「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

本当の笠縫邑の場所と、日高彦穂穂出見尊の正体。

2018-01-17 | 古代史

わたくしの出身地久留米市から、鳥栖市~基山・小郡~甘木・朝倉~浮羽・吉井~田主丸を囲む内には、東方の九重・久住・玖珠・日田方面から、西の久留米市に流れ、南に曲がり有明海に注ぐ筑後川があります。

此の筑後川の周辺には勿体島・扇島・浮羽島・唐島・西島・新島・四三島・金島・中島・干潟・船越(水路と水路のあいだの陸地を、船を丸太棒に載せて大人数の人力で引っ張り、移動させた場所)・浮地の名称が残っており、以前は有明海の汐が筑後平野の奥まで遣って来ており、海水と真水が混じる淡水海(おうみ)→近江と呼ばれていた場所も有ったものと考えられます。

滋賀県の近江は、九州の阿蘇氏の志賀氏等が移動をして、近江(淡水海)と呼ばれるように成ったものと考えています。

(琵琶湖沿岸の地名には、『彦根市柳川町』・『彦根市薩摩町』・『大津市』・『甲良町』と謂った九州の地名が数多くあり、近江の地名も筑後の淡水海(おうみ)が滋賀の近江に成ったものと考えられます。)

ホツマ伝の叙述では、イザナギ伊弉諾命(斎名タカヒト、幼名:カミロキ(神漏岐) 最期は兵庫県淡路市一ノ宮多賀で神上る)や、その姉のココリ姫=白山姫、久留米市白山町から、日田市日高町ダンワラ古墳群が在ります地区に居たと考えられます耶蘇杵ヤソキネの元に嫁に行き、大宮姫ミチコを生み、大宮姫ミチコはアマテルの東の院(大分市東院)の局の『典侍』に為っています。

※最近『大宮』の地名が日高町の傍にある事を発見し、大宮姫は此処で生れたものと考える事が出来、『此の耶蘇杵や豊受大神の居た場所の考察は間違いのないもので、ホツマ伝の叙述も正しい』と考えられます。

白山姫(クグリ姫)は、後には、根国=越中・越後で神上っています。父親のアワナギ沫蕩尊は、「根の国からサホコチタル国まで法をもって治めた」と述べられ、此の解釈は「島根県から新潟県周辺までを法をもって治めた」と考えられます。

ですから、豊受大神の時代には、日本列島の各地には、数多くの人々が移動を始めており、王の権威の頒布が、国家形成上、必要と考えられたものと想われます。

 

島根県から福井県~新潟県迄には、佐賀・筑後物部氏の移住者が、数多く渡っているものと考えています。金折=住吉神(ホツマ伝にて『金折が住吉神である。』と述べられています。)=ウガヤフキアエズ(※『高良玉垂宮神秘書』に、『鵜葺草葺不合尊ハ住吉大明神也』と記入されています。)=開花天皇(若倭根子日子大毘毘)の子である速秋津姫アキコとアマテルの間の子、『天津彦根命』(天御影神の父)も若狭・近江へ渡ります。(当時の船での九州から本州への航法は、日本海沿岸航路が主であったと考えられます。)

景行天皇のヤマトタケ日本武尊の足跡を辿る追悼の旅では、博多湾から出雲~気比の地名が在ります久美浜湾、若しくは丹後半島を廻り込んだ籠神社・天橋立が在ります宮津湾・若狭湾から上陸して、綾部~琵琶湖大津~伊吹山~鈴鹿・能褒野(ヤマトタケ日本武尊の霊魂を弔う)~愛知(熱田宮)~静岡(佐賀県の富士町の『富士』が静岡に渡っています。亦、徐福伝説も一緒に関東に渡ります。)~関東(千葉・茨城・群馬)~三重県伊勢(倭姫に会いに行く)~奈良~大阪~兵庫・淡路(一之宮)~尾道~苅田(黒田)~別府湾~阿蘇・高森(穴穂部宮)と考えています。

 

倭人は、大和政権(トヨケ~イザナミ・イザナギ~アマテル・スサノオ)の当初よりも以前から、日本各地への分散進出が進み、『倭人の統一支配が課題であった。』と認識されます。

金折=住吉神は、そう謂う意味では北海道を含めた全国に足跡を残しており、(民謡や神社で理解できます。)次の世代の景行・崇神に大きな影響を与えたものと想われます。

崇神=ミケイリ・カンタケは、大国主命=大山咋=松尾神と玉依姫=伊香色謎命の間で生まれ、久留米市城島シキの住吉神=金折=開花に育てられ、住吉神=金折=開花から『白羽の壐オシデ』・母から『十字剣』を拝受し、後には※1、イスラエルのモリヤ山の神を守る『神武』(カムヤマトイワレヒコ=大昔からヤマト倭に伝承のモリヤ守屋山の神を守るオトド臣)を名乗り、※2、アマテル・ホアカリ由来の田川(多賀)のアスカの宮を奪いに往征します。

これが、記・紀で謂う処の『神武東征』であります。福永晋三氏の説も、概要は略一緒であります。

 

※    3、崇神(神武)は最初の海路で失敗し、陸路で二回程遠征をしますが、此処を守っていたのが、長髄彦命で、長髄彦命とは、固有名詞ではなくて、単に『脚の脛が長かった』ので、呼ばれた『仇名』であろう。と考えられ、此処『アスカの宮』を守って居たのは景行=猿田彦=彦坐王=天児屋根命(春日尊)と考えられます。

 

※    1、高良玉垂宮神秘書P143~P144の叙述の解釈に拠ります。

※    2、ホツマ伝《39文》より解釈しました。

※    3、福永晋三氏《神武は、筑豊に海路で一回、陸路で二度遠征した。》・《香春~赤村がアスカの宮であった。》、地区・神社伝承分析研究説を支持します。

 

景行=猿田彦=彦坐王=天児屋根命(春日尊)は、崇神(神武)の猛攻で、一旦近畿に引き、近畿で西暦251年に即位します。そして、258年8月末に近畿物部氏の大軍?を率いて行橋に遣って来ます。勝山黒田に行宮をつくり、ゆふいん(高天原)の速津姫(スサノオが求婚したお方)に崇神(神武の名を騙った人)の動静と居所、支持者の数等を、確認後、杵築に居た崇神(神武)を攻め、殺します。(宇佐公康氏の記述による解釈に寄ります)崇神(神武)は杵築の『小熊山古墳』に埋葬されますが、後に近畿奈良纏向の『行燈山古墳』に移されます。

続いて景行(猿田彦)は、豊後直入~阿蘇に入り、崇神(神武)に味方した、志賀氏・矢田氏(八田)・中臣氏(藤原)を討ちます。

(高森に在ります草部吉見神社の神紋の『鷹羽5枚』の内にあります『3本揃い鷹羽』は志賀・矢田・中臣を表しているものと考えています。)

景行は一旦、筑紫日向高屋宮(鳥栖市弥生が丘~基山町ミカシキ)に行宮を創り、六年程過ごし、熊本菊池郡に居たと考えられます熊襲梟師クマソタケルを、二人の娘(市乾鹿文イチフカヤ・市鹿文イチカヤ)を騙して、酒を飲ませて殺害し、滅ぼします。熊襲梟師クマソタケルとは、紀元前473年以後に倭に遣って来た『呉』の王族と、犬祖伝説を持って倭に遣って来た人達の混血と考えられます。この末裔が菊池氏や松野・松隈・松井と謂う、松の付く姓を持つ人。と考えています。

 

筑紫日向高屋宮(鳥栖市弥生が丘~基山町ミカシキ)はアマテルが一時居たイサワ(現在は三沢と呼ばれています)の基山町『伊勢宮』の傍で、景行の後には、日本武尊(小碓命)の子であります、仲哀天皇が陣を設けて羽白熊鷲と対峙した『御勢大霊石神社』があります。仲哀天皇が陣を設けた理由は、『伊勢』(アマテルの居た聖地であり、景行が6年程駐屯した由緒ある、友軍の地)をバックに甘木・朝倉の羽白熊鷲(大国主命=大山咋=崇神派=天津麻占=大山祇派=雷神派)との戦いを有利に進める目的があった。と想われます。

 

『アマテル』(天照大神)は『伊勢』に居た事が『ホツマ』には述べられており、此の『伊勢』の本来の場所は、現在の三重県の伊勢ではなく、佐賀県基山町の『伊勢』の事と考えられ、『アマテル』は『ゆふいん・日田ダンワラ』と『基山』の間を往来していた。と考える事ができます。基山町白坂には、猿田彦(景行)の立派な石碑があります。

羽白熊鷲とは、大己貴命(初代大物主)~大國主命(大山咋)~崇神(大山咋と玉依姫の子~天津麻占=大山祇)=雷神を支持する族一派の事であると想っています。

崇神は、久留米城島シキ、玉垂宮(磯城瑞籬宮)に居て、崇神八年十月に筑後國御原郡の高橋邑(現在の太刀洗町高橋)の『活日イクヒ』に酒を造らせて、意富多々泥古(オオタタネコ)=ホツマ伝の編者です。に、倭大國魂神(豊受大御神と想われます)・大物主神(大己貴命=物部氏の初代首領)を甘木・朝倉の御諸山(三輪山=大神山オオミワ山)にて、祀っています。

神武(崇神)は長髄彦(景行)を追い出した後は、柏原で即位したと記紀では述べられていますが、(百嶋説では、本当の字のカシハラは『橿原』や『樫原』では無く、『柏原』と書くそうです。)

(わたくしは、以前にはゆふいんの『カシハラ樫原』で即位したものと述べていましたが、最近『柏原』が佐賀県神崎市『日の隈』公園の傍に在るのを発見、『柏原公民館』の前には寄せ集められた由緒の有りそうな古い石群があり、崇神(神武)は、此処、和邇氏の郷(景行派=猿田彦派)『日の隈』(日は天照大神を表す)を制圧し、復活再蜂起を恐れて、駐留したものとも考える事が出来ます。

多分、佐賀県和泉の『柏原』にて、記紀に謂う、神武(崇神)が即位を宣言した場所で有ろう。と思います。

 

久留米市磯城(城島)の瑞垣宮に居た崇神は、天照大神を豊鍬入姫命に託して、倭の笠縫邑(カサヌイムラ)に祀った。と日本書紀(崇神六年条項)にあり、この笠縫邑(カサヌイムラ)の場所は、麻底良山(ア)マテラ(ル)ヤマ(295m)が在ります朝倉市志波地区を指しているもの。と考えています。

書道家の井上悦文氏の解明された、草書体での解読では、『アマテル』と読める説を支持しています。

笠縫カサヌイ』とは、地名ではなく人名仇名の名称で、『日本書紀』神代下第9段では、『手置帆負神タオキホウイノカミ』が『作笠者カサヌイモノ』と述べられており、

先代旧事本紀』の「天神本紀」では「笠縫氏の祖は天津麻占(アマツマウラ)」である。と記しています。

と、謂うことは、『手置帆負神タオキホウイノカミ』の正体は『天津麻占(アマツマウラ)』の事。と解釈することが可能です。

『先代旧事本紀』は、その後に、「曾々笠縫等ノ祖天都赤麻良」と記入され、テが欠落?の『赤麻良アマラ』とは、『麻底良山(ア)マテラ(ル)山』が在ります朝倉市志波地区を意味しており、此処が天照大神を祀った笠縫邑(カサヌイムラ)の場所と考えられます。また、『天都』とはアメのミヤコとも解釈され、『先代旧事本紀』が編纂された時代以前には朝倉に王権の所有者が居たことを証明するもの。と解釈されます。『麻底良マテラ山』の麓は『政所マンドコロ』と謂い、普門院と謂う、鎌倉期(筑後川の中島に在って、洪水に遭うので移築された)の寺があります。

ホツマ伝では、天津麻占(アマツマウラ)は、サクラウチの孫で、父は『大山橘統オオヤマカグツミ』です。大山橘統の妹が、アマテルの内宮の『ホノコ』(向津姫・天照大神)になります記・紀では、ホツマ伝での天津麻占(アマツマウラ)を大山祇(オオヤマツミ)と述べています。

ホツマ伝での『天津麻占(アマツマウラ)』は、磐長姫・妹のアシツ姫(木之花開耶姫=ニニギネの妻)のと述べられています。天津麻占(アマツマウラ)の兄が『橘山統、カグヤマツミ』で、タキコ{スサノオと不倫したハヤ子(アマテルの内侍)の生んだ三つ子の第2子タキコで『江の島姫』とも呼ばれます}を娶り、天香語山(手栗彦)と妹の天道日女命を豊後(ゆふいん~宇佐・日出・杵築)で生んでいます。

ホツマの伝承を信じますと、磐長姫・妹のアシツ姫(木之花開耶姫=ニニギネの妻)は、朝倉市志波地区周辺に棲んでいた(生れた)と、考えられます。後には、糸島の『大卒』(ヒタカミ国・ホツマ国の出張所と考えられます。)に移動している。と考えられます。

糸島の『(一)大卒』の爾支(ニキ・ニシ)とは、基山の『伊勢・妹背』から移動したニニギネを指し示しているものと考えられます。

記・紀では、ゆふいん(高天原)から糸島へ、猿田彦の途中までの案内で天降った。と述べられています。(わたくしの解釈による)

ホツマ伝では、スサノオと櫛稲田姫の子として順に、大屋毘古オオヤビコ・大屋姫・枛津ツマツ姫・事耶蘇コトヤソ・大己貴オオナムチ・大歳倉稲魂命オオトシクラムスビ・葛城一言主カツラギノヒトコトヌシ・須勢理スセリ姫の8子を儲けた。とされ、スサノオと櫛稲田姫は相当の長期に渡って一緒に生活をしたものとも考えられます。

しかし、古事記では八島士奴美神(ヤシマジヌミノカミ)は櫛名田比売(櫛稲田姫)の子とされ、八島士奴美と兄弟とされる大年神・宇迦之御魂神(ウカノミタマ)は神大市比売の子と述べられています。(古事記では、櫛名田比売と神大市比売は別人と認識されます。)

先代旧事本紀でも、大年神・宇迦之御魂神(ウカノミタマ)は神大市比売の子とのべられて、神大市比売は大山祇の子とも述べています。

先代旧事本紀が述べる、大山祇とは、ホツマ伝では天津麻占(アマツマウラ)の事で有ります。天津麻占(アマツマウラ)の娘は、磐長姫・妹のアシツ姫(木之花開耶姫=ニニギネの妻)がいます。如何も、神大市比売は磐長姫と同一人物に思えます。

磐長姫が笠縫氏の朝倉地区で育ち、大年神・宇迦之御魂神(稲荷神)を儲けたと解釈できます。

第50代桓武天皇(父は、天智天皇の孫の光仁天皇・母は、百済第25代武寧王が田主丸唐島で儲けた子の末裔、高野(竹野タカノ)で生れた『新笠』です。)の生母の『新笠』とは、朝倉の笠縫氏の邑(大山祇氏一族→代表に日野氏が居ます。→室町の足利義政の妻、日野富子が有名です。)と関係を考えられます。

 

大己貴が、別名『佐田大神』の事で、大歳倉稲魂命が『佐田彦大神=猿田彦=宇迦之御魂神』の事と考えられます。

宇迦ウカ→ウガ』とは『御食ミケ』の事でありますが、陸地を開墾し食料増産に大きな功績を残した『大神オオガ→ウガ』氏と解釈され、本来の『宇迦之御魂神は豊受大神』と考えられます。豊受大神の後を継いだのが猿田彦(景行天皇)で、百嶋研究においては、豊前の『四公神社』では、猿田彦を祀っており、{猿田彦は『赤米』研究、増産を行なっていたもの。}と百嶋氏は述べられています。

『大神氏』とは『豊受大神の一族の総称』を謂うもの。と、捉えるべきであります。

 

『大神氏』とは『阿蘇氏』の事で、『阿蘇氏』の中で一番有名なのが、日本各地に足跡を残しております、日高彦火火出見尊と豊玉姫が生んだ。と記紀で述べられています処の、ウガヤフキアワセズ=住吉神=開花(若倭根子日子大毘毘の母は内色許売命、父は大倭根子日子国玖琉)=金折(金崎)=塩土老翁神でしょう。

製塩を行い全国に頒布したものと考えています。塩は魚介類・野菜の保存に欠かせないものでした。亦、住居の土間の粘土にも、海藻・塩の混合が欠かせず、民謡と一緒に東北~北海道~三陸まで足を運んでいる。と、考えられます。(神社研究の百嶋由一郎氏や、民謡の蒐集家竹内勉の研究。)

阿蘇山には、『根子岳』や『西の宮』(正式の西の宮は早岐にあります。)の名が、祖母山(ウガヤを生んだ豊玉姫の事と謂われています)宮崎には、鵜戸神宮、金崎町があります。福岡博多には、住吉神社(筑前国一之宮)、熊本天草には塩田跡地があります。(古川清久氏の塩田研究発見によります。)能登半島珠洲の塩田(江戸時代以前より行なわれていた由)~宮城県には鹽竈神社(陸奥之國一之宮)

故、竹内勉さまの民謡の研究では、鹿児島おはら節が→熊本牛深ハイヤ節→日本海沿岸→佐渡おけさ節→北海道ソーラン節まで繋がっている由。

 

新羅国の皇子ソサノヲ(天日鉾)の嫁に、倭から送られたのが、武甕椎命の一人娘『比咩大神=豊玉姫(斎き奉る姫→市祁嶋姫)=アカル姫=息長大姫大目命』と考えられます。(ホツマ伝による、わたくしの解釈)

 

※    『市祁嶋姫』は、記・紀では宗像三女神の事とされていますが、(ホツマ伝では)宗像三女神(タケコ・タキコ・タナコ)は、スサノオと根国の守であるクラ杵の娘コマス姫ハヤコの不倫の子で、本来の『市祁嶋姫→斎き奉る姫』は『豊玉姫』を指します。『豊玉姫』は対馬にも伝承があり、『豊玉姫』が新羅国から対馬経由で帰還したもの。と考えることが出来ます。

 

『豊玉姫』は宇佐の『大元宮(ウモトの宮)』亦の名を『アカルの宮』に暫くいましたが、田川香春町(軽の宮)に移動して(息長=秋永の本貫地)、磯城(久留米市城島)から移動した孝元(兵主命ツワモノヌシ=日高彦火火出見尊)と暮らします。孝元は、新羅に渡ったものと考えられ、対馬の神社伝承にも彦火火出見尊が数多く祀られています。

ひょっとしたら、新羅国で『日高彦火火出見尊』に出会った『アカル姫=スサノオ(天日鉾)の妻=豊玉姫』は、倭に帰る為に『日高彦火火出見尊=孝元(大倭根子日子国玖琉命)』を利用したもの。とも考えられます。

(百嶋由一郎さまは、日高彦火火出見尊を『豊玉彦』=猿田彦と呼んでおられますが、猿田彦とは景行天皇(天児屋根命=長髄彦=彦坐王)の事です

わたくしは、『豊玉彦』とは、スサノオを意味しているものと、考えています。

まさか、マサカ、真か、(A=B  B=C 為らばA=C)

百嶋由一郎さまの謂う、日高彦火火出見尊(豊玉彦)とは、スサノオの事を意味している。とも考えられます。

日高彦火火出見尊はスサノオを意味している事になる。と考えれば、『日高彦火火出見尊(兵主命=豊玉彦=天日鉾)』と『アカル姫=スサノオ(天日鉾)の妻=豊玉姫』は、倭から新羅国へ一緒に渡り行って、一緒に帰ってきた。とも考えられます。

如何も、この様に考える事が、真実の歴史に近いようです。

田川『香春神社』の由緒にも、『息長大姫大目命』が、「崇神天皇の御代に辛國(韓國)の経営に当たられて帰国された旨」が述べられており、『日高彦火火出見尊(兵主命=豊玉彦=天日鉾)』と一緒に韓國へ渡って、帰国たもの。と考えても良さそうです。

 

 

 

 

 

コメント
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ホツマ伝から、スサノオは景行天皇時代の人物であった。と考えられます。

2017-11-01 | 古代史

前回のブログで

スサノオは、国東半島杵築市熊野に在ります『真那井』の『朝日宮』(場所の特定は不明です)で『赤土アカツチ』の娘『ハヤスフ姫』を見初めて、求婚を申し込みますが叶わずに、その後は次第に、アマテルの北の局ツボネが在ります、『イサワ大内宮』(杵築市大内地区に在ったものと考えられます。)に出入りするように為ります。

 

と、述べていますが、スサノオの求婚が何故、叶わなかったのでしょうか?

疑問が残ります。此れをわたくしなりに、考えてみたいと思います。

 

赤土アカツチ』の娘『ハヤスフ姫』は、『早吸日女(速津姫・速来津姫)』の事で、大分県佐賀関の『早吸日女神社』に出現しており、 現在の『早吸日女神社』祭神は、

 ・八十枉津日神(やそまがつひのかみ)

 ・大直日神(おほなほひのかみ)

 ・底筒男神(そこつつのをのかみ)

 ・中筒男神(なかつつのをのかみ)

 ・表筒男神(うはつつのをのかみ)

 ・大地海原諸神(おほとこうなはらもろもろのかみ)

とされており、肝心な本来の『早吸日女(速津姫・速来津姫)』は隠されており、『八十枉津日神(やそまがつひのかみ)』が『早吸日女(速津姫・速来津姫)』の事かも知れません。

大分県には、『早吸日女(速津姫・速来津姫)』を祀る神社は数多くあり、此のお方は景行天皇時代に登場されています。(豊後風土記・速見郡記)

『ゆふいん』は、以前は速見郡に属しており、景行天皇が遣って来て、天之御中主命を祀るゆふいん金鱗湖畔の『天祖神社』の伝承では、『早吸日女(速津姫・速来津姫)』が景行天皇から、「天之御中主命を祀るよう」の命を受けて、『天祖神社』の祭神となった。

と、されています。

亦、『肥前風土記・彼杵郡』の条項でも、『速来津姫(早吸日女)』が景行天皇熊襲遠征時に、出て来ており、『彼杵ソノギ郡』の名前の由来が述べられています。

ホツマ伝では、金折カナサキ(金崎)=住吉神夫妻が『西宮』の別名『広田宮』にて、斎奇船(イワクス船)に乗せられた『蛭児』を拾い、育てた。と述べられ、其の場所は、長崎県大村湾と繋がる佐世保湾の『早岐』と、考えられます。

この『早岐』は、佐世保湾と大村湾とを結ぶ、潮流の速い『早岐の瀬戸』で有名であります。早岐には『住吉神社』もあり、『蛭児』が後に『早岐神』と呼ばれたものとも考えられます。

金折カナサキ(金崎)=住吉神夫妻は『蛭児』以外に、自分達の子であります『速秋津姫アキ子』(アマテルの西局の典侍)を儲けて、ゆふいんのホツマ國(叉はヒタカミ國=日田市日高ダンワラ地区)へ嫁にやって、アマテルとの間で天津彦根命(後に滋賀県近江彦根へ渡ります)を儲けた。と述べられています。

金折カナサキ(金崎)=住吉神夫妻は、=開花天皇(若倭根子日子大毘毘命)=彦波瀲武盧茲草葺不合尊とも考えられ、(根拠は、此れまでのブログ考察に拠り『崇神』と『神武』は同一人物。から導かれます。)

大分県内陸部の日田市には、『早吸日女(速津姫・速来津姫)』を祀る神社は数多くあり

八幡社   :日田市西有田  :早吸日女神 外

・平野社   :日田市有田   :早吸日女神、天照大御神、大宮賣神、宇賀魂命

・大山祇社  :日田市東有田  :早吸日女神 外

・関社    :日田市大肥   :早吸日女神(天満社 境内社)

・金山神社  :日田市夜明   :早吸姫命、須佐之男、大己貴命

・関神社   :日田市田島   :早吸日女神(大原八幡宮 境内社)

・関神社   :日田市天瀬町  :早吸姫神(主神)

昭和49年 高原三郎著 『大分の神々』より

七瀬川 浩氏のブログ『ひとつあがりのカフェテラス』18、【神武天皇伝承】早吸日女神社③(大分市佐賀関)より転写しました。詳しくは、七瀬川氏のブログをお読みください。

 

此れは、金折カナサキ(金崎)=伝統あるウガヤ朝末裔の海の将軍=住吉神=開花天皇(若倭根子日子大毘毘命)=彦波瀲武盧茲草葺不合尊が、大分~宮崎~鹿児島(カゴノミヤ)~熊本~長崎(西宮=ヒロタノミヤ広田宮)~福岡(シキノミヤ久留米市城島宮・ウカワノミヤ鵜川宮=大刀洗町高橋地区に現在鵜木川が流れています。)~山陰・中国~四国・近畿(住吉神社)を、船で縦横に、頻繁に行き来していた、海人・物部族のリーダーの一人で有った。(他に宗像・糟屋氏が居たものと考えられます。)

と考えられ、『倭の内陸部』をサクラウチ=桜大人・桜大刀自(大山カグツミ橘統みの父)を配下に統治していた、トヨケ=豊受大御神と、其の息子耶蘇杵ヤソキネ=大幡主命に匹敵する『海の大将軍』で有った事が理解できます。

トヨケ=豊受大御神と、金折カナサキ(金崎)=住吉神=後の開花天皇とは20歳程の差があったものと推察され、トヨケ=豊受大御神の娘であります伊弉册命・息子の耶蘇杵ヤソキネ=大幡主命と同年代の新進気鋭の金折カナサキ(金崎)=住吉神=後の開花天皇は、自分の娘『速秋津姫アキ子』を、『倭の王』トヨケ=豊受大御神の孫『アマテル』の嫁としてホツマ国=ゆふいんに献上すべく、豊後杵築の『赤土氏』に預け、養育していたものと考えられます

そう謂う事情が有ったので、スサノオの求婚が叶わない事となり、アマテルと自分(スサノオ)との立場と待遇の違いに不満が生じます。

また、スサノオは、トヨケ=豊受大御神と息子の耶蘇杵ヤソキネ=大幡主命から『海を治めよ』と『海人族の王』命じられますが、気鋭の金折カナサキ(金崎)=住吉神=後の開花天皇が、伝統あるウガヤ王朝の実力者として海人族を纏めており、

(『秦』・『南粤ナンエツ』からのルーツを持って、紀元前111年頃串間~西都原に遣って来た人々。と考えられます。)

『形だけの添えられた王』としてのストレスが溜まったものと考えられます。此れが、豊後杵築の八坂川を挟んでのアマテルとスサノオの誓約ウケイを生じさせる結果となり、スサノオの乱行と追放に繋がったものと考えられます。

その後、アマテルもアスカ宮(田川香春町~赤村)へ、ヒタカミ國の耶蘇杵やタカキネ高木神より移動を命じられます。

スサノオの追放後に、世情混乱{伝統あるウガヤ王朝派=伽耶系と、徐福=紀元前219年頃に来倭したと考えられます。(秦)に繋がる大幡主=和邇氏・新羅派と、周の太伯タイハクに繋がる熊本の、『呉』の末裔(紀元前473年頃以後に倭に遣って来た人々)、松野氏族=新羅派系(姫氏)の諍い}が生じ、

『倭』の将軍(初代大物主=物部氏の首領)を指名されたのは、新羅王(倭人と、秦から韓半島に逃げた辰韓を創った王が、姻戚を結んだものと考えられます。)の孫と成るスサノオの子の『大己貴命』ですが、スサノオが、『倭王』から追放された事による混乱を収める事が出来ず

甘木朝倉からゆふいん~杵築~伊予~スサノオの居る島根出雲に逃げて、其処に居付こうとし、倭からの独立を目指しますが、

ヒタカミ國の耶蘇杵の子の、第7代ヒタカミムスビ神・斎名タカキネ・幼名フリマロ(記・紀で謂う高木神の事)と、ホツマ國=ゆふいんの、大祭祀神官アマテル出奔後の瀬織津姫(向津姫)が、新しい天照大御神として大神官位に即し、『大己貴命』に國譲りを迫ります。

 

ホツマ伝(10文)では、この様を次のように述べています。

 

『タカギ勇みの ミカツチや フツヌシ副えて カシマタチ』(カシマタチ=曲がった、邪な、事や心を直す事)

 

『カシマタチ』(=曲がった、邪な、事や心を直す事)は成功し、

『大己貴命』は島根出雲を『倭』に返します。

武御雷神タケミカツチは『カシマ尊』の名称を第7代ヒタカミ國(=大分県日田市日高)タカキネ高木神から拝命し、後に関東茨城県鹿島市に渡ります。

{ホツマ伝で、武御雷神タケミカツチの一人娘『比咩神』と述べられていますお方を娶ったのが、天之児屋根命=春日尊(神)です。天之児屋根命は、ヰチチ゛市千魂命とフツヌシ経津主命の妹アサカ朝霞姫との間の子とされています。

わたくしの考えでは、天之児屋根命=春日尊は、開花天皇(ウガヤ)の子の彦坐王(景行天皇=長髄彦)の事であります。ヰチチ゛市千魂命が棲んでいたのは、筑後太刀洗町高橋、春日地区と考えられます。此処に棲んでいたヰチチ゛市千魂命は『春日殿』と呼ばれています。

田主丸竹野(タケノ・タカノ)で、開花(ウガヤ)と竹野姫(豊姫)との間で生れた彦坐王(彦湯産隅命)を養子にして育てたものと考えられます。

 

竹野姫(豊姫)はゆふいんの宇奈岐日女命の甥(武諸隅)の子と、勘注系図から窺えますが、『宇奈岐日女命』は、スサノオから逃げて倭に帰ってきた『アカル姫』とも、アマテルの内宮の『瀬織津姫(向津姫)』とも、トヨケ=豊受大御神の娘であります『伊弉册命』とも考えられ、『宇奈岐日女命』の実体が不明です。しかし、『宇奈岐日女命』が『卑弥呼』であろう。と考えています。

 

景行天皇は、後に幼少時に育った太刀洗町高橋地区に遣って来て、水沼君『猿大海』に、豊後宇佐の『ウモト大元の宮』、亦の名を『アカル宮』にて祀られています『道主貴ミチヌシノムチ』=『豊比咩命』を祀るように命じています。『豊比咩命』は、如何も『アカル姫』の事に想われます。

幼馴染みの磐鹿六雁命イワカロッカリノミコトを大膳=宮廷調理長に摂り立て、八坂姫を連れて、オウス小碓命(日本武尊)の足跡を辿り、三重県能褒野{小碓命(日本武尊)の埋葬地}から関東千葉~茨城(香取・鹿島と考えられます)迄肢を延ばしています。

 

磐鹿六雁命の出身地と想われます、田主丸『ロッカリ鹿狩』地区は、現在は『シバカリ柴刈』に呼び名が代わっており、川会小学校が在ります処の唐島以真江地区(秋永氏集落)では、百済國第25代王に為ります『武寧王』(西暦463~523年・在位502~523年)が生れて育ち、暫く滞在して居て、倭で子を儲けたものと考えられます。

『武寧王』の末裔の※高野新笠タカノノニイガサ(西暦720~790年)が桓武天皇(山部王)の生母です。 ※、高野は竹野(タケノ・タカノ)の『当て字』と考えられます。

 

『柴刈』の西には『宮司』の地名があり、其処には『豊比咩神社』(祭神は豊玉姫)が在ります。

もし、『豊比咩命』が『豊玉姫』であるならば、『豊玉姫』は『アカル姫』と同一人物と考えられ、『開花天皇』を産んだ『ウチシコメ欝色謎命』とは、『豊玉姫』を意味している。事に考えられます。

そして、『孝元天皇』とは、ニニギネと木之花開耶姫の間の子『火遠理命=山幸彦(耶馬幸彦)=天津日高日子穂穂手見命』(日田市日高の『耶蘇杵』の弟『ツワモノヌシ兵主命』と考えられます。)を意味する事に為ります。

ホツマ伝では『ツワモノヌシ兵主命』は父のトヨケ豊受大神から磯城県主に任じられた。とあり、此れは久留米市城島を意味しており、物部氏族の巣であります。高良山の下宮にも『孝元天皇』を祀っています。

フツヌシ経津主命と、妹アサカ朝霞姫は、ゆふいんホツマ國『宇奈岐日女命』関連の祭祀を行なう家系の血縁人物と考えられます。

ひょっとしたら、竹野姫はアサカ朝霞姫の事かも知れません。フツヌシ経津主命はホツマ國の香具山カグヤマ=ハラミ山=別府鶴見岳を治めた事から、『香取尊』と呼ばれます。}

 

『大己貴命』の子の『クシヒコ=大國主命=大山咋=第2代大物主=物部氏の首領』は倭でタカキネ高木神の娘のミホツ姫を娶り、『コモリ子守尊=第3代大物主=物部氏の首領』を儲けます。

 

この様に、『倭の大乱』は、スサノオの『倭王』追放から、物部氏の混乱が生じている考えられ、其の存在時間軸は、ホツマ伝のハヤスフ姫=『早吸日女(速津姫・速来津姫)』の陳述により、景行天皇の時代(崇神天皇)と時を同じくしている。と考えられます。

早吸日女命は景行天皇{彦坐王=彦湯産隅命=長髄彦=天之児屋根命=猿田彦}の義妹で、アマテルの西局の典侍となり、『天津彦根命』を儲けた。と考えられます。

・ 早吸日女・天速津姫・速来津姫=速秋津姫(秋子)=住吉神の娘

・  住吉神=金折=ウガヤフキアエズ=神武の父、=開花天皇(若倭根子日子大毘毘命)=崇神の父

・  神武と崇神は同一人物である。事から、ウガヤと開花は同一人物である。と考えることが出来、玉依姫と伊香色謎命が同一人物である。と導かれます。

 

 

 

 

 

 

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今、ホツマ伝が面白い。(ホツマが伝える日本古代史の解明。)

2017-10-04 | 古代史

わたくしの考えでは、豊受大御神(西暦100年頃)の司った『ホツマ國』とは九重町~ゆふいん~安心院~院内の山間部を示しており、平野部に未だ進出をしていなかったものと考えられます。

ヒタカミ國』の範囲とは、日田市を中心とした『ホツマ国』を含む福岡県田川市・添田・英彦山~大分県大分市~直入郡豊肥地区~阿蘇高森~大分県津江~熊本県山鹿と謂った、やはり山間部を指し、未だ、水稲による平野部での大規模水田耕作には至らず、陸穂と水稲による段々丘陵と、焼畑・狩猟・採集生活が主であった。と考えられて、魏志倭人伝(東夷伝)に書かれています平野部での大規模二重環濠や楼閣を備えた集落は、佐賀県神崎市の『吉野ヶ里遺跡』や福岡県朝倉市の『平塚川遺跡』といった、一部の地区にて、西暦200年頃より以後に始まったものと考えています。

ヒタカミ國の中心地は日田市日高の求来里邑(ダンワラ古墳・法恩寺山古墳群)で、豊受大御神(5代目ヒタカミムスビ)やその子であります耶蘇杵(ヤソキネ)(6代目ヒタカミムスビ)=神皇産霊尊=伊弉册尊の兄=大幡主命=白山神=久留米市に居たアワナギ沫蕩尊(根国~若狭~山陰・山陽サホコチタル国の守を勤めた人で、ソアサ=四国を治めた天萬尊アメヨロズの子に為ります)の子である白山姫(クグリ姫)=伊弉諾尊の姉を娶り、タカキネ高木神(7代目ヒタカミムスビ)・弟のスクナ彦名・妹の大宮姫ミチコ(アマテルの東局=大分市古国府(東院)に在ったと想われます。の典侍になり、イキツヒコネ活津彦根=斎名ハラキネを産みます)・妹の七夕姫コタエ(アマテルの東局=大分市古国府の内侍になりますが、後には福岡県小郡市に在る『七夕神社』にて祀られます)が、ホツマ伝に記されています。

    因みにアマテル東局の『下侍』にはツクバハヤマ筑波早馬の娘であります、ソガ蘇我姫が為っています。

    蘇我氏の本拠地は、南大分東院~向原と思われますので、地理的には納得出来ます。現在、筑後地方には『速馬行事や早馬神事』として残影があります。豊後で生れた聖徳太子は、『厩戸ウマヤドの皇子』と呼ばれた蘇我氏であります。蘇我氏と馬(宇摩)(氏)は関係が有りそうです

 

 

スサノオは天日鉾命として、アカル姫を追って国東半島の姫島に遣って来て、豊後杵築を中心に活躍するのでありますが、『記・紀』や『ホツマ伝』では天照大神の末弟と述べられています。

ホツマ伝では伊弉册命が生理中に孕んだので、其の穢れがスサノオに宿って大いなる隈(苦魔)となり、後に騒動を起こします。

現在の医学では生理中に孕む事はありません。此れは豊受大御神が、孫の『アマテル』と同年代の『新羅の王子スサノオ』を『伊弉册命』の養子としたものと考えられます。

ホツマの伝によりますと、

スサノオは、常に雄叫び泣き喚んでいたと述べられ、新羅国に帰りたかった想いが伝わります。

スサノオは、国東半島杵築市熊野に在ります『真那井』の『朝日宮』(場所の特定は不明です)で赤土アカツチ』の娘『ハヤスフ姫』を見初めて、求婚を申し込みますが叶わずに、その後は次第に、アマテルの北の局ツボネが在ります、『イサワ大内宮』(杵築市大内地区に在ったものと考えられます。)に出入りするように為ります。

『イサワ大内宮』には、出雲(根国)の守で有ります『クラキネ蔵杵』の娘『マス姫モチ子』(典侍で、天之穂日命を生んでいます。)とその妹『コマス姫ハヤ子』(内侍で、俗に謂う宗像三女神タケコ・タキコ・タナコの三つ子を生んでいます。)がアマテルの妃として(ある意味では、人質として)侍っていました。

因みに、『下侍』としては山背(香春町~苅田)のカダ(苅田)(浮殿古墳・御所山古墳が残っています。)の娘『アチ子』が居ました。

スサノオは『マス姫モチ子』と、その妹『コマス姫ハヤ子』と肉体関係を持ちます。

 

ゆふいん塚原の『ハラミの宮』にて、二尊伊弉諾命・伊弉册命)に大老翁ウオヤオキナとして仕え、その後ココノエ九重の内宮の高御座に居ます、アマテルの右臣と為った実力者桜大人サクラウチ・桜大刀自サクラノオオトジ』の娘、

 

橘氏の元祖で、大山カグツミ(大山橘統み)のであり・大山祇(天津真浦)の祖父。アシツ姫=木之花開耶姫とその姉であるイワナガ姫の曽祖父になります。}

 

『桜谷瀬織津姫サクラ谷セオリツ姫』『ホノ子』(南の局の典侍)に依る『北の局』とスサノオの関係行状の告発により、スサノオは豊後杵築より追放され、根国(出雲)に居付く事になります。

瀬織津姫は、功績により、ゆふいん『浅間宮』アマテルの『内宮』(皇后の事)になり、その後天之忍穂耳命(第8子=最後の子)を生みます。

 

北の局を解任された『マス姫モチ子』(典侍で天之穂日命を生んでいます。)とその妹『コマス姫ハヤ子』(俗に謂う宗像三女神タケコ・タキコ・タナコの三つ子を生んでいます。)は、杵築から程遠くない山香~宇佐~赤村に棲んでいたと考えられます『赤土アカツチ』が引き取り、赤土宮=宇佐宮(安心院)の自分の局で養いますが、『マス姫モチ子・天之穂日命』と『コマス姫ハヤ子』は出雲(根国)の守で有ります父『クラキネ蔵杵』の元へ逃げ?亦は送り帰されます。

 

(現在でも、山香・宇佐は、『粘土赤土』の産地で有名です。『粘土赤土』は水稲を作る田んぼの土地や、ため池の下地材料として必要不可欠なものです。また、壁材として建築には必要で、『赤土』氏は粘土を生業にしていた人であった。と考えられます。)

 

タケコ・タキコ・タナコの三つ子は、『赤土』氏の『宇佐宮』に放置された為、瀬織津姫の要請により、宗像氏の娘『豊比咩アヤ子』(西局乙下侍)が養育係として派遣され、その後、杵築北局『大内宮』の『内侍』になり、アマテルとの間に『熊野クスヒ尊』(第7子)を儲けます。

この『熊野久須毘クスヒ尊』が紀州熊野に渡って『熊野本宮大社』で祀られます。『熊野』の元は、豊後国東半島杵築に在ります『熊野』が本貫地と思われます。

 

ホツマ伝によりますと、

赤土アカツチ氏の弟が、『足名椎アシナツチ』であります。『足名椎』は、安心院佐田邑の『粗長アラオサ』(住民を大まかに束ねる押さえ役)をしていたとされ、妻の『手名椎テナツチ』との間に『稲田姫』を儲けたとされ、『稲田姫』は『スサノオ』と結婚して、大屋毘古・大屋姫・柧津ツマツ姫・事八十神コトヤソ・大己貴命オホナムチ・葛城一言主ヒトコトヌシ・大年=大歳オオトシ蔵クラムスビ・須勢理姫スセリの8子を儲けたと述べられています。

(古事記では、スサノオが『櫛稲田姫』の後に娶った、『神大市姫』=『大歳御祖神』が、『大年神』と『宇迦之御魂神』を生んだと述べています。ホツマ伝と、伴に信じれば、『櫛稲田姫』=『神大市姫』=『大歳御祖神』と謂う事に為ります。)

 

しかし、百嶋神社考古学では、『金山彦』と『オチノ姫』の間に『稲田姫』が熊本県山鹿市にて儲けられた。とされ、如何も『足名椎』=『金山彦』、『手名椎』=『オチノ姫?』=『神大市姫』が推察されます。『足名椎』=『金山彦』は、その後、全国を股に(『鉱山』を求めて)渡り歩いたものと考えられます。

 

また、『大己貴命』と『大年神』は同一人物では無く、スサノオの子の『兄弟』で有ったと述べられている事が驚きです。

 

わたくしは、2017年8月28日『崇神の父親は開花ではなく、大山咋(大国主命)であった。』のブログの考察にて『大己貴命』と『大年神』は同一人物である。と述べていました。

ホツマ伝は、『大己貴命』は佐田大神と述べており、記紀での記述は、『猿田彦』(佐田彦大神)は同じ安心院の佐田地区に居て、ニニギの天孫降臨の場面にてゆふいんの天宇受賣命と、※天八衢アメノヤチマタ地界と天界の領域の境界の事であります。放射線状に四方八方に道が広がった状態ではありません。勘違いをされておられる方が多いようです。)

にて出会ったたもの。と考えています。(天の八衢の場所は別府市『天間』地区と考えています。)

 

わたくしは、『大己貴命』と『大年神』と『猿田彦』の関係を再度考えて見る事にしました。

大年神社』は安心院佐田地区に在り、スサノオを表す『竜王山』・『三女神社』も近くに在ります。

 

百嶋神社考古学研究では、『大年神』は『天児屋根命』(春日尊)とされて、『佐田大神』と『佐田彦大神』は別神とされています。

わたくしには、『大己貴命』と『大年神』は兄弟である。とのホツマ伝の記述と照合して考察しますと、『佐田大神』は『大己貴命』と解釈され、『佐田彦大神』が『猿田彦』=『大年神』=『天児屋根命』(春日尊)であろう。と考えられます。

 

わたくしの最新の説では、『八衢毘古神』が『猿田彦』=『大年神』=『天児屋根命』(春日尊)=『登美能那賀須泥毘古』=『景行天皇(大帯日子淤斯呂和氣)』=『岐クナド神』=『彦坐王』がイメージされます。

因みに、『八衢比賣命』は、『猿女』=『天宇受賣命』=『辛国息長大姫大目命』=『息長水依比賣命』=『幸キサカ姫(荒吐神アラハバキ)』=『市来島姫(弁財尊天)』です。

 

そう謂えば、故郷の久留米市御井町に高良神社下宮『幸神社』が在りました。

 

 

アマテル・月読命は、幼少期に母である伊弉册イザナミが亡くなり、豊受大御神(斎名、タマ杵)(祖父)が治世の基礎であります人間性(人格)形成を指導した。と述べられており、此の場所は、ゆふいんの『浅間宮(坂下り宮)』の生誕地と、『豊受大御神』と息子の『耶蘇杵ヤソキネ』が通常時居たと考えられます、日田市『日高』のダンワラ古墳地域と考えられます。

アマテルは、人生後半には一時、基山町の『伊勢=妹背』に棲み、孫のニニギネを育てたと考えられ、ニニギネの足跡が『基山山頂』や『荒穂神社』の祭神に残っています。

ニニギネの兄の『櫛玉火明命』は、父の『天之忍穂耳命』から『飛鳥田川(多賀宮)の央君』を命じられ田川郡香春町~赤村へ移動します。『ニニギネ』はホツマ国(ゆふいん・九重)の『央君』です。

『櫛玉火明命』は、『スガタ姫』・『ハツセ姫』・『天道日女命』の三人を娶りますが、子が無くて『天香語山=カグ山ツミ(橘山統み)の子』の子の『高倉下』を養子にしますが、『ハツセ姫(豊マドの娘)』に憎まれて追放された。と述べられ、世継が無くて亡くなります。(わたくしの見解では、此の人がアマテルではなかろうか。と想われます。)

二代目『飛鳥田川(多賀宮)の央君』は、ニニギネと『アシツ姫=木之花開耶姫』との三つ児の第一子であります『火明ホアカリ命 斎名ムメヒト 二代目ハラの央君』と、『コモリ=大国主命の子で、3代目大物主』の二女の『タマネ姫』が儲けた『国照ク二テル』(ニギハヤヒ)が就任します。

 

 

《 ホツマ伝39文より、》
 
ヒノカミココニ   ひのかみここに    日の神ここに(日の神=アマテル)
                                        
ミチマナフ カレヒタカミソ  みちまなふ かれひたかみそ    道学ぶ       故 日高みぞ (日神が学び高まる所は日田市日高地区)
                                             
アメノミコ チチヒメトウム  あめのみこ ちちひめとうむ    陰陽の皇子(オシホミミ=アマテルと瀬織津姫の子)  チチ姫栲機千千姫=オシホミミの内宮と生む
                                 
ミコフタリ ヱハアスカミヤ  みこふたり ゑはあすかみや    皇子二人   兄はアスカ宮(斎名、テルヒコ=櫛玉天火明命は飛鳥宮に居る)
                                          
トハハラミ  とははらみ    弟はハラミ(斎名、キヨヒト=ニニギネは高天原=ゆふいん塚原)
                               
ソノトキクニオ   そのときくにお     その時テルヒコとキヨヒトの時代に国を
タマワリテ ソヨノハツコノ  たまわりて そよのはつこの     賜わりて  十四の裔の其の先ずっと
 
ワレマテハ ヨソノタウケス  われまては よそのたうけす     我までは現在までは  よその治(他の豪族の介入) 受けず
  
ソレノキミ アスカオウチテ  それのきみ あすかおうちて   それの君(神武天皇=崇神天皇が)  アスカを討ちて(ニギハヤヒ=櫛玉火明命に仕えるナガスネ彦=景行天皇=猿田彦=久那土神=天児屋根命の居る香春町~赤村)
                                        
クニオトル カミニタカエリ  くにおとる かみにたかえり   国を盗る      上(御上・公)に違えり(国を盗む、間違った行為である)
                                          
カレナレス イママタキタリ かれなれす いままたきたり  故 和れず  今また来たり(神武=崇神が再度遣って来た)
 
トラントス コレモカミカヤ  とらんとす これもかみかや  盗らんとす  これも上かや
 
スヘキミヨ   すへきみよ   皇君よ」
  

と、述べられています。《スヘキミヨ=皇君よ》とは、神武=崇神を指している。と考えられて、飛鳥宮とは、櫛玉火明命がゆふいん高天原から(ニニギネにホツマ央君を譲り)、田川赤村~香春町周辺に移動した場所で在ったと考えられます。現在の香春町の柳井秀清さま達が守っておられます『央君さん』の墓は、『櫛玉火明命』(アマテルかもしれません?)の墳墓と考えられます。

此処に居たのが『登美能那賀須泥毘古』=『猿田彦』=『八衢毘古神』=『大年神』=『天児屋根命』(春日尊)=『景行天皇(大帯日子淤斯呂和氣)』=『岐クナド神』=『彦坐王』と、

妻であります『八衢比賣命』=『猿女』=『天宇受賣命』=『辛国息長大姫大目命』=『息長水依比賣命』=『幸キサカ姫(荒吐神アラハバキ)』=『市来島姫(弁財尊天)』と謂うことに為ります

 

 

 

 

 

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北朝鮮の真の狙い。

2017-09-15 | 日記

 昨今の世界情勢は、北朝鮮の核開発実験・ミサイル開発に依る、東アジア地域の不安定化を恐れる米国トランプ政権と金正恩労働党委員長の確執が、北朝鮮・韓国・日本・米国を巻き込む核戦争を齎しかねない、と謂う理由で国連を含む国際社会が翻弄されています。

 

米国トランプ政権と日本の安部首相は、北朝鮮との国境を接する中国の習近平やロシアのプーチンに、北朝鮮に対する経済制裁強化を求めて国連安全保障常任理事会決議を求めましたが、北朝鮮への原油輸出は、北朝鮮の人民生活者への影響が大きく、中国・ロシアの賛同が得られず、「200万バレル迄の輸出を認める。」といった、全面禁輸出という究極の制裁とは為らず、今後も北朝鮮の核・ミサイル開発は一段と進展するものと考えられます。

 

わたくしは、何故北朝鮮が世界の国々の意見を聞こうとせず、軍事拡大に邁進するのか考えてみる事にしました。

 

現在の韓半島の北朝鮮は、満州族(女真族)であります。歴史は扶余~高句麗(BC37~668年)に遡り、当時の高句麗の領土は中国の東北部(遼寧省・吉林省・黒竜江省)俗に謂う満州~朝鮮半島北部に至る現在の数倍もの領土を有していました。その後、高句麗~渤海国~金国~後金国~清国となり、中国の歴史では、満州国が『清王朝』(1644年~1912年)を打ちたてて強大な中華国家を築いています。

民族は、ツングース系で、韓半島南部の秦韓(辰韓)=秦・燕から逃げてきた人々と倭人(南方系白族)が混血した国家。 とは全く系統が違います。

 

つまり、金正恩の役割は、誇り高い満州人の国家『清国』再興への野望です。

 

先ず、強大な軍事力で、アメリカ合衆国や各国に、北朝鮮が核・ミサイル大国である事を認めさせ、次に、中国の習近平と、中国の東北部(遼寧省・吉林省・黒竜江省)の北朝鮮への割譲を迫る交渉の狙い。が読み取れます。

北朝鮮にとって韓国は小眼中にしかありません。満州族人の統一国家が、民族統一の最終目標でありましょう。

トランプや安部さんが、北朝鮮(扶余・高句麗)の歴史を勉強して、対処される事を祈ります。

 

 

 

 

 

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崇神の父親は開花ではなく、大山咋(大国主命)であった。と考えられます。

2017-08-28 | 古代史

 此れまでのわたくしの考えは、『倭の大乱』の切っ掛けの推察は、

スサノオを追放の後の倭を治めていた大國主命(筑紫)と少彦名命(豊後)(スサノオ系大幡主命=神皇産霊尊派)は、親族の高木神と和邇氏の、筑前朝倉のクーデターにて、大國主命がゆふいんの神皇産霊尊・少彦名命を頼って逃げ、ゆふいん塚原(高天原)で、追ってきた和邇氏・高木神派を迎え撃ちしましたが、敗れて逃走。

日出~杵築の大屋毘古命の助けで、愛媛に逃れ、少彦名命の傷の回復後に、島根のスサノオの居ました出雲に移動したことに為っています。

しかし、ホツマ伝(解読ガイド書)の如述からは、『倭の大乱』の切っ掛けは『二人の天照大神』が原因と考えられます。

ゆふいんのトヨケ(豊受大御神=ホツマ君・東の君・大物忌大神・アサヒ神・5代タカミムスビ・タマキネ・木公)の子、ヤソキネ(トヨケの長男で、白山姫=ココリ姫=イザナギの妹、と結婚して白山神とも呼ばれた)の子は四人(タカキネ・少彦名命・ミチコ[アマテル東局典侍]・コタエ[アマテル東局内侍])と述べられ、如何もヤソキネ(トヨケの長男)とトヨケは、最初は日田市日高町『求来里クコリ邑』(ダンワラ古墳傍)に棲んで居た。と考えられます。その後ヤソキネは博多湾周辺に移動したのもと考えられます。(百嶋神社考古学では、ヤソキネは、大幡主命=神ムスビ神=刺国大神(トヨケ?)の子、に相当するお方と考えられます。)

ココリ姫(父アワナギ・母不明)の弟のクラキネ(根国=島根周辺を守るマスヒト=領主)の子、マス姫モチ子[アマテル北局典侍]が、天穂日命(アマテル第1子)を生み、次に(クラキネの子)コマス姫ハヤ子[アマテル北局内侍]が、タケコ(第2子)・タキコ(第3子)・タナコ(第4子)=俗に謂う『宗像三女神』を儲けます。

通常であれば、天穂日命(マス姫モチ子が生んだアマテル第1子)がアマテルの後を継ぐのでありますが、ホツマでは第8子=末子とされています処の、天忍穂耳命(母は瀬織津媛(穂の子)=向津媛=二代目天照大神=卑弥呼)が後継します。

モチ子とハヤ子はアマテルの弟スサノオと関係を持ち、子を儲けた事に解釈され、天穂日命はアマテルの後継者を外されたものと考えられます。

{記紀では、その後大国主命の国譲りの使者として、ゆふいん高天原の高木神(ヤソキネの子・第7代タカキネ)と天照大神(瀬織津媛穂の子=向津媛=二代目天照大神=卑弥呼)の意向で、出雲へ向かいますが、出雲に居着き、帰って来ません。}

 

ホツマ伝(解読ガイド書)の如述では、スサノオと櫛イナダ姫(父は足名椎・母は手名椎)が儲けた第五子に、オオナムチ大己貴命・斎名クシキネ(初代大物主・佐田大神・日隈君・田中神・八重垣臣・カル君・顕国玉・大黒様)が述べられ、その子がクシヒコ櫛彦(二代目大物主・初代コトシロヌシ・大國主命・エビス神)で、クシヒコはミホツ姫(タカキネ=7代目タカミムスビ神の子)と結婚して、コモリ(子守尊・ミホ彦・水分神)を儲けた。とされ、驚きました。

 

大己貴命=佐田大神=田中神=日隈君=大黒様と、大國主命=事代主命=恵比寿神は、親子の別人で有りました。

 

大己貴命が佐田大神と同一人物とされ、甘木朝倉の『大己貴命神社』と島根松江の『佐太神社』(佐太大神=佐田大神=大己貴命)が納得できます。出雲大社は『日隈の宮』とも呼ばれ、『日隈君=大己貴命』が納得されます。大己貴命(スサノオの子クシキネ)が倭(九州)から島根出雲へ、息子のクシヒコ(大國主命)と伴に逃げた?ものと、解釈されます。そして、クシヒコ櫛彦=大國主命(恵比寿神)=事代主命は、ミホツ姫(タカキネ=7代目タカミムスビ神の子)と結婚しており、国譲り後に、タカキネ=高木神から赦されたものと考えられます。

 

大己貴命はアマテルの娘タケコ(田心理姫=多紀理毘売命=多祁理比賣命)を妻として、クシヒコ(大國主命)を産むのでありますが、タケコ(田心理姫)は、スサノオとアマテル北局(大内宮=杵築の大内地区に在ったもの。と考えられます。)コマス姫ハヤコの不倫の子と考えられて、一般にはスサノオの子と呼ばれますが、正式にはアマテルの第2子で有ります。大己貴命とタケコ(田心理姫=多紀理毘売命=多祁理比賣命)の血縁関係は、母違いの兄妹?婚か、従兄妹?婚か、本当のところは不明です。

 

此処で問題と為るのが、『大己貴命は佐田大神である。』と述べられている事です。甘木朝倉には『大己貴命神社』が有り、朝倉黒川地区には『佐田』地区の名前があり、此れまでのわたくしの考えでは、

安心院町佐田邑(ホツマ国)に居た、猿田彦(佐田毘古命)が、ゆふいん塚原(高天原)の天宇受賣命=猿女=辛国息長大姫大目命=市祁嶋比賣命=多祁理比賣命と結婚して、高木神の家来として、朝倉~英彦山に移動したものと考えていましたので、猿田彦(佐田毘古命)と佐田大神(大己貴命)の関係が問われる事になります。

 

実は、百嶋由一郎さまの神社考古学研究では、佐田大神(甘木朝倉)と佐田毘古命(猿田彦)は別人とされ、間違わないように。と釘を刺(指)されています。

と、謂うことは、大己貴命(クシキネ)と大国主命(クシヒコ)の関係同様に、佐田大神(大己貴命)佐田毘古命(猿田彦)は別人で有った。と考えられます。

 

と、謂うことから導かれます解釈は、金比羅神社で祀られています大物主命=大山咋(松尾神社・日吉大社・酒の神・山王権現・百嶋由一郎神社考古学研究で、玉依姫と大恋愛した人=白羽の矢)は、大己貴命(クシキネ)=初代大物主命の息子であります、大国主命(クシヒコ)=二代目大物主命で有ったと理解できます。

この大山咋(兄)と禁断の大恋愛した玉依姫(妹)が、記紀での第9代開花天皇の妻、伊香色謎命の事であります。

ホツマ伝では、ウガヤフキアワセズは、最初は内宮の『ヤセ姫』との間にて、『彦五瀬命』を儲け、その後、玉依姫と結婚しており、『玉依姫』は『白羽の矢』との間に生まれた『ミケイリ』(日本書紀では「三毛入野命」や「三毛野命」・「稚三毛野命」、古事記では「御毛沼命(みけぬのみこと)」と表記されています)を連れ子して、ウガヤと結ばれた、とされています。

ホツマ伝では、ウガヤと玉依姫との間で『イナヰイ』(稲飯命)と『カンタケ』(神日本磐余彦火火出見尊=神武天皇 若御毛沼命(わかみけぬのみこと)- 古事記表記  斎名タケヒト)を儲けた事になっており、『ミケイリ』と『カンタケ』は父違いの兄弟と如述してあります。

ホツマ伝の如述では、『二人の天照大神』と同様に、真実を隠しています。

 

ウガヤの子とされています『カンタケ』の実体は、玉依姫の連れ子『ミケイリ』であった。と考えられます。『玉依姫』と『白羽の矢』の関係は、百嶋説を採用しますと、『白羽の矢』は『大山咋』の事であります。ホツマ伝での系図では兄妹になります。

つまり、『大山咋』と『玉依姫』の禁断の兄妹婚の子が『神武天皇』=『崇神天皇』で有った。事が理解されます。有っては為らない問題が生じています。

 

記紀では、大己貴命と大国主命は混合されて、二世代を一世代として世間の解釈を欺かし、大国主命の実態は『大山咋オオヤマクイ』(日吉神社・松尾神社・金比羅神社)や『速瓶玉ハヤミカタマ』(阿蘇国造神社)として他の神の如く表現されて欺く方法が取られています。大国主命と大山咋と速瓶玉は、同一人物であります。

ホツマ伝では、

カンタケ=神武(崇神)は、ウガヤが世を身罷る時にウガヤが居た宮崎宮にタネコ天種子命を連れて行き、『白矢羽のヲシデ』=倭王の璽シルシを賜り、ツクシ(私見では、糸島と想われます)でアイラツ姫を娶り、タギシミミを生むのでありますが、此の『白矢の羽』は『大山咋』を現す『白羽の矢』との関係を暗示しており、カンタケ(神武=崇神)が『大山咋』(大国主命)と『玉依姫』の間に生まれたものと、考える事ができます。

 

と、謂うことは、阿蘇神社の『健磐龍命』と阿蘇国造神社の『速瓶玉ハヤミカタマ』は親子の関係と由緒にあり、元来の『健磐龍命』は『大己貴命』の別名である。

と解釈され、捏造でないとすれば、景行天皇の時代以後に春日氏(藤原氏=阿蘇氏)が他の阿蘇氏と伴に祭神名を不明朗にしたものと思えます。

 

そして、『彦坐王=景行天皇』と『崇神』は兄弟では無かった。事になり、元来の『大年神』は『大己貴命』の事で、『御年神』は『大国主命=大山咋』が導かれます。

 

しかし、ホツマ伝では、『御年神』は『蛭児』の別名と述べられ、ヰチヂ市千魂命=ココトムスビが春日殿とされ、フツヌシ経津主命=香取尊の妹、アサカ朝霞姫を娶って、天児屋根命春日尊を儲けた。と述べられ、天児屋根命ヒメ比賣尊(健御雷神=カシマ尊の子)が儲けたのが、オシクモ天忍雲根命=鹿島押雲=春日若宮と述べられています。オシクモ天忍雲根命=鹿島押雲=春日若宮の子がアメノタネコ天種子命(神武=崇神の鏡臣=左大臣で、直入中臣氏の祖)を儲け、その子がウサマロ宇佐麻呂(宇佐津臣=綏靖天皇の鏡臣=左大臣で三笠』氏を賜ります。)と述べられ、天種子命は三笠山に葬られた事に為っています。

 豊後高田市草地に『三笠山』があります。『天種子命』の埋葬地かも知れません。

 

百嶋神社考古学では、八幡神社の『大年神』は『天児屋根命』で、『御年神』は『大鷦鷯尊オオサザキミコト=仁徳天皇』の事とされています。

 

しかし、史書では、『大年神』の子が『御年神』である。と述べられ、ホツマ伝でも同じです。ならば、『天児屋根命』と『大鷦鷯尊オオサザキミコト=仁徳天皇』は親子と考えなければならない事になり、百嶋神社考古学では、『大鷦鷯尊オオサザキミコト=仁徳天皇』の父は『開花天皇』とされ、『天児屋根命』と『開花天皇』は同一人物と謂う事になり、一考を要する事に為ります。

 

わたくしの解釈では、『大鷦鷯尊』は八幡神(藤原氏)の関与が『祭神すり替え』として考えられ、本来の祭神は、オシクモ天忍雲根命=鹿島押雲=春日若宮が『御年神』で有った。と考えられます。『八幡神の御年神』と限定して解釈するべきかも知れません。『蛭児』も忌み嫌われて、隠されたものと考えられます。

 

私見ですが、最初に近畿に渡って其処で生涯を閉じた王は、垂仁天皇で、景行天皇は少しの間は近畿に居ましたが、亡くなったのは、阿蘇であります。

成務天皇は阿蘇(志賀の高穴穂宮)で育ち、杵築市御塔山古墳(岬の多々波池後陵)に埋葬されたもの。と考えられ、『神功皇后・品陀和気命』と『応神=宇佐押人』と『本当の仁徳=菟道稚郎子』『安閑天皇』『舒明天皇』は田川香春町~赤村で亡くなり、『仁徳に為り代わった人=大鷦鷯尊』が近畿・難波宮(高津宮)へ行って、政務を司り其処で亡くなります。(福永晋三氏の説『真実の仁徳天皇』を支持します。)仁徳以後は第37代斉明天皇までずっと倭(九州)であります。

近畿に天皇が居つくのは、『天智天皇』が西暦668年近江大津宮で即位した『天智・天武天皇』時代からであります。壬申ジンシンの乱』が起きたのは近畿でありますが、乙巳イッシの変』西暦645年は、田川赤村飛鳥宮大極殿で起きた出来事であります。『大化の改新』『冠位12階制』『17条の憲法』も、『聖徳太子』も皆、倭(九州)の飛鳥宮(田川赤村)での出来事であります。

蘇我氏の寺(向原寺=国分寺跡大分市歴史資料館)や、九州各地の寺・古墳の遺骨遺品は全て解体され、近畿に改めて建築・造営(法隆寺・東大寺)されたものと、考えています。糸島の古墳群を調査した学芸委員は、全ての古墳は遺骨・遺品等が一切残っておらず、まるで掃き清められた様であった。と盗掘とは考えられない旨の言葉を残しています。

 

近畿の古墳からは多くの阿蘇天草溶結凝恢岩が使用され、長年朝日新聞文化部で考古学に携わられた、内倉武久さまの説、犬祖伝説を持つ熊曽=阿蘇氏が阿蘇凝恢岩を近畿に持って行った。(熊曽は日本中を席巻した)

串間市の古墳から江戸時代に出土した、南粤ナンエツ由来と考えられます王族が身に着ける『玉璧』ギョクヘキ(=翡翠)から推察された、「日本人は南方から黒潮に乗って遣って来た。」と謂う解釈の件。

そして、燦然と輝く「継体天皇は甘木朝倉の『合』に埋葬された。」の論文は、説得力があり、通説の日本古代史学会に大きな波紋となっています。今後は大いに評価されるものと思われます。

 

 

 

 

 

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天照大神は二人居た。やっと解明したニギハヤヒの正体。

2017-07-10 | 古代史

ホツマ伝の伝承を信じますと、アマテル(天照大神 斎名ワカヒト)は男性である。と考えられます。わたくしを含めて(古事記)『天照大御神』・(日本書紀)『天照大神』を、別名、『大日孁貴おおひるめむち神』『大日女おおひるめ尊』と呼ばれ、女性をイメージしていましたので驚きました。今日は、この事を皆様と一緒に考察してみたいと思います。

捏造の認めらる処の記・紀も、多くの真実が語られ、現代人である我々の誤った解釈で理解をしているものとも考えられ、此れを修正しなければ為りません。

考察(洞察)のポイントは、記紀での天照大神の『岩戸隠れ』の解釈。とニニギの兄とされています火明命(ホツマ伝では、斎名テルヒコ)の行方不明の件と、百嶋神社考古学研究におけます、『高良玉垂宮 神秘書』の解釈であります。そして、根本となる信頼の源はホツマ伝の伝承であります。

ホツマに拠りますと、アマテル(天照)=男性は、内宮にイザナギ・イザナミ(ハラミ宮=ゆふいんに居たと考えられます)の二尊に仕えたサクラウチ(ウチ氏?私見では国東半島に居たと考えています。)大老翁=大山祇の祖=橘氏の祖を右大臣として、その娘ホノコ(佐久那太理瀬織津姫サクナダリ・セオリツヒメ、亦は、桜谷・滾つ背の姫サクラタニニギタツセノヒメ 亦は、向津ムカツ姫と呼ばれた)を迎えて、天忍穂耳命(第8子で末子)を儲けたとされ、

根国(島根)北局の典侍クラキネ(イザナギの弟)の娘マス姫モチ子から天穂日命(第1子)、妹のコマス姫ハヤ子(北局内侍)から3つ子のタケコ(奥津島姫第2子)・タキコ(江島姫第3子)・タナコ(市杵島姫第4子)宗像3女神を儲けます。

第5子として、筑紫西局(佐世保早岐)の金崎(金折)=住吉神の娘であります、ハヤアキツ姫アキ子(西局の典侍)との間に天津日子根命(天御影神の父と述べています。)を儲けています。金崎(金折)の先代は志賀とされ、志賀氏の先代はオキ津彦、オキ津彦の先代がシマ津彦と述べられています。

第6子として、ヒタカミ国ヤソキネ(イザナミの兄で、6代目タカミムスヒ神、神皇産霊尊、シラヤマ神)の娘オオミヤ姫ミチコ(東局=大分市と考えられます。の典侍)との間にて活津彦根命(滋賀県の彦根の由来に繋がります)を儲けます。

第7子は宗像のトヨ姫アヤコ(西局下侍で後に内侍)との間にて熊野久須毘命を儲けています。この熊野久須毘命は後に熊野神(イザナミ)を守る役を仰せつかります。

このように、ホツマ伝ではアマテル(斎名ワカヒト)の子は八人居り、第1子が天穂日命とされ、此れは、百嶋氏では豊玉彦=天穂日命と述べられています。

 

記・紀では、アマテラスとスサノオの間にて誓約を、天安河(私見では、豊後杵築市の八坂川)を挟んで行ないます。近くに真那井の地名もあります。

アマテラスはスサノオの十拳剣を噛み砕き、吹き出した息の霧から三柱の女神を、順に多紀理毘売命・多岐都比売命・市寸島比売命を(宗像三女神)を儲けます。

次にスサノオはアマテラスの首に掛けた勾珠を受け取り、噛み砕き、吐き出した息の霧から、順に、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(第1子)天穂日命(第2子)天津日子根命(第3子)活津日子命(第4子)熊野久須毘命(第5子)を儲けます。以上はアマテラスとスサノオとが生んだ合計八人の子です。

ホツマ伝と記・紀で比べますと、誕生順は異なりますが、人物は全く一致しており、ホツマ伝では母親・父親・祖父母の親族関係と生存位置(宮)まで詳細に述べており、その信頼性は『記・紀』より優れている。と考えざるを得ません。

 

しかし、天照大神は『記・紀』では女性とされ、ホツマ伝では男性であります。

 

この問題は、わたくしには、『天照大神は二人いた。』ものと考えられます。

 

記紀に述べられていますアマテラスの岩戸隠れは、スサノオの乱行が原因とされ、スサノオは倭を追放されます。

このスサノオの乱行は、(ホツマ伝では)アマテルの北局『大内宮』の典侍で第1子天穂日命を産んだモチ子及び、北局内侍で、モチ子の妹ハヤ子(宗像三女神を生んだ)は、スサノオとの関係を結び、アマテルの内宮のホノコ(佐久那太理瀬織津姫サクナダリ・セオリツヒメ)が此れに気付き不倫が発覚、モチ子とハヤ子は子を置いて、父クラキネ(イザナギの弟)の居た島根に逃走、残された三女神は宗像氏の豊姫アヤコが宇佐宮(安心院)にて乳母養育した。と述べられています。

『大内宮』の『大内』は杵築市に地名があり、アマテルの北局(島根)は杵築市に設けられて居た。と考えられます。

 

事実と想われ、わたくしの見解では、兄のアマテルは弟スサノオの乱行に嫌気を覚え、杵築から海部氏・尾張氏と伴に愛知県へ渡ったものと考えられます。突然高天原(ゆふいん塚原)から天照が居なくなり、トヨケ(豊受大神)以来の『ハラの央君』が出奔され、ヤソキネ(イザナミの兄で、6代目タカミムスヒ神神皇産霊尊・白山姫と結婚して白山神と呼ばれます)と、耶蘇キネの子・タカキネ=高木神の事、等にスサノオは責任を執らされます。死罪の判決が出ますが、アマテル内宮のホノコ(佐久那太理瀬織津姫サクナダリ・セオリツヒメ=向津姫)の嘆願で、爪剥ぎ刑と追放に減刑になります。

ヤソキネ(耶蘇キネ)は6代目タカミムスビ神と呼ばれますが、此のタカミはヒタカミ国を表しムスビ統括する人の意味と解釈されます。トヨケ(豊受大神)が居た秀真国(ホツマ国=東國)は、九重町・湯布院町と安心院町と院内町・宇佐市を指し、ヒタカミ国とは、ホツマ周辺の玖珠町・日田市・耶馬溪・山国町・東峰村・添田・田川郡赤村・香春町・大任町辺り全部と考えられます。ヤソキネは神皇産霊尊の事とされ、此の方は百嶋神社考古学では、博多の大幡主命と同一人物にされています。

 

ホツマ伝には書かれていませんが、倭の各地の宮の君がゆふいんに集り、新しい天照を選出します。此れが天之岩戸から出てきた女性のアマテラスと考えられます。

つまり、ホノコ(アマテルの内宮)(佐久那太理瀬織津姫サクナダリ・セオリツヒメ)がアマテルの後の天照大神に就任したものと想われます。天照大神の別名は、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)と、神詞で謂います。

 

わたくしの故郷の久留米市大石町に『伊勢天照御祖神社』が在りますが、祭神は天照國照彦天火明尊と為っていますが、天照の御親はイザナギ(根国の守)とイザナミ(豊後東の宮)の二尊でありますが、この場合は、御祖ミオヤとは祖父豊受大御神を指すものと考えられます。イザナミは早逝し、アマテルを教育したのは祖父の豊受大御神であります。祭神間違いか、故意捏造と考えられます。それとも天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命の子ではなく、まさか!!!真か!!!真か!!!

高天原(ゆふいん塚原)から出奔して愛知に渡ったアマテルその人で有ったのかも!!!

ニギハヤヒは近畿に伝承が数多くあります。

『記・紀』は天火明命(ホツマ伝では斎名テルヒコ=照彦)の記述を避けています。

『高良玉垂宮 神秘書』には、地神五代として、

第一 天照大神(ホツマ伝では斎名ワカヒト)  第二 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(ホツマ伝では斎名オシヒト)   第三 天津彦彦火瓊瓊杵尊(ホツマ伝では斎名キヨヒト)  第四 彦火々出見尊(ホツマ伝では斎名ウツキネ)  第五 彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ホツマ伝では斎名カモヒト

が記入され、天照大神ノ御子、四人ヲハシマス、三人ハ、天照大神ヨリ、四代マデ次タモウ 云々と述べられ、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊の事は出てきません。

多分、初代天照大神は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(ワカヒト=テルヒコ)であり、歴史から消され、天忍穂耳尊の子として記録され、次代天照大神が、ワカヒト妻の天疎向津媛命アマサカルムカツヒメ=瀬織津姫(初代卑弥呼)であった。ものと考えられます。

 

 

 《追補》

ホツマ伝に拠りますと、アマテル(ホアカリ)はヒタカミの『サカオリ宮』(浅間宮=ゆふいん)からヤマトアスカ宮へ移動して初代アスカ央君と為りますが、此れは福永晋三氏が解明された福岡県田川郡赤村~香春町周辺がヤマトアスカ宮と想われます。その後、倭の大乱(二人のアマテラスが元因)が始まり、愛知に渡ったと考えられます。

香春町には、天照アマテル大神(大君さん=央君=ハラ央君・万葉集)の痕跡が残っております。柳井秀清様たちが守っている墳墓は、大いにアマテル大神の可能性があると考えられます。

 

 

 

 

 

 

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ゆふいんに豊受大神は居た。ハイキ神の本質は蛭児である。と考えられます。

2017-07-01 | 古代史

 

平成29年6月11日(日)に古川清久さんより、杵築・豊後高田の神社めぐりを誘われました。関東の『ホツマ伝』の研究者のお方も御出でになる。との事で、パソコンで『ホツマ伝』を開いてみました。

この『ホツマ伝』は、オオタタネコ(別名オオカシマ)が景行天皇(大足彦忍代別)に奉じたと述べられ、記・紀ではオオタタネコは崇神天皇記で登場された人物であります。わたくしの説では、景行と崇神は兄弟で、同時期に活躍したお方なので、納得できます。

景行は崇神を西暦258年10月に討伐していると考えられ、それ以後に書かれたものと認識出来ます。

このホツマ伝の記述を参考にして、古事記・日本書紀は7世紀後半に作成されたと一部の研究者では囁かれ、記・紀の不述の真実を得る手懸かりと考えられ、最近重要視されています。今日はこのホツマ伝の記述を信じて、記・紀と百嶋神社考古研究と比較考察してみる事にします。

序では、

オオタタネコの祖父のオホミケヌシは、「開花天皇(若倭根子日子大毘毘命)(春日・須久・岡本)の禁忌に触れる后選びを諫めた。」が、断行されたので、オホミケヌシは職を辞して隠居をした。と記述されています。

わたくしの考えでは、

『禁忌に触れる后選び』とは、大國主命(魏史倭伝中の爾支=爾支速日=ニギハヤヒ)の娘である下照姫=伊香色謎命=活イク玉依姫(久留米市大善寺玉垂宮)を娶った事で有りましょう。開花(父は孝元、母は内色許売命)はウガヤフキアワセズ・大屋毘古命・住吉神(底筒男命)と同一人物と考えられ、スサノオの右腕とされた大幡主命系の豪の者で、海人族(安曇族)の実力者であり、大國主命を倭(筑紫)から出雲へ追い遣った高木神や和邇氏も手が出せない立場だったと想われます。

 

系図を眺めますと、

イザナミの父はトヨケ(豊受大神)とされ、『ホツマの君』『東の君』『大物忌大神』とも呼ばれ、贈り名は『アサヒ神』。斎名は『タマキネ』で、ヒタカミ国の『天の宮』とも『アマツ宮』とも『ヤマテ宮』と呼ばれます場所に居て、現在は伊勢神宮外宮で主祭神として祀られています。如何も、このお方がホツマの中心人物で在りましょう。

 

トヨケ(豊受大神)の子イザナミは、イザナギ(父はアワナギで兄弟にクラキネとココリ姫=白山姫がいます)との間にヒルコ・アマテル・ツキヨミ・ソサノオを儲けています。ヒルコは父が42歳母が33歳で生まれ、忌み嫌われて斎奇イワクス船に乗せて流され、金崎(金折)夫妻がヒルコを助けて、育てた。と述べられています。

 

ツキヨミとアマテルはトヨケの下(ヒタカミ国の『ヤマテ宮』・『天の宮』・『アマツ宮』)で『陰陽の教え』を受け、16歳から87歳まで『ヤマテ宮』・『天の宮』・『アマツ宮』に居たとされています。

系図順に、アマテル(男性であります。海人=天照る 斎名ワカヒト)━オシホミミ(斎名オシヒト)━ニニギネ(斎名キヨヒト=彦火火出見尊=賀茂別雷命=天君とされ、八島廻りをされたお方で、記・紀に於いては、ニニギはゆふいんの『高天原』から天孫降臨して、糸島の笠狭岬へ行った。と解釈されて、異なっています。)

 

この人物が百嶋さまの述べられる所の豊玉彦=八咫烏=賀茂建角身命=記・紀では天穂日命=大國主命への使者として出雲へ派遣された、スサノオと天照大神の間で生れた?お方。と感じられます。ホツマの賀茂別雷命と記・紀の賀茂建角身命の関係が勘繰られます。

賀茂氏の本貫地は豊後国東半島杵築=スサノオが居た場所と考えています。

 

オシホミミ(斎名オシヒト)は彦山~田川香春神社(忍骨神)で存在が考えられ、傍の苅田町には多賀宮青龍窟があり、百嶋説では『後に滋賀県近江に移動した。』とされています。ホツマの『多賀宮』は苅田市~香春町に在ったと考えられます。この苅田と香春町の間の山並みを『山背』と呼んでいたものと考えられます。亦、『美濃』の地名も日田市上野に『美濃』があり、ホツマでの場所は一部を除いて殆んどが九州(倭)での記述であり、例えれば、アマテルが『伊勢』に行っていた。と述べられ、此れを三重県の『伊勢』と解釈されますお方が殆んど。でありますが、此れは間違いで、佐賀県基山町の『伊勢』の解釈が正しいと思われます。勘違いをなさらぬよう注意しなければ為りません。

 

如何もホツマの『ヒタカミ国』(日高見→日田かみ)とは、日田~耶馬渓~豊後~豊前(田川)周辺を指していると考えられます。

『ヤマテ宮』・『天の宮』・『アマツ宮』とは、高天原、即ち『ゆふいん』を意味しており、此処『ゆふいん』にトヨケ(豊受大神)がいて、イザナミを儲けた事を想像できます。

鶴見岳頂上では、軻具土命カグツチを祀っており、カグツチはイザナミが生んだ子であり、それが元でイザナミが亡くなります。

塚原(高天原)に在る創立後1900年以上の古社である『霧島神社』では、イザナギとイザナミを祀っています。日田市日高町東寺 ダンワラ古墳 (竪穴式古式古墳)では金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎん さくがん しゅりゅうもん てっきょう)が出土。弥生時代中期の後漢鏡と考えられて、重要文化財になっています。倭王に匹敵する豪族が棲んでいたと考えられています。ホツマで述べられていますヒタカヒコ(日高彦)とも考えられます。日田市日高町には『伊勢神宮』や『法恩寺山古墳群』があり、現在は日田市田島町に在ります『大原八幡宮』の『元大原八幡宮』は日高町傍の『求来里クグリ邑』であり、伊勢(妹背)は此処かも知れません。

亦、久留米市にも『伊勢』と繋がる『伊勢天照御祖神社』が『水天宮』(天御中主命=白山姫=クグリ姫)傍に鎮座しています。久留米は筑後川の真水と有明海の海水が交じる『淡い海→淡海→近江の元)とも考えられます。

 

亦、ホツマでは『ハラ』と謂う場所が出てきますが、此れは『高天(ゆふいん)』を指している。と考えるべきであります。例えばオオモノヌシのコモリが副オオモノヌシに任命して三島(内倉武久氏説の甘木朝倉の三島と考えられます。)の溝咋ミゾクイをハラアサマ(浅間)宮の守りをさせた。と述べられていますが、『ゆふいん』にはアサマ(浅間)と考えられます『馬場浅間』ババセンゲンの地名が伝承で在り、高天原(ゆふいん)の『浅間宮』の事と理解できます。

ホオデミ(彦火火出見尊)の時、オシクモ(天忍雲根命)ヒタカヒコ(日高彦=日田市に日高町が在ります。)が、ハラアサマ宮(ゆふいんの浅間宮※)でホツマ国の政をとる。と述べられています。

 

※    ゆふいんには、以前に『驛』が造られており、一般には、『驛』では常時100頭の馬が飼育されていたと謂われ、此の場所は、ゆふいんの『椿山』の麓に在り、『馬場浅間』部落と呼ばれ、慶長の大地震の後の大雨で『椿山』が崩壊して、埋没した場所であります。

『ハラミ山』とは、『高天見る山』か『妊娠山』と解釈すべきで、形状から天香具山(別府鶴見岳)を指し、『サカヲリ宮』(坂下りる宮)とは、鶴見岳(天香具山)の坂下の塚原(高天原)地区か、ゆふいん地区を意味しており、塚原かゆふいんに『サカヲリ宮』が造られたものと考えられます。その後はニニキネが『ハラ浅間宮』に改装した。と述べられていますので、此れは、ゆふいんの『浅間宮』を意味している。と、解釈されます。

アマテル(天照大神)は、ハラミ山の『サカヲリ宮』にて、一月一日(若日)に生まれたので斎名をワカヒトと呼ばれます。

此れは『天照大神』は『ゆふいん』で生れた事になります。

亦、トヨケ(豊受大神)と孫のアマテル(天照大神)はアサヒハラの洞に入り、神上る。と述べられ、アサヒハラ(アサヒバル)とは、真名井原の事とされ、『真名井』とは、聖井戸、即ち水源地を意味され、

第一候補には、ゆふいん塚原の霧島神社の清水『真名井』が浮かびます。塚原高原は朝日原とも考えられます。

 

しかし、『アサヒ』の名前の伝承は九重町飯田高原(朝日)長者原に有り、『アサヒ』の場所とも考えられ、此処には『真名井』と想われます、龍神伝説の『男池』があります。

最後は、『日出ひじ町』の『真那井』です。『日出町』は『朝日』を意味している。とも採られ、場所もスサノオ・大屋毘古命・賀茂建角身命・崇神天皇の居た杵築「紀氏」熊野の本貫地であります。大いに考えられます。

 

トヨケ(豊受大神)は『ホツマの君』とも『東の君』とも呼ばれており、倭(九州)に『西の君』が居た事を意味しており、『西殿』は『ヒロタの宮』とされて金崎(金折=住吉神)夫妻が捨てられたヒルコを拾って育てた場所とされています。

金崎(金折)は住吉神と述べられ、此れは底筒男の『ウガヤフキアワセズ』や『開花=若倭根子日子大毘毘命』中筒男『崇神』表筒男『安曇磯良』が想像されます。『西の君』が誰かが気に為ります。亦、『西殿』の場所も気になります。検討してみる事とします。

 

地図上でゆふいんの西に目を遣りますと、佐賀県鳥栖市があります。

わたくしの妻の知人に、鳥栖市にお住いの金崎さまが居られます。鳥栖市弥生ヶ丘~三ヶ敷地区が『ヒロタの宮』であったのかも。と推察されますが、鳥栖市には『ヒロタ』の地名は在りません。如何も此処ではないようです。

 

倭(九州)にて『ヒロタ』の地名は長崎県佐世保市早岐ハイキに広田が在ります。『ゆふいん』からは地図上で真西にあたります。

 

わたくしには、此処『早岐のヒロタ』が、豊受大神の時代(オオタタネコの時代?)に『西殿のヒロタ宮』と考えられ、金崎夫妻(本貫地は、宮崎県出身と考えられます)がヒルコを育てた場所と想われます。

と謂うことであれば、ホツマの『西殿の君』とは、金崎(金折=住吉神)夫妻か、『早岐ハイキ神』を措いて考えられません。もっと考えれば、『ヒルコ』が成長して『早岐神』と同一人物として隠された。とも想われます。

記・紀では『ハイキ神』と謂う名前のみしか出ておらず、『ハイキ神』の正体が不明で研究者を悩ましていました。

佐世保市早岐に在ります『早岐神社』は須佐之男を祀っていますが、此れは意図的に隠されたものと考えられ、『早岐ハイキ神』の本質は、須佐之男の姉の『蛭児ヒルコ』である。と考える事ができます。

ホツマに拠ると、『蛭児ヒルコ=ワカ姫=稚日女尊=たか姫=シタテル姫=御歳神=ニフの守』はその後、思兼命=阿智彦アチヒコと結婚して手力男命タジカラヲを儲けた。事に為っていて、「ヤマトヤス宮(筑前夜須) 引き移し アメヤスカワの ヒルコ姫 御子オシヒト(天忍穂耳命=アマテルの子)を 養します 根(島根)とサホコ国(場所不明) 兼ね治む」6文。と述べられ、如何も甘木朝倉に居たと考えられます、病弱の幼い天忍穂耳命の面倒をみた。とされています。亦、思兼命はアマテルの左大臣として仕えた。と述べられ、

アマテル(斎名ワカヒト)の出生地は、トヨケ(豊受大神=アマテルの祖父)の居た『ゆふいんハラ浅間宮』で、月読命と伴に修行をして、16歳まで育ち、その後は基山町の『伊勢』にも居たものと考える事ができます。現在『伊勢山神社』が残っており、西暦955年(天暦9年)第62代村上天皇時の県主が、伊勢神宮の別霊を勧請して出来たもの。と由緒にあり、『伊勢山』の地名が残っており、以前はこの地区は『伊勢』と呼ばれていたと考える事ができます。

近くには、『西島』『新島』『御勢大霊石神社=神功皇后と仲哀天皇が羽白熊鷲と戦い、陣を構えた場所で、仲哀と天照大神を祀っています』の地名があり、この傍には宝満川が有明海方面へ流れており、伊勢と呼ばれていたものと考えられます。

基山町の古社、『荒穂神社』では瓊瓊杵尊(斎名キヨヒト)を祀っており、キヨヒト(瓊瓊杵尊)は祖父アマテル(斎名ワカヒト)が居た基山伊勢で育った。様です。

亦、井上悦文氏の説(甘木朝倉の『麻低良山』は書道の草書体で書けばアマテラスを意味している。ので此の朝倉の地に天照大神が居た。と謂う説)どおりに朝倉の地区でも存在が考えられます。アマテルの御子(斎名)オシヒト(天忍穂耳命=アマテルとホノコの子 )は此処朝倉地区(ヤマト夜須宮)からタガ若宮(鷹羽宮=多賀宮=香春古宮八幡神社周辺)へ移動した。と解釈されます。

ホツマ本の触りを端折って解釈しましたが、

このように、ホツマの記述は信頼性が認められ、歴史の解明に役に立ちそうで、ホツマ伝の研究を皆様にもお勧めできそうです。

ホツマでの倭の領域は、九州~出雲(根)~気比(北陸)~瀬戸内~愛媛と考えられます。富士山や浅間山の関東以北の領域の解釈は無理があるようです。

 

 

 

 

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高天原(ゆふいん塚原)の丘から出土した、青龍神(祈願石)の意味する事。

2017-05-29 | 古代史


平成24年9月12日のブログ『猿田毘古命の棲んで居た場所』の調査の折、『天間』の地区で出会った男性から、「以前に塚原の丘を工事の時に変な石が出土した。」と伺っていたので、調査をしたくて土地の所有者に申し込みをしましたが事業者に断られました。その後も気になっていましたのですが、2016年の地震で我が家にも被害が生じた為工事を行いました。その時の工事人に塚原の出土石の件を話しましたところ、後日、この写真を送ってくれました。県(教育委員会・警察)にも届出書も出さずにコッソリと宅内祠として奉られています。此の国宝級の出土品が一刻も早く届け出を出されて、塚原地区の文化財調査を開始されます事を希望します。但し、京都大学・九州大学系以外の、出来れば東京大学系の出身者を起用して調査を行ってください。京都大学・九州大学系は今日の彷徨の歴史の元凶です。解釈にコジツケが生じることが懸念されます。以前に塚原の墳墓を、火山活動で出来たものである。と解釈された事がありました。呆れます。

 

 

 

 

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百済第25代武寧王の生まれた場所。

2017-03-13 | 古代史

満州~別府出身の秋吉敏子と伴に、大分が誇るジャズピアニストの辛島文雄氏が平成29年2月24日に亡くなりました。わたくしと同じ昭和23年生まれで、音楽好きの、わたくしとしては、寂しい想いで、残念です。しかし、豊前宇島のSPレコード愛好家の辛島氏は健在であります。

この大分豊後宇佐郡辛島郷発祥と謂われます『辛島=韓島=加羅島=唐島』氏は、息長帯姫(神功皇后)と八幡神(応神)を宇佐神(比咩大神=豊玉姫と玉依姫=記・紀では姉妹として扱われていますが、本当は多祁里比賣命と下照姫の親子と考えられます。)に持ち込んだ。と謂われており、辛島氏と息長氏の関係が興味を持たれます。

辛島氏はスサノオ(雲南省白族系=新羅系=辰韓系帰化人)にルーツがあり、五十猛命の末裔とも考えられています。

実は、わたくしの父の出身地である福岡県久留米市田主丸町以真江地区は、別名があり『唐島』と謂います。バス停も『唐島』と有ります。此処には秋永氏=息長氏(家紋は丸に違い鷹羽)が十数軒程あり、百済25代武寧王は筑紫の各羅島=唐島で生れたとされ、田主丸『唐島』の息長氏(秋永氏)集落で産まれた事に考えられます。この周辺には、勿体島もったいしま・八丁島・扇島・浮羽島と謂った『筑後川の島』の名前があります。

と謂うことは、息長氏(天皇家)と百済王室の関係が認められ、今上天皇の平成13年12月23日=68歳誕生日の記者会見での発言である『百済王室に日本皇室は関係している。』は、正しい考察発言と考えられます。

続日本紀では第50代桓武天皇(737年生~806年没)の御母上『高野新笠』(和氏)は武寧王の末裔と記述され、百済25代武寧王の子であります百済第26代聖王が仏教(仏像)を第29代欽明天皇(久留米市斯帰島宮)と蘇我稲目=志賀氏=斯末氏(本拠地は大分市東院~向原~古国分)に勧めた理由と、

磐井=石井の乱(磐井=石井が新羅と結んで、天皇家の百済への派兵を妨害した為に第26代継体天皇(息長氏=秋永氏)が物部麁鹿火に命じて磐井=石井=日田市石井地区が本貫地と想われます。此処には古墳時代の墳墓が幾つか残っています。を誅した事件)の真相が紐解けました。

倭でのスサノオ・大国主命(後に、和邇氏高木神派と組み、スサノオと戦い勝利したものと考えられます。)・神産巣日神・白氏・狗呉・賀茂氏系と、草部吉見・高木神・秦氏・袁氏・和邇氏系、つまり雷神と風神の争いが、馬韓・辰韓・弁韓の韓半島に最新のアイテムで有ります『鉄』を求めて、新羅(呉の太白系に雲南省白氏=大幡主=スサノオ派)と伽耶(南粤ナンエツ系秦氏=草部かやべ=阿蘇氏=高木神派)・金官伽耶(大國主命派)を創る結果を生み、やがて伽耶(加羅)=狗邪韓国=倭の西北端の国(後漢書に拠る)は百済に近付き、新羅(白=斯蘆)と対峙する事になります。

 

 

 

 

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級長津日子命はスサノオと同一人物であった。と考えられます。

2017-02-06 | 古代史

佐賀県唐津市呼子の加部島に田島神社があります。この神社は宗像神社辺津宮(宗像市田島)の三女神を祀っており、海から船を接岸しての参拝をするように造営されており、裏山には祈巌石が数多くあり、宗像から出航した船は、博多湾~糸島経由で、外洋(壱岐島)に向かう事を意味しています。航海の安全を祈る本土最後の寄港地であったろう事が理解出来ます。

平成29年1月28日、古川清久氏の誘いで此処に来たのでありますが、本殿左に在ります摂末社『御先神社』を指して、「ご覧になりましたか。」と古川さまが述べられ、祭神を見ますと、順に右から左へ、級長津日子命・級長津戸辺命・猿田彦命とあり、わが眼を疑い驚きました。級長津日子命と猿田彦命は別神である。と暗に示されていたのです。わたくしの説では、猿田彦命と級長津日子命は同一神で、『海幸彦』である。と定義していたからであります。一瞬「これは祭神記入の間違いではないか?」の疑いが頭を過ぎりましたが、伝承に誤りは無いものとも考えられます。

百嶋さまも、之をご覧になったものと考えられ、『級長津日子命』が『海幸彦』、『猿田彦』は『山幸彦』と定義されて考察を進められたものと想われます。

級長津日子命と猿田彦との関係をどのように解釈するかを、古川さまに問われたのであります。

動揺して沈黙した、わたくしは一人、車に戻り、想を深めて再考を試みました。そして、わたくしの誤りに気付きました。

級長津日子命と級長津日女命=級長津戸辺命を『夫婦』と解釈していた事です。

級長津日子命と級長津戸辺命は『』と『』の関係に解釈するべきであります。

つまり、級長津日子命(阿蘇氏=雲南省・海南島方面から遣って来た犬祖伝説を持った白族が鉄を求めて新羅シラ=白=斯蘆や伽耶に出先を創り、熊本県玉名市から派遣された第4代脱解王=昔氏=石氏の末裔と考えられます。)がスサノオ=竜王=天日鉾=大綿津見神=豊玉彦=金鑽大神=大将軍(太白)=天之御影神=息長氏(秋永氏)の初祖となり、スサノオの娘であります級長津戸辺命が、市祁島姫=多祁里姫=息長大姫大目命=豊玉姫=天鈿命=息長水依姫=宇奈岐日女=竜神姫=猿女と解釈すべきで、猿田彦が級長津戸辺命の夫の『南粤』ナンエツ系秦氏=西都原~阿蘇草部かやべ氏(太陽神崇拝)=伽耶=高木神派『海幸彦』と解釈されます。

山形県酒田市の『小物神社』の『』の字の意味は『イン=嬴=斎部=スサノオ=金山彦』の事を指しており、祭神は、級長津日子命と級長津戸邊命であります。

百嶋神社考古学研究では、奈良『春日神社』二月堂の『御水取り』は、『スサノオの心霊』を『豊玉姫』が祀っている。と述べられており、之は『級長津戸邊命』が『級長津日子命』を祀っている事を意味しています。

亦、奈良県生駒郡三郷町に在ります『龍田大社』の元は熊本県の『立田山=龍田山』と考えられ、此処も級長津日子命と級長津戸邊命を祭神にしています。スサノオの先祖の原点は熊本県にあるものと感じられ、韓国の『新羅本紀』(1145年成立)の中で第4代脱解王=昔氏は『多婆那国』から遣って来た。と述べられており、如何もこれは『熊本県玉名市』を指し示すと感じられます。

根拠は、中国『周』に繋がる『呉』の『太白』は姫氏で、姫氏が紀氏、即ちスサノオは、姫氏=紀氏の血を受け継いだ王で、これが記紀で謂う、『熊襲』の正体でありましょう。倭には、『呉』『越』『楚=蘇』『秦=辛』『南粤ナンエツ』南方から海流に乗って何度も難民が遣って来ており、宮崎県串間市では、『南粤』王族が齎したと考えられます国宝の『玉璧ギョクヘキ』が出土しています。

紀元前後には、倭から朝鮮半島へ鉄を求めて、呉・越・楚・秦・南粤から遣って来た人々は、競って韓半島の馬韓・弁韓・辰韓(後の百済・金海・伽耶・新羅・高句麗)方面への進出を図ったものと想像出来ます。高句麗には白頭山の名が残っており、日本には高句麗からの帰化人も多く居たものと考えられます。

 

因みに、わたくしの『山幸彦』とは、日子火火出見尊=ニギハヤヒ=大國主(ホツマ伝では、元は筑紫を治めた大幡主神=神産巣日神の死後、天葺根命が大物主=大国主命に為った。とされています。)と考えられ、大幡主神末裔に天穂日命=建角身命(ミミ族)=ヤタカラス=矢田烏=八田氏=景行天皇に豊後直入で志賀氏(阿蘇氏=雲南省より渡来のミミ族で、本貫地は豊後大野町)・藤原氏(阿蘇氏=ミミ族で、本貫地は豊後日出町)共々退治されます。後に菅原氏=土師氏(この方も阿蘇氏)が登場します。その他大幡主神系代表として崇神=雷神=久留米市城島に居て、勝手に神武を名乗った人。がいます。

 

 

 

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ミカシキの場所を考える。

2016-10-31 | 古代史

わたくしの説では景行天皇(記紀では、崇神の子で長男の豊城入彦が景行=彦坐王の事を意味しているものと考えています。『豊城』の地名は田主丸に在り、此処は彦坐王が生まれた場所であります。『豊城入彦』は父崇神により東国を治めよ。とされ、上毛・下毛国=豊前を意味する。に追い遣られた人)と崇神天皇(記紀では、景行の一番下の弟『若木入日子』と記入されている。のが崇神天皇と考えられます。)

景行(兄)と崇神(弟)は歳の離れた母違いの兄弟で、大善寺玉垂宮で生まれた崇神は勝手に、イスラエルの『モリヤ山』の神を守る大臣オトド=神武天皇の役割の事。を意味します。(高良玉垂宮神秘書より)『伝承の神武天皇』(神カム=大昔より・ヤマト=倭に・イワレ=伝承している・ビコ=人)の名を騙り、博多湾~糸島の塩土老翁(=白氏=大幡主=地禄神=熊野フスミ神=神ムス日神)の話を聞いて登美の長髄彦=日子坐王(腹違いの兄)=和邇氏の縄張り地ヤマト豊前~田川を奪おうとします。

登美とは北九州苅田から行橋・豊前~香春町辺りを指し、苅田市には『富久町』、豊前市には『大富神社』が在り、古来は此の辺りを総称して『登美』と呼んでいたものと考えられます。(百嶋説も、富=登美の場所は豊前である。とされ、わたくしと同じです。)

田主丸町竹野媛から産まれた日子坐王は田川郡の『香春神社』にて祀られています辛國息長大姫大目命=息長水依比売命=天宇受賣命=スサノオの娘(スサノオは天之御影神として隠されているもの。と考えられます)=市祁島姫命=豊玉姫を娶り、景行天皇(日子坐王)は長髄彦命と同一人物であるとしています。

長髄彦命は、大國主命や多祁理比賣命とは相当な親子程の歳下の開きがあったものと考えられます。長髄彦は(日子坐王=景行)の妹=ミカシキ屋姫(わたくしの考えでは、妹は捏造と思っており、妻でありますミカシキ屋姫=多祁理比賣命で有った。ものと考えています。しかし、多祁理比賣命は以前には大國主命の妻でありましたので、隠されたものと考えられます。百嶋さまも神社考古学研究により、多祁理比賣命=市祁島姫は海幸彦=シナツ彦=草部吉見=日子坐王=景行=長髄彦と大國主命の妻に為っている。と述べられています。)

三炊屋媛ミカシキヤヒメは饒速日(=山幸彦=彦火火出見尊=私見では大國主命の事と思っています。)の妻となり、宇摩志麻遅を産んだ。と記紀では述べられています。宇摩志麻遅とは味鋤高日子根命である。事が推察されます。

三炊屋媛ミカシキヤヒメは、鳥見=登美屋媛トミヤヒメ・櫛玉比賣命クシタマヒメ(=多祁理比賣命と考えられます。)とも称され、『ミカシキ』の地名の場所は、

わたくしの妻(以前の姓は寺崎で、家紋は門光=木瓜=天皇家の紋章=わたくしの妻の父の弟が『荒穂神社』を代々司る筑紫氏に養子に入っていて、この人の先代が、大正天皇の教育係りを皇居で勤めています)の出身地であります基山町『三ヶ敷』の事であろう。と考えられます。

此の基山町の『三ヶ敷』ミカシキ周辺の通称『弥生が丘』には古墳が多数あり、文化財として数多く残されています。

わたくしは、この鳥栖市『弥生が丘』から基山町『三ヶ敷』地区に長髄彦=景行天皇が棲んでいたものと考えています。筑紫の熊襲退治の時に六年程居座った『高岡宮』とはこの地であろう。と思っています。因みに、わたくしの知人に、代々鳥栖市今町(弥生ヶ丘の東端)に棲んでおられます『鳥實大志とりみひろし』さまも居られます。家紋は『丸』=和邇氏を意味します。に一文字です。ミカシキ屋姫末裔と考えられます。

 

久留米市『斯帰嶋宮』にて治めた第29代欽明天皇(天国排開広庭天皇)(朝倉広庭宮出身)は、皇后に、佐賀県神崎市日隈~久保和泉地区(和邇氏地区)に棲んで居たと考えられます第28代宣化天皇の娘の『石姫』を娶り、第30代『敏達ビタツ天皇』を儲けます。

欽明の妃には、豊後出身の蘇我稲目の子であります『蘇我堅塩カタシ姫』(大分市東院に棲んでいたと考えられます。)との間にて、第31代『用明天皇』(別名、池辺皇子・橘豊日天皇・大兄皇子)と、第33代『推古天皇』(別名豊御食炊屋比売命トヨミカシキヤヒメ・額田部皇女・大大王)、を儲けます。

また、蘇我稲目の子であります『小姉オアネ君』(穴穂部=阿蘇高森地区~豊後竹田直入に棲んで居たと考えられます)との間にて『穴穂部間人皇女』(後の第31代用明天皇の皇后に成ります。聖徳太子の母で、一時期『蘇我馬子』の暗殺を避けて京都府宮津市間人タイザに逃げていた)・『穴穂部皇子』(後に、皇位を望み『敏達』の皇后の額田部=推古を襲い、物部守屋と手を結びますが、蘇我馬子に殺されます。)・泊瀬部皇子(生まれは阿蘇~直入で、育ちは朝倉広庭宮と推察出来ます。後に第32代崇峻天皇に為りますが、蘇我馬子から殺されます。)

第三皇女であります推古天皇(豊御食炊屋比売命トヨミカシキヤヒメ)は、豊後大分東院か佐賀県基山町ミカシキで生まれ、幼少時を豊後の後宮(東院=母の里『蘇我堅塩カタシ姫』=蘇我氏の里=志賀氏の里)で過ごしていたのもと考えられます。

そして、豊後向原の後宮(東院トイ)を出た後、基山町『ミカシキ』にて育った。のかも知れません。関係が勘繰られます。

わたくしの説では、蘇我氏は志賀氏=志摩氏=斯末氏=百済25代武寧王に繋がる一族の事で、武寧王は筑紫の加羅島で生まれたとされ、此れは、わたくしの秋永氏集落の傍に在ります田主丸町『唐島』の事であろうと考えられます。高良玉垂宮神秘書には『志賀氏』とは『アントンイソラ=安曇の磯良』の事と述べられています。如何も元は物部も蘇我も安曇族で、一緒であったものと想われます。穴穂部とは阿蘇のカルデラ=高森を指し、泊瀬部とは筑後川『長田の堰瀬』がある朝倉山田広庭宮(恵蘇八幡神社近辺の志波地区辺り)と思われ、額田部皇女(後の推古天皇)は、第29代欽明天皇の第二皇子の第30代敏達天皇(別名、他田天皇)の皇后と為って、竹田皇子を儲けます。敏達天皇(別名、他田天皇)は河内磯長中尾陵に葬られた。とされ、この場所は大阪府南河内郡太子町とされ、大方の研究者は鵜呑みにして信じておられますが、わたくしの考えでは、福岡県香春町に『河内』の地名があり、傍には『秋永=磯長=息長』の地名が在ります。ので、この香春町~大任町附近の古墳に埋葬されているものと考えています。

 

先代旧事本紀にて宇摩志麻遅命=味間見命(味鉏高日子根命=大國主命と多祁理比賣命が儲けた人。の事と考えています。長髄彦=景行天皇が登美=豊前~行橋~黒田~香春で仕えていたのは宇摩志麻遅命、即ち味鉏高日子根命の事と想われます)が饒速日命(私見では、大國主命=魏志倭人伝中の爾支ニキ=ヌシ?と、同一人物と考えていて、倭(九州)の大君=君長=ヌシ=大王で有ったと思っています)の残した天璽瑞宝十種を神武(崇神)天皇に献上し、『足尼』の冠位を神武(崇神)から頂き、娶ったのは『活眼邑の五十呉桃の娘、師長姫(息長姫=秋永姫)』と記されており、この活眼邑の場所は久留米市山本町耳納附近で在ったと考えられます。何故ならば、此処には『活眼神社』(山本町耳納1314番地)が在ります。(『宝賀寿男』さまの卑弥呼の居所の山本町豊田考察が頭を過ぎります。)

わたくしの説では、崇神の子であります活眼入日子(第11代垂仁天皇)は久留米地区出身である。としています。そして天之御影神=五十呉桃=スサノオ=豊玉彦が連想されるのであります。

山本町の隣であります草野町には、立派で格式高い『須佐能袁神社』が在ります。(此処にも猿氏が纏わり憑きます。)草野(古来の呼び名はカヤノ=伽耶野と呼んで欲しいと百嶋由一郎さまは述べられています。)から田主丸へ架けては、秋永氏の集落地区が、大橋地区・以真江地区の2箇所あります。後は山本町地区の秋永清さま兄弟だけです。佐賀地区では。多久市納所地区に秋永氏集落地区があり、和邇氏(丸の紋章)の広がりは東西にゆふいん~日田~浮羽・田主丸~鳥栖~吉野ヶ里~小城・多久・武雄まで在ったものと考えられます。

当然、倭の大乱で和邇氏の『吉野ヶ里』から『日の隈』地区集落を攻めたのは博多湾~大善寺玉垂宮・有明海~玉名・熊本方面の南北ラインを固めたと考えられます、亀甲紋章派=崇神・大幡主・大国主派でありましょう。『吉野ヶ里遺跡』は『和邇氏の里』と捉えるべきです。

 

推古天皇が即位しました豊浦宮とは、下関市に在ります神功皇后(息長帯比賣命)所縁の『穴門豊浦宮』と考えられ、蘇我氏(志賀氏=志摩氏=斯末氏とも呼ばれていたものと考えられます。博多湾の『志賀の島』や『糸島=怡土・志摩』にも名を残しています。志摩には桜井神社があり、蘇我氏の縄張りであったものと想われます。)は豊後~筑紫~有明海~瀬戸内~鹿児島(阿多)を船にて闊達に往来していた事が伺い知れます。

崇峻天皇ゆかりの朝倉の広庭宮(志波柿=志波垣宮=柴垣宮)にも竹田皇子(敏達と推古の子であります。第30代敏達は、佐賀県神崎市日ノ隈宮に居たと考えられます第28代宣化天皇と皇后であります『橘仲皇女』の子で有ります『石姫』と『第29代欽明天皇』(久留米斯帰嶋宮=大善寺玉垂宮)との間の子です)伴に来ていた。と考えられます。

と、謂うことは、朝倉には竹田皇子や推古も埋葬されている事が考えられます。(推古は小墾田宮=豊後古国府と考えられます。で崩じた。とされていますが生前に、先に亡くなった竹田皇子の墳墓と一緒の場所に埋葬を望んだ。とされて、『磯長山田陵』に埋葬した。とされていますので可能性があります。)恵蘇八幡宮(朝倉市山田)に在ります『御所山1号・2号古墳』は、『竹田皇子・推古』親子の墳墓とも想われます。もし、その考えが当たっていれば、第37代斉明天皇が西暦661年朝倉広庭宮に行宮を設けた理由が紐解けます。朝倉は多くの天皇皇族が関わった重要な場所と考えられます。

 

長髄彦=景行天皇時に述べられた、三炊食屋媛の『ミカシキ』と推古天皇(豊御食炊屋比賣命)時代の『ミカシキ』の関係は、欽明天皇が久留米大善寺『斯帰嶋宮』で存在していれば、鳥栖~基山~田川~豊後で繋がり、自然であります。欽明は亡くなった後の陵は、『檜の隈坂合陵』と記されてあり、欽明天皇は、朝倉『長田大塚古墳』に埋葬されている。ものと考えられます。

 

 

 ≪その後の調査での補追≫

推古天皇(豊御食炊屋比賣命)が居たと考えられます『小墾田宮おはりだのみや』、大分市『古国分ふるごう』を調査しましたら、古国府バス停の看板の傍に『高良神社』が在り、此れは父で有ります欽明天皇が治世を行った。と思われる久留米市『高良神社』と関係が感じられます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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西暦667年迄王都は九州に在った。(蘇我氏は志賀氏の事であります。)

2016-06-04 | 古代史

わたくしの説では、葛木氏は大分市の葛木が本貫地と為っています。此の葛木氏の流れに志賀氏が居ます。志賀氏の本貫地は、大分県大野郡大野荘志賀邑であります。

滋賀県の名前の由来は、豊後直入豊肥地区から阿蘇にかけて居た『志賀氏』が、西暦258年10月の杵築市にての崇神天皇(自称で神武と名乗った人)退治以後に、景行天皇に依って直入物部氏・直入中臣氏(藤原氏)と伴に『犬猿』・『八田』・『國摩侶』として退治されています。この時に景行に助けられたり、協力した一部の人々が近江他に移動して名付けられたものと考えられます。

そして、豊後に残った志賀氏は欽明天皇(宣化天皇の時代とも謂われています。)の時代に、武内宿禰の末裔の『蘇我稲目』として登場しています。志賀氏が蘇我氏の事であります。蘇我氏(志賀氏)の本拠地は豊後になります。ですから、欽明天皇時代は、倭(九州)に天皇が居た事が認識されます。元興寺伽藍縁起にての記述は豊後~筑後~香春~阿蘇を中心に構図されている。と考えるべきです。

 

わたくしの考えでは、第26代継体天皇(袁本杼命)は、内倉武久さまの説通りに西暦527年5月26日朝倉で暗殺され、朝倉三嶋の藍に埋葬され、第27代安閑天皇(勾大兄皇子)は、同時期に福岡県田川郡香春町勾金ハシ宮で暗殺され、第28代宣化天皇(檜隈高田皇子)は、佐賀県神崎市日之隈宮に居て亡くなり(これも暗殺?)、熊本山出土の石棺に埋葬されたものと考えられ、次の第29代欽明天皇(天国排開広庭尊)は朝倉の広庭宮にて生まれ育ち久留米市城島大善寺玉垂宮(斯帰嶋宮)にて天下を治めた事に解釈されます。埋葬地は宣化と同じ日隈の熊本山石棺と考えられます。佐賀県立歴史資料館のロビーに展示してあります熊本山出土の石棺には遺体の頭を置く枕が造られており、発見当時の状況は、頭を反対にした二体の遺体が副葬品と共に埋葬されていた。とされ、石枕を頭に眠って居られるのが宣化天皇と考えられ、反対側に眠って居られるのが欽明天皇と想われます。説明文には4世紀中~4世紀末頃とされていますが、此れは間違いで、6世紀前期~6世紀中期と思われます。遺体の年代のDNA鑑定が望まれます。

飛鳥の宮とは、福永晋三さまの説福岡県田川郡香春町から赤村架けての地域と考えられます。

 

崇仏廃仏争いを論じた元興寺伽藍縁起は久留米市城島大善寺玉垂宮(斯帰嶋宮)に居られた第29代欽明天皇の時代の事を述べており、欽明天皇の妃になった蘇我稲目宿禰の女であります堅塩媛・小姉君や、その子等(穴穂部間人皇女・穴穂部皇子・泊瀬部皇子=後の第32代崇峻天皇等)及び、第30代敏達天皇(他田皇子)・第31代用明天皇(池辺皇子)・第33代推古天皇(大大王)は次のような解釈になります。

元興寺伽藍縁起では、欽明天皇が大大王(後の推古天皇)をお呼びになり、「汝の牟久原の後宮を、私は、他国の神(=仏教)の宮としたい」と仰られた。そのとき、大々王(後の推古天皇)は、「御心に従って、後宮を離れることにします」と申された。

また、蘇我稲目は百済から贈られた仏像を欽明天皇と相談して、自分の牟久原の寺に持って帰り、収めて祀ります。と述べて在り、牟久原とは由布市狭間町に在ります向原の事で、『後宮』とは、以前に宇奈岐日女命が避難して崇神(神武)から逃れたと考えられます、南大分の東院(トイ)の事であろう。と思っています。此処は葛城氏(志賀氏=蘇我氏)の拠点と想われます。

小墾田オハリダ宮とは固有名詞ではなく、開墾地を意味しているものと考えられ、豊後国府と同一と想われ、場所は現在の『古国府』の事で、向原寺は隣の『国分寺』(現在大分市歴史資料館があります)の事であろう。と考えています。此処豊後古国府や向原寺(国分寺)にて、推古天皇・蘇我氏・聖徳太子らが話し合い17条憲法や冠位12階制・遣隋使派遣が決められたものと想われます。

此の時『海石榴市』や『桜井』の地名が出てきますが、『海石榴市』は景行天皇の直入での土蜘蛛退治のときに出て来ており、豊後にあったものと考えられ、『桜井』も当然豊後で有ったろう。と想われますが、此れは特定出来ていません。

《その後の調査での追補》

『海石榴つばき市』の場所は、『飛鳥宮』の近くに在らねば元興寺伽藍縁起の記述と整合せず、豊後ではなく田川香春町(飛鳥宮)近くに在ったと考えられ、ネット地図にて探しましたところ、勝山黒田の北に『椿市』の地名を発見しました。多分『桜井』の地名も近くに在ったのかもしれませんが、ひとつの考えでは、『桜井』の場所は福岡糸島半島に在ります志摩『桜井』の事かも知れません。皆様の調査をお願い致します。

泊瀬部皇子(=後の第32代崇峻天皇で、父が久留米斯帰嶋宮の欽明天皇と母は蘇我稲目(豊後)の娘の蘇我小姉)が居られた、泊瀬部とは福岡県を流れます筑後川の瀬が有ります、朝倉の原鶴温泉辺りを指しており、朝倉広庭宮を意味しているものと考えられます。

穴穂部間人皇女・穴穂部皇子が居られた場所は、景行天皇が後生を過ごした阿蘇高森町と想われ、穴穂部間人皇女は蘇我馬子の暗殺から逃れる為に京都府京丹後市丹後町間人タイザに暫く避難をしていたものと考えられ、京都府宮津湾には『阿蘇海』の名前を残しています。因みに穴穂部皇子は皇位を望んで物部守屋と結びますが、蘇我馬子から殺されています。

このように、此の時代(592年)までは九州(倭)で政治が行なわれており、近畿には未だ渡っていない事が理解出来ます。蘇我稲目・馬子・蝦夷・入鹿四代は総て九州での行動である。と考えるべきです。

と謂うことは、第35代皇極(後の第37代斉明天皇となり、重祚した女帝で、第34代舒明天皇の皇后です。最後は福岡県朝倉の橘広庭宮にて661年7月24日亡くなり、暗殺されたとも考えられています。68歳)天皇4年(645年)6月12日の中大兄皇子(皇極と舒明の間の皇子で第38代天智天皇になります。)と藤原鎌足が組んで『乙巳イッシの変』を飛鳥板蓋宮アスカイタブキノミヤ(私見では、飛鳥の場所は福永晋三氏説である香春町~赤村周辺と考えています)にて起こして蘇我蝦夷(自殺)・入鹿親子を討ち、

皇極(後の斉明)天皇は、中大兄皇子に皇位を譲ろうとしますが、辞退され、仕方なく弟の軽(カル=カハル=香春)皇子に譲位し、第36代孝徳天皇(軽皇子)が難波長柄豊碕宮(私見では、長柄は大分市鶴崎地区に鶴の首状に別府湾に突き出た丘に在ります葛木地区を意味しており、難波とは地名ではなく波際を意味しているに過ぎず、全国各地何処にでもに在ったと想っています)で政務を行ないます。

第36代孝徳天皇は中大兄皇子を皇太子にして、豊後国府にて大化の改新(初めて元号を創った)を行ない、遣唐使を派遣したり、蘇我氏(志賀氏)を重用します。

653年に中大兄皇子は、垂仁天皇以来発展をした近畿大和への遷都を提言して、孝徳天皇に迫りますが、拒否され多くの重臣・臣下と伴に(弟の大海人皇子も一緒に)渡ります。孝徳は翌年亡くなり、654年皇極が第37代斉明天皇として田川飛鳥板蓋宮にて即位しますが、幾度も宮を変え661年福岡朝倉宮にて亡くなります。

中大兄皇子は直ぐには即位せず、白村江の戦(663年)の4年後の667年近江大津宮に還り、668年に即位します。弟の大海人皇子(後の天武天皇)は近畿に残り、奈良明日香浄御原宮の造営を進めます。

ですから、663年の白村江の戦で捕虜になった、倭の筑紫君『薩夜麻』は、671年香春町に帰ってきて、河内の地名は香春町に在り、『河内王の墓』として残っています。西暦667年まで王都は九州に在った事が理解されます。

 

《その後の調査による訂正》

佐賀県の熊本山出土の石棺の中の二人の遺体は一人は第28代宣化天皇で、もう一人は久留米城島(斯帰嶋宮)の欽明天皇であろう。と述べていますが、此の根拠は、欽明の陵所が『檜隈坂合陵』とされている事で導いていますが、実は、宣化の皇后であります『橘仲皇女』が宣化と合葬された。と述べられており、棺の中の遺体は、『宣化』と、その妻で有る『橘仲皇女』と考えられます。訂正を致します。

欽明(天国排開広庭天皇)陵所とされています『檜隈坂合陵』は、『檜隈坂』と『合陵』と分けて考察しますと、『合陵』は『あいのみさざぎ』、即ち『合あい』の『陵みさざぎ』と考える事が出来、第26代継体天皇の墓所朝倉三島の『藍あい野』と一致し、場所は朝倉広庭宮から近くの『長田大塚古墳』とも考えられますが、継体陵とも、崇峻陵とも雄略陵とも考えられます。

わたくしの知人で、以前(2013年5月10日)にブログで紹介しました、高木邑黒川出身の『町田和明』氏に依りますと、高木邑の山奥の原野に『王墓』伝承の石が在るとの由。此処が『継体』の陵墓と想われます。第32代崇峻天皇(泊瀬部皇子天皇と呼ばれ、欽明の子)は6世紀末(592年)に、『蘇我馬子』の命を受けた『東漢駒』から殺害され、『倉梯岡陵』に葬られた。とされ、『倉梯』とは太刀洗町の『高橋』地区(『高橋は『高に架けた『子』から名付けられたとされています。亦、此処は漢人が数多く遣って来ており、『東漢駒』も此処に居たものと考えられます。)が連想され、『花立山穴観音古墳』が浮かびます。治世地の『柴垣宮』とは朝倉の『志波シバ宮』と考えられます。

山田に在ります『長田大塚古墳』が欽明(天国排開広庭天皇)陵と考えられます。

 

 

 

 

 

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百嶋由一郎氏の神社考古学研究が齎した、猿田彦の正体。卑弥呼の正体。その2

2016-02-27 | 古代史

この百嶋さまの考えが正しければ、わたくしは、日子坐王は、孝霊=景行=長髄彦=吾勝(我鹿)速日忍穂耳(忍骨命)=支那津彦(正しくは二代目シナツヒコ)=草部カヤベ吉見(健磐龍命?)=猿田彦=風神=大年神=天児屋根命と同一人物で有った。と想われます。神八井耳命が、開花天皇と同一人物である謂う事になります。神代の初代が神倭伊波礼毘古命(本当の神武天皇)で、人代の初代が若倭日子大毘毘命(開花天皇=神八井耳命)の考えが成り立ちます。

 

神武天皇は、『古事記』では、神武天皇は即位した後、伊須気余理比売命と結婚して、 日子八井耳命、神八井耳命、神沼河耳命(のちの綏靖天皇)の三柱の御子を儲けた。とされ、

一方の『日本書紀』には、日子八井耳命は登場せず、媛蹈鞴五十鈴媛との間に、神八井耳命、神渟名川耳尊のみが生まれたとされ、『先代旧事本紀』には、日子八井耳命は弟・神八井耳命の御子とされています。

亦、『古事記』の、神八井耳命と神沼河耳命の兄弟が、腹違いの兄であります『多芸志美美命』を殺し、その時、神八井耳命は臆したため、弟の神沼河耳命が皇位を継いだ話になっており、日子八井命は登場しておらず、混乱を招いています。

 

百嶋系図では、草部吉見の父とされます神沼河耳命が日子八井耳は草部吉見=ニギハヤヒ=吾勝=安日(長髄彦?)=海幸彦と同一人物とされ、神俣姫との間にて國龍=大年神=天児屋根命=忍骨(天忍穂耳命)=支那津彦を儲けたことに為っています。

わたくしの考えでは、神八井耳命が開花天皇を意味し、日子八井耳が日子坐王の事で、神沼河耳が崇神天皇を暗示している様に思えます。

日子八井耳・草部吉見・健磐龍命・吾勝・安日(長髄彦?)・海幸彦・國龍・大年神・天児屋根命・忍骨(天忍穂耳命)・支那津彦は総て同一人物と想われます。

そして、香春神社の辛国息長大姫大目命は、天宇受賣命=猿女=宇迦之御魂神=豊受姫=豊玉姫=罔象女=息長水依比賣命=市祁島姫=宇佐神宮や奈良の春日神社を含めての比咩神=龍神で有った。と謂う解釈になります。ひょっとしたら、由布院の『宇奈岐日女命』もイコールで有ったのかも知れません。考察をしてみましょう。

香春神社にて祀られています『辛国息長大姫大目命』の由緒に崇神天皇の御代に帰座された。と述べられており、魏志倭人伝で述べられています、記述を考察しますと、時間軸が合致し、『辛国息長大姫大目命』と『宇奈岐日女命』は同一人物と考える事ができます。何故ならば、勘注系図の『宇那比姫』(宇奈岐日女命)は尾張氏(建田氏)と考えられており、此の尾張氏は和邇氏(≒息長氏)と関係が深いと考えられています。『宇那比姫』は第6代孝安天皇の兄であります『天足彦国押人命(和邇氏の祖)』の妻とされており、

わたくしの解釈では、記紀が述べる弟の孝安天皇崇神天皇のことであり、兄の『天足彦国押人命』が日子坐王=孝霊=景行(大足彦忍代別天皇)=長髄彦=吾勝(我鹿)速日忍穂耳(忍骨命)=支那津彦=草部カヤベ吉見(健磐龍命)=猿田彦=風神=大年神=天児屋根命=日子八井耳命と同一人物で有った。

と謂うことを意味しており、つまり、『宇那比姫』(宇奈岐日女命)の夫の『天足彦国押人命(和邇氏の祖)』は『日子坐王』の事である。と考えられます。根拠は『大足彦』の『大』の字の上に『一』を付け足して『天』の字に改竄が行なわれている、と考えられ、『天足彦』の実体は景行『大足彦忍代別命』と想われます。そして、『天足彦国押人命』(第6代孝安の兄とされています)を儲けたのは、尾張連祖『瀛津世襲』(私見では、=神大市姫=燕エンジ媛=袁媛=卑弥呼)の娘である『世襲足媛』(第5代孝昭天皇の皇后)とあり、『世襲足媛』とは、=『市来島姫』=『息長水依姫』と考える事が出来ます。此の『市来島姫』=『多祁理比賣命』の子であります『下照姫』=『伊香色謎命』=『玉依姫』(記紀では、豊玉姫と玉依姫は姉妹捏造されていますが、実態は親子と考えられます。)が『崇神』=『雷神』を生んでいると考えられます。

亦、記紀では、第7代とされます孝霊(大倭根子日子賦斗邇命)の皇后『細媛』は、磯城県主(または十市県主)大目(ウズメ)の娘。と述べてあり、大目とは香春神社の辛国息長大姫大目ウズメ命、即ち、高天原(ゆふいん)の天宇授賣ウズメ命=宇奈岐日女命が移動をして、香春町の方へ遣って来ている事が理解出来ます。理由は金属鉱山に有ったと考えられます。スサノオは金鑽大神とも、天之御影神とも考えられ、天之御影神の娘が息長水依比賣命とされています。わたくしの説では孝霊(大倭根子日子賦斗邇命)は(根子は開花天皇を意味する。)日子坐王の事で、日子坐王は記紀に於いては息長水依姫を娶っており、総ては香春町の辛国息長大姫大目ウズメ命に繋がってきます

わたくしの考えでは、『瀛津世襲』の娘である『世襲足媛』と、『細媛』は、磯城県主(または十市県主)大目(ウズメ)の娘の記述は、磯城県とは、久留米市城島~大牟田地区を指し、十市県とは、北九州苅田市~行橋市~勝山黒田~豊津町~豊前市~香春町~赤村と想われ、『世襲足媛』が『細媛』と同一人物と想われ、『細媛』は辛国息長大姫大目ウズメ命=息長水依姫=天宇授賣ウズメ命=猿女=宇奈岐日女命=天豊津姫と、同一人物であると理解出来ます。(記紀で述べられています第四代懿徳天皇=大倭日子鉏友命の本質は日子坐王、即ち景行天皇であった。と考える事ができます。

わたくしが述べたい事は、記・紀編纂過程での歴史の積み増しが行われた痕跡が、認められる。と謂う事です。

 

《その後の考察に拠る訂正》

『瀛津世襲』は、百嶋系図と整合を考えますと、瀛津世襲姫=アカル姫=磐長姫=埴安姫=草野姫=櫛稲田姫=熊野牟須美神=神大市姫=天照大神=卑弥呼と同一人物であろう。と考えられます。世襲足媛が辛国息長大姫大目ウズメ命=息長水依姫=天宇授賣ウズメ命=市祁島姫=豊玉姫=細媛=宇奈岐日女命=阿蘇津姫=寒川姫=天豊津姫=罔象女=龍神姫=支那津姫=豊受大神=稲荷神(表に出ておられますのは、宇迦之御魂と謂う事になっていますが、一般的には猿田彦=景行天皇=風神=2代目支那津日子=草部吉見の事と考えられています。しかし、根本はスサノオ=豊玉彦=海神大神=支那津日子(級長津日子)=金山彦=天御影神=龍王が、阿蘇~豊後~豊前で活躍した、宇迦=大神氏オオガ氏→ウガ氏の御霊である。と考えられます。)(罔象女は、百嶋系図では神大市姫と同一人物とされています)

 

 

振り返って、日本書紀の記述を思い出すと、景行天皇(猿田彦)の熊襲討伐の折、久留米市北野大城の『赤司八幡宮(当時は豊咩神社と呼ばれていた)』に水沼君『猿大海』を呼び寄せ、『比咩神』を祀るように述べた。とあり、此処田主丸一帯は日子坐王(猿田彦)の出身地であり、『赤司八幡宮』の赤司も『赤』を『司る』と考えれば、田川(鷹羽)の我鹿・吾勝アカツハヤヒの『赤村』が想像されます。

亦、『赤司八幡宮』の南に北野町大城地区が筑後川傍にあり、此処には『豊比咩命』の霊廟と言い伝えられます塚島古墳があり、豊比咩神社(赤司八幡宮)のある稲数邑内の『蚊田宮』で神功皇后(息長帯比賣命)が品陀和氣命(応神)を生んだと謂う伝承があり、潟(カタ)の天渟名井(アメノヌナイ)「益影井」で産湯を使った。とされています。『大城村郷土読本』には「此所(蚊田宮)往古柳川海より連続而筑肥を隔当社之西而漫々而北背に廻り筑前国上座郡迄入海御座候」と記述があり、朝倉辺りまで船での往来があったものと思われます。

百嶋説では、福岡県宇美町の『宇美八幡神社』は、『神武天皇』の名を騙った『崇神』の嫁であります『久留米市荒木』の『しず』ちゃんが子供を産んだ場所と述べられています。

実は、この神功皇后(息長帯比賣命)が品陀和氣命(応神)を生んだと謂う潟(カタ)の天渟名井(アメノヌナイ)「益影井」から筑後川を挟んだ南向こう岸に、吾が(秋永氏)父の出身地田主丸町以真江があります。此の傍に磐鹿六雁命の出身地と考えられます『鹿狩ロッカリ』地区が在り、以真江の由来は、『以』は今村氏『真』は馬渡氏『江』は江口氏から名付けられたと謂う事で、川向こうの太刀洗町高橋地区の『今村』(百嶋氏の先祖の出身地)と関係が考えられます。高橋区には弥生時代~古墳時代に架けての遺跡が残っており、漢人(大蔵氏)が平城を築いたとされ、多くの氏族が此処から派生して散らばったと考えられます。

『猿大海』とは、『襲武媛』(そのたけひめ)に生ませた、大善寺玉垂宮(水沼→水潴→三潴)に居た『國乳別之皇子』(くにちわけのみこと)を意味している事であり、『猿田彦』=景行天皇(彦坐王)の子が『猿大海』である事を暗示しています。息長氏には漢族『袁氏』の血が流れていると考えられます。

此れも編纂者が『國乳別之皇子』と明確に書けなかった時代背景があり、当時の権力者であります藤原氏に対しての精一杯の抵抗であった。と解釈されます。

『猿田彦』の別称は比良神(比良山神)と謂われ、朝倉市の長慶天皇の墓所(黒巖山)近くに『比良松』と謂う地名が残っており、近くに比良山と呼ばれた山が在ったと考えられます。ひょっとしたら、黒巖山が以前は比良山と呼ばれていたのかも知れません。

近くの高木邑の北に佐田地区があり、

百嶋説では、朝倉市把木(ハキ)町の『大山祇神社』では、(大國主命の父と謂われています)大山祇(=月読尊)の母?と考えられています、蒙古から遣って来た『王昭君』(中国四大美人の一人)を、『王昭君』の名前を隠して『白粉オシロイ祭り』行事として残されており、加藤清正が造った熊本城の大広間『王昭君の間』は、豊臣秀吉の妻『寧々』の木下家(家紋が桐)が『王昭君』の末裔との情報が、当時有ったものと考えられる由。

亦、豊前には『四公シコウ神社』(祭神は猿田彦)が数社残っており、此れは赤米研究の猿田彦が、四公六民の米の分配を行なった。と解釈されています。

わたくしの考えでは、猿田彦とは袁氏(漢民族)である処の妃(息長水依姫=辛国息長大姫大目命=天宇受賣アメノウズメ命=猿女=豊受大神=稲荷神)を娶った日子坐王(=猿田彦)を指し、四公六民は稲の分配を意味する。との解釈は正解と謂えます。

滋賀県高島市鵜川の琵琶湖近くの白髭神社の祭神は猿田彦も、日子坐王(稲荷神=息長水依比賣命の夫)と理解する事が出来ます。(以前のブログでは稲荷大明神は天御影神=息長水依比賣命の父、ではなかろうか。と述べていましたが、此れは間違いであろうと思います。→その後の考察にて、天御影神はスサノオ=級長津日子の事と考えられ、此れも正解と解釈されます。)傍に在ります琵琶湖竹生島の瀛イン神社で祀られています弁財尊天(息長水依比賣命=市祁島姫→固有名詞ではなく、『斎き奉る姫』と解釈するのが正しい。と考えられます。)との関係も納得できます。

滋賀県近江地方には筑紫(倭)から多くの人々が地名と伴に渡って往っていると考えられます。例えれば、朝倉の夜須→野洲市 久留米の高良→犬上郡甲良町 田主丸の鷹取山→甲良町の高取山 糸島の曽根→曽根 博多の高宮→高宮 糟屋郡須恵町→須恵 八女→八目 熊本県大津市→大津 志賀之島→志賀 朝倉の比良松→比良 高島市安曇川には田中・旭・古賀の地名があり、筑後地方にも多くあります。

苅田市の多賀清瀧窟(全国にあります清瀧の元と謂われています)が多賀町清瀧山 豊前の古(胡)表神社が多賀町胡宮神社 と、謂った具合に胡人(西域から遣って来た人)との関係が偲ばれます。

  

根拠の2として、宇佐公康氏の『古伝が語る古代史』には、景行天皇は阿蘇で亡くなった。と述べられている事です。ひょっとしたら、上益城郡山都町に在ります『猿丸太夫の墓』は通常は、猿丸太夫は山背大兄王(聖徳太子の子)の子である弓削王の事と考えられていますが、古代の『孝霊天皇』=『景行天皇』=『猿田彦』=『健磐龍命』の事かもしれません。亦、『幣立神宮』は『健磐龍命』が遣って来て御幣を立てたことからの伝承があり、主祭神は神漏岐命(かむろぎ)・神漏美命(かむろみ)・大宇宙大和神(おおとのちやまと)・天御中主大神(あめのみなかぬし)・天照大神を祭り(わたくしの感では、元々の祭神では無いと想われます。百嶋さまも同意見です。)、『東の宮』は、天児屋根命風の宮大神、雨の宮大神、火の宮大神を祀っており、別に『水神宮』で龍神、『健磐龍宮』で健磐龍命を祀っており、景行天皇は此処、山都町で亡くなっているものと考えられなくも無いです。亦、、もう一箇所の候補地は高森町に在ります下がり宮で有名な『草部吉見神社』周辺です。景行天皇は、『志賀高穴穂宮』で亡くなった。とされ、此の解釈は、以前に『志賀氏』が治めていた『高千穂』『穴穂の宮』と考えられます。高森町には御所・祭場の名称があり、如何も景行天皇の痕跡が漂っています。

亦、近くに在る祖母山の名前の由来はウガヤフキアエズ(私見では開花天皇の事と考えています。)を儲けた豊玉姫(神武天皇=崇神天皇の祖母)を意味している。と伝わっており、豊後・豊前・日向ではウガヤフキアエズの痕跡(大神氏=緒方氏・春日氏・藤原氏ほか)が残っており、ウガヤフキアエズは宮崎日向の鵜戸神宮で、豊玉姫がお産小屋が間に合わず岩の上に橿の葉を敷き詰めて生まれたとの伝承があります。

宇佐公康氏の記述には此れまでは間違いが無く、信頼が持てます。

阿蘇神社で祀られています『健磐龍命』は、『景行天皇』=『猿田彦』=『日子坐王』=『孝霊天皇』=『長髄彦』=『吾勝(我鹿)速日忍穂耳(忍骨命)』=『二代目支那津彦』=『草部カヤベ吉見』=『彦八井耳命』=※『大年神』=『八街比古命』=『天児屋根命』=『天足彦国押人命』=『風神』と同一人物である。と謂うことに解釈出来ます。(因みに『雷神』は覇権を争った『崇神天皇』を意味します。) 

 

そして、(わたくしが考えます)魏志倭人伝中の卑弥呼とは、瀛津世襲姫=アカル姫=磐長姫=埴安姫=草野姫=櫛稲田姫=熊野牟須美神=神大市姫=天照大神で有った。と謂う事に結論着けられます。

※ 高良玉垂宮神秘書では『龍神』は二人居た。とされ、多祁理比賣命の娘であります崇神(自称、神武と名乗った人)を産んだと考えられます伊迦賀色謎命=下照姫が、記紀で述べられています『玉依姫』の事で、『豊玉姫』と『玉依姫』の関係は親子と考えるべきです。そして、この『玉依姫』も『龍神』・『比咩神』と呼ばれたものと考えられます。後に息子であります崇神に『十字剣=イスラエルのモリヤ山の神を守る大臣オトド=神武天皇の役割』を与えます。此れが崇神が神武天皇を名乗った理由と考えられます。(玉依姫は百嶋説では3名居た事になっており、この玉依姫は、豊玉姫の子の活イク玉依姫の事。と考えられます。)

 

この様な、多くの登場人物を作り出して、世代の建て増しと、神々の歴史と神脈の複雑化が行なわれて、改竄が行なわれており、記紀では卑弥呼を記入できない事になり、歴史学者を悩ましたものと考えられます。

 

 

※ 神大市姫とは、ウィキペディアでは以下のように説明されています。

日本神話では、『古事記』の須佐之男命の系図に登場する。大山祇神の子で、櫛名田比売の次に須佐之男命の妻となり、宇迦之御魂神(稲荷神)と大年神を産んだ。

2柱の御子神はどちらも農耕に関係のある神であり、神大市姫命もまた農耕神・食料神として信仰される。神名の「大市」は大和・伊勢・備中などにある地名に由来するものとみられるが、「神大市」を「神々しい立派な市」と解釈し、市場の守護神としても信仰される。

亦、大年神【ホツマ伝より大己貴命の事と解釈します。】は

  • 天知迦流美豆比売(あめのちかるみづひめ)との間の子に
    • 奥津日子神(おきつひこ)
    • 奥津比売命(おきつひめ) - 別名 奥津比売命神(おほへひめ)。(かまど)の女神。
    • 大山咋神(おほやまくひ) - 別名 山末之大主神(やますゑのおほぬし)。比叡山の山の神で日吉大社・松尾大社の祭神。
    • 庭津日神(にはつひ) - 庭を照らす日の意。屋敷の神。
    • 阿須波神(あすは) - 屋敷の神。
    • 波比岐神(はひき)
    • 香山戸臣神(かぐやまとみ)
    • 羽山戸神(はやまと) - 山の麓を司る神。
    • 庭高津日神(にはたかつひ) - 庭を照らす日の意。屋敷の神。
    • 大土神(おほつち) - 別名 土之御祖神(つちのみおやのかみ)、土の神。

の10柱神を儲けているとされ、大年神【=大己貴命】と天知迦流美豆比売(あめのちかるみづひめ)の子が大山咋神(おほやまくひ)=大國主命=山王(日吉)権現と奥津比売命(おきつひめ)=竈(かまど)の女神を儲けている事になります。竈門神社が大宰府に在り、玉依比賣命を祀っており、奥津の文字は当て字と考えれば瀛津比賣命、息長氏(袁氏)、即ち瀛(いん)氏=秦氏=稲荷神がイメージされます。亦、『美豆比売』の『美豆』を当て字と考えれば、本質は『水比賣』と考えられ、『息長水依比賣命』が重なります。

 

伊勢神宮外宮であります『豊受大神宮正宮』では、『玄松子の記憶』に拠りますと以下のように祭神を祀っています。

御祭神
豊受大御神(とようけのおおみかみ)(ゆふいんの『天の宮』=『日高見=日田かみ』にて、イザナミの子であります、つまり、豊受大神の孫のアマテラスと月読命に陰陽道を教えていた。と、『ホツマ伝』から解釈されます。ゆふいん塚原霧島神社では伊邪那岐命と伊邪那美命を祀っており、理解できます。天香具山と考えられます鶴見岳の山上ではカグツチを祀っています。)
相殿
御伴神三座 (東一座 西二座)
一説に
天津彦々火瓊々杵尊(ホツマ伝に拠りますと賀茂別雷命=天君とされています。) 天児屋根命私見では=彦座王=長髄彦=景行天皇=阿蘇津彦=草日部吉見=猿田彦=稲荷神=風神=孝霊天皇=大年神【元来の大歳神は大己貴命の事です】=春日大神であると想われます。因みに春日若宮=御歳神【元来の御歳神は蛭児】その後=春日神は、天児屋根命の子である天村雲命であると想われます。)太玉命

境内 式内社
伊勢國度會郡 高宮 大 月次新嘗
豊受大神宮別宮 多賀宮私見では=青瀧権現=息長水依比賣=市来島姫(斎奉る姫)=天宇受賣=辛国息長大姫大目うずめ命=猿女=八街比賣命=天知迦流美豆比売==豊玉姫=罔象女=稲荷神の妻=比咩神=龍神と同一人物と考えられます。)


 たかのみや 豊受大御神荒御魂  伊勢國度會郡 度會國御神社
豊受大神宮摂社 度會國御神社 わたらいくにみ 彦国見賀岐建與束命

その他の境内社
豊受大神宮別宮 風宮 かぜのみや 級長津彦命 級長戸辺命→(級長津日子命はスサノオ=周に繋がる熊本県玉名の白王家の将軍=太白太子で、鉄を求めて出先国を創った白=新羅シラから、娘の級長戸辺命=天知迦流美豆比売=息長水依比賣と伴にアカル姫=博多の大幡主命系大山祇の娘である神大市姫=天照大神=卑弥呼を追って倭に帰って来た天日鉾命と考えられます。)
豊受大神宮別宮 土宮 つちのみや 大土御祖神=(大年神=日子坐王=猿田彦か、大己貴命と天知迦流美豆比売=息長水依姫=猿女=多祁理比賣命が儲けた大土神)
豊受大神末社 大津神社 おおつ 葦原神
豊受大神所管社 上御井神社 かみのみいの 上御井鎮守神 一般不可→(私見では、日子坐王=猿田彦と息長水依比賣との間に生れた御井津比賣命を指します
豊受大神所管社 下御井神社 しものみいの 下御井鎮守神
豊受大神所管社 御酒殿 みさかどの 御酒殿神 一般不可→(私見では、大年神【大己貴命】と天知迦流美豆比売が儲けた『大山咋神』を意味しています。)
豊受大神所管社 四至神 みやのめぐりのかみ(私見では、、古事記における日子坐王=猿田彦と息長水依比賣=猿女=豊受姫との間に生れた比婆須比賣・弟比賣・歌凝比賣・円野比賣の四人の娘を意味しているものとも?と考えています。) 

 

 

百嶋さまは、酒造蔵の玄関先に吊るす『杉玉』のルーツ研究に、我が由布院(木綿の院)に秘密が隠されていると考えられて、ゆふいんの神社研究をされておられたようですが、亡くなられた現在は伺い訊ねる事ができません。

わたくしが棲んでいます由布院では、『宇奈岐日女命(宇那比姫)』神社(通称『六所宮』と呼ばれ、第十二代景行天皇の御宇十二年冬十月に創祀された。(西暦258年と考えられます)と記され、景行天皇は速津媛(宇奈岐日女命の後裔と考えられます)に迎えられ、土蜘蛛(崇神天皇のことと考えられます)を討伐した時、当地の「二株一幹之霊杉」を見て、皇祖霊と崇め天神地祇皇祖を祀った社であるという。とされ、神紋は十六葉重菊と五七の桐です。國常立尊 國狹槌尊彦火火出見尊 彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊 神倭磐余彦尊 神渟名川耳尊を祀っています。

宇奈岐日女命神社には、『蹴破り権現伝説』があります。

(古代のゆふいん盆地は湖であったのを、宇奈岐日女命が権現に命じて山を蹴破らせ、湖の水を抜いた。との伝承です。)

わたくしの頭の中では、『六所宮』(宇奈岐日女命神社)は表面上の神を祀っており、本当に祀っていますのは『宇奈岐日女命』であり、歴史上の都合で『幣立神宮』同様に隠されたものと想われます。

※ 『幣立神宮』は第20代安康天皇(穴穂天皇)が、安康3年8月9日、皇后と連れ子の『眉輪王』を連れて避暑の為に来ていて、『眉輪王』から殺された場所と考えられます。

 

此の宇奈岐日女命神社は慶長元年(西暦1596年)の豊後大地震後の大雨に於いて、『椿山』の崩壊が起こり、当時の『』(使者が馬を乗り継ぐ為に、全国の要地に造られていた)の在った馬場浅間ばばせんげん部落が埋まり、『宇奈岐日女神社』も被害をうけ少し移動したものと、研究者に考えられています。

わたくしの考えでは、由布院の『椿山』『椿』の名が、後に、三重県鈴鹿市山本町の『椿大神社』『猿田彦』に繋がっているものと思っています。鈴鹿市には能煩野『王塚古墳』『日本武尊』息長氏が考えられ、秋永町があります。『宇奈岐日女命』の夫は『天足彦国押人命』=『景行(大足彦)』=『日子坐王』=『猿田彦』=『八街毘古命』・・・等々とイメージされます。

『宇奈岐日女命』は『息長水依比賣命』『辛國息長大姫大目うずめ命』『天宇受賣命』『猿女=袁氏の女=漢族』『八街比賣命』『比咩神』『市来島姫』『豊玉姫』・・・等々と同一人物であり、『天知迦流美豆比売(あめのちかるみづひめ)』とも同一人物である仮定すれば、

 

宇奈岐日女命が命じた権現さんは『大山咋=大國主命』と『大土神』を意味しており、母が息子に土木工事を命じた事になります。西暦234年(甲寅)~241年(辛酉)当時、神武=崇神東征頃は倭の大乱第2幕の時期でもあり、多くの人々が近畿に移住したものと考えられますので、それ以前に土木工事を行なったものと考えられます。

この『大山咋=大國主命で、父が大己貴命です。』は『酒の神』と謂われ、京都の『松尾大社』で『市杵島姫』=『息長水依比賣命』と伴に祀られています。『大山咋』と『大土神』は、母である『宇奈岐日女命』=『天知迦流美豆比売』から命じられ、騒乱を避け『建田氏』と伴に近畿に渡ったものと想われます。

『杉玉』の発祥は『ゆふいん』かも知れません。百嶋推理は正しかった。と考えられます。

 

《その後の調査での補追》

ゆふいん町川北の石武に『石光天満神社』が在ります。由緒沿革には、祭神は、菅原神・高オ神・天照皇大神・天御中主命とされ、天照皇大神は字『大久保』、天御中主命は字『谷』に鎮座の處、明治12年本社に合併。菅原神は、川北字『松尾に鎮座の處、大正5年9月29日許可を得て、同年12月28日合祀する。とされ、元『松尾天満神社』の傍では鉢山(八山)=亀山石棺が文化財として出土しており、当時、別府大学の教授であった故、賀川光夫さまが調査に当たられたと謂われています。

わたくしは、この『松尾』が佐賀の『松尾』に『武内宿禰』の父の『彦太忍信命』に繋がり、『山下影姫=宇豆比古の妹』がゆふいん(木綿院)に居たと謂う根拠でもあります。ゆふいんには『山下湖』があり、傍の『小田の池』周辺では鏃が数多く発見されています。

 

根拠の2としては、ゆふいん町石松に在ります『大杵社』(木へんではなく禾へんです。)オオゴシャでは、椎根津比古命=宇豆比古命を主祭祀しています。この椎根津比古命は崇神(=勝手に神武と名乗った人)を舵取りとして長髄彦の処へ道案内した。とされています。因みに鳥居の脇に鎮座していますのは、狛犬ではなく狛猿で、ゆふいんに猿田比古命=宇奈岐日女命の夫が居たと考えられる根拠でもあります。このゆふいんの『松尾』は京都の『松尾大社』『日吉大社』にまで繋がり、ゆふいんが『松尾』の根源で在ったと考えられます。亦、丹後半島の元伊勢宮と謂われる『籠神社』でも、海部氏先祖として椎根津比古を祀っており、ゆふいんから『建田背』(宇那比姫=宇奈岐日女の長兄)が移動したものと考えられます。

 

百嶋さまの研究の凄さは、平成12年考の百嶋系図には大足彦(景行天皇)の横に彦坐王と朱字で書かれており、その先の息長水依姫と線で結ばれており、つまり彦坐王と大足彦(景行天皇)は同一人物で在る事を神社研究にて解っておられたのであります。わたくしがこの事を、記・紀と宇佐公康氏伝承を元に解明したのは昨年(平成27年)でした。

亦、熊本県『山鹿灯篭まつり』で歌われます、『ヨーヘホ』『ヨーヘホ』の合いの手は、景行天皇(わたくしの解釈では景行天皇=猿田彦)を褒め称える意味である。相だそうです。

百嶋神社考古研究は、記・紀や先代旧事本紀の不足分を埋める大きなヒントを与えてくれました。先人(研究資料)に感謝であります。生前お会いし、語り合いたかった想いで、残念です

 

考古研究には、フィールドワークが大切であり、其の事に気が付かれました久留米地名研究会の『古川清久』さまは、全国の神社を車中宿泊で調査中であります。鬼気迫る迫力を感じます。古川さまに感謝至極。)

 

 

 

 

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百嶋由一郎氏の神社考古学研究が齎した、猿田彦の正体。卑弥呼の正体。その1

2016-02-25 | 古代史

わたくしの説では、崇神天皇(神武天皇)が、久留米市大善寺玉垂宮にて『下照比賣命』と福岡県春日市須久近くに居られた『開花天皇』(若倭根子日子大毘毘命)の間で生まれた事になっておりますが、記・紀・日本神話との整合を考えますと此の時期は倭国大乱(大國主命=神産巣日神派と高木神派の権力争い)の真っ最中でもあり、此の時期の登場人(神)物(大國主命・市来嶋比賣命・ニニギ・木之花開耶姫・火照命(海幸彦)・彦火火出見尊(山幸彦)・豊玉姫・玉依姫・ウガヤフキアエズ・等)がどの様な関係を持っていたのかが、気に為りますが、記・紀では神話的に表現され、如何も真実が伏せられています様に感じ、記・紀には頼れません。高良神社下宮で祀られています『孝元天皇』は早世したと考えられ、記・紀ではスサノオ・天照大神・月読命がイザナギ(男神)の目と鼻から生じた事になっていますが、月読命の事跡は殆んど述べられていません。『大善寺玉垂宮』近くの『月読神社』(貝塚古墳)でひっそりと祀られています。

孝元・開花の時期は激動の部族間の政権争いが続いていた。と考えられます。わたくしの説の考えでは『宇那比媛=卑弥呼』や其の甥であります『建諸隅命』とその子であります『竹野姫』・『開花』の誕生年を推察、編年して、大國主命は西暦140年頃に生まれた事になっています。

『多祁里比賣命=市来嶋比賣命』が『豊玉比賣命』・『龍神比賣命』と同一人物であり、『下照比賣命』が『玉依姫』・『水神=水波能女命』と同一人物に想え、『開花天皇』が『彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ヒコナギサタケウカヤフキアエズノミコト)=住吉大神』で、同一人物ではなかろうか?。「苅田市に在ります石塚山古墳(3世紀後半造築)が春日市から苅田に移動した鸕鷀草葺不合尊=開花(若倭根子日子大毘毘命)の墳墓であろう。」との自分勝手な思いの念が以前よりありましたが、記・紀ではそれ以上の情報は得られませんでした。

久留米地名研究会の編集員を為さっておられます古川清久さまよりの紹介で、平成27年10月の百嶋由一郎神社古代史研究勉強会に参加させて貰い、神社古代史研究の第一人者で有られました故百嶋由一郎さまの講演資料とCDを別けて戴き、検討させて頂きました。

講演資料からは、並外れた直感力と洞察で世界史・中国史・中国語の豊富な知識を以ってして日本古代史の解明に生涯をかけられたお方と感じられました。

神社史伝承研究の内容は驚くほど正確で間違いが少ないと思われ、わたくしの知識を超えた、豊富な六十数年のフィールドワークの経験と聡明な頭脳を駆使され、世界史観から大局的に日本史を捉えられ、首を促されます事だらけで大変勉強になりました。

百嶋さま(熊本県玉名市出身で黒木氏の末裔の一之瀬氏=今村氏=元は福岡県太刀洗町高橋区今邑の出身と考えられる由。)の最大の功績は、

記・紀には述べていない天之御中主命以後の五柱の神、高御産巣日(タカミムスヒ)神・神産巣日(カムムスヒ)神・宇摩志阿斯訶備比古遅(ウマシアシカビヒコヂ)神・天之常立(アメノトコタチ)神の人的関係と、それ以前の神々の人(神)的関係を含めて系図作成に挑まれた事に尽きるでしょう。

神社考古伝承調査と神紋研究、海外を含めての六十数年に亘ってフィールドワークの観察・考察を行い、1万数千回以上の系図変更をして、記・紀とは全く違った系図を完成されておられ、縄文時代の紀元前3千年頃には中国~朝鮮半島経由のヘブライ人が日本に遣って来ており、『神農さま』や青森県に在ります『八戸市』(第一ヘブライ部落から第九ヘブライ部落が)その痕跡であろう。また、人(イスラエル人・アーリア人・フェニキア人)と文化(鉄・赤砂・青銅・楽器・面・薬・機織・染色・発酵食の技術・言葉や祀り等の風習)の渡来の経路は1、ペルシャ・西アジア・地中海周辺~中国南部雲南省~海南島周辺から黒潮に乗って台湾~沖縄~九州。2、ペルシャ・西アジア・地中海周辺~中国上海周辺から沖縄・九州へ直接。3、ペルシャ・西アジア・地中海周辺~中国~朝鮮半島~九州の、幾つかのルートと考えられておられ、(中国・朝鮮・ミャンマー・ベトナムにも、数多く遣って来ている由。)

九州にて最初の国家的な組織形成が為されたと考えておられ、記・紀が述べています人(神)的・系図的内容は、自分の足と目と頭を使って神社研究考察をしますと実際の古代の流れは大きく違っていると考えられるとの事。

記・紀を始めとする当時の書物は以前の伝承を基にしての記述になっており、当時の権力者である藤原氏(春日氏=多氏=太安万侶)により、歪曲・改竄・捏造が行なわれており、『阿蘇氏の暦』で神武紀元2600年(昭和15年)を勝手に創り、積み上げられた歴史は、間違いだらけで信頼が出来ない。と謂う想いがあるようです。

わたくしも、記・紀に置いては『彦座王』の痕跡が『景行天皇』や『孝霊天皇』として、摺りかえられて消されており、スサノオ~大國主命~崇神時代の考察に於いての、拠り所が無くて困っていましたが、百嶋氏さまの神社研究資料は大変な意味をもっており、古代史研究に大きな前進を齎すものと考えられます。

 

わたくしの特に気に留まったのは次の事項であります。

神武天皇と呼んだ人は二人居て、本当(統)の神武天皇(大白太子)は倭の大乱の時、奴の國(福岡)から南九州(宮崎・鹿児島)へ避難され、その後全国各地へ御巡幸をなされている。もう一人の、後の神武天皇は崇神天皇の事で、勝手に神武天皇を名乗っておられる。記・紀での神武天皇の記述(宮崎神話・奈良県橿原神宮)は、殆んどが嘘であり、混乱を生んでおり、信じてはいけない由。

また、人代最初の天皇と成られたのは開花天皇(若倭根子日子大毘毘命)であり、大宰府の四皇寺山に降臨され、久留米の高羅山で即位された。九州王朝の本体は高羅大社(もう一箇所は佐賀県の久保和泉に在る由)で、大善寺玉垂宮は出張所であろう。神功皇后は最初の夫は仲衷で在ったが、後は開花天皇と夫婦になっていると考えられる。開花はウガヤフキアエズ(=大矢口宿禰)の後を受けて住吉大神に為ったものと考えられる。

と、述べられておられます。

わたくしの考えとは少し違っており(わたくしの説は大善寺玉垂宮が九州王朝の本体で高羅大社が出張所であり、住吉大神はウガヤフキアエズ=開花天皇であろう。四皇寺山に立ったのは神功皇后と思っていました。佐賀県の久保和泉地区から神崎市日隈地区は和邇氏≒秦氏の拠点と考えられ、古代史の秘密が隠されているものと考えられます。)ますが、

『開花天皇は春日四皇寺山(大宰府市北谷)に顕現された』とされ、開花天皇の存在位置がわたくしの春日市須久岡本地区とほぼ一致しており、『崇神天皇(=ツヌガアラシトとされています)が神武天皇を騙っている』も一致し、神社史研究と神紋だけで歴史の本質を看破されており、其の研究考察力に驚きました。

わたくしは、『本当(統)の神武天皇(神倭伊波礼毘古命)が居られた』と述べられている事に注目しました。わたくしの頭の中では、二人のハツクニシラスの問題は西暦220~258年頃の時間軸で、神武=崇神で決着が付いていたので、別にもう一人の神武天皇(神倭伊波礼毘古命)の存在に驚きました。

 

もう一つの驚きは、系図上にスサノオ(=天日槍とされています)の子として『辛国息長大姫大目命』と『市来嶋比賣命』が腹違いの姉妹として記入されて居た事であります。

『辛国息長大姫大目命』が神大市姫=罔象女ミズハノメとスサノオの間の子で記入され、『市来嶋比賣命』がアカル姫=磐(石)長姫イワナガ姫から生れたと記入されていました。

 

{記紀に於いては、大山祇(百嶋説では、=大國主命の父と考えられています)が糸島に居たと考えられますニニギ尊に磐(石)長姫(姉)と木之花開耶姫(妹)の姉妹を差し出しますが、ニニギ尊は石長姫を娶らなかったので、父であります大山祇はニニギ尊(=高木神)の天下が長くは続かないと予想し祈願します。}

 

百嶋系図に於いては、

大山祇(父はウマシアシカビヒコチ、母は天御中主=白山姫=天常立命=小河大神)と、妻であります草野(カヤノ)姫=埴安(ハニヤス)姫との間に、神大市姫=罔象女(ミズハノメ)(=長女)(西暦136年生)、次に大國主命(後に関東にて『武蔵大國魂』と称されます)(西暦142年誕生)と、妹の木之花開耶(コノハナサクヤ)姫(西暦150年生)が記入され、『木之花開耶姫』と『辛国息長大姫大目命』の関係は叔母(木之花)と姪(息長)の関係と謂う事になります。

 

もう一人の神武天皇と、『辛国息長大姫大目命』と『市来嶋比賣命』の関係を調べる事が必要に為りました。

 

 

百嶋さまの神社史研究に影響を与えた書物に、高良玉垂宮神秘書(高良大社発行)がある事に気付き、購入することにしました。

2015年10月20日(火)快晴の下、標高300m程の筑後平野を見下ろす、眺めの良い『高良大社』へ出向き購入(¥10000円)し、耳納スカイラインを通り、発心山~鷹取山から田主丸へ降り、平原古墳・大塚古墳・石垣神社を見学して帰って来ました。石垣神社の楼門の屋根の棟瓦には、ダビデの星(ユダヤの六星マーク)が認められ、此処田主丸はイスラエル系の人々(和邇氏=秦氏)が集落を形成していたものと考えられます。

 

高良玉垂宮神秘書は、元は13世紀頃の巻物(1巻34章551か条)で、当時の祭祀儀礼の作法を片仮名で、図混じりに克明に記した典籍であります。

高良記之初に天神七代の第一に 國常立尊 男神 とされています。此の 國常立尊 男神 をウィキペディアで見ますと

『日本書紀』本文では、国常立尊を最初に現れた神としており、「純男(陽気のみを受けて生まれた神で、全く陰気を受けない純粋な男性)」の神であると記している。他の一書においても、最初か2番目に現れた神となっている。『古事記』においては神世七代の最初に現れた神で、別天津神の最後の天之常立神(あめのとこたちのかみ)と対を為し、独神(性別のない神)であり、姿を現さなかったと記される。『記紀』ともに、それ以降の具体的な説話はない。

『日本書紀』では最初、『古事記』でも神代七代の最初に現れた神とされることから、始源神、根源神として神道理論家の間で重視されてきた。伊勢神道では天之御中主神、豊受大神とともに根源神とし、その影響を受けている吉田神道では、国之常立神を天之御中主神と同一神とし、大元尊神(宇宙の根源の神)に位置附けた。その流れを汲む教派神道諸派でも国之常立神を重要な神としている。

と記入されており、

百嶋由一郎さまも久留米市水天宮(全国水天宮総本宮)に祀られています天御中主命(白山比賣命)は伊勢神宮外宮の豊受大神と同一神(天御中主命の子が大山祇=月読命で、その子が罔象女ミズハノメ)と考えるべきである。久留米市より伊勢に移動された。と考えられる。根拠は神紋である、葵と橘と木瓜=門光は関係があり、伊勢神宮外宮と高良大社の神紋は木瓜=門光で、同じである事)と述べられており、宇摩志阿斯訶備日古遅神(金越智=高麗白山経由?のトルコ系人=匈奴で、現在は出雲大社の客人(マロウド)部屋で祀られているのみで、隠された神である)が天之御中主神の夫である由。

 

わたくしには、日本書紀の記述には、藤原氏の捏造の影が付き纏い、余り信頼できないと考えており、天之御中主神、国之常立神、は同一神(女神)と考えています。

と、謂うことは久留米市瀬の下にあります(白山町の傍に水天宮があります)天之御中主神(白山姫)を祀る水天宮と高良大社の高良玉垂宮神秘書に述べられています国之常立神は同一神と考えられ、此処久留米市が古代史上大きな意味を持った地である事が理解できます。

 

記紀に置いては、高天原から天降りされたニニギ尊は、(わたくしの説では木綿の院=由布院から安心院経由で佐田彦=猿田彦が途中まで案内して福岡県糸島市曽根遺跡まで陸路で行った事になっています)笠狭埼(糸島半島)で大山祇の娘である木花之開耶姫と結婚して、火照命(ホデリ)=(海幸彦)・火闌降命(火須勢理命)、彦火火出見尊(ヒコホホデミ)=(山幸彦)が生れた事に為っていますが、糸島市三雲(曽根遺跡の傍)には『細石サザレイシ神社』が在り、其処では磐長(イワナガ)姫と木花之開耶(コノハナサクヤ)姫を祀っています。

 

神社伝承史研究の大家でありました百嶋由一郎さまの説では、『大山祇』は大國主命の父であり月読命・三夜さんとも呼ばれていて、親は金官伽耶系の金越智(キムオチ)=宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコチ)で在った由。『大山祇』(月読命)の姉に大市(オオチ)の姫・燕脂(エンジ=オシロイの事)姫(後に奈良県御所市柏原の燕神社として勧請された)がいる由。

『大山祇』(月読命)は、白川伯王(西暦90年頃生){元々は中国雲南省昆明に起因して北鮮経由で倭(熊本)に遣って来た白(ペイ)族で、福岡県糸島の正統の神武天皇(神倭伊波礼毘古命)(西暦122年頃生)(その後には、勝手に神武を名乗った崇神=ツヌガアラシトも居た由)の招聘で『奴』の国王になり、姉に白山姫(西暦88年頃生)=天御中主命=天之常立神=小河大神が居た。}の子である草野姫(カヤノヒメ=伽耶のヒメ)=埴安姫と結婚をして、神大市姫(カムオチヒメ)=罔象女(ミズハノメ)=姉と、大國主命、妹に木花之開耶姫が居たとの事。

 

木花之開耶姫はニニギ尊=向山土本毘古王(ムコウヤマトノホヒコオウ)との間でコケムス姫(西暦173年頃)を儲けた後、別れます。その後に、前(埼)玉(サキタマ)比賣命に変名して、鹿児島県溝辺町から関東へ渡ったと考えられる人である。ニニギ尊はその後行方不明なので、金海(韓国)に渡ったのかも知れない。

ニニギを追放したのはウガヤフキアエズ=大矢口宿禰と考えられる由。このウガヤフキアエズ=大矢口宿禰は博多湾~豊前苅田~豊後杵築~豊肥祖母山地区で活躍し、老いて開花に『君長=九州王朝王位=十字剣』を譲った。ウガヤと開花の間を取り持ったのが鴨玉依姫(櫛稲田姫と、大幡主=神皇産霊神の子であります処の豊玉彦=鴨建角身=豊國主=秩父大神との間に儲けた子)である由。

 

(『大山祇』=『月読命』は久留米市大善寺玉垂宮近くの『月読神社』や田主丸町の『三夜さん』にて祀られており、草野カヤノ=伽耶の姫?は久留米市草野(田主丸の西側)に地名が在り、関係が頷かれます。)

 

『倭』の『奴国王』である『白川伯王(西暦90年頃生)=刺国大神』の2歳上の姉である白山姫=天御中主命=天之常立神は、金越智(キムオチ)(西暦85年頃生)=宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコチ)=金官伽耶系新羅金氏=渡来人と結婚をして『大市(オオチ=越智?)の姫』と『大山祇=大土御祖神』=『月読命』を儲けたと謂う事であり、久留米市の水天宮で祀られ、後に三重県伊勢皇大神宮外宮『豊受大神』であるが、隠された本質神は天御中主命と考えられる由。

 

夫であります『宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコチ)(西暦85年頃生)』は群馬県前橋市富士見町に在ります『赤城神社』で祭られています『赤城大明神』の事であり、金槐和歌集647にあります、源実朝(1192年~1219年)の和歌

『上毛(カミツケ=コウズケ)の勢多(セタ)の赤城のから社(ヤシロ)=加羅=韓、大和(ヤマト)にいかで足(アト)を跡(タ)れけむ』

が、13世紀当時は『宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコチ)』を、上毛国でも大っぴらに祀って居たと考えられ、その後に加羅国の王を祀るのは都合が悪い。と謂う事で

『赤城大明神』に変更された。と述べられており、事情により消された神であり、現在は東京日本橋の『水天宮』の男千木に名残があり、後は大國主命を奉る『出雲大社』の客人(マロウド)部屋にてコッソリと祀ってある。可哀想な相(スガタ)の神と謂う事であります。

 

九州倭、伯方(博多)には、白川伯王(西暦90年頃生れの白族)(西暦88年生れの天御中主命=白山姫=天常立=小河大神の2歳下の弟になります)の子であります、大幡主命(西暦110年頃生)=神皇産霊神=クマノ速玉=大若子と、姉が神玉依姫(西暦107年生)、妹に埴安姫=草野姫(西暦113年頃生)が居て、

大幡主命(白氏)は、金鑚大神(カナサ)(西暦106年頃生れの※モーゼ系嬴イン氏)=金山彦=面足尊(オモタラシ)の4歳妹でありますイザナミ=熊野フスミ(西暦110年頃生れのモーゼ系嬴イン氏)との間に豊玉彦命(西暦132年頃生れの白氏+嬴イン氏)=賀茂建角身命=八咫烏=秩父大神=思兼神=豊国主=天太玉=小若子=豊日別=大耶(弥)彦=弥五郎どん(総べて同一人物で、一般に『山幸彦』と呼ぶ)と、2歳姉に新羅から帰ってきたアカル姫(西暦130年頃生れの白氏+嬴イン氏)=磐長イワナガ姫がいます。

 

※モーゼ系嬴イン氏とは、アレキサンダー王に追われて中国に遣って来たイスラエルのモーゼの親族と、秦国の王嬴イン氏(始皇帝)が姻戚を結び、嬴イン氏を名乗るようになり、秦の滅亡後に、韓国~済州島(瀛洲ヨンジュ)経由で豊前~豊後に遣って来た『秦氏』で、漢族『袁氏』の血が混じっていたものも居た。と考えられます。後に琵琶湖の竹生島の瀛イン神社で弁天様として、天宇受賣命(芸能の神)=猿女=辛(秦?韓?)国息長大姫大目ウズメ命=斎奉る姫(市来島姫)が祀られます。

 

古事記ではニニギが結婚を断った事になっています大山祇の娘となっていますが、木花之開耶姫(西暦150年頃生)とアカル姫=磐長イワナガ姫(西暦130年頃生)の関係は、正確には20歳違いの義理姉妹となります

 

アカル姫=磐長(イワナガ)姫(父は博多の大幡主命)を新羅から追って来た(昔氏の)天日槍(アメノヒボコ)は、スサノオ(西暦127年頃生れ)の事であり(スサノオの父はイザナギ=西暦105年頃生れの新羅系昔氏=脱解王系・母はイザナミ=西暦110年頃生まれのモーゼ系嬴イン氏、イザナミの4歳上の兄が金鑚大神カナサ西暦106年頃生=金山彦=モーゼ系嬴イン氏の元祖)、

天日槍(アメノヒボコ)=スサノオは、兵庫県(丹波)から瀬戸内海を通って豊後国東の姫島に来た後、安心院にてアカル姫=磐長(イワナガ)姫(西暦130年頃生)との間で市杵島姫(西暦147年頃生)を儲けていて、その後中津市の古(胡)要神社・古(胡)表宮に来た。と考えられる由。

胡は、胡人=西アジア系ペルシャ人(胡=瀛=秦)を意味しており、後には滋賀県犬上郡多賀町に『胡宮神社』として移動している。近くに在ります『清瀧山』の清瀧も同様に苅田市『清瀧窟』から移動した由。

スサノオはその後に『金鑚大神(カナサ)=金山彦(西暦106年頃生)』と『埴安姫=草野姫(西暦113年頃生)』との間に出来た『櫛稲田姫(西暦134年頃生)』(熊本県山鹿で生れたと考えられています。スサノオの母の兄の子=姪にあたる)を娶り、『瀛津世襲足オキツヨソタラシ姫(西暦152年頃生)=建内足尼=武内足尼』と、『彦國瀛津ヒコクニオキツ(西暦150年頃生)』を儲けている。と考えられるとの事。

 

 

瀛津世襲足オキツヨソタラシ姫は、日本書紀では磯城県=城島県の葉江ハエ=飯江ハエ出身で、尾張連の祖とされ、第5代孝昭天皇の皇后に成り、天足彦国押人と第6代孝安天皇を生み、天足彦国押人の妻に為ったのが、木綿の院=由布院に居た宇奈岐日女=宇那比姫であります。

 

その後の天日槍(アメノヒボコ)=スサノオは、『大國主命(西暦142年頃生れの金官伽耶系金氏+白氏)』の6歳上の姉『神大市姫(カムオチ)=罔象女(ミズハノメ)?(西暦136年頃生)』との間に『辛国息長大姫大目命(西暦154年頃生れ昔氏+金氏+白氏)』を、儲けた事になっており、

 

つまり、スサノオは『アカル姫=磐長イワナガ姫(西暦130年頃生)』と『櫛稲田姫(クシイナダヒメ)(西暦134年頃生)』・『神大市姫(カムオオチヒメ)=罔象女(ミズハノメ)?(西暦136年頃生)』の三人の女性を娶ったと述べられています。

 

わたくしは、神代は古事記・日本書紀に依って考察をしており、スサノオは西暦80年頃生まれの帥升王年代の登場人物と考えて、帥升王=スサノオと推察をしていましたが、百嶋系図ではスサノオ(西暦127年生)は大国主命(西暦142年生)より15歳年上の年代とされており、『帥升王』はスサノオでは無い事になります。

『帥升王』は、周王朝末裔であります姫氏『委奴の國王』で合ったと考えられます、『委奴』とは(いど・いと)と発音され、『怡土の国王』と解釈されます。西暦90年生まれの(百嶋説では、博多湾を治めていたと考えられます=根拠は博多大博通り=大伯通り=大白通りです。)『白川伯王は、帥升王の依頼で熊本から博多に移動して太政大臣として倭を治めて居て、刺国大神と呼ばれた人』の事と考えられています。

大國主命の母とされています、『刺国若姫』とは白川伯王の子と考えられています。

 

この『白川伯王』の子が大幡主=地禄神=神皇産霊神=クマノ速玉=大若子(西暦110年生)で、姉が神カム玉依姫(西暦107年生)、妹に西暦113年生まれの埴安姫=草野カヤノ姫(伽耶の姫とも、とれます。)が居た事に為っています。

埴安姫=草野カヤノ姫は、最初は金鑚大神(西暦106年生)との間に櫛稲田姫(西暦134年)を儲け、次に大山祇=月読命=三夜さん(西暦111年生)の間に神大市姫(=罔象女?)(西暦136年生)大國主命(西暦142年生)木花サクヤ姫=前玉サキタマ姫(西暦150年生)を儲けた事に為っています。

 

『白川伯王』の痕跡は博多で(大博通り=太伯=大白)認められ、大幡主=地禄神=神皇産霊神の痕跡は大野城市白木原周辺から博多湾一帯にて残されており、大山祇=月読命=三夜さんの痕跡は、久留米大善寺城島の『月読命神社内の貝塚古墳』や、田主丸の祭り『三夜さん』にて、埴安姫=草野カヤノ姫は田主丸と久留米の間の『草野地区』にて認められます。天御中主命=白山姫=天常立=小河大神の姿は久留米市の『水天宮』にて、大山祇=月読命=三夜さんの子であります神大市姫(=罔象女?)は久留米市御井町の『御井味水神社』にて認められ、此処では孝霊期(彦坐王)に登場する『朝妻姫』の『朝妻』の地名もあります。彦坐王は田主丸町竹野(草野の隣)で儲けられており、筑後川を挟んで、北側の朝倉市には高木邑があります。高木神やその子であります栲幡千千姫・萬幡豊秋津姫・ニニギ尊が考えられます。高木神=高御産巣日神の正式の名前は『高見』と謂われ、朝倉杷木~千足に『高見』の地名があります。

朝倉甘木には『大己貴神社』にて大國主命の存在が考えられます。

そして、百嶋系図には大國主命を生んだのは、草野姫(=埴安姫)とされ、

日本神話では、神大市姫とスサノオとの間にて、宇迦之御魂神=稲荷神と大年神が儲けられた。と述べられており、宇迦之御魂神=稲荷神は、わたくしの考えでは息長氏(息長水依比賣命?)の事で有り、

(百嶋さまは、宇迦の『ウ』とは熊本弁では『多い』とか『大きい』事を言う。と述べられており、此処では『多氏=阿蘇氏=シナツヒコの御魂神』と解釈を考えられ、『龍神』で有ります息長水依比賣命かその子とされます御井津姫を指す事に為ります。亦、別の解釈としては、宇迦之御魂とはウガヤフキアエズの御魂とも解釈されます。わたくしは、ウガヤは開花天皇と同一神と考えていますので、彦坐王やその妃息長水依姫に繋がり、可能性は有ります)、しかし、『烏ガヤ』と『葺き合えず』で解釈するべきでしょう。

 

百嶋系図でも、神大市姫とスサノオとの間にて、田川(鷹羽)郡香春町の辛(秦?韓?)国息長大姫大目命が儲けられた事になっています。

 

百嶋さまは、辛国息長大姫大目命の『大目』は『ウズメ』と解釈して、天宇受賣命アメノウズメ(古事記)天鈿女(日本書紀)の事であろう。とされています。

天宇受賣命は、『猿女命』とも謂い、古事記では、天照大神の岩戸隠れの場面と、ニニギ尊の天孫降臨の時に登場しています。

 

伊勢神宮外宮の『豊受大神』と、京都伏見稲荷の『宇迦之御魂神』と三重県鈴鹿市の椿大神社の『猿田彦命』の妻『猿女』は豊受姫=豊玉姫=罔象女と、同一人物である。とされ、和歌山県日前神社の鏡は、伊勢神宮外宮の『豊受大神』=『罔象女』が造った。と考えられる。と関連性を述べられています。

 

つづく。

 

 

 

 

 

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『継体天皇』の御陵は福岡にあった。内倉武久さま説を検討する。

2015-09-15 | 古代史

さて本日は、

我が息長氏(秋永氏)の先祖第26代継体天皇とその子であります第27代安閑天皇が九州(倭)で存在を考えられる。と謂うことが『内倉武久』さまによって発表されましたので紹介を致します。

『内倉武久』さまのブログ(うっちゃん先生の「古代史は面白いで」

013「継体天皇」の御陵は福岡にあった

014「継体天皇」の御陵は福岡にあった②。

015「安閑天皇の都」も北部九州にあった。

 

の3部を拝読しました。

 

013~014「継体天皇」の御陵は福岡にあった。の内容は

 

まず、記・紀に記す『磐井』と『継体天皇』の争いは北部九州倭での出来事であろう。と考えられ、「継体天皇」の埋葬地であります『三嶋の藍』の地名を従来の定説である大阪府高槻市安威(あい)の『今城塚古墳』に疑問をもたれます。

 

内部に納められた石棺のうち一つが九州の阿蘇溶結凝灰岩製で、九州からはるばる運ばれた石棺であることや、付近の古墳から出土している短甲などが南九州の地下式横穴墓の出土品と酷似していること、そして埴輪に九州の熊曾於(熊襲・隼人)族が持っていた相撲の風習を思わせる力士像があることから、こ の古墳群は熊曾於族、というか、九州から派遣された九州政権の官人の墓ではないかと疑問を呈しておられます。

 

つぎに、朝鮮の史書『東海諸国記』には「継体天皇」は16年壬寅みずのえとら(522年)に、初めて九州年号を建元した天皇である。と記録されている事を述べられ、「二中歴」も継体天皇から始まっている事を指摘されます。

{重要なのは、継体天皇は「九州 政権の年号を創始した天皇であろう」ということだ。ということは「継体天皇は九州の王であろう」と考えざるを得ないのである。}

{「継体天皇」は九州政権の王位をめぐる権力闘争の勝者だったと考えられるのだ。諡(いなみ=贈り名)はその戦いに勝ち、政権を簒奪して「跡を継いだ」から「継体天皇」とされたのだろう。}

{さらに『書紀』と『記』では天皇の名前が違う。『書紀』では「男大迹(おほど)」だが、『記』では「袁本杼(えんほんじょ?)で、とても「おほど」とは読めない。別人と考えるほかない」
と、「継体天皇は九州の王であろう」を元に「九州の継体天皇の本拠地」を考察されます。

 

和名類聚抄(和名抄)から「三嶋」の地名を見つけられます。場所は朝倉市上座郡です。

「藍」の場所についてはブログ本文より転写します。

 

「明治十五 年全国小字調べ」の福岡県分にあたってみた。するとなんとそこにはちゃんと大字「宮野」「大福」に小字「ミシマ」「三島ノ下」や「會(会=あい)」も記録されていた。「會」は「あひ」とルビ付きで二か所ある。「合の坂」もあった(『福岡県史資料』第七集)。ここが『古事記』にいう「三島の藍」である可能性 も高い。国名の「筑紫」がカットされていた可能性が考えられた。

旧朝倉町は筑後川中流域の北側に広がる街で、『書紀』には斉明〝天皇〟が白村江の戦い(六六二年)に参加するために中大兄皇子と滞在した「朝倉の宮」の所在地であると書く。

 

 

以上のように『三嶋の藍』の地名は筑前朝倉の地で認めることが出来る事を発見され、御陵に相応しい古墳として、直径80m程の国内最大級の円墳「長田大塚古墳」を比定地に考えられて居られます。

 

 

015「安閑天皇の都」も北部九州にあった。では、「継体天皇」の本拠地と御陵が朝倉に在ったのであれば、第27代安閑天皇の御所が気に為ります。内倉氏は次のように述べておられます。

 

『記紀』による と、「安閑」の都の名は「勾金の橋(箸)の宮」という。「『記紀』に記す天皇はすべて大和にいた」と勘違いしている国史学者らは「まがりのかなはしの宮」と読んで、奈良県橿原市曲川(まがりかわ)がその遺称地だと主張している。岩波書店の権威ある史料として名高い日本古典文学大系『日本書紀』や『古事記』もそう解説している。

しかし、都の名は「勾金(まがりかね、あるいは、まがりのかなはし)」であって決して「曲川」ではない。奈良県立橿原考古学研究所がこの周辺を発掘調査したが、それらしい遺構はまったく発見できなかった。当然の結果であろう。

宮内庁は安閑天皇の御陵を大阪府羽曳野市古市にある前方後円墳であるとする。しかし、ここには「安閑天皇」と古墳を結び付ける伝説など全くない。平安時代に作られた「延喜・諸陵式」の記載に基づいた指定である。「安閑」は大和にはいなかったのだからこれまた当然だ。

 

と謂う事で「安閑天皇」の都を朝倉の山向こうの田川(鷹羽)郡香春町勾金の事であろう。と次のように述べられます。

 

田川郡香春(かわら)町に「勾金(まがりかね)」の地名が残っている。『書紀』によれば、田川郡一帯は古くは「高羽」とか「鷹羽」という誇らしく雄大 な名の場所で、「豊(前)の国」に属する。熊曾於族の夏礎(なつそ)姫が君臨していたといい、「夏吉」という地名も残っている。

 

香春町一帯は銅な どの鉱物や石灰の一大産地として知られる。この地域のシンボル的山は香春岳である。郡内のあちこちから眺められる。三つの山塊が南北に並び、現在は上質紙の製造やセメントに使う石灰の産地である。一の岳(たけ)は山の頂上付近から順に採掘が進み、山塊は半分ほどに削られて今は見る影もない。「採銅所」の地 名もある。古来、宇佐八幡に奉納される鏡もここで造られてきた。

香春町の隣は田川市、大任(おおとう)町、赤村、川崎町で、北側は北九州市小倉南区である。大任、川崎町一帯は往古「桑原」と呼ばれた地域である。「安閑」がいた場所を探すには、『書紀』に記録された「屯倉」の所在地を探れば手っ取り早い。

それによると「安閑」は、この勾金のすぐ南側に「桑原の屯倉(みやけ)」を設置、赤村にも「我鹿(あか)の屯倉」、大任村に「喜原の屯倉」(『太宰府管内志』)を置いた。


さらに周辺の「穂波」「嘉麻」「滕崎(しつさき?)」「肝等(かとの?)」「大抜(貫)」にも置いたという。「大抜(貫)」は京都郡苅田町境いの小倉南区にある。

「みやけ」は「官家」とも書く。これは天皇家の直轄地とされる。「屯倉」は軍事的な施設で米などの食料や武器の貯蔵施設である。

「安閑」はこのほか「火の国」「播磨」「紀国」「尾張国」「駿河国」などにそれぞれ一、二か所屯倉を置いたという。が、なぜ田川郡とその周辺に屯倉が集中して置かれたのか。

 それは「安閑天皇」の都がここにあったからである、と考えざるを得ない。

 

本拠地周辺に軍事的な防衛施設を設けたり、緊急用の備蓄米などを置くのは古今の常識だ。大和にあったという都を守るのに、とんでもない遠地の九州に備蓄物資を置いてどうするのか。

 ただ『書紀』には奈良や大阪の小墾田(おはりだ)、桜井、茅渟(ちぬ)山にも屯倉を設けたと記される。国史学者らはこれら三か所の屯倉は、「大和政権の安閑」が身近に置いたものだろうと考えている。

「小墾田の屯倉」 についてはよくわからないが、「桜井の屯倉」が奈良の桜井市のどこかに置かれたとすると、話は違ってくる。この周辺の古墳からは九州製の石棺が数多く発見されている。たとえば慶雲寺古墳、ミクロ谷古墳、兜塚古墳などがそうだ。発掘調査が進めばもっと増えるだろう。しかも、当地には朝倉、三輪、海石榴市(つ ばきいち)など北部九州と同じ地名がたくさんある。要するにここにいたのは九州政権の人々であり、関西における拠点の一つであったと考えてよさそうな地域なのだ。

 

「茅渟山の屯倉」が置かれたのが大阪府和泉市周辺であるとすると、ここにいたのは紀氏と大伴氏、熊曾於族の内氏らであったらしい(『書紀』雄略紀・紀小弓の項など)。両方とも九州政権の中枢部にいた氏族である。

要するに「大和政権」とは関係のない「屯倉」であると断ぜざるを得ないのである。あるいは同じ地名がある九州内に置かれた「屯倉」かもしれない。国名を記していないからだ。

 

 『書紀』は同じ地名が各地にあるのを利用して、たくみに古来から列島の中心は大和・畿内にあったかのように記載している。わざと国名を記さず、国史学者らが北部九州の地名を奈良や大阪の地名であると勘違いするように仕向けている。歴代の国史学者らの「思い込み」による対応は実にずさんきわまりないといえよう。

と、従来の国史学者らの「思い込み」を糾弾され、正しい歴史を解明する為には洞察力が求められるようです。続いて、

 

「勾金」では整備された官庁街の遺構も発見されている。遠賀川水系金辺(きべ)川の支流のひとつ「御祓川(みはらいがわ)」の東側で発見された。浦松遺跡(写真 矢印。後方は香春岳一ノ岳。福岡県教委発掘調査報告書から)である。方向をそろえた大型建物の跡が少なくとも八棟分発見されている。貴人が住まったり、大極殿にも使われた庇(ひさし)付の建物跡もある。

出土した土器から、奈良時代の遺跡、とされている。しかし奈良時代にこのあたりに「官庁街」が建設されたというデータはなにもないし、その必然性もない。九州の土器は近畿の同じ形の土器より百五十年ないし三百年ほど古いことが放射性炭素(C14)の年代判定でわかっている(「太宰府は日本の首都だった」ミネルヴァ書房、ある いはインターネットブログ「うっちゃん先生の古代史はおもろいで」NO・5「九州の土器は古い」参照)。九州歴史資料館など九州の考古学研究者のなかにはこのことにことさら目をそらし、相変わらず土器による年代判定のみにこだわり、結果的に日々いかがわしい古代史像づくりに励んでいる人が多い。もちろんこ こ浦松遺跡でも理化学的な年代測定はいっさいされていない。

現在採用されている「土器による年代判定」は、古来九州は辺地であり近畿より文化度が低かった、という思い込みによる「年代判定」である。とんでもないことだ。放射性炭素の年代測定は全世界の物理化学界、考古学界が支持しているもっとも確実な年代測定法である。浦松遺跡は安閑の都の一部である可能性が高い。周辺の地下からは時折「巨木」が発見される。都への導水施設か建物の用材、あるいは何らかの防御施設の跡であろうと思われる。柱の残痕や木材を放射性炭素によって年代測定をすればすぐに時代が判明しよう。

大任町にある桑原神社の祭神のトップは「安閑天皇」だという。昭和三十一年、榊原宮司の覚え書きにはっきりと記載されている。安閑と神社を結び付ける伝説が今は伝えられているかどうかわからない。しかし、安閑がこのあたりに都を置き、かつ「桑原の屯倉」も置いていたという 『書紀』の記述からすれば、神社は安閑と深い関係にあったことが偲ばれる。

『書紀』によると 安閑は、三十五歳前後で若死にし、在位年数も二年ほどしかなかったらしい(注1)。九州から関東、東北までの支配権を「筑紫の君・磐井(いわい)」から奪った偉大な父親「継体」の跡を継いだものの、自らの勢力を構築する間もなく、この世を去ったらしい。継体が死ぬ直前に譲位されたとも書く。対外的な業績 はほとんどなかったようだ。

父親の「継体」の後ろ盾は熊曾於族の「三島の宿祢(すくね)」で、「継体」自身も熊曾於族ではなかったかと推察した(同ブログ)。『書紀』安閑紀にそれを裏付ける記述があった。国々に「犬養部(いぬかいべ)を置く」ように命令したという。なぜ「犬を養育する施設」を国ごとに置くよう命令したのか。おそらく熊曾於族がもっていた「犬祖伝説」を具体化し、犬を尊重する施策であろうと考えられる。ただ単に「犬好きの天皇」という理解では考えられない施策である。息子が熊曾於族なら、父親も当然熊曾於族であろう。

また、「安閑」の后(きさき)は春日山田皇女(はるひのやまだのひめみこ)という。国史学者らは「春日」を「かすが」と読んで、安閑が大和の奈良の春日と関係があるかのごとく考えている。

だが地図で見る通 り、勾金の西南、田川市に「春日町」「春日橋」「春日神社」、嘉麻(かま)市に「山田」の地名が残る。「山田」は朝倉郡や京都郡などにもあり、かなり広い地域をそう呼んでいたと思われる。「春日」の西南には「口春(くちはる)」という地名もある。「春日」への入り口、という意味である。であるから、ここの 「春日」は「はるひ」と読むべきではなかろうか。

『記紀』によればお后(きさき)は又の名を「山田の赤見の皇女」というという。「勾金」の南側、「赤村」との関係もありそうだ。ここには現在も「我鹿(あか)神社」が鎮座し、「我鹿の屯倉」が置かれたところでもある。

「春日」の東側一帯は古来「奈良(なら)」と呼ばれていた。「勾金」の東側も古来「大坂」と呼ばれ、「大坂山」(飯岳山)がある。その東側は「京都(みやこ)」と呼ばれる。

 関西の地名の多くは九州からもたらされたものであろう。中国、朝鮮に近く、権力の発生地でもあった九州から人々の移動にともなって、地名も関西、関東、東北へと広がっていったのである。この地域一帯に住んでいた人々が関西に進出し、そこに故郷の名前をつけたと考えられる。

后は三代前の「仁賢天皇」の娘であるという。事実であるとすれば当然、「仁賢天皇」もこの近くにいたことになろう。

田川、京都(みやこ)郡地域、「豊の国」は中国の史書に言う「倭国」の中心地のひとつであった可能性が高い。


と、締めくくられています。

 

 

わたくしは、継体天皇(袁本抒命)は越前福井に棲んでいたものと考えていましたので、衝撃を受け再考をしましたが、如何も内倉氏の考察は間違い無いものと思えます。

 

三嶋の藍』が朝倉上座郡三嶋にあり、継体が朝倉に居たのであれば、烏集院や宮野の地名や第37代斎明天皇(第34代舒明天皇=息長足日広額天皇の皇后)が行宮を置いたとされ、田主丸(和邇氏の本貫地)には秋永氏が(息長氏)が現在も存在しており腑に落ちます。

亦、『安閑天皇』が香春町勾金の周辺(浦松遺跡が大いに考えられます。)にいたのであれば、此処は天之御影神と息長水依比賣命=辛国息長大姫大目命の居た息長氏(秋永氏)の本貫地であり、当然の事と思えます。

東峰村は福井村と合併しており、『日本書紀』の『期年』の記述は藤原氏の捏造があったと考えられ、当てにはなりません。わたくしは、『期年』に付いては『古事記』を信じて考えるように勉めています。

 

 

元興寺伽藍縁起并流記資財帳には

大倭国(やまとのくに)の仏法は、斯帰嶋宮(しきしまのみや)にて天下を治めた天国案春岐広庭天皇『欽明天皇』の世、蘇我大臣稲目宿禰が仕えていた時、天皇在位七年戊午(538年)十二月に伝わった。とされ、逆算をしますと『欽明天皇』の即位は531年になり、斯帰嶋宮は久留米市大善寺玉垂宮の解釈になります。『欽明天皇』の和風諡号は天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらのみこと)となっており、此れは朝倉の広庭宮で産まれたと考える事が出来ます。何故なら、第37代斎明天皇(第34代舒明天皇=息長足日広額天皇の皇后)が行宮を置いた場所が『朝倉広庭宮』と呼ばれ、此処朝倉三嶋には父であります継体(袁本抒=息長氏=秋永氏)が居た場所であると考えれば、道理が適います。

 

継体が没した年が百済本記を参考にして日本書紀では『辛亥かのとい』(531年)に皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位し、その即位と同日に崩御したとされていますが、日本書紀の記述は信頼が出来ません。527年説もあり、はっきりしていません。

 

『古事記』には『丁未ひのとひつじ』(527年)と記され、此の年は『磐井の乱』が起こった年であります。百済本記では『日本の天皇及び太子・皇子倶に崩薨』とあり、此れは天皇と皇太子と皇子が次々に亡くなった。と解釈されます。

天皇は継体に相当し527年に崩御、皇太子は香春の勾宮に居た『安閑』で、皇子は大分葛木高田に居た『宣化』と想われ、此れは継体家に対する遺恨が暗殺(叛乱)として現れたものと考えられます。

《その後の考察による追補》

『宣化天皇』が居たのは『檜之隈宮』とされ、大分葛木高田では無く、佐賀県神崎市の『日隈』地区であった。と考えられます。神崎市教育委員会に訊ねますと、この地区には6世紀頃の100個以上の古墳が未掘で存在しており、今後調査の必要を感じている由、でありました。

佐賀県立博物館入口ロビーに置いてあります4世紀頃の石棺は日隈地区横の久保和泉に在ります熊本山から出土しています。此の久保和泉から日隈地区に掛けては大集落が在ったと考えられ、『丸』の名前が付く和邇氏の里であった。とも考えられます。今後の調査が待たれます。

 

欽明が531年に久留米市大善寺玉垂宮(斯帰嶋宮)で磐井の後を継いで天下が治まった。ものと考えられます。

 

継体の出自については、わたくしは、彦主人王ひこうしのおう(汙斯王)=継体の父は従来通りの説近畿近江高島市に居たものと解釈をします。

日本書紀の記述を信じますと、継体は福井県坂井市で育ち上がったものと考えられ、其処に九州から大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣巨勢男人らが近畿に遣って来た。と謂う解釈になります

ですから、20年もの間、倭(やまと)=九州に這入れなかった理由が腑に落ちるのです。

倭が近畿纏向に在って、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣巨勢男人らが福井県に迎えに行ったのであれば距離的・時間的にも可笑しな論理になり、研究者を納得させる事が出来ません。

 倭(やまと)は九州に在ったと考えざるを得ません。

 

と謂うことで、内倉武久さまの『継体は福岡に居た。』の考えは、間違いなく正しい解釈と思われ、古代史研究の大きな重要な発見であり、今後の研究に大きな成果を齎すと考えられます。

 

『やまと』の名称は福岡県山門郡(大善寺玉垂宮を含む)と、香春町~勝山黒田に並列状態で存在していたもの。と考えており、その後倭の大乱第2幕(神武=崇神東征)が起こり、日子坐王(=景行天皇=孝霊天皇)が大和の名称を近畿纏向に持ち込み(謂わば出張所)、懿徳・孝元・日子坐・安閑等々の居た香春のヤマトは藤原氏によって消され、人々から忘れられて、近畿の『大和』と福岡県の山門郡の『山門』が現在に残っているものと考えられます。

 

                        大分県ゆふいん温泉在住  秋永 祥治

 

 

 

 

 

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