「息長氏は秋永氏である。」の顛末記

秋永氏探求から紐解く日本古代史

ミカシキの場所を考える。

2016-10-31 | 古代史

わたくしの説では景行天皇(記紀では、崇神の子で長男の豊城入彦が景行=彦坐王の事を意味しているものと考えています。『豊城』の地名は田主丸に在り、此処は彦坐王が生まれた場所であります。『豊城入彦』は父崇神により東国を治めよ。とされ、上毛・下毛国=豊前を意味する。に追い遣られた人)と崇神天皇(記紀では、景行の一番下の弟『若木入日子』と記入されている。のが崇神天皇と考えられます。)

景行(兄)と崇神(弟)は歳の離れた母違いの兄弟で、大善寺玉垂宮で生まれた崇神は勝手に、イスラエルの『モリヤ山』の神を守る大臣オトド=神武天皇の役割の事。を意味します。(高良玉垂宮神秘書より)『伝承の神武天皇』(神カム=大昔より・ヤマト=倭に・イワレ=伝承している・ビコ=人)の名を騙り、博多湾~糸島の塩土老翁(=白氏=大幡主=地禄神=熊野フスミ神=神ムス日神)の話を聞いて登美の長髄彦=日子坐王(腹違いの兄)=和邇氏の縄張り地ヤマト豊前~田川を奪おうとします。

登美とは北九州苅田から行橋・豊前~香春町辺りを指し、苅田市には『富久町』、豊前市には『大富神社』が在り、古来は此の辺りを総称して『登美』と呼んでいたものと考えられます。(百嶋説も、富=登美の場所は豊前である。とされ、わたくしと同じです。)

田主丸町竹野媛から産まれた日子坐王は田川郡の『香春神社』にて祀られています辛國息長大姫大目命=息長水依比売命=天宇受賣命=スサノオの娘(スサノオは天之御影神として隠されているもの。と考えられます)=市祁島姫命=豊玉姫を娶り、景行天皇(日子坐王)は長髄彦命と同一人物であるとしています。

長髄彦命は、大國主命や多祁理比賣命とは相当な親子程の歳下の開きがあったものと考えられます。長髄彦は(日子坐王=景行)の妹=ミカシキ屋姫(わたくしの考えでは、妹は捏造と思っており、妻でありますミカシキ屋姫=多祁理比賣命で有った。ものと考えています。しかし、多祁理比賣命は以前には大國主命の妻でありましたので、隠されたものと考えられます。百嶋さまも神社考古学研究により、多祁理比賣命=市祁島姫は海幸彦=シナツ彦=草部吉見=日子坐王=景行=長髄彦と大國主命の妻に為っている。と述べられています。)

三炊屋媛ミカシキヤヒメは饒速日(=山幸彦=彦火火出見尊=私見では大國主命の事と思っています。)の妻となり、宇摩志麻遅を産んだ。と記紀では述べられています。宇摩志麻遅とは味鋤高日子根命である。事が推察されます。

三炊屋媛ミカシキヤヒメは、鳥見=登美屋媛トミヤヒメ・櫛玉比賣命クシタマヒメ(=多祁理比賣命と考えられます。)とも称され、『ミカシキ』の地名の場所は、

わたくしの妻(以前の姓は寺崎で、家紋は門光=木瓜=天皇家の紋章=わたくしの妻の父の弟が『荒穂神社』を代々司る筑紫氏に養子に入っていて、この人の先代が、大正天皇の教育係りを皇居で勤めています)の出身地であります基山町『三ヶ敷』の事であろう。と考えられます。

此の基山町の『三ヶ敷』ミカシキ周辺の通称『弥生が丘』には古墳が多数あり、文化財として数多く残されています。

わたくしは、この鳥栖市『弥生が丘』から基山町『三ヶ敷』地区に長髄彦=景行天皇が棲んでいたものと考えています。筑紫の熊襲退治の時に六年程居座った『高岡宮』とはこの地であろう。と思っています。因みに、わたくしの知人に、代々鳥栖市今町(弥生ヶ丘の東端)に棲んでおられます『鳥實大志とりみひろし』さまも居られます。家紋は『丸』=和邇氏を意味します。に一文字です。ミカシキ屋姫末裔と考えられます。

 

久留米市『斯帰嶋宮』にて治めた第29代欽明天皇(天国排開広庭天皇)(朝倉広庭宮出身)は、皇后に、佐賀県神崎市日隈~久保和泉地区(和邇氏地区)に棲んで居たと考えられます第28代宣化天皇の娘の『石姫』を娶り、第30代『敏達ビタツ天皇』を儲けます。

欽明の妃には、豊後出身の蘇我稲目の子であります『蘇我堅塩カタシ姫』(大分市東院に棲んでいたと考えられます。)との間にて、第31代『用明天皇』(別名、池辺皇子・橘豊日天皇・大兄皇子)と、第33代『推古天皇』(別名豊御食炊屋比売命トヨミカシキヤヒメ・額田部皇女・大大王)、を儲けます。

また、蘇我稲目の子であります『小姉オアネ君』(穴穂部=阿蘇高森地区~豊後竹田直入に棲んで居たと考えられます)との間にて『穴穂部間人皇女』(後の第31代用明天皇の皇后に成ります。聖徳太子の母で、一時期『蘇我馬子』の暗殺を避けて京都府宮津市間人タイザに逃げていた)・『穴穂部皇子』(後に、皇位を望み『敏達』の皇后の額田部=推古を襲い、物部守屋と手を結びますが、蘇我馬子に殺されます。)・泊瀬部皇子(生まれは阿蘇~直入で、育ちは朝倉広庭宮と推察出来ます。後に第32代崇峻天皇に為りますが、蘇我馬子から殺されます。)

第三皇女であります推古天皇(豊御食炊屋比売命トヨミカシキヤヒメ)は、豊後大分東院か佐賀県基山町ミカシキで生まれ、幼少時を豊後の後宮(東院=母の里『蘇我堅塩カタシ姫』=蘇我氏の里=志賀氏の里)で過ごしていたのもと考えられます。

そして、豊後向原の後宮(東院トイ)を出た後、基山町『ミカシキ』にて育った。のかも知れません。関係が勘繰られます。

わたくしの説では、蘇我氏は志賀氏=志摩氏=斯末氏=百済25代武寧王に繋がる一族の事で、武寧王は筑紫の加羅島で生まれたとされ、此れは、わたくしの秋永氏集落の傍に在ります田主丸町『唐島』の事であろうと考えられます。高良玉垂宮神秘書には『志賀氏』とは『アントンイソラ=安曇の磯良』の事と述べられています。如何も元は物部も蘇我も安曇族で、一緒であったものと想われます。穴穂部とは阿蘇のカルデラ=高森を指し、泊瀬部とは筑後川『長田の堰瀬』がある朝倉山田広庭宮(恵蘇八幡神社近辺の志波地区辺り)と思われ、額田部皇女(後の推古天皇)は、第29代欽明天皇の第二皇子の第30代敏達天皇(別名、他田天皇)の皇后と為って、竹田皇子を儲けます。敏達天皇(別名、他田天皇)は河内磯長中尾陵に葬られた。とされ、この場所は大阪府南河内郡太子町とされ、大方の研究者は鵜呑みにして信じておられますが、わたくしの考えでは、福岡県香春町に『河内』の地名があり、傍には『秋永=磯長=息長』の地名が在ります。ので、この香春町~大任町附近の古墳に埋葬されているものと考えています。

 

先代旧事本紀にて宇摩志麻遅命=味間見命(味鉏高日子根命=大國主命と多祁理比賣命が儲けた人。の事と考えています。長髄彦=景行天皇が登美=豊前~行橋~黒田~香春で仕えていたのは宇摩志麻遅命、即ち味鉏高日子根命の事と想われます)が饒速日命(私見では、大國主命=魏志倭人伝中の爾支ニキ=ヌシ?と、同一人物と考えていて、倭(九州)の大君=君長=ヌシ=大王で有ったと思っています)の残した天璽瑞宝十種を神武(崇神)天皇に献上し、『足尼』の冠位を神武(崇神)から頂き、娶ったのは『活眼邑の五十呉桃の娘、師長姫(息長姫=秋永姫)』と記されており、この活眼邑の場所は久留米市山本町耳納附近で在ったと考えられます。何故ならば、此処には『活眼神社』(山本町耳納1314番地)が在ります。(『宝賀寿男』さまの卑弥呼の居所の山本町豊田考察が頭を過ぎります。)

わたくしの説では、崇神の子であります活眼入日子(第11代垂仁天皇)は久留米地区出身である。としています。そして天之御影神=五十呉桃=スサノオ=豊玉彦が連想されるのであります。

山本町の隣であります草野町には、立派で格式高い『須佐能袁神社』が在ります。(此処にも猿氏が纏わり憑きます。)草野(古来の呼び名はカヤノ=伽耶野と呼んで欲しいと百嶋由一郎さまは述べられています。)から田主丸へ架けては、秋永氏の集落地区が、大橋地区・以真江地区の2箇所あります。後は山本町地区の秋永清さま兄弟だけです。佐賀地区では。多久市納所地区に秋永氏集落地区があり、和邇氏(丸の紋章)の広がりは東西にゆふいん~日田~浮羽・田主丸~鳥栖~吉野ヶ里~小城・多久・武雄まで在ったものと考えられます。

当然、倭の大乱で和邇氏の『吉野ヶ里』から『日の隈』地区集落を攻めたのは博多湾~大善寺玉垂宮・有明海~玉名・熊本方面の南北ラインを固めたと考えられます、亀甲紋章派=崇神・大幡主・大国主派でありましょう。『吉野ヶ里遺跡』は『和邇氏の里』と捉えるべきです。

 

推古天皇が即位しました豊浦宮とは、下関市に在ります神功皇后(息長帯比賣命)所縁の『穴門豊浦宮』と考えられ、蘇我氏(志賀氏=志摩氏=斯末氏とも呼ばれていたものと考えられます。博多湾の『志賀の島』や『糸島=怡土・志摩』にも名を残しています。志摩には桜井神社があり、蘇我氏の縄張りであったものと想われます。)は豊後~筑紫~有明海~瀬戸内~鹿児島(阿多)を船にて闊達に往来していた事が伺い知れます。

崇峻天皇ゆかりの朝倉の広庭宮(志波柿=志波垣宮=柴垣宮)にも竹田皇子(敏達と推古の子であります。第30代敏達は、佐賀県神崎市日ノ隈宮に居たと考えられます第28代宣化天皇と皇后であります『橘仲皇女』の子で有ります『石姫』と『第29代欽明天皇』(久留米斯帰嶋宮=大善寺玉垂宮)との間の子です)伴に来ていた。と考えられます。

と、謂うことは、朝倉には竹田皇子や推古も埋葬されている事が考えられます。(推古は小墾田宮=豊後古国府と考えられます。で崩じた。とされていますが生前に、先に亡くなった竹田皇子の墳墓と一緒の場所に埋葬を望んだ。とされて、『磯長山田陵』に埋葬した。とされていますので可能性があります。)恵蘇八幡宮(朝倉市山田)に在ります『御所山1号・2号古墳』は、『竹田皇子・推古』親子の墳墓とも想われます。もし、その考えが当たっていれば、第37代斉明天皇が西暦661年朝倉広庭宮に行宮を設けた理由が紐解けます。朝倉は多くの天皇皇族が関わった重要な場所と考えられます。

 

長髄彦=景行天皇時に述べられた、三炊食屋媛の『ミカシキ』と推古天皇(豊御食炊屋比賣命)時代の『ミカシキ』の関係は、欽明天皇が久留米大善寺『斯帰嶋宮』で存在していれば、鳥栖~基山~田川~豊後で繋がり、自然であります。欽明は亡くなった後の陵は、『檜の隈坂合陵』と記されてあり、欽明天皇は、朝倉『長田大塚古墳』に埋葬されている。ものと考えられます。

 

 

 ≪その後の調査での補追≫

推古天皇(豊御食炊屋比賣命)が居たと考えられます『小墾田宮おはりだのみや』、大分市『古国分ふるごう』を調査しましたら、古国府バス停の看板の傍に『高良神社』が在り、此れは父で有ります欽明天皇が治世を行った。と思われる久留米市『高良神社』と関係が感じられます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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