「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

甘木朝倉に認められる『斯波氏』。

2013-04-17 | 古代史

応仁の乱(1467年~1477年)にて、室町足利幕府が弱体化して戦国時代へと向かい下克上の力の世界になりますが、其の時期に登場する姓氏に、斯波氏が有ります。一般には、足利泰氏が陸奥斯波郡(岩手県紫波郡)を所領としたのが始まりであろうと解釈されていますが、本当にその様に考えるべきでしょうか。この足利泰氏の時代は源頼朝前後の12世紀から13世紀であります。それ以前の時代は如何だったのでしょうか。

南北朝時代は、越前国守護職は斯波氏が任じられており、甲斐氏・織田氏・朝倉氏の三守護代が脇を支えていましたが、室町時代には甲斐氏と朝倉氏が台頭し、斯波氏と対立し斯波氏の領地三国を甲斐氏・織田氏・朝倉氏三氏で分け、応仁の乱では朝倉氏が甲斐氏を越前から遠江守護代に追い遣り、朝倉氏が越前守護職に就きますが、戦国時代には朝倉氏も織田氏に滅ぼされています。

 

わたくしには、此の「斯波氏」と「朝倉氏」の古代での関係を『甘木朝倉』にて認めることが出来ます。

ウィキペディアでは、

朝倉氏の出自は、開花天皇の皇子「彦坐命」となっており、

 

平成25年3月16日のブログで述べた通り、吉井~田主丸で生まれたと考えられる「彦坐命」と、場所が合致し、わたくしの考えを裏付けられ、理に適います。

『安(やす)の直(あたい)の祖』(甘木朝倉に夜須の地名があります。)とされる彦坐王の子である水穂之真若王の末裔が朝倉氏や斯波氏(どちらも息長氏の血が混じっている。)とも考える事が出来ます。

 

朝倉宗高が但馬養父郡朝倉に住したのは、平安時代末期とされ、それ以前は筑前甘木朝倉に居たと考えられます。朝倉の高木邑は天孫族の本貫地であり、優遇されるのは当然です。

「斯波氏」は、斎明天皇が斎明7年(661年)朝倉橘広庭宮の行宮を置いた場所近くに、「志波柿」で有名な「志波」の地名があり、天孫族名門「志波(斯波)氏」も此処から越前~陸奥に移住したもの。と考える事が出来ます。

実際は、足利泰氏から分かれた子が養子として天孫族名門斯波(志波)家に入り、斯波家氏を名乗り、子孫が後に室町幕府三管領家の筆頭となったものと考えられます。

また、甲斐氏も流れが菊池氏と佐野氏がありますが、どちらも九州阿蘇にルーツがあり、この阿蘇にある阿蘇神社は田川の辛國息長大姫大目命を祀っています香春神社とも関係が認められ(香春神社の元宮である古宮八幡神社は古くは『阿曾隈の社(あそくまのやしろ)』と呼ばれていた。とされ阿蘇神社は香春から阿蘇へ移動したと考えられています。)、神紋も一緒の『違い鷹羽』であります。(わたくしの家紋も『違い鷹羽』です。)此れも息長氏と関係を考えられ、越前に牧場騎馬技術者として移住して、斯波氏に重用されたものと考えられます。

この様に、姓氏を考える場合は、天孫族の移動の流れを汲み、関係を探る必要性を感じております。

 

 

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1 コメント

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ご連絡 (hiro)
2013-04-23 17:26:35
大分市の行政書士です。
先日はありがとうございました。
神武天皇が初代天皇にあらず
説明に驚きました。天之御中主神も
興味深い話でした。また湯布院に
卑弥呼が存在すればさらに湯布院が
活性化されますね。御研究がさらに
進みます事をお祈りしております。

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