啄木哀し(3) 貧乏 長男・真一の死 (つれづれに…心もよう№25)
啄木像・札幌大通り公園 啄木70回忌記念に建立
28歳の短い生涯を啄木は貧乏のうちに幕を引いた。
生活は困窮を極めその日の糧にも事欠くようであった。
死を思い、悲痛の自嘲の中に苦しみもだえながら歌を詠んだ。
はたらけどはたらけどなお我が生活(くらし)楽にならざりぢっと手を見る
啄木の歌の中では特に愛唱されている短歌で、現代にも通じる歌だ。
パートを掛け持ちし、寝る時間を減らして働くが報われない。
食費さえ満足に稼げない貧乏が啄木を襲う。
こころよく我にはたらく仕事あれそれをしとげて死なんと思う
現在の不遇に、文学への志が思うようにならず、啄木の思いは屈折していく。
いと暗き穴に心を吸はれれゆごとく思ひてつかれて眠る
貧乏もまた、啄木を苦しめた。
たはむれに母を背負ひてそのあまり軽ろきに泣きて三歩あゆまず
1910(明治43)年10月啄木26歳。長男真一生まれるも、生後23日で死去。
夜おそくつとめ先より帰りきて今死にしてふ児を抱けるかな
おそ秋の空気を三尺四方ばかり吸ひてわが児の死にゆきしかな
真白なる大根の根の肥ゆる頃うまれてやがて死にし児のあり
かなしくも夜明くるまでは残りゐぬ息きれし児の肌のぬくもり
夫人は産後の健康がすぐれない。
晩年、啄木夫婦ともに、病床に臥すという惨めな生活で、
年老いた老母が一人炊事などをするというありさまだった。
この母も1912(明治45)年3月肺結核で死去する。
啄木28歳の時で、極貧状態の中、夏目漱石夫人や金田一京助らから資金的援助を受ける。
特に、啄木夫人・節子の妹の夫で歌人の宮崎郁雨には物心両面にわたって支えられた。
(2016.2.24記) つづく