阪毎日新聞記事より)


一本しか載せていなかった酸素ボンベは、一時間と保ちませんでした。

乗員が皆、人事不省の状態に陥っても遭難しなかったのは、搭載された自動
操縦装置が正確に働いてくれたおかげでした(;'Д')~3


かくして現地時間27日午前10時45分(日本時間28日午前6時45分)―

ニッポン号は、なんとか無事にノーム飛行場に到着しました。


ノーム飛行場に到着したニッポン号

これにより、かねてから念願だった日本人の国産機による太平洋無着陸横断
飛行も、遂に達成されたのですヽ(´ー`)ノ

飛行距離4340km、時間にして15時間41分の見事な飛行でした。


この後ニッポン号は、カナダのホワイトホースを経て、太平洋の沿岸沿いに
アメリカ合衆国に入りますが・・・

この時すでに、アメリカの対日感情は悪化した状況で、ニッポン号の乗組員
たちは、「石をぶつけられるかも知れないが、あくまでも隠忍自重で・・・」との
覚悟を決めていました。

しかし、そんな予想に反して、彼らはアメリカで暖かく迎えられ、一同はホッと
一息。(;´∀`)~3


サンフランシスコ着のニッポン号

ところが・・・!

ニッポン号がアメリカに滞在していた9月1日に、ドイツがポーランドに侵攻し、
ついにヨーロッパ全土を巻き込む戦争が始まってしまいました!Σ(゜Д゜)

これで、ニッポン号のヨーロッパ歴訪の予定は、大きく変更せざるを得なくなり、
パリ-ロンドン-ベルリンの訪問がキャンセルされ、スペインのセビリアから、
イタリアのローマへ直接飛ぶことに決りました。

時局は、『神風号』の時から、大きく変化していたのです(´・ω・`)

マイアミを最後にアメリカを飛び出したニッポン号は、中米サンサルバドルや、
日本人の移民が多く入植していた南米の各都市を回り、各地で大歓迎を受け
ました。

そして、アンデス山脈を越え、ブラジルのナタールから、仏領ダカールまで約
3300キロの大西洋横断にも成功しました。



仏領ダカールから、モロッコのカサブランカ、セビリア、ローマと歴訪した後、
中東-インドへと入って行くのですが、ここからは更に時局の変化を思い知ら
される試練が待ち構えていたのです。


ヨーロッパ戦線が拡大されていくに従って、イギリスの日本に対する態度も
一変しました。

日本は、イギリスと対立するドイツ・イタリアとの同盟国でしたからね。

当然、英領であったバスラやカラチ、カルカッタなどでも、ニッポン号は好ま
しく思われていませんでした。

好ましく思われていないだけならまだしも、露骨な妨害工作まで行われて
いたのですΣ(´д`ノ)ノ

バスラやカルカッタでは、エンジンのプラグコードを外されたりしました。

またカラチでは、命に関わる危険な妨害にも遭っていました(;´・ω・`)


10月16日の朝―

カラチのドライロード飛行場は、濃い霧にすっぽり覆われていました。

ニッポン号のエンジンを回していると、どこからかインド人の飛行場長が現わ
れ、中尾機長を連れ出して深い霧の中へ消えてゆきました。

その時、その様子を見ていた大原航空部長は、何やらイヤな予感がしたそう
です。(;`・ω・´)

戻ってきた中尾機長は、飛行場長から離陸コースのアドバイスを受けたらしく、
「出ましょう」といって、アドバイス通りのスタート位置にニッポン号を移動させ
ました。

そして滑走、離陸・・・

高度30メートルまで上昇した、その時!?Σ(゜Д゜)

霧の中に黒く浮かぶ障害物が、ふいにニッポン号の眼前に現われました。

中尾機長は、咄嗟の判断でそれを回避!

危機一髪、障害物はニッポン号の主翼端をかすめただけで通り過ごせました。

この障害物は、ツェッペリン飛行船の巨大な繋留塔だったのです。

この瞬間、中尾機長の頭には、「しまった、駄目だっ!」という閃(ひらめ)きと、
「助かった、ありがとう」という閃きが、ほとんど同時に浮かんだそうです。

「中尾君はやおら操縦席を立って、機内に安置した伊勢大神宮に額(ぬか)づいた。
この時は熱涙頬を匍(は)っていたそうである。その後で、私の席へ来て、まだ胸の
動悸が治まらぬ、今日は終日気持は回復しまい、といっていた・・・」
(大原武夫手記より)


おそらくこの時が、ニッポン号最大のピンチだったんでしょうね((((;゜д゜)))


インドを過ぎれば、後は親日的なシャム(タイ)のバンコク、日本領だった台北
と順調な飛行を続け、10月20日―

ニッポン号は、ようやく懐かしい羽田飛行場に帰還することが出来ました。

所用日数約56日間、飛行距離にしてなんと5万2860kmを翔破した、堂々
たる大飛行の凱旋でした(´∀`)

悪化するばかりの国際情勢の中で、『ニッポン号』は本当に命がけの冒険を
成功させたのです。


それにしても・・・

『神風号』からたった2年で、人間の感情というのは、ここまで変わるもの
なのですね(´・ω・`)

『神風号』の時代までが、ギリギリよい時代だったのかも知れませんが・・・

このように、世界は急激な変化の時を迎えていました。


変化といえば、もう一つ・・・

中尾機長は、その手記の中で、アメリカ国内で整備された『ラジオ・ビーコン』
について記しています。

ラジオビーコンとは、電波によって飛行機を飛行場に誘導するシステム。

いわば電波の軌道ともいうべきものです。

「・・・アメリカでは、私たちは夜間飛行は禁じられていたが、実は、夜でも昼でも飛ぶ
のになんの変わりもなかったのである。というのは、機上の私たちは、何を見る必要
もない。窓の外の空を、まして地上を!飛ぶときには、ただ、電波だけが相手である。
ラヂオ・ビーコンは、無数に空の軌道をつくっているし、無線通話はいつでも地上と、
私たちを結びつける。
ロサンゼルスのバーバンク飛行場に降りようとした際、いままで『ニッポン』を誘導し
つつ、刻々気象状況などを語っていた電波は、こんどは着陸方法を指示しはじめた・・・
(中略)・・・飛行場の両側の山々はすっかり雲におおわれているとしても、私たちは、
ただその山の標高を知って、それを越すだけの一定高度をとればよい。私たちが雲
の下にかくれた山を越した時、マーカー・ビーコン(位置標示電波)が、それを私たち
に教えてくれる。続いて電波は、時速毎時百五十キロ、降下速度毎秒4メートルで、
ビーコンを伝って降りよ、と告げる。
もう、私たちは、雲の下からやがて現われて来るであろう飛行場の滑走路へ、なん
の心配もなく、眼をつむったままで、車輪をつけることが出来るのである・・・」
(中尾純利手記より)


ここで語られている『ラジオ・ビーコン』のシステムは、現代の航空管制システム
と、ほぼ同じものだそうです。

飛行機は、腕と度胸で冒険飛行をする危険な乗り物から、安全な一交通機関
へと、変わりつつありました。

大飛行の時代は、確実に終焉を迎えようとしていたのです(´・ω・`)


神風号の航跡・・・目次
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