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白鵬時代の終わり

2016-08-03 04:16:33 | 身辺雑記

白鵬は白鵬という人間であるように見えるが、白鵬という役割の姿。横綱というものはそういうものではないか。行司さんはどなたであるにしろ、木村正之助なり、式守伊之助である。白鵬は相撲舞台の横綱役なのだ。後の先の相撲を取った双葉山を理想として、そこを目指すと常々公言していた姿はその横綱の台詞である。しかし、最近は後の先の相撲どころか、先の先の相撲を取っている。立ち合いのやり直し注意が相次いでいる。かちあげで脳震盪でよろけて土俵を割った相手をダメ押しまでする。何故、このようになったのかは、勝ち負けにこだわりすぎる結果である。実は1年ほど前に白鵬は急激に衰えたのだ。今は衰え焦った結果、なりふり構わず勝相撲に徹する道を選んだ。横綱役を捨てたのだ。そしてまた優勝をするようになった。この選択を見ると白鵬がモンゴル人らしい世界観に生きていると感ずる。砂漠の民の、厳しい世界観である。人間白鵬は1番の強者を貫けば、自分が評価されるはずだと信じているようだ。

白鵬は確かに強い横綱である。歴史上最強の一人である。横綱朝青竜を思い起こすような悪役横綱になってきている。これは残念なことだ。荒っぽい本性を抑制してここまで来たなかなかの役者だったのに、残念なことだ。稀勢の里はいざという時に負けてしまう。私はそれでいいのだと思う。勝つだけが相撲ではない。どれほど一生懸命でも、いざとなると緊張で力が出なくなるというのも、人間らしくて良いではないか。日本人横綱が居なくなって久しいもので、つい日本人横綱を待ち望む声は当然ではある。もう少し相撲を味わい楽しむ空気で、横綱に見事に挑戦し続ける大関役稀勢の里として、立派な力士として評価しておくのがいい。素晴らしい横綱挑戦を何度でも見せてくれることに満足したい。一番の強者だけでは相撲は出来ない。それではひとり相撲だ。

大相撲はそもそも、神事に始まるもので、自然神に感謝し奉納するものであった。勝ちとか、負けとかはそもそも意味をなさない行事の意味が根底にある。江戸時代興行として、発展し、芸能勝負という事が登場した。神事に基づく相撲全体を楽しむものとして完成したものである。お伊勢参りや富士講が江戸の庶民の夢だったことと同じで、神様を忘れずに掲げて置いて、別個に楽しむという遊興である。だから、それぞれの役を忘れてもらっては、見るものとして困るのだ。負けても潔い横綱を素晴らしいとついこの前まで見ていたのだ。確かに、今の日本はそういう風潮は薄れたのかもしれない。大鵬、柏戸の時代、勝てない柏戸の評価も、大鵬以上に立派だと結構評価が高かった。柏戸の土俵態度が負けても潔く立派だというのだ。それもあって、勝ち続ける強い横綱大鵬と、同等に評価されたのだと思う。もう負け方が見事だなどという空気は日本から失われたのかもしれない。散る桜を愛でる日本人。

白鵬は先の先で生きるだろう。そうせざる得ない精神状態の中に生きている。それでも勝てなくなってやめる時は来る。どれほど強い人間でも、終わりは来る。そして今までより長い人生が待っている。何を日本の相撲を通して学んだかである。オリンピックが始まる。世界中のスポーツ選手が一堂に競う。その見事さを見れるだけでも幸せである。日本選手の活躍を思うと今からドキドキする。スポーツというものは人間の極限へ向かうすばらしさが表現される。そこへ、ロシア選手の国ぐるみのドーピングという話が出てくると、何とも情けない。一番だけを求める醜さが浮き上がる。日本でも金メダリスト候補が、賭博でオリンピックに出られなかった現実を忘れない方が良い。ああした事件が、オリンピックの興味を減じている。スポーツで人間の道を突き詰める姿がみれれば、金メダルでなくても充分に素晴らしいことだ。

追記、横綱白鵬のことのように書いたが、実は総理大臣安倍晋三氏の話である。

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