あかさたなにくそ

がんばるべぇ~

見直すべきは肉体労働

2007-11-08 23:45:44 | Weblog

大工が来ている。今時では珍しく兄弟3人でやっている大工で、一応○○工務店という名前がある。
この大工は見積りを取っているときに偶然探し当てた大工だが、当たりだった。まず最初に顔見世に来たときの態度や表情が気に入った。これはきっといい仕事をすると思ったがその通りだった。
いい仕事をするといっても、うちの仕事では技術や仕上がりに対してそれほどこだわるわけではない。そもそもそんな小奇麗な施設ではないし、自分の性格上というか経験上、あまりできすぎたものに対する執着がなくなっている。それに、こちらの態度もそして職人側の態度にもあまりにこだわりがあり細部にまで執着するようだと、上手く仕事がまわらないと経験上分かっているからだ。
大工といえば職人、職人といえば匠の技、そのためのこだわりというものがありそれは大いに称えるべきもの。みたいな図式をすぐに思い浮かべ、こだわりのないような大工はろくでもないという判断がある。お高い人というのは大体そんなものだ。いや一般的にそういう判断がまかり通っているような気がする。特に頭脳的な仕事をしている都会の人はそうだ。大工の仕事に限らず何につけても特に最近は目の付け所が細かくなって、仕上げの細かいようなところばかり見て文句ばかり言っている傾向があり、重箱の隅をつつくようないやらしささえ感じる。
だが、実際はまともな仕事というのは、必ずしもイコール職人技というようなものではない。うちの場合なら少し大雑把でもいいから、安くて期限にきちっと間に合わせてくれる仕事のほうがいい仕事なのだ。間に合わないところはあり合わせでうまく都合してくれて、最後になんとか帳尻を辻褄を合わせてくれる仕事の方がありがたい。そして実際、活発な現場が回るのはそのような仕事振りによってであり、えり好みやこだわりがありすぎると使いものにならないのが普通ではないか。
いい加減でいいといっているのではない。いい仕事とは多くは全体的にバランスが取れて血の通っている仕事だと思うということだ。現実にはそうした仕事の現場では細部に目をつぶらなければならないことが多いものだ。もちろん細部まで完璧なら言うことないが、事情が許さない場合は実を取るべきであろう。実を取るしかないではないか。自分が言ういい仕事とはそのあたりのバランスが取れた仕事のことをいい、いい大工というのはそういう仕事ができる大工である。
世間で持ち上げるのは大工でもなんでも見栄えのいいところばかりだが、実際は地味で粘り強い仕事をやっているこういう人たちの働きこそ振り返られるべきであり、感謝すべきなのだ。しかし何故かとりあげられるのはこだわりのある職人というようなものと決まっていて、地味で泥のような仕事を黙々とやっている人たちに対する視点が明らかに欠如している。大黒柱っていうのは実はこういう人たちと自分は思う。自分は美談を話しているのではない
完璧を求めるなら完璧なお膳立てが必要だ、その用意ができないのに結果ばかり求めても所詮無理というものである。ないものねだりにも等しい。しかし、完璧かどうかなどというのは単なる仕上げの問題に過ぎない。というのは肝心の仕事の中身がすごいからである! うちに来ている大工のことなのだが、これがなかなかすごいのである。
朝早くから暗くなるまでみっちり働く。夜の残業は少ないが、身体を張ってぐいぐい押したくる仕事である。人間の体力では結構頑張ってもあんなもんだろう。オフィスワークと労働時間の比較をしてもはじまらない。わき目もふらずムダ口もきかず、ただひたすら全身総動員、身体を動かしている。休むのは10時と3時のお茶の一服とお昼の1時間。このくぎりはきっちり取る。そのほうが仕事の効率もいいのだろう。いや効率という面で見ると期間の全体を通して最大限の効率で仕事をしているのが分かる。そう、ムダというものがほとんどない。うまくできたものと感心する。
ことに見るべきは邪心のなさというか、仕事に対する常に前向きな姿勢だろうか。シャバの仕事というのは実際、大工にとってやりがいのある仕事ばかりではなく、ただの木材の運び屋みたいな馬のような仕事から、延々と同じような釘打ちを何日も続けるといったような単純な下っ端の作業もあり、自分など想像するだけでも苦痛だ。
しかしこの大工は選り好みしない。二つ返事で引き受けて延々と中折れせず仕事を続け、氷点下の朝にも、時間がなければ雨の日も風の日も工夫して骨を折り、約束どおり期間内に仕事を終えてみせる。たくましいと思う。およそ趣味のうるさいような人種にはできない仕事だ。
好悪を見ようとしないで手足を動かしながら身体でリズムを作っていき、それに上手く乗っていくような術があるかとも思う。
しかしそれも頑強な鍛えられた肉体があってこそだ。大工だからもちろん腕を振るう場面もあり、自分で磨き上げた技を駆使して仕上げる場面などはやりがいもあろうと思う。見ていてもさすがと見上げてしまう。
しかし、大工が花形と見えるような場面は少なく、多くが泥のような地味な作業や機械的な繰り返し作業に変わっているようだ。今ではハウスメーカーなどの下請け仕事が多くなってきたらしい。それを黙々と続ける姿は感動的ですらある。
何が生きがいと訊いてもこの大工らは上手く答えられないと思う。生きがいも何も仕事だからやるしかない、というだろう。つらいときはつらいに決まっている。でもつらいといってもはじまらない、仕事をやらなきゃ飯が食えない。そして好きな仕事を選んでいたら仕事がなくなる。そういうわけだ。
身体を動かし技術を駆使する中に喜びもあろう、そして仕事を終えた夕にはほてった肉体とともになにがしかの満足もあろう。とにかく、たくましいものだと思う。
大工といえば匠の技、なんて想像しかできない人はいい気なものだ。現実には大工に限らず多くの職人や肉体労働者の現状はこんなものだ。いやこれほどのものだ。本当に大変な仕事をたくましく成し続けている。仕上げがどうだのなどというところしか見ないのは子供じみている。一日中肉体を酷使すること、あるいは単純作業を繰り返す苦役に耐えて社会の地味な下支えをしているのはこういう人達なのだ。
今社会で取り上げられるのはなぜか社会的に頭脳的な階級に属すると思われる人たちの問題ばかりで、こういう肉体労働的な人たちの働きについてまともに見据えるような視点に出会うことがほとんどない。まるで頭脳が肉体のことを忘れて一人歩きしているような奇妙な光景だが、そんなことは本当はありえない。肉体あっての頭脳だし、また頭脳あっての肉体、両者分かてぬ間柄であるはずである。
それが(ものいわぬ肉体であることをいいことみたいに)頭脳の言い分ばかりで、頭脳の方にどうも偏っていると感じる。だから例えば最近の小説など読んでも軽々しくとはいわないが、口先で物言っている風にしか感じられない。身体といえば食欲、性欲、またスポーツをする肉体ぐらいで、働く肉体を忘れている。食ったり住んだりできるのはお金の問題ばかりではない、実際に農地を耕し収穫する労働、建築する労働の結果がなければもたらされないものでそれを誰かの肉体労力に頼っているということを忘れている。頭を働かせれば何もかも得られるのじゃない、筋肉の付加とそれをこらえる単純で強い精神に寄りかかっていることを忘れている。
周りをみればいい、すべての構築物、すべてのものが機械が組み上げたのではない。手作業や運搬作業などの肉体労働の付加によらずしてできあがっているものは今でもほとんどないはずだ。頭で考えただけですべてができあがるような錯覚が過ぎるのではないか。そういう勘所のない頭脳で何を考えたって方輪なのではないだろうか。何を深刻に忠実になぞったとしても忠実になればなるほど空しく偏っていくのではないか。
大工も職人も軽口はたたくが、多くは寡黙でいいわけをしない、ましてこうした頭脳達が自分達の仕事について一顧だにしないでような態度に腹を立てることがない。気付くことさえないのかもしれない。ただ黙々といいわけせずに自分達の仕事を成すだけである。こういう姿は見ていていじらしいほどである。ときに崇高に感じられるほどである。
彼らはもっと評価され感謝され、そしてきちんと位置づけられなければならない。いや、それでは頭脳的すぎる、考える人も肉体労働のマネぐらいすべきなのだ。そうすれば自ずと分かることだろう。韓国には兵役義務というのがあるそうだが、働いて食う形になっていないとしても、また、目的はともかくとして、頭より肉体が主役となるようなそういう体験をある期間持続的にある程度の厳しさで若いうちにするのは考えるよりずっと有意義に違いないと思う。
大工さん達よ、今日も一日ご苦労さん。


惨めな村民の話

2007-11-04 15:09:39 | Weblog

今度はもっと身近な話。
今まで田舎の良さを前に出すような話が多かったと思うが、田舎を都会と対比してみると色々と都会の問題が浮かび上がって見えてくるということはあると思う。ただ、田舎のなにもかもがいいという単純な問題ではない。
自分の住むところはどちらかというと風光明媚な観光の村としての特徴がある。だが、村の内々の話をしたら、ど田舎といって差し支えない風土である。
最近、この村の住民としての自分の無力をというものを、悲しく感じることがしばしばある。特に観光シーズンの終わるこの時期になると、まさしく心に秋の風が吹くごとくだ。もうこの年になると、見え透いてしまっていることが、村の政治や諸々の人間関係のこと…。
あまりにローカルな話なので独り言になりそうなのと、伏字でないとひどいことになりそうなので、こういう場で話すにふさわしいことではないのかもしれないが、ここで生計を立てている自分にとっては重大事なので、少し話してみたい。
自分はもともと土地の人間だ(有力な一族に属さない)が、最近うっかりものも言えない。いやその前にものも訊けない、というジレンマに陥っている。最近といったのは、ものの分からないうちは幼く受身で、なす術もなく村の中に取り込まれてしまっていて、何も分からなかったからだ。
血縁関係の深い身内の一族(とあらまし言っていいと思う)が大勢を占めてしまっているこの村では、圧倒的な数の優位の前に、ものの道理を通すなど全く持って不可能いうほかない。一言でも物申そうものなら、「よそもんが、ちょーずくな!」(いい気になるな)ということになる。
言った内容についてどうこうということは、その際余り問題にならない。なぜならそんなことは身内で決めることであって、「よそ者」にどうこうできるものでないと分かっているからだ(それを当然と信じて疑わないのだからすごい!)。だから最初から聞く耳は持っていない。聞く耳は身内のために開いているだけだ。そこでいちばん問題になるのは、意見の内容ではなくて、そんな風に生意気に出すぎた態度なのだ。しかもこの線は妙にデリケートなので身内でもないが仲間でもないということをすぐに嗅ぎ分ける。
お分かりだろうか。もの言う前にものも訊けないというのはこういう理由なのだ。自分のように長く暮らしていると、今まで経験で痛いほどこのあたりのやり取りの難しさを知らされているので、下手に問いただすこともできない。例えば役所に出かけて「今度の道路工事の詳細について詳しく知りたい」と伺いを出すことは、疑ってかかっているというだけで、すでに出すぎた真似、「ちょーずき過ぎ」なのだ。
そもそもその前に、身内ならそんなところで問いただすまでもなく、内輪の話で内々知ることができるのだ。自分はもちろんここの村の育ちだから、全くの「よそ者」というわけではなく、まあまあ親しい知人も同級生もいて、話が全く耳に入らない立場でもないはずだが、何故かひそひその内輪のやりとりが苦手で、いつの間にかそういう話に入り込めない人間になってしまった。
この年になって訊くにも訊けない、まして物申すなど…というのは、子供でもあるまいし本当に情けない。そう言うと事情がよく分かっていない人なら「ちょーずき過ぎ」ぐらいで引っ込んでしまうことのほうが情けないといわれそうだ。しかし、ことはそんなに単純ではない。この情けなさにはもっと悲惨な背景がある。
「よそ者」が「ちょーずく」と、たちまち話が広がる。この辺のネットワークの良さは特筆もので、この村においては普通「ここだけの話」というのはない。あるのは身内の間であるだけで、「よそ者」のでしゃばりは手ひれ尾ひれまで付いて露骨に筒抜けとなる。ちょっと度を越すと次には村八分という悲惨な立場に投げ出されることになる。
それもよかろう。仕事をしっかりやって税金を払えばなんとか生きていける。孤軍奮闘して反旗を揚げたっていい。しかし、自分には家がある。年老いた親父がいる。嫁も子供もいる。そして親父方の粘っこい親戚関係さえ村内にある。つまり人質がいると同じだ。
自分は自分だが、親父は親父、嫁も娘も当面はここでやっていかなくてはならない。親戚にも迷惑を掛けられない。この立場で何の旗を揚げられようか? それこそ自分の身内にとって自分勝手の、いや呪いの旗印になってしまうだろう。そして自分のおかげで様々な障害に遭うことは目に見えている。
いわゆる、根強いしがらみというやつである。思い切ってというのには深みにはまりすぎている。それをとても勇気ある行動などとはいえないという確信はある。
その点ではよそから越してきた、本当の「よそ者」はまだいい。もともとしがらみがないからだ。孤軍奮闘大いに結構。自分達は正しい。誰にも迷惑は掛けない、強がって突っ張ったってよそ者同士の仲間はできよう。数で負けようが知ったこっちゃない。お天道様が見ている、と胸を張ることも出来る。
だが、そうしたまあまあに潔い姿をときどき見かけることもあるにはあっても、結局数には勝てずで、そのうち士気も失せて後退していくのが常だ。そうなればもともと根っ子のないものだから、さっさと退場し、足跡さえ残らない。きっとあとくされもないことだろう。
しかし、もし自分がそっちに加担して一度裏切り者になったとしたら、深い悔恨を残し、自分も身内もズタボロになるだろう。悲しい現実だ。
自分の態度もそうこう悩みながら右往左往しているうちに迷いが出て、態度そのものが怪しくなっているようだ。
ただ、こうはいってもこれを読んでいる人には「身内で決めることに決まっている」ことというところが分からないと思う。この情報化されたグローバルで民主主義の時代にそんな遅れた地域があるものかと思うだろうが、現にこの村がそうなのだ。
「身内で決まっている」というのは、くつがえされることのない数の優位の上で馴れ合い、分け合い、かばい合いを同じ血で長い間繰り返し、異分子は徹底的に排除し、ここ数十年かは土地柄の恩恵(ここでは詳しく説明できないが)で経済的にもなかなかに裕福という事情が手伝って、一族で磐石?の体制を築き上げてきたことをいう。この裕福という部分には、「濡れ手に粟」的な要素もあるので、怠惰で享楽的な部分を助長し、自発的に外に学ぼうという態度を忘れ、せいぜい身内同士のちんけな術策にしか働かない愚かな頭を作った原因があるかとも思う。
こういう村民性は、数の優位があるので、政治にもやすやすと反映されるのでどうやっても矯正できない。できるとしたら経済的に破綻に近い状態になるか、天変地異でも起こるかしかないと思う。
ただ、最近は市町村合併の方向に全国的に推し進められているという話も聞くので、唯一それが希望といえばそれが希望かもしれない。
とにかく、長年住みながら自分の声を前向きに発するどころか、きちんと知ることも許されない。自分の足元だけ見てただ黙っているという態度からすれば、さほどではないのかもしれないが、及ばずながらささやかでも社会参加し地域をより良くという意識を持っている住民の気持ちからすれば、なかなかの地獄である、ここは。


カメムシ異常発生

2007-05-20 17:19:14 | Weblog
しかし驚くだけならいい。身近にやっかいな実害を伴う異変もあった。
それは、カメムシだ。
小型でごく平べったい。調べたら「スコットカメムシ」という名前らしい。こいつは2年前ぐらいから急に数を増やし、この冬などは11月ぐらいから家の周りで活動を始め、ある暖かい昼間にものすごい数で家中の外壁を這い回り、もっと寒くなって姿が見えなくなったと思ったら、次第に家の中に進入してきた。
昨年もかなり被害があったので、殺虫剤を入り込んできそうな玄関やら窓やらの隙間にいっぱいまいておいたのだが、その甲斐もなく毎夜階段のところの電灯周辺に群がってきた。
とにかくすごい臭いを出すので、普通に捕獲したり殺虫剤で直接殺したりすることができない。ガムテープをあちこちに用意しておいて、見つけたら上からペタンとやってくっつけてテープのなかに一部の隙もなく挟み込んでしまう。これしかないのである。それも一度で成功させないと、腹の辺りからか瞬時に液体を放出させる。とばっちりが周りにつくと、臭いのなんのって、手についたものなら石鹸で洗おうがお湯で洗おうが、暫くはしびれるような刺激臭を我慢させられるはめになる。
こいつには天敵などいるのだろうかと思う。こんな嫌な臭いのする虫を襲って食うやつがいるのだろうか? さらにごく平べったくて、わずかな隙間があると直に逃げ込んでしまう。また、カメムシとはこんなに俊敏だったろうか? というような素早い動作を身に付けているのがこいつらで、逃げ足は結構速く、壁についたものなどをテープで捕ろうとすると、こちらの意図を見透かしたように捕獲寸前にいきなりストンと落ちる奴がいる。けっこういる。さらに電灯の周りをハエのように飛ぶのだ。ぶんぶんと身軽に自在に、いくらでも飛び回っている。これがカメムシか? 
自分の以前の印象では臭いだけが取り柄で動作緩慢、ハエのように飛ぶなど想像もできないやつだった。この憎きやつは強力な臭いの武器があるので、叩き落すこともできないのだ。
大げさといわれるだろうか? これを冬中毎夜やられて見るとほんとうにうんざりする。本当に誰だって堪らないと思う。気分の問題ではなく、実際に臭いのだ、激しく臭うのだから。これこそ実害というものだろう。
もちろん部屋の生活空間にも入り込んで来るので、気がつくとカメムシ臭だ、臭い、どこだ、と必死で探すのだ。もし枕元にでも出現しようものなら見つけるまで眠れない、見つけても液を出されたらそれこそ鼻について眠れたものではない。つらい夜も何度かあった。
あ~あ、こいつを根本的に締め出す手立てがあったら教えてもらいたい。そのためなら相当な準備、散財すらしたっていいと思う。ただ、自然を避けて都会には住みたくないが…。
もうひとつ。こいつは繁殖力がすごい。調べたところでは氷点下何度という条件になると仮死状態で動かなくなる。しかしそこに暖かい陽が差す午後の一時に、こいつらはぞろぞろとうごめき出し、なんとその短い時間にも交尾をするという。いや本当にするのだ!よくぞろぞろとくっついているのを見かける。「オレ様の家で交尾までしやがって、ガッ!」と一人わけもなく叫んでいる自分はこっけいにも、実際悲惨なのである。
時期的にも11月ぐらいから始まって5月初めぐらいまでと半年以上も悩まされるのだ。我が家にとってカメムシ被害は深刻な問題になりつつある。ホントに。

異常気象というけれど

2007-05-18 18:17:31 | Weblog
最近何かがおかしい。
異常気象というけれど、田舎にいると様々な異変を肌で感じさせられる。
今年は冬から異常だった。
寒いところなのに1月、2月の極寒期に雨ばかり降っていた。その降り方もおだやかでなく、強い風を伴ったりスコールのように降ることが多い、まるでこぼすように降り、水で掘られて地形が変わるぐらいの降り方をする。いつもの冬なら地表も凍ってしまい、その上に雪が降るので土が掘れるなんていうことはありえなかった。タイヤブルで雪をかいても表面が凍りついているので、掘れずきれいに雪がかけるのが普通だった。それが今年のようだと、ブルを動かすだけで土がドロドロにこねられるようになってしまうので、やたらに動かすこともできない。もっとも雪自体が降らないので、出動の機会もなかった。
いくら暖冬だといっても、こんなのは何十年来はじめてのことだ。しかし春になって、逆に寒気が襲ってきて連休の初日に氷点下を記録したり、突風とともに雹が激しく降り出して地面に3センチぐらい積もったりすると、次の日にはうだるような暑さを記録するといった具合で、めまぐるしく気候が変わったり、と極端にもほどがある。
動植物にも異変があった。
驚いたのはイノシシが群れでここまで下りてきて庭を荒らしまわったことだ。それも一度や二度ではない、何度も繰り返し訪れてずたずたに地面を荒らし、根っこがあちこちでむき出しになって、場所によっては人間がうずくまれるぐらいの穴を掘ってくれた。
人のニオイがし気配が濃厚なこんな場所に、現れるものなのか、これも今まで一度もない経験。腹を立てながら恐ろしいような思い。
イノシシだけでなくシカも現れた。シカは昨年も何度か見たが、一度など、日曜の真昼にすぐ近くの国道を走っている自分の車の目の前を悠然と?シカが横切った。あまりに大きく、動作もゆったりしていたので最初は牛かと思ったぐらい。
1週間ほど前には子供を塾に迎えに行ってきた夜、車のスポットライトに映し出されたのはキツネだった。庭にキツネ(だと思う)がいた。道端で見かけることはあっても庭にいるなんて、なんてこった! どうなってんの?

ネット上での会話について

2006-03-04 08:25:18 | Weblog

アラシのことを書いてきたが、アラシ相手の場合に限らずネット上のことばのやりとりには、何か気持ちのよくないものがある。
会話が進んでいくうちにお互いに与え合ったり深まったり、またテンポを楽しむだけでもいいのかもしれないが、どちらかといえばそういう健全な感じがなくなって、ああいえばこういう式の技巧的なこじつけみたいなのが出てくる。お互い不完全ながら人間としての節度をもって話し合っているという感じがなくなって、ことばのうえでめかしこむみたいな雰囲気が出てくる。私はこういう信念を持って生きています、っていうように人間としたら妙にとりすました態度になってしまったり…。その一方、一歩引いた態度を取っているつもりでも、相手を持ち上げすぎたり、また同時に自分の方を下げてボケになって姿をくらましたりしている。
こういうのは要するに、相手方の姿が良く見えないので疑心暗鬼になったり(その反面妙な安心感も混じっていたりするが)するせいで、本来のびのびとした話し合いの場であるはずが、慎重になりすぎて相手を怒らせないように自分を小さく見せたり、またその逆に相手に容易に突っ込まれないよういきがってしまう、というような誇張が前に出てしまうのかもしれない。
相手に対してこういう様子見の態度が付きまとうのは、相手を目の前にしての日常会話でも同じだが、ネット上となると相手の顔が見えないと同時に自分の顔も見られない。手も届かない。だから奇妙なやりとりになってくる。誇張が誇張を呼び、だんだん道を外れてくる。
普通は言葉を交わすと同時に場の空気を読み、相手の反応をその表情にも見ながら話すものだが、ネット上のように相手はことばだけ、ことばの向こうに人間を予想するだけということで、場の空気もあるにはあるが五感に訴えるようなものではない。だから普通に考えるよりずっと特殊な場所ということができる。
そこで肝心なのは各々の節度というものだろう。それぞれがしっかりと節度を持って話し、節度を持って受け止められるなら、掲示板という匿名的で自由な話し合いの場で、お互い非常に多く得るものがあるだろう。しかし、そんな会話が成立するのは非常にまれと思う。掲示板でわざわざ発言しようという気持ちは意欲あってのことだから前向きには違いないとしても、その意欲に釣り合う節度が伴っているとは限らないからだ。
よくよく反省的な態度を身に付けようという習慣のない人は、日ごろの日常の鬱憤もあるし、得意分野の話ともなれば気がゆるむのも当然で、疑心暗鬼はありながらついつい調子に乗って軌道をはずし誇張の道をひた走り出す。なにがしかの話題について意見を交わすのに、純粋に話題への興味だけで会話が保てるのならいいが、必ず意見の交換というところで人間同士のやり取りが入ってくる。
これはどうかな?これはいいでしょ…。これは絶対!という自信の持ち方でも意見の投げかけ方が変わってくる。で、引けない意見ではぐっと仁王立ちするような口調になったり、相手に恥ずかしげに問う場合は謙遜の過ぎることばを前にちらりと見せてみたり…。とにかく自分の気持ちで表現に味付けがなされ、度が行くと誇張だ。大きく見せるにしても小さくみせるにしても。そしてしばしば持論に傾き相手を忘れさえする。
すると相手方も面白くないから、意地悪く穴を突いてきたり視点を変えて反論してきたりする。たいしたことではないのに、予想もしない反応に少し不愉快な思いをして軽く反発するところから始まって悪いムードが持ち上がり、次第に話題の内容に集中していたものがことばのはしばしに気を使うようになり、内容が抜け落ちてつまらない会話になる。
それだけならいいが、反感が反感を呼び、相手のことば尻に噛み付くようになると始末が悪い。こうなると性格としてはアラシと同様で、つまらぬ意地の張り合いとなって、以後修正が難しくなる。ことば尻に噛みつき出したらいくらでも応酬ができる。いや悪意はなくてもちょっとした意外なきっかけでこうした悪循環に陥ることがある。ことばとは怖いものだ。
ネット上での匿名の会話とはいえ、ことばの向こうに見える人間の気持ちをまずまずにとらえられないと、なかなか話し合いが続かない。話題のみに集中できる環境のようでいて実はそういうわけだから、ネット上の会話というのは案外気が重い作業となりやすい。たいがい消化不良に終わるような気がする。あてはまらない場合もあると思うが。
そういう中ではまともな人は微妙な位置取りをするわけだから、ともすれば無反省で遠慮のない言説が力を持ったりしてしまう。力があるかのような場の体裁となってしまう。だからアラシのように節度の欠けた連中がはびこるようにもなるわけである。
長くなってしまったが、とにかくこのようなわけで、まれに自由で発展的な話し合いが期待できる半面、案外無意味な意地の張り合いなどになって内容が乏しいのが掲示板などに見られるネット上での意見交換の場の現状であろうと思う。所詮自由といっても節度が前提なのである。そして匿名世界の言語というのは気を引き締めていないとどんどん空しくなる傾向がある。
掲示板と役割が違うが、その点ブログというのはいい。余計な気遣いや余分な意地の張り合いを抜きにして語っていくことができる。コメントをもらえるのはブログの機能としてなかなか優れたものと思う。またトラックバックというシステムも面白い。しかし、双方向というシステムは上に記した掲示板的な欠点でもある。コメントのやり取りが激しくてご機嫌伺いが半分みたいになってしまうと、本末転倒と思う。好きな人はそれでかまわないと思うが、度が過ぎるとそちらにまわす労力がバカにならなくて、だんだん疲れてこないだろうかと思ってしまう。
自分の場合はここが考える場にもなっていて、ことばをつむいでいくと必然新しい見地に立たされ、自分ではたと気付くことが多いからやめられない。ここは結論の発表の場ではなく考える場であり、少しづつ進境を獲得していく場と思っている(というかそういうものと分かってきた)。だからいい加減なつもりはなくても、前回に疑問符だった事項が、次回には断定になっていたりという矛盾もあるはずだ。少しは読まれているかもしれないということもいい刺激になっている。


アラシ(荒らし)について

2006-03-03 07:54:25 | Weblog
インターネット上での情報交換の場に掲示板というものがある。例えばヤフーの掲示板など非常にメジャーで、どんな分野でもその気になればかなりの情報が得られる。
しかし、分野によっては最近「アラシ」なるものが横行していて、ほとんどその場を占領するがごとくやりたい放題である。
それは組織的というほどではないと思うが、意外に計画的ではあろう。なにがしかのいきさつあって、目をつけた分野のトピを張り込み、盛り上がっているところに突如現れて、トピの内容に沿ったごく健全と思われる発言の間に割って入るようにして、水を差す。そしてからかったり、いちゃもんをつけ、反応してくると徐々に態度を変え、突如として牙をむく。牙をむくとは大げさかもしれないが、そんなたとえをしたくなるぐらいの豹変ぶりでぐさりとくる場合がある。
冷静にまた興味深々で意見を交わしているところにいきなり水を差されると、誰でもムカッと来るもので、そういうぶしつけに対して文句の一言をいいたくなるのは成り行き上しかたがない。しかし、アラシにこれをやってしまうと、待ってましたというようなもので、言葉尻をとられるところから始まり、どのような態度をとろうがネチネチとまとわりついて離れない。
本来は意見を交わす場所なので、ある程度覚悟してまっこうから強くものを言って見ると、ひるむものではない、ますます食らいついてくる。それも微妙に戦法を変え、巧妙に論点をずらして反論してくるものだからきりがない。何度かやりあうと正当な話し合いでないことがすぐに察せられるし、相手の態度が不気味になって引きたくなるのだが、なんとかぎゃふんといわせないと収まりがつかない(大人気ないが)。また大事だと思っている場所の雰囲気が、アラシに仕切られてしまうのを放って置けなくて、ついついのめり込む。この辺をこらえるには経験も要るのである。
アラシの手口には、過去ログを根気良く掘り出して失言や言葉尻を拾い出してきてそこを弱みと見て突いてくることや、また掘り出すといえば、自分らの口上に都合のいい与太記事をよくぞ収拾してそれをリンク付で次々と並べ、果てはどこかで聞いたような講釈をひとしきり披露し、しょせんキミ達とは頭の出来が違うというような体裁を思い切り誇って、さげすみのジェスチャーのひとつもいれて、いかにも自分らの圧勝をまわりに印象付けるようにして終わる。
またそこに至るまでにおそらく一人か二人で何人もなりすまして獲物とみた対象を寄ってたかってなぶり、さんざん尻をめくっていいさらし者にするのを楽しむようにして追い込んでいく。まるでハイエナのごとく群れ(一人芝居だとしても)で、しつこく周到に立ち回る。
そして絶対に敗北宣言したり黙ったりしない、獲物の方で黙ってしまい、勝ち名乗りの体裁ができあがるまで、この狩りを続ける。まっとうな勝負でないこと明白である。
こんな風だから、はじめてアラシに遭遇したときはそれと知らずまっすぐな気持ちで向かっていくため、かなりのショックを受ける。自分もそうだった。ふと気がつくと相手の手にはまっている。人間の暗部に巣食う暗くどろどろと底なしのような執着をじかに見せ付けられその汚い息を吹きかけられるように感じるからだ。本当にぞっとする。
たかが掲示板の上のことばのやりあいといえばその通りだが、このやりあいには相手の人間性がもろに透けて見えるものなのだ。顔も姿も見えず匿名の向こうにじっと待ち構え、なんのわけあってか悪意に悪意をつなぎ、汚いうえにも汚いやり方で粘りづよく対応してくる奴ら。病的なぐらいの余程の鬱屈があってかこんなところに入り浸って獲物を探しては餌食にする。
そんなことに執念を燃やし、ここでの勝利?をおそらくは鬱憤晴らしのはけ口としてるのだろう、しかもこういうところにしか住処がないのではないかという、そういう人間の姿を想像する。それはなかなか恐ろしい眺めであり、初めて直に対峙した人は穏やかではいられない。いくら熾烈なののしりあいも、ここに展開されるような惨状というのは普通の昼ひなたの表立った社会では見かけることがない。
表に出ろ、とはやくざの台詞だが、表に出る勇気もないくせに最後までやりこめないと気がすまないのがこの人種の性格なのだ。人間としてこれほどいやらしくて情けない姿があるだろうかと思う。ここは表社会で行き場を失ったような惨憺たる人間達のふきだまりかという印象さえ持つことがある。
もちろんアラシといえども、通りすがりに気晴らしをやっている軽いノリもある。妙に凝り固まった連中のいきみを笑い飛ばそうという愉快犯も混じるだろう。また勘違いやちょっとしたきっかけで、マジメな人がアラシ同然の切れ方をする場合もある。そして、マジメでまっすぐ向いているつもりの本人の態度自体がひどく偏っていることに気が付かない場合なども、案外始末が悪い。しかしアラシと呼べるものの最たる特徴は情熱さえ感じさせるほどのその執念深さだろう。
年期の入ったアラシにはは反○○主義とか本人にとっていちおう論拠とし、気持ちの上でもそうだという信条めいたものがあり、(与太記事ばかりのストックでなく)それについて一通り説明するだけの準備も頭もあるのかなと思う。しかし、念の入リ過ぎた彼らを突き動かしているのはそんなものではない、もっと屈折した内部の問題と自分は思う。
第三者からみればたかがアラシだ。こんなのは他愛もない問題と見えるだろうが、ここに透けて見えるのはネット世界が育て、そこを住処とする歪んだ人格の姿だと思う。モニターの前に陣取ってこちらの隙をじっと伺っている不気味な人間達の姿が目に見えるようではないか。

いなか者の妄想だろうか?

2006-02-21 22:15:59 | Weblog

前回の続き。
自分にはこの件が特別な例とはとても思えない、たまたま表に出ないというだけでこうした問題をいちいち表ざたにしたらきりがない、というのが実情と思う。多かれ少なかれというか、かなり多くが危ない仕事をやっている。
今回の事件については、普通に考えると非常に無謀で、とても信じられないというレベルの特別な例と考えれらるのだろうが、それは鉄筋の数が通常の何分の一とか、表ざたには結果として誰にも分かりやすいかたちとして提示されたからだと思う。しかし、危ないのは人間の方で仕組んで偽装する場合に限ったものではないのだと思う。むしろもっと危ないのは、人間の側の方が逆にしくまれる、ということが考えられる。
それは既に社会のとてつもなく巨大化した機構や装置の複雑さに人間の側が飲み込まれてしまっていて、飲み込まれていること自体に気がつきもしないほど迷子であるということ。人々はどこから来たものか分からないものを受け取って中間媒介的にごく微小な仕事をして、それをどこへいくとも見届けられず送り出すのだろう。
そして、仕事のみならず生活空間から視野のあらゆるところのものがどこから来たものかという予想さえさせないほどよそよそしいものばかり。しかしそれをよそよそしいとか不思議だとか、まして不快と感じられない。まるでこれらの不明なものたちが不明なゆえにかえってすごいと見上げてみたり不思議と感じて、そのちょんぎれたような感触を、その暖かみのないキラキラやのっぺりや冷たさや届かない距離感なんかを楽しんでいる。複雑な様態や分からなさそのものまで、楽しめる。
そこにあるのは楽で愉悦的といったいわば受身の感覚で、助長しているのが迷子すら自覚できていず、平衡感覚を失っているのに自覚がないため平気という状態であり、本来の不安がふわふわした安心にすりかわっている。それは都会にあこがれて上京した少女が、はじめて都会に出て夢見るような気持ちで過ごす始まりの日々の感覚の延長にあるようなもので、質的には大差ないのではないか。いや、夢のきらびやかさはどんどん失われるが、感覚は地に落ちることがない。
都会で持続的に生活することによってベルトコンベアー(田舎の人間のたとえですね)に乗せられてボーっとなるような一種の催眠状態に取り付かれる。それが時を経てほぼ完璧な程度にまで達する。そうなると自分の分からないもの、想像もできないほど大きなものや複雑なものをみてかえって安心し、頼もしいと感じ、それらに囲まれている自分を安心と思うのだ。もちろん人により心の状態は様々なはずだが、程度の差こそあれどのみち催眠状態でないと生きていけないのが都会ではないか。自分が先に飲み込まれた状態といったのはこういうことだ。
この状態においてこそ人々は、平然とまたかなり有能に仕事を成すわけだが、有能ということがすでに全体性(全体性を気にするぐらいの意味)と切れた部分的な感覚を前提としており、全体を見渡せないという不安に苛まれていない部分は、ただ部分としてそれこそ前後の見境もなく有能に働く。と、どうなるかというと、結果としては部分をますます複雑化するだけでなく、その行為によってまさに全体との連携をはかなく難しいものにしていくので、必然的に全体のほうから報いを受けるということになる。「逆にしくまれる」といったのはこういう意味である。
そうなると当人は、意図せず意識さえよくしないで部分をはみ出し、暴走する危険を犯し、気がついたら犯罪人となっていて首根っこを押さえられるというようなことになるのだ。良かれと思ってすることが自分を危うくし、方向として全体をもなしくずしにする。建築偽装の件は当人らの意図と裏腹にこういった側面も合わせて持っていたと思う。そして考えてみれば、ライブドアのホリエモンなどこの例にぴったりかと思う。そしてまた、次々に類出するホリエモンに類するはみ出し者達をを封じ込めようとして、法整備が新たに成されたり、しくみを見直したりでシステムそれ自体がますます複雑化、細分化へと向かう悪循環が起こる。
このように巨きな社会機構の中で要請されていく仕事の複雑な内容や位置取りに対しての人間の能力の極度の不釣合いによって、ほころびが目に見えない部分であちこちで発生してきている。そういう不気味な社会状況が、すでに大きく現実のものとなっているのではないかと自分は見ている。そしてこうした傾向は、飲み込まれてしまっている人間達によってますます加速させられているのではないか。上に述べてきたような両者の間の密接なつながりを考えると恐ろしいことだが、この狂った歯車を止めるような動きはほとんどどこにも見られないような気がする。
今となっては素朴すぎる考えかもしれないが、冗談ではない。自分はなんとしても今の社会はこれ以上の複雑化を止めて、単純化し自然化するような方向へと徐々に向きを転換していく必要があると思う。そしてなるべくそれぞれの人間の能力に見あい、勘所が生きるような体制を模索していかなければならないのではないかと思う。今のままいったらそのうち自爆するしかないではないかと思う。
スコップの作業中の思い付きからはじまってとんでもないところまできたみたいで、自分でもなんだか可笑しい。幼稚といえばあまりに幼稚な空想という感じもある。しかし自分も人間で、他人も自分と同じような人間であると考えると、それほど荒唐無稽な見方とはどうしても思えないのだ。これは一田舎人のたわいない妄想に過ぎないということであればいいが。
なんだか頭がくらくらする…。


スコップを…の続き

2006-02-17 16:41:40 | Weblog

もちろん自分のごく小さな仕事と直接引き比べて、スコップだの目判断だのがなかろうなどと責めてみてもしょうがないことは分かっている。ただ、大きな建築プロジェクトのための重要な主柱のひとつが例えばこの設計であるには違いない。だとしたら、どこか地面と繋がった堅い場所にくさびを打ち込んでそれを拠り所としている、というところが本来あって然るべきではないだろうか。直接地面でなくも地続きの場所と確認できる場所が。
しかしどうだろう、自分の想像ではそんなものありそうにない。いや、あるかと聞けばあるというだろうし、本人もどこか拠り所があるから、平気な顔して仕事しているわけである。だが、平然としすぎているのがあやしい。そもそも最初から迷子なのに、自覚できていないだけではないのかという風に思えるのだ。迷子も自覚できていればいいが、迷子と自覚できてないまさにそれゆえに当然のごとくまわりを当てにする(経験者とか、チームとか、引継ぎ事項とか…資格とか、肩書きとか、社名とか、数字とか、テキストとか…)それはまた理由もなく周りを信じることにもつながっているのではないか。
要するに勘所とか手ごたえといった感覚そのものが、自分の基本的な身体感覚というようなものと離れている。上手くいえないが、よそ様と自分のものとの境界があいまいになっていて、あてにしているものが、そもそも最初からよそだったりする。そしていくら経験を積み上げて自分のもののようになっても、くさびはしっかり自分でも地面でもない、なんとなくよそにつながっている、そしてますますよそに繋がっていくだけ。というようなものだ。
だから何か自分の仕事の結果で障害が生じても、本当は自分のせいではないというような責任転嫁ができるのではないか。だから例えば建築士の建築偽装事件の件でも当人の側に痛みがあるとすれば、仕事がもらえないことや将来への不安こそあれ、設計上の偽装から生じるはずの様々な不安や、当の物件に起こりうる現実的な問題、それこそ人命にもかかわる問題にもかかわらず、当人と切れたよその問題としてあまり痛みもなく想像すらしずらい状況であったのではないか。だから自分が案外平気でやっていたことが、いきなり問題にされたことが最初はむしろ意外だったのではないか? そのぐらい切れてのん気な顔に見えた。
しかし、ことの重大さはよそ事ですむはずがなかった。いざ明るみになるあらゆる問題が一挙に噴出し当人の身の危険とさえなってまっしぐらに迫ってきた。意外なわけがなかった。そこではじめて身をもって思い知った(十分かどうかは疑問だが…)。まるで架空の世界に住んでいた人間がいきなり引っ張り出され現実の地獄に突き落とされたようなものである。本人にしてみれば案外、晴天の霹靂というところだったかもしれない。
しかし、もし当人が最初からもう少し自分のやっていることに対するまともな勘所が要所にあったなら、偽装をやること自体とても怖くてできなかったと思うのだ。鉄筋の抜かれてスカスカな建物を想像するだけでも自分の方が崩れそうな気持ちになったに違いない。


スコップを手にしながら

2006-02-16 19:31:56 | Weblog

職業柄、土をいじることが多く、土木作業めいたこともやる。大工の真似事や解体作業などもやる。そんなことをしながら、ふと思う。
そういえば例の偽装をやった設計士に限らず、設計をやったり、建設会社の若い社長みたいな人たちは、おおかたスコップも握ったことがないんだろうな…。大きな仕事をやる人たちほどその傾向がありそうだ。それでいながら、我々には驚きでしかないぴかぴかの高層マンションなんか設計したり、建築の指揮をバリバリ執ったりしている。穴掘りなんかしているときにこういうことを考えてみれば、不思議というか奇妙なことに思われてくる。
餅屋は餅屋ということばがあるが、こういう人たちは餅屋といってもなんだかそれらしくない。自分がスコップにものいわせてざりざりと穴を掘る(状況場合に応じて、案外細かい計算と多様なワザを必要とする。そしてもちろんそれに見合うだけの体力と粘りが要る)というような感触からすると、スコップも扱ったことがない人間に大きな現場の設計をしてもらったり、建築の指揮を執らせるというのは無謀というか、とんでもないという気がしてしまうのだが…(これはそれほどおかしいことだろうか?)。どんなに規模が大きかろうが同じ土を掘ったり埋めたりして、土の上に組み上げていくものだからだ。そしてとにかく人間がやっていること。
しかし実際、今や設計屋とはスコップも握ったことがないし、土くれの感触も知らない、多くはそうしたものだろう。そして、建設業もよくできた機材や豊富な重機が出揃っていることもあるし、スコップの使い方など知らなくても指揮をとるのに何のさしつかえもない。しかし、できているにしてもそういう人たちは図面を引いたり指揮を執るのに、実際どういう勘所をもっているのかということが気になる。
自分らが穴を掘って何かをするという単純作業には、周りがくずれないようにとか、埋めるに深さはどれぐらい持つかいとか、土の具合がゆるいからとか、いろいろと眼で見て経験で判断することが多いし、この辺は単純といっても案外奥が深いので若い人などにはなかなか任せられないものだ。それでこれぐらいでは危ないとか大丈夫という線を持っている。非常に単純なレベルにせよ、その線を越えるか超えないかのところから、一歩下がって余裕をとる。で、大体いいだろうということを頭でも身体でもなく納得し、よし、ということになる。
安心かどうか保障はないが、目に見える構造を前にしてなお経験と照らし合わせてみるこういう判断というのは、そうははずれるものではない。うまく調整がいくと気持ちがいいし、出来上がっても安心感がある。
ところでマンションのの設計士。勘所はどのようにあるのか?

また次回。

今回からもっと気楽に記そうという気になった。身構えるとそれだけで時間が終わってしまうので、でこぼこでいいからとにかく表現すること。


ライブドア事件やら何やら

2006-02-02 23:14:29 | Weblog

このところの一連の設計や建築の偽装事件、今回のライブドア事件で世間は騒がしい。これらの事件のことがいくら事細かに報道され論議されても、なんだか自分には映画の中のできごとのような、霧の向こう側にあるよそ事のような気がする。こんなことをいうと近くで実際に被害に遭遇した人たちに申し訳ないようだが、本当のところそんな実感しか持てないのをどうすることもできない。
いつも自分が書いているようなことに関連するが、例えば建築構造計算の偽装ひとつとってみても、その道のプロでさえ簡単に騙されるような、特殊な分野での非常に専門的に先細りになった暗がりでのできごとで、自分らのような輩が具体的に何も感知するところではない。建築工事の件でもそういう意味では事情は一緒だ。そしてライブドアの背後に浮かび上がってきたのは、計り知れない闇の世界。
ホリエモンなどと呼んで、その容貌、行動ぶりのいかにも現代的で時代を先取りしたかのような印象を頼もしく、好ましく感じてテレビを眺めてきた人たちも多いはずだ。それがあたかもすっかり裏切られて株主達からは悲鳴さえ聞こえてくるような状況となった。
しかし自分からすると、何で多くの人たちがああいう男に夢中になり、政治家までが担ぎ上げるような存在に祭り上げてきたのか、その気持ちがなにも分からないではないが、ああいう熱狂は全く理解できなかった。バカを見たというのなら、期待がはずれた、裏切られたということなのだろうが、何を裏切ったというのだろうか。幼稚で根拠のない期待、型破りな演出の効果にすっかり幻惑されて、みこしをかつぐ人間がだんだん多くなって騒ぐものだから、自分らもいい気持ちになって一緒にかつぎあげてしまった。かついでいる祭り気分がなかなかいい…。そういう幼稚な夢を見るだけの緩んだ気持ちを許しながら、その一方でホリエモンやライブドアの仕事を冷静に注視し、理解することに努めてきたのだろうか。どうもその辺は怪しいものである。
自分などはこれらの事件の全体像について理解できるだけの知識もなかれば意欲さえなかった。そもそも頭もないと認める。その前に報道を鵜呑みにできるかという疑いもあった。ただ、それらをおいて何よりああいうあからさま(と自分には映った)な演出が気に入らなかった。いやその前にあの人相だ。特にライブドアの幹部の顔ぶれが並んだのを見た瞬間。ああこれはまともでありっこないな、という確信をかなりはっきり持った。人間の質とはいわないが、IT企業の先端を行く巨大な組織の舵を取るだけの地位にふさわしい格みたいなものをあの顔ぶれからはちっとも感じられなかった。ずっと前のことだ。仕事は分からないが人間は見える。いや見えないとしてもほかの手がかりに比べ自分の場合あの顔ぶれの印象のほうがずっと説得力があった。ああ、これではだめだと思った。
その後もライブドアは実際に何をやっているのか、実像みたいなものが見えてこなかった。ホリエモンが騙しているとは思わなかったが、何をやっている何をめざしていると少しは具体的に仕事の内容を提示してほしいと思ったものである。何でもいいから自分らのような無知な人間にもひとつ分かりやすいように説明してほしいと。怠慢ながら…。
まあとにかく、今回の事件は自分には全体像が見えないものの摘発された罪状についてははやっぱりそういうことだったか、という感が強い。何も分からないながら勘が当たった。自慢にならないが。
繰り返すが、それにしても世間の人は何を買っていたのか?何が見えていたというのか?何に熱狂したのか? 自分の想像は上に書いたように非常に幼稚な像を人々の上に重ねてしまうのだが、もし、そうでなければどうなんだ? どんなわけで期待をかけたのか、何がそんなにはっきりしていてどういう根拠で、「裏切られた」というのかと思う。高校生や中学生までがライブドアの株を買っていたというが、ホリエモンならやってくれそう、という認識の点においては大人のほうも中高生と大差なかったのではないか。
旧来の壁を打ち破る型破りな発想や手法、次々とおそいかかる抵抗を軽々と交わす賢さとそれらの圧力を苦にしない前向きな意欲…? 褒め言葉はいろいろだったが、まるでそれらは映画のヒーローを応援するような現実離れした期待にこそ似てはいたものの、現実的には何のはっきりした根拠もなかったのではないか。結局は、だらしなく浮かれて自分の身の丈を忘れていたということではないか。
しかし被害を被ったのは一部の人たちで、騒いでいた人たちも大半が高見の見物と決め込んで面白がっていた、その結果がこうなって、がっかりとかやっぱりとか、ざまあみろなんて言っているだけで最初から距離を置いていたのかもしれない。多くの大人が今頃そんなところでふっと息を吐いているぐらいのところかもしれない。
それにしても一連の事件でこれだけの騒ぎになっていながら、今や被告となった当事者の側を責めたりつついたりし、同時に被害の大きさを経済の動向にからめ様々なアングルで見せてくれるものの、ああいう人物を節操もなくに持ち上げるだけ持ち上げておいて一体化していたような報道と大衆の側に反省を促し、戒めるような声が余り聞こえてこないのが残念というか、非常に問題と思う。見る側買う側に、見る目も認識も不足していたということが今回のこの日本経済をも揺るがした騒動の原因であることに間違いはないのだから。
この狂奔の1年を見ていて、かりにも先進国と呼べるような面目はなかった。自分のような人間が見てさえ知的レベルは相当に低い(あるいは低くなった?)のがこの国という感触を持った。生意気なようだが、国民こぞってのこの騒ぎはバカ丸出しとまでいわなくても、観ていてとても見苦しく、恥ずかしい、とても文化的といえる性格のものではなかった。学園祭レベルを国を挙げてやっていたようなものだ。

何を言いたいんだか自分でも分からなくなってきた。どうもこういう話は自分の身の丈に合わない気がして苦手だ。考えれば考えるほどとらえどころがなくなってきて、話が浮ついてくるのが分かる。自分みたいな人間がこういう個々のしかも大きな事件について何かしら明らかにしたり具体性をもたせようというのは、所詮方向として無理なのだろう。じっくり考えられる時間もないし…。
反省。