愛染明王信仰の興隆と白河法皇

愛染明王の信仰が平安時代の白河院政期に興隆した歴史的背景と愛染法について新出史料も交えて解説。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

白河院の御子の僧侶達

2010-09-28 20:10:57 | Weblog
白河院の御子の僧侶達
愛染明王と直接の関係は無いのですが、白河法皇との関連でその御子息の僧侶たちについて少し書いてみます。天皇家の詳しい系図を記した書物としては後小松天皇(1377―1433)の命を受けて洞院(とういん)満季(みつすえ)が編纂した『本朝皇胤紹運録』が有名ですが、他に『系図纂要』第一「神皇」も大変役に立ちます。『系図纂要』の旧版は写真製版のやゝ見づらい本でしたが、近年になって活字翻刻の見やすい本が出版され随分と便利になりました。
それらに依って白河院(1053―1129)の子息で僧侶になった方々を概観すると、仁和寺に覚行・覚法・聖恵の三法親王、寺門すなわち三井寺(園城寺)に行慶大僧正・円行法眼・静証阿闍利の三人であり、大変な偏りがあるのが分かります(他に系図に記載されていませんが醍醐の覚観阿闍利がいます)。それは当時の日本最大の寺院である山門すなわち比叡山延暦寺と南都の興福寺に全く子供達を入寺させていない事です(三井寺の僧侶は天台僧ですから本寺は延暦寺になります)。簡単に云ってしまえば、母親の身分が比較的高い男子は仁和寺、母親の出自が低い子は三井寺と機械的に割り振りをしたようです。とにかく露骨な山門無視が目に付きます。
白河天皇が実質的に善仁(たるひと)親王(堀河天皇 1079―1107)を除くすべての男子を僧侶にしたのは、皇位継承に関わる紛糾を避けて直系相続にこだわったからでしょう。是は父君の後三条天皇が兄弟間の皇位継承を重んじたのと好対照を成しています。後三条院には三人の皇子達がおられましたが、位を白河天皇に譲った時に弟宮の実仁親王(1071―85)を皇太子とし、更に実仁の次には輔仁(すけひと)親王(1073―1119)に位を譲るように遺言したと伝えられていました。白河院は皇太子実仁が亡くなった時に父帝の遺言を無視して幼い堀河天皇を即位させましたが、その後も輔仁親王の存在に頭を悩まし続けていたようです。
さて以下個別に白河院御子の僧侶達に付いて記しますが、仁和寺の三親王と行慶僧正に関しては辞典類にその経歴等が記載されていますから、ここでは出来るだけ視点を変えて述べてみたいと思います。
〈1〉覚行法親王(1075―1105)
此の人は出家時の師僧「大御室(おゝおむろ)」性信(しょうしん)に対して「中(なか)御室」と称されます。母親は藤原経平(1014―91)の娘である典侍(ないしのすけ)経子です。経平の家系は有職(ゆうそく)故実に詳しい事で知られ小野宮右大臣と称された藤原実頼の流れを汲む名門ですが、経平自身は大宰大弐(だざいのだいに)・従三位(じゅさんみ)という控えめな職位に止まりました。しかし娘の経子が白河天皇に愛されて男子を儲(もう)けた事にも依るのでしょう、子息の通俊(1047―99)は白河院の近臣として重用(ちょうよう)され権中納言にまで成っています。また経子の姉は同じく院の近臣として著名な藤原顕季(1055―1123)の妻となり長実等の子を生みました(長実の娘に鳥羽院皇后の美福門院がいます)。
さて覚行が生まれた時に、白河天皇には既に中宮藤原賢子(1057―84)の所生である敦文親王(1074―1077)がおられました。賢子の実父は右大臣源顕房ですが関白藤原師実の養女となり、中宮として申し分のない家系であったと云えます。若しこの親王が順調に成長していれば間違いなく白河天皇から位を譲られて次の天皇に成っていたでしょうが、病弱のせいか纔(わずか)四歳で早逝されました。それでも覚行には依然として親王宣下は無く、その中承暦三年(1079)七月に後に堀河天皇となる善仁親王が生まれました(中宮賢子の所生)。此の親王もあまり丈夫な方では無かったのですが何とか成人すると見込まれたのでしょう、永保三年(1083)十月になって覚行は僧侶となるべく仁和寺に入りました。
そして二年後の応徳二年(1085)二月十九日、仁和寺北院に於いて大御室性信より仏戒を授けられて出家し、法名覚恵(又は覚念)を称しました。覚行はその後の改名です。しかし性信は同年九月に入滅しましたから、本格的な仏法の受法は無かったと云えます。それでも十一歳の覚行は翌十月に性信の跡(あと)を継いで仁和寺「寺務」に任命されました。寺務と云うのは一寺の最高責任者のことで、寺に依り、又同じ寺でも時に依り、別当・座主・長吏・検校などとその名称を異にします。仁和寺の場合は検校が寺務になる事が多く、特にその寺務を「御室」と称した事はよく知られている通りです。
勿論わずか十一歳の覚行に寺の経営ができる訳はありません。覚行を補佐して実質的に寺務職を荷ったのは性信の付法弟子であり観音院僧都と称された寛意(1054―1101)です。寛治六年(1092)三月十九日、覚行は仁和寺観音院に於いて此の寛意僧都から伝法潅頂を受けました。寛意は観音院流の祖とされていますから、覚行は大御室性信の門跡を伝領したものの、真言法流に於いては観音院流を相承した事になります。
ところで覚行は寛意に潅頂入壇する前に、朝廷から「一身阿闍利」を拝命しています。この場合の阿闍利とは、密教の相承者と云うような一般的な意味では無く、寺院に設置された特定の職位(しきい)を指しています。阿闍利職は当初天台系寺院の密教指導者として設けられていましたが、後には東寺(真言)系寺院にも普及して、時代が下がると僧綱位と同様に名誉職に近いものに成ります。それは兎も角、阿闍利職は原則として寺院に付属するものですが、今の覚行のように特例として貴顕の子弟には個人に与えられる場合があり、それを称して一身阿闍利と云います。
亦康和元年(1099)正月十三日、覚行は出家の身でありながら親王の宣下を蒙りました。是は僧侶にして親王の身分を帯する「法親王」の初例であり、王権を宣揚すると共に旧来の慣習に捉われない白河院政の特徴がよく出ていると云えるでしょう。猶覚行の戒師性信も三条天皇の皇子として親王宣下を受けていましたが、性信の場合は親王の身で出家したので「入道親王」と称し、厳密には法親王とは言いません。入道親王の例として、古くは皇太子を廃されて弘法大師空海の弟子になった高丘親王(法名真如 799頃―865―)、宇多天皇の第三皇子で法三宮(ほうさんのみや)と称された真寂親王(886―927)の場合があります。
康和四年(1102)七月十一日、堀河天皇御願の尊勝寺が完成して覚行法親王は供養導師を勤め、また同日に尊勝寺長吏に任命されました。それ以前に後三条天皇御願の円宗寺と白河天皇御願法勝寺の検校に成っていましたから、覚行は三代天皇の御願寺の寺務職を兼務するという僧侶としてかつて無い高い地位と名誉を享受しました。このような仁和寺寺務の法親王を諸僧より一際(ひときわ)抜きん出た高い地位に就けて王権を誇示するという白河法皇の宗教政策は、後に北院御室と称された守覚法親王(1150―1202)の代に至ってその頂点に達したと云えるでしょう。
同年八月七日、親王として既に三品に叙せられていた覚行は二品を賜りました。このように如何に皇族とは云え、僧侶を親王にして品位を授け在俗の親王と同様に遇する事は、俗事を遠離(おんり)して「出家」する事の重要性を説いた仏の教えに対するあからさまな挑戦である事は疑いありません。同じ頃、関白藤原師実(1042―1101)もその子弟の多くを僧侶にしていました。実には白河院が堀河天皇以外の男子を総て僧侶にしたのも師実に対抗する意図があったのでしょう。師実の子息の僧侶には興福寺に覚信・玄覚・尋範の三僧正(三人とも別当に成っています)、天台座主の仁玄・行玄両僧正、三井寺の聖護院増智僧正などがいます。天皇(上皇)・摂関の多くの子弟が大寺院に入寺して寺務職等の枢要の地位に就いた事は、「世俗の秩序」が寺院社会の中に持ち込まれた事を意味し、是れ以後日本の仏教寺院の世俗化に拍車がかかる事に成ります。
覚行法親王が宮中或いは仁和寺に於いて、天皇・上皇の御願成就の為に盛んに孔雀経法・愛染王法等の御修法(みしほ)を修した事は言うまでもありません。しかしながら不幸短命にして法流伝授の実を挙げる事ができませんでした。その事が仁和寺史に於ける覚行の位置をやゝ微妙なものにしています。
〈2〉覚法法親王(1091―1153)
一般に「高野御室」の名で知られる覚法の母親は右大臣源顕房の娘師子(1070―1148)です。すなわち師子は白河天皇最愛の中宮賢子の実の妹でありました。常識的に考えて不可解なのは、師子が白河院の子を懐妊しながら藤原忠実(1078―1162)の許に嫁いだ事です。忠実は摂政師通の長男であり、師実の孫に当たります。それはさて置き、此の時に師子が生んだ子供が覚法です。師子と忠実の間には後に摂政・関白を歴任して法性寺殿と称された忠通(1097―1164)が生まれますが、忠通にとって覚法法親王は母系の実兄に当たる訳です。
『御室相承記』の「高野御室」の巻に依れば、覚法は康和五年(1103)八月に白河院の御所である高松殿の東壇所に移り、以後出家するまで此の所を住所としました(高松殿は亦室町御所とも称されたようです)。翌る長治元年(1104)七月十一日、覚法は仁和寺成就院に於いて御室覚行から仏戒を授けられて出家しました。此の時の法名は真行でしたが、後に行真と改め、更に覚法と改名したのです。本来重要な出家の儀は「御室の御本房」である北院に於いて成されるべきなのですが、同院は前年に火災のために焼失していたので使用できなかったのです。また同年十月二十四日には南都で具足戒を受けています。
ところが師僧の覚行が長治二年(1105)十一月に入滅した為、伝法潅頂を受けてその法を継承する事が出来ませんでした。天仁二年(1109)四月二十九日、観音院潅頂堂に於いて覚法は大御室性信の付法弟子である法印大僧都寛助(1057―1125)から伝法潅頂を受けました。後に成就院大僧正と称されるようになる寛助はその法験が評価されて世に「法の関白」とも称されました。そうするとさしずめ御室覚法は「法の天皇」に当たるのでしょう。それは兎も角、寛助とそれに続く覚法の時代に仁和寺は大いに発展して、同じ頃活躍した定海大僧正の醍醐寺や寛信法務の勧修寺ともども、今まで天台宗に圧倒されていた弘法大師の法流(是を総体として「東寺」と云います)が隆盛する機運を醸成しました。
覚法の真言受法に関してもう一つ言及しなければならない事があります。それは白河法皇が自ら最も信頼を寄せていた鳥羽僧正範俊(1038―1112)の法を覚法に相承させようとした事です。範俊は仁海僧正が建立した小野曼荼羅寺の門跡を成尊僧都から引き継ぎ、醍醐の義範僧都(1023―88)と並んで小野法流の継承者と目されていました。覚法は範俊から受法したのみならず、その最後の時に曼荼羅寺の付属を受けました。こうして有名な小野経蔵の収蔵品はその多くが法皇の鳥羽殿に移され、又覚法も秘密聖教の一部を仁和寺にもたらしました。
さて覚法に対して天仁二年(1109)に一身阿闍利の宣下があり、天永三年(1112)十二月には親王の宣旨がありました。その後円宗寺長吏、法勝・尊勝両寺検校(尊勝寺は堀河天皇御願)、更には鳥羽天皇御願の最勝寺長吏などの寺務職を賜りましたが、此の間仁和寺の寺務には寛助が任命されていました。寛助僧正が入滅した後、ようやく天治二年(1125)三月一日になり覚法は仁和寺検校(寺務/御室)と成りましたが、此の時に弟宮の聖恵(しょうけい 1094―1137)が同寺別当に成っています。また大治二年(1127)正月十三日には大御室性信の例に倣って二品に直叙(じきじょ)されました(覚行法親王の場合は三品を経ています)。
源師時(1077―1136)はその日記『長秋記』の中で二品法親王覚法の事を「天下第一の僧」と称えていますが、それは必ずしもこうした外面的な肩書だけに依るものではありません。覚法はその徳行が評されて修した天皇・上皇御願の御修法は数知れず、また同様に御願の堂塔供養の導師を勤めたことも枚挙に暇(いとま)ありません。是等に付いては前に言及した『御室相承記』に逐一記されています。
久安五年(1149)三月、覚法は仁和寺の検校職を辞し、替って世上「五宮(ごのみや)」と称されていた鳥羽院皇子の覚性親王(1129―69)が新しい寺務に就任しました(それでも依然として覚法が御室と呼ばれていました)。覚性(当時の法名は信法)は既に同三年(1147)四月十日、本師の覚法親王から伝法潅頂を受けていたのです。しかし覚法から見てまだ若くて実績に乏しい覚性の将来には気になる存在がありました。それは堀河天皇の皇子で後に大僧正にまでなった仁和寺別当の花蔵院宮寛暁(1103―1159)です。
仁平三年(1153)八月に近衛天皇の病気平癒の御祈りとして寛暁が孔雀経御修法を行う事になり、寛暁は鳥羽院の内諾を得て覚法から御室が相伝している弘法大師本尊絵像と御筆孔雀経を借り出そうとしました。若し是を許して寛暁が御修法で効験を示せば是が先例となって同じ事態が繰り返されるでしょう。それは取りも直さず若い覚性の将来を危うくする事に他なりません。覚法は苦慮の末に一計を案じました。
そもそも孔雀経法は一宗の秘法として東寺長者が修すものとされていましたが、一方に於いて大御室性信以後は仁和寺御室が修す真言御修法の代名詞の如くになっていました。それには今述べた所の寛暁が借り出そうとした本尊・本経が深く関わっていたのです。覚法の場合、前記『長秋記』の天承元年(1131)八月二日の条に興味深い記事があります。即ちその頃病気がちであった覚法を見舞う為に記者の師時が仁和寺を訪れたところ、宮は(自身の病気平癒の為に)、「累代の孔雀明王を懸け、大師自筆の同経を開き、戸を閉めて自行」に余念が無かったと記しています。
さて覚法が寛暁の申し出を断る為に案じた一計というのは起請文(きしょうもん/誓約書)を作って相伝の本尊道具を門外不出にする事でした。即ち八月十九日付で起請文を書き、相伝の孔雀明王絵像を「高祖大師一生持念の御本尊」と称して御室支配の喜多院(北院)の門外に出すことを禁じ、自身に加えて信法(覚性)にも署名させました。そうしておいて寛暁には本尊等は既に宮(覚性)に付属してあると答えました。そこで寛暁が宮に問い合わせると覚性は、件の本尊道具は御室覚法に依って蔵に封が付されているからと云って貸し出しを断りました。(此の事に付いて詳しくは『日本の美術 No.508 孔雀明王像』p.28~を見て下さい。)
最後に覚法の母親源師子に対する孝心について一言しましょう。師子は関白藤原忠実の正室として従一位にまで昇叙されていましたが、長承三年(1134)十月に中川(なかのかわ)上人実範(?―1144)を戒師として出家し、その後康治元年(1142)三月に仁和寺の中に御堂と住房を造営しました。覚法親王は母親の為に私財を喜捨して丈六(阿弥陀如来)像を作って安置し、その孝心を示しました。また同年十一月六日には母親の尼御前の為に仁和寺の自坊に於いて一切経の供養を行うなどしています。
覚法は仁平三年(1153)十二月六日に遷化し、遺言に依って高野山の勝蓮花院に於いて葬儀が行われました。


(字数制限を考慮して以下は別投稿とします。)
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 愛染明王を説く経典儀軌の事 | トップ | 白河院の御子の僧侶達(続き) »

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事