ジャック・デリダの「声と現象」を興味深く読んでいる。
現象学のフッサールを題材にしているために、ハイデガーになれたわたしとしては、あまり抵抗無く読める。さらに、記述された文字としてのロゴスとしての言語ではなく、発声される言語の表象作用と概念化という観点から現象というものを取り扱っているので、それはそもそも最近個人的にはまっている時枝誠記そのものの内容であるがために、理解は容易である。おそらくこの「声と現象」は、時枝誠記の「国語学原論(正および続編)」の二冊に書かれてある内容のうち、日本語固有の文法的内容以外についてはほぼ同じ内容が語られている。
また、ジャックデリダは、その「声と現象」の中で、ソシュールの言語理論との対応についても書いているが、「国語学原論」において時枝誠記が執拗に反論していたソシュールとはまったく異なる、どちらかと言えば、むしろ時枝と同じ理論とも思える思えるソシュールが見えてくる。偶然ではあるがソシュールとフッサールは、2歳違いであり、そうした時代的影響というのは無視できないと思われる。
現象学においては、発声される前に表象される概念が現象に対応するのであって、これについてジャック・デリダはフッサールについてあらゆる角度から哲学的反省的考察を加えている。
---------------------------------------
こうしたことはあまりないことである。まあ、予期せぬプレゼントのようないわゆるサプライズであって、ジャック・デリダを理解したついでに、フッサールの現象学と、ソシュールの言語学も理解し、ついでに時枝誠記の「国語学原論」における言語過程説がジャックデリダの「声と現象」における心的過程あるいはそれ以降の表出外化とほぼ正確に対応することが理解できた。一挙に4人の思想の本質をつかんだことになる。
それにしても、デリダと時枝はその基礎となる理論は互いの書物を読んだとしか思えないぐらいに似通っている。そして、基礎理論が酷似しているがゆえに、彼らがそれにもとづいて展開する思想内容は、それぞれ日本語とヨーロッパの言語の差異を際立たせている。
(・・・そのように最初は思ったのですが、やはりデリダと時枝の2人では時枝の方が遥かに上を言っていることがわかりました。これについては、後述します。)
---------------------------------------
さて、ジャック・デリダの思想は決して難しくない。というよりも、非常にうまい表現をするものだと感心している。これは、ジャン・ボードリヤールや、ミシェル・フーコーなどを読んだときも感じたことであったが。もちろん、翻訳のうまさということはあるのだと思うが、独特の表現はドイツ哲学の重々しさとは違う、詩的な文学的な雰囲気の中で読む哲学もまんざらではない。サルトルが嫌いだったので、フランス哲学というのを長い間避けたきたのだが、フランス哲学の主流である構造主義、ポスト構造主義はおしゃれな感じがいい。そう感じるのは、カタカナに直したとしても独特のフランス語の気品ある語感が伝わってくるからかも知れない。
---------------------------------------
しかし、いつも思うことだが優秀な日本人は大勢いるなぁ、ということである。ジャック・デリダの30年前に、時枝誠記がジャック・デリダの哲学の原点となるような思想を構築していたのだから。そして、この同じ思想をもった2人がおそらくは哲学と国語学というまったく交流のない分野において、それぞれに活躍をしたということの偶然には驚くばかりである。
思想的な同期というのは、東洋西洋の差はあっても生じえる、ということのひとつの証明を見た気がする。
かつて、釈迦、孔子、ソクラテスの活躍した時期の奇妙な一致について不思議に感じたものであった。目に見えない糸が縦横無尽に張り巡らされ、遠く離れた人と人とをもつなぎ合わせているのかも知れない。
---------------------------------------
ところで、ジャックデリダの「声と現象」において面白い考察がある。
ひとつは、存在とその表象としての概念とさらにこの概念に対応させられる言葉の問題である。存在に独自の表象であり、またその概念化である内容は言葉として表出されて、他人にその内容を追体験させることができるのだが、この言葉そのものが実はすでに特異な存在を表現するものではないこと、つまり、たとえば、「経験」という言葉であれば、その経験が異なるものであったとしても存在の特異な現前のうち、その特異性を取り除いた形でしか言葉になりえないこと、そのために、存在のいきいきとした現前性は声にした途端に死んでしまう。そこに、存在と言葉の間に差異がうまれ、言葉の位相における脱構築に引き込まれるのである。
そうすると、実は、存在は言葉化された途端に死んでしまう。そして、それを他者に伝えるときには逆のプロセスを経て、もとのリアルないきいきとした存在に戻ればいいが、実際には、脱構築された言葉が作り出す虚構を逆プロセスを通じて追体験するだけである。
このような考察はいかにもデリダらしい考察である。
---------------------------------------
さて、もうひとつは時間の点性についてである。次に示す例はわたしの創作であるが、流れる川を考えると今という問題がとてもよくわかると思われる。岸に時間をおいたときには、その流れる川は一瞬をもって過ぎ去るから<今>は一瞬で過ぎ去る一点である。しかし、流れる川の一点に自らを置けば、<今>は無限に続く一点である。時間を過ぎ去るというように考えること事態が時間の通俗化であって、手帳にのみ存在する時間にしか過ぎない。明日の午後3時から打ち合わせがあったとする。そして、当日の午後3時から1時間の打ち合わせが終われば、その<今>は過ぎ去ってなくなってしまうのである。意識とは、手帳にある今ではなく、川の流れとともにある今であり、そういう今が存在を持ち続けるのである。すなわち、存在は変わりつつあるが、しかし、存在は間近に現前するのである。
デリダがこだわるのは、過去にあって体験されたいきいきと体験されるものと、それが時間をへて過去のものとして認識されたものの差異である。ここにおいても、上記と同様の差異があらわれ、また、時間というものを組込んだ形での脱構築へ引きづりこまれる。つまり、いきいきとして現在する過去からそれが記憶なった現在へ、そして記憶となった過去を現在から遡っていきいきとよみがえらせてそれを死んだ言葉へ表出する、その移行のたびごとに脱構築されるのである。デリダにとっての時はそのようなものである。
----------------------------------------
さて、さきほど、デリダよりも時枝理論の方が優れていると書いたが、その理由を以下に書いていこうと思う。
デリダをいくら読んでも、本当に必要な具体的な話は一切出てこなかった。そして、基礎理論という意味では、デリダが書いていることは、あるいはさらにフッサールが現象論として書いてきたことは、すでに、仏教における理論である阿毘達磨などで2000年以上も前に明らかにされていた。したがって、新しいことは何もないと言っていい。
それに対して、時枝理論は、言語過程説、あるいは心的過程説というものを踏まえて、具体的に日本語文法を作り上げている。このために、時枝理論を学ぶことは、そのまま日本語の文章を最高度の深さと正確さで読めるようになることを意味する。
時枝理論がしばしばソシュールを誤解しているというようなことが書かれているが、よくよく考えてみたら、誤解はしていないことがわかる。ソシュールは、ラング(語彙や文法)というものを軸に言語を理解できるという。しかし、時枝はラングは言葉に表出するプロセスの結果であり、原因ではないとする。この点においてソシュールを徹底的に批判する。そのとおりだと思う。
実際、ソシュールにもとづく考え方で書物を読んでも何の知識も得られない。橋本文法をいくらひっくり返しても書物に書かれた内容の意味や価値を読み取ることができないのと同様である。書かれている言葉はなんとか日本語としてわかる。しかし、その書物を書いた著書の意図はわからない、というレベルでの読解のサポートしかなし得ない。
しかし、時枝にもとづく考え方で書物を読むと、著者の意図や表にでていない本音あるいは無意識の中、さらにはその時代的背景なども含めて洗いざらい読み解くことができる。つまり、さきにも書いたにように日本語で書かれた文章を最高度の深さと正確さで読めるようになるのだ。
---------------------------------------
effectiveな理論つまり、効きのいい理論すなわちすばらしい言語理論という短絡的なことにはならないだろうが、すくなくとも、言語学を分析の道具にして、宗教、哲学、芸術、芸道、歴史、などを紐解こうと思うものにとっては、効きのよくないソシュールやデリダそれにフッサールの理論は分析対象にはなったとしても、それを道具として使う気にはならない。という意味で、時枝に軍配が上がるのである。
---------------------------------------
そんなことをつらつら考えながら、ノーム・チョムスキーの生成文法や認知言語学なるものをwikipediaで勉強したが、どうも、これらの理論は日本語対応していないのと、西洋における認識論がベースになっているので、これまた言っては申し訳ないのだが、子供だましの科学もどきにか過ぎないようである。認識論は、世界の歴史を見渡しても先の阿毘達磨がダントツであることは世界の常識であり、なぜ、西洋人のままごとのような理論を勉強して喜んでいるのか日本の研究者の気がまったく知れない。なにより英語においてさえまだ中途半端な理論にしか過ぎないのに、膠着語的表象しかできない日本人研究者が屈折語特有の表象を前提とした認識言語学を発展展開できるはずもない。どの分野にいっても日本人はこうした愚かことをしているのだが、しかし、こうした翻訳や外来思想の累々たる導入実績が蓄積することによって、現在の日本語のような優れた言語ができたことを考えると、まあそれも必要悪と納得できないでもない。
---------------------------------------
たまたまわかりやすいのでこういう言い方をするが、マルクス的な言い回しをするならば、上部構造的なものはとにかくも日本人が徹底的に得意である。お家芸である。いき、わび、さび、風流、やぼ、・・・などのような芸術の価値を評する言葉をこれだけ持っている民族は皆無であろう。そして、日本人のほとんどがこれらの価値を意識することなしに味わうことができるのである。そして、西洋人は、どちらかというと、下部構造が得意である。政治、経済、宗教、防衛、その他システムと名のつくようなものは、西洋人のお家芸でもある。
実は、フランス哲学者は、あまり深読みに耐えられないということについて最近気がつき始めていた。だからこそ、浅田彰が若くしてそれを紹介するような書物をかけた訳で(わたしはまだ読んでいないが)、ボードリヤールとフーコーで結構満腹になっていた。哲学というよりは、ビジネス書でも読んでいるような軽さである。そして、今日、ジャック・デリダを読んで、ジャックおまえもかー、という感想を持つに至った。
内容は立派なのだが、なんかeffectiveではないのだ。それは、ヨーロッパの哲学者の書物全般に言えることかもしれない。読み物としては漫画的な面白さがあるのだが、実際にあまり役立ちそうな感じがしない。いや、そもそも、西洋においては哲学というものはそういう位置づけだったのかも知れない。
ギリシア哲学から、現代のドイツやフランス哲学にそのままつながっているような印象をもっているが、実は、途中でイスラム帝国ができたおかげで、ギリシア哲学はイスラム哲学に吸収されている。イスラム哲学に偏見をもっている訳ではないが、善悪二元論から離れることのできないかの砂漠の民族の深みのないことは知っている。結局、ジャック・デリダという見かけはフランス風哲学でおしゃれだが、香水で体臭を消しているだけで、香水がなければ臭かった、というような感想をもっただけに終わったが、デリダというとやたら難しい印象があっただけに、これを骨の髄まで理解できたという感触を持てたことは満更ではない。
理解した内容は、「デリダは饒舌である」ということだけであった。西洋哲学というものはどうやらそういうものらしい。常に知的好奇心を満足させてはくれるが、心を満足させてくれない。
現象学のフッサールを題材にしているために、ハイデガーになれたわたしとしては、あまり抵抗無く読める。さらに、記述された文字としてのロゴスとしての言語ではなく、発声される言語の表象作用と概念化という観点から現象というものを取り扱っているので、それはそもそも最近個人的にはまっている時枝誠記そのものの内容であるがために、理解は容易である。おそらくこの「声と現象」は、時枝誠記の「国語学原論(正および続編)」の二冊に書かれてある内容のうち、日本語固有の文法的内容以外についてはほぼ同じ内容が語られている。
また、ジャックデリダは、その「声と現象」の中で、ソシュールの言語理論との対応についても書いているが、「国語学原論」において時枝誠記が執拗に反論していたソシュールとはまったく異なる、どちらかと言えば、むしろ時枝と同じ理論とも思える思えるソシュールが見えてくる。偶然ではあるがソシュールとフッサールは、2歳違いであり、そうした時代的影響というのは無視できないと思われる。
現象学においては、発声される前に表象される概念が現象に対応するのであって、これについてジャック・デリダはフッサールについてあらゆる角度から哲学的反省的考察を加えている。
---------------------------------------
こうしたことはあまりないことである。まあ、予期せぬプレゼントのようないわゆるサプライズであって、ジャック・デリダを理解したついでに、フッサールの現象学と、ソシュールの言語学も理解し、ついでに時枝誠記の「国語学原論」における言語過程説がジャックデリダの「声と現象」における心的過程あるいはそれ以降の表出外化とほぼ正確に対応することが理解できた。一挙に4人の思想の本質をつかんだことになる。
それにしても、デリダと時枝はその基礎となる理論は互いの書物を読んだとしか思えないぐらいに似通っている。そして、基礎理論が酷似しているがゆえに、彼らがそれにもとづいて展開する思想内容は、それぞれ日本語とヨーロッパの言語の差異を際立たせている。
(・・・そのように最初は思ったのですが、やはりデリダと時枝の2人では時枝の方が遥かに上を言っていることがわかりました。これについては、後述します。)
---------------------------------------
さて、ジャック・デリダの思想は決して難しくない。というよりも、非常にうまい表現をするものだと感心している。これは、ジャン・ボードリヤールや、ミシェル・フーコーなどを読んだときも感じたことであったが。もちろん、翻訳のうまさということはあるのだと思うが、独特の表現はドイツ哲学の重々しさとは違う、詩的な文学的な雰囲気の中で読む哲学もまんざらではない。サルトルが嫌いだったので、フランス哲学というのを長い間避けたきたのだが、フランス哲学の主流である構造主義、ポスト構造主義はおしゃれな感じがいい。そう感じるのは、カタカナに直したとしても独特のフランス語の気品ある語感が伝わってくるからかも知れない。
---------------------------------------
しかし、いつも思うことだが優秀な日本人は大勢いるなぁ、ということである。ジャック・デリダの30年前に、時枝誠記がジャック・デリダの哲学の原点となるような思想を構築していたのだから。そして、この同じ思想をもった2人がおそらくは哲学と国語学というまったく交流のない分野において、それぞれに活躍をしたということの偶然には驚くばかりである。
思想的な同期というのは、東洋西洋の差はあっても生じえる、ということのひとつの証明を見た気がする。
かつて、釈迦、孔子、ソクラテスの活躍した時期の奇妙な一致について不思議に感じたものであった。目に見えない糸が縦横無尽に張り巡らされ、遠く離れた人と人とをもつなぎ合わせているのかも知れない。
---------------------------------------
ところで、ジャックデリダの「声と現象」において面白い考察がある。
ひとつは、存在とその表象としての概念とさらにこの概念に対応させられる言葉の問題である。存在に独自の表象であり、またその概念化である内容は言葉として表出されて、他人にその内容を追体験させることができるのだが、この言葉そのものが実はすでに特異な存在を表現するものではないこと、つまり、たとえば、「経験」という言葉であれば、その経験が異なるものであったとしても存在の特異な現前のうち、その特異性を取り除いた形でしか言葉になりえないこと、そのために、存在のいきいきとした現前性は声にした途端に死んでしまう。そこに、存在と言葉の間に差異がうまれ、言葉の位相における脱構築に引き込まれるのである。
そうすると、実は、存在は言葉化された途端に死んでしまう。そして、それを他者に伝えるときには逆のプロセスを経て、もとのリアルないきいきとした存在に戻ればいいが、実際には、脱構築された言葉が作り出す虚構を逆プロセスを通じて追体験するだけである。
このような考察はいかにもデリダらしい考察である。
---------------------------------------
さて、もうひとつは時間の点性についてである。次に示す例はわたしの創作であるが、流れる川を考えると今という問題がとてもよくわかると思われる。岸に時間をおいたときには、その流れる川は一瞬をもって過ぎ去るから<今>は一瞬で過ぎ去る一点である。しかし、流れる川の一点に自らを置けば、<今>は無限に続く一点である。時間を過ぎ去るというように考えること事態が時間の通俗化であって、手帳にのみ存在する時間にしか過ぎない。明日の午後3時から打ち合わせがあったとする。そして、当日の午後3時から1時間の打ち合わせが終われば、その<今>は過ぎ去ってなくなってしまうのである。意識とは、手帳にある今ではなく、川の流れとともにある今であり、そういう今が存在を持ち続けるのである。すなわち、存在は変わりつつあるが、しかし、存在は間近に現前するのである。
デリダがこだわるのは、過去にあって体験されたいきいきと体験されるものと、それが時間をへて過去のものとして認識されたものの差異である。ここにおいても、上記と同様の差異があらわれ、また、時間というものを組込んだ形での脱構築へ引きづりこまれる。つまり、いきいきとして現在する過去からそれが記憶なった現在へ、そして記憶となった過去を現在から遡っていきいきとよみがえらせてそれを死んだ言葉へ表出する、その移行のたびごとに脱構築されるのである。デリダにとっての時はそのようなものである。
----------------------------------------
さて、さきほど、デリダよりも時枝理論の方が優れていると書いたが、その理由を以下に書いていこうと思う。
デリダをいくら読んでも、本当に必要な具体的な話は一切出てこなかった。そして、基礎理論という意味では、デリダが書いていることは、あるいはさらにフッサールが現象論として書いてきたことは、すでに、仏教における理論である阿毘達磨などで2000年以上も前に明らかにされていた。したがって、新しいことは何もないと言っていい。
それに対して、時枝理論は、言語過程説、あるいは心的過程説というものを踏まえて、具体的に日本語文法を作り上げている。このために、時枝理論を学ぶことは、そのまま日本語の文章を最高度の深さと正確さで読めるようになることを意味する。
時枝理論がしばしばソシュールを誤解しているというようなことが書かれているが、よくよく考えてみたら、誤解はしていないことがわかる。ソシュールは、ラング(語彙や文法)というものを軸に言語を理解できるという。しかし、時枝はラングは言葉に表出するプロセスの結果であり、原因ではないとする。この点においてソシュールを徹底的に批判する。そのとおりだと思う。
実際、ソシュールにもとづく考え方で書物を読んでも何の知識も得られない。橋本文法をいくらひっくり返しても書物に書かれた内容の意味や価値を読み取ることができないのと同様である。書かれている言葉はなんとか日本語としてわかる。しかし、その書物を書いた著書の意図はわからない、というレベルでの読解のサポートしかなし得ない。
しかし、時枝にもとづく考え方で書物を読むと、著者の意図や表にでていない本音あるいは無意識の中、さらにはその時代的背景なども含めて洗いざらい読み解くことができる。つまり、さきにも書いたにように日本語で書かれた文章を最高度の深さと正確さで読めるようになるのだ。
---------------------------------------
effectiveな理論つまり、効きのいい理論すなわちすばらしい言語理論という短絡的なことにはならないだろうが、すくなくとも、言語学を分析の道具にして、宗教、哲学、芸術、芸道、歴史、などを紐解こうと思うものにとっては、効きのよくないソシュールやデリダそれにフッサールの理論は分析対象にはなったとしても、それを道具として使う気にはならない。という意味で、時枝に軍配が上がるのである。
---------------------------------------
そんなことをつらつら考えながら、ノーム・チョムスキーの生成文法や認知言語学なるものをwikipediaで勉強したが、どうも、これらの理論は日本語対応していないのと、西洋における認識論がベースになっているので、これまた言っては申し訳ないのだが、子供だましの科学もどきにか過ぎないようである。認識論は、世界の歴史を見渡しても先の阿毘達磨がダントツであることは世界の常識であり、なぜ、西洋人のままごとのような理論を勉強して喜んでいるのか日本の研究者の気がまったく知れない。なにより英語においてさえまだ中途半端な理論にしか過ぎないのに、膠着語的表象しかできない日本人研究者が屈折語特有の表象を前提とした認識言語学を発展展開できるはずもない。どの分野にいっても日本人はこうした愚かことをしているのだが、しかし、こうした翻訳や外来思想の累々たる導入実績が蓄積することによって、現在の日本語のような優れた言語ができたことを考えると、まあそれも必要悪と納得できないでもない。
---------------------------------------
たまたまわかりやすいのでこういう言い方をするが、マルクス的な言い回しをするならば、上部構造的なものはとにかくも日本人が徹底的に得意である。お家芸である。いき、わび、さび、風流、やぼ、・・・などのような芸術の価値を評する言葉をこれだけ持っている民族は皆無であろう。そして、日本人のほとんどがこれらの価値を意識することなしに味わうことができるのである。そして、西洋人は、どちらかというと、下部構造が得意である。政治、経済、宗教、防衛、その他システムと名のつくようなものは、西洋人のお家芸でもある。
実は、フランス哲学者は、あまり深読みに耐えられないということについて最近気がつき始めていた。だからこそ、浅田彰が若くしてそれを紹介するような書物をかけた訳で(わたしはまだ読んでいないが)、ボードリヤールとフーコーで結構満腹になっていた。哲学というよりは、ビジネス書でも読んでいるような軽さである。そして、今日、ジャック・デリダを読んで、ジャックおまえもかー、という感想を持つに至った。
内容は立派なのだが、なんかeffectiveではないのだ。それは、ヨーロッパの哲学者の書物全般に言えることかもしれない。読み物としては漫画的な面白さがあるのだが、実際にあまり役立ちそうな感じがしない。いや、そもそも、西洋においては哲学というものはそういう位置づけだったのかも知れない。
ギリシア哲学から、現代のドイツやフランス哲学にそのままつながっているような印象をもっているが、実は、途中でイスラム帝国ができたおかげで、ギリシア哲学はイスラム哲学に吸収されている。イスラム哲学に偏見をもっている訳ではないが、善悪二元論から離れることのできないかの砂漠の民族の深みのないことは知っている。結局、ジャック・デリダという見かけはフランス風哲学でおしゃれだが、香水で体臭を消しているだけで、香水がなければ臭かった、というような感想をもっただけに終わったが、デリダというとやたら難しい印象があっただけに、これを骨の髄まで理解できたという感触を持てたことは満更ではない。
理解した内容は、「デリダは饒舌である」ということだけであった。西洋哲学というものはどうやらそういうものらしい。常に知的好奇心を満足させてはくれるが、心を満足させてくれない。










