愛染明王信仰の興隆と白河法皇

愛染明王の信仰が平安時代の白河院政期に興隆した歴史的背景と愛染法について新出史料も交えて解説。

白河院の御子の僧侶達(続き)

2010-09-30 19:00:43 | Weblog
白河院の御子の僧侶達
〈3〉聖恵法親王(しょうけい 1094―1137)
世に花蔵院宮(けぞういんのみや)或いは長尾宮と称された聖恵の母親は、参議藤原師兼(1048―76)の女子です。師兼は、御堂関白道長の子息である右大臣頼宗の孫であり、また承保元年(1074)に参議になれたのは母方の祖父大納言源隆国の推薦に依るものでした。惜しい事に師兼はその翌々年に早逝しましたが、このように聖恵の母親の出自は申し分なく立派なものでした。
長治元年(1104)九月二十四日、聖恵は中御室覚行から仏戒を授けられて出家し、同年十月二十四日に東大寺で具足戒を受けました。その後天永三年(1112)九月二十一日、聖恵は仁和寺観音院に於いて法印大僧都寛助から伝法潅頂を受けました。また同年中に一身阿闍利の宣下を受けています。詳しい月日は分からないのですが、中御室覚行の例から考えて入壇前の事でしょう。
保安四年(1123)十二月三十日には親王の宣を蒙り、大治二年(1127)三月十九日には三品に叙されています。
大治五年(1130)には高野山に参詣して六月には引摂(いんじょう)院を造立供養していますが、在山中に興教大師覚鑁上人(1095―1143)を紹介されてその伝法院建立という志の実現に協力した事はよく知られています。『霊瑞縁起』という鎌倉後期に成立した古い上人の伝記によれば、大治五年二月に華蔵院宮聖恵が高野に登山した際、覚鑁は阿波上人青蓮房を介して宮に面謁を許され宿願の仏堂建立の事を語った。聖恵が覚鑁上人の素意について鳥羽上皇に奏聞(そうもん)した所、上人は院参を許されて上皇に自らの宿願を申し述べた。上皇は勅願として仏堂を建立すべき院宣を発し、同年四月八日に(小)伝法院が完成した等と記されています。実に是が鳥羽院の帰依を得て上人が栄光の年月を送る発端となったのです。
さて兄の法親王に比べると真言御修法に於いても、亦堂塔の供養に於いても、聖恵法親王の影が薄いのはやむを得ない事でしょう。それでも聖恵は広沢六流の中に数えられる花蔵院流の開祖として真言宗史にその名を輝かしています。仁和寺花蔵院に付いてはその創建の事など詳しい事は分からないのですが、共に東寺の加任長者にもなった延尋(992―1049)・済延(1012―71)両僧都が住した事で知られる由緒ある子院です。聖恵の次にはその付法弟子であり、覚法法親王の項で言及した堀河天皇の御子寛暁大僧正(1103―59)が院主になりました。長承元年(1132)九月二十一日、聖恵親王が孔雀経法の賞によって牛車(ぎっしゃ)の宣旨を蒙った時、寛暁も亦法眼から法印に昇叙されています。
保延三年(1137)二月十一日に聖恵は入滅しましたが『中右記』同日の条で藤原宗忠は、
午の時、仁和寺の長尾宮三品聖恵法親王が入滅した。年は四十四歳であった。やんごとなき(素晴らしい)真言の師匠であった。また持経者(経典をよく読誦できる人)でもあった。母親は今も生きている。故宰相(参議)師兼の娘である。
と記してその死を悼んでいます(実に宗忠は師兼の甥に当たります)。
〈4〉行慶大僧正(1102―65)
平等院或いは桜井大僧正と称された行慶の母親は備中守源政長(―1097)の娘です。政長の家系は宇多源氏です。政長は蔵人頭(くろうどのとう)を務める程実務に堪能な人でしたが、亦音楽に大変な才能があり堀河天皇の郢曲(えいきょく/俗曲)と笛の師範でもありました。行慶の母である政長の女子は『尊卑分脈』によれば「白河院の官女」でした。同書の注記に亦「御寵女 桜井僧正の母」と記されています。序でながら覚法・聖恵両親王の潅頂入壇の師である寛助大僧正は源政長の甥に当たります。また政長の他の娘は白河院弟の輔仁親王との間に仁和寺の信証僧正(1088―1142)を儲(もう)けています。
行慶は最初平等院大僧正と称された三井寺(園城寺)の行尊(1055―1135)の室(へや)に入って得度しました。行尊は天台座主にもなった高僧として亦歌人としても有名ですが、大峰・葛城・熊野の各山で抖藪(とそう)の修行を重ねて修験道の発達に大きな功績を残した人です。しかし行尊は生涯に一度も弟子の為に潅頂壇を開く事はありませんでした。
長承二年(1133)二月十六日、行慶は三井寺法輪院に於いて鳥羽僧正覚猷(1053―1140)から伝法潅頂を受けました。覚猷も白河法皇の寵僧として栄達を極め天台座主にまで成った人ですが、智証大師が秘蔵した三井寺唐院の密教図像類を研究するなど院政期の仏教に大きな業績を残しています。また行慶は一身阿闍利であった事が確認できますが、恐らく仁和寺の法親王と同じように入壇に先立ってその宣を受けたと考えられます。
同四年(1135)正月九日、行慶は本師行尊の譲りを受けて難波(なにわ/大阪)の(四)天王寺別当に任命されました。是は同寺の別当職が師資相承により譲補(じょうふ)された初例であるとされています。また他に白河法勝寺の別当にも成っていますが、上司の寺務検校は腹違いの兄の御室覚法であった訳です。更に仁平二年(1152)には三井寺長吏に成りました。しかし行慶にとって一番輝かしい経歴は近衛・後白河・二条と三代にわたって天皇の護持僧を勤めた事でしょう。
一方『寺門伝記補録』第十三の行慶伝によれば、平治元年(1159)に行慶は修験道鎮護の為に三井寺金堂の近くに熊野三所の社殿を作り、十一月十一日に遷座供養を行いました。このように本師行尊の薫陶を受けて、行慶も亦修験道の興隆に熱心であったようです。
ところで『本朝皇胤紹運録』『系図纂要』共に「桜井」と「狛(こま)」を行慶の通称としているのですが、是がどうも腑に落ちません。行慶以降、この桜井なる通称で呼ばれる寺門系の高僧が何人も出る事から、大和国桜井郡にあった寺院の名称に間違いないでしょう。しかしそれに相当する寺院に付いて具体的にはほとんど分からないのが実情です。桜井には天台宗の大寺院である多武峯(とうのみね)寺(現在の談山神社)がありましたが、是は山門系の僧徒が支配していたようであり、今問題の「桜井」とは関係ないと思われます。「狛」に付いても鎌倉中期の園城寺長吏道智(1217―69)がやはり狛僧正と称されていて寺院の名称に違いないと思われますがよく分かりません。
行慶の伝記で注意すべき事に後白河院(1127―1192)との関係があります。それは『寺門伝記補録』に、「後白河上皇は行慶大僧正を招いて胎蔵・金剛両部の大法と諸尊の儀軌をお受けになり、御持仏堂の壇上に大僧正の絵像を懸けて一日も欠かさず朝暮のお勤めをされた」等と述べている事です。後白河院の御出家は嘉応元年(1169)六月の事ですから既に四年前に行慶は亡くなっていて、上皇が行慶から両部大法を伝受した事などまずあり得ません。実際には後白河法皇受法の師僧は行慶の潅頂弟子である常喜院法印行乗(1125―84)であり、行乗の名が余り知られていない事と潅頂入壇の師である公顕大僧正(1110―93)の事とが重なって『補録』の誤伝に成ったと考えられます。
行慶は生涯に十人の弟子に伝法潅頂を授けましたが、その中に道恵法親王(1132―68)がいます。この人は鳥羽院の六宮(ろくのみや)で最初覚猷の室に入って出家し、一身阿闍利の宣下を受けた後わずか十九歳で久安六年(1150)に行慶から潅頂を受けています。その後天王寺の別当職を師から譲られ、また親王宣下を受けて三井寺の長吏にも成っています。このように鳥羽院政の後期には、一身阿闍利に加えて若年の潅頂入壇、親王宣下、大寺院の寺務職や勧賞の優遇などといった「法親王制の成立」が顕著に見られるのです。
〈5〉円行法眼(生没年未詳)
『系図纂要』に母親は陸奥(みちのく)守源有宗の娘であると記されています。有宗は村上源氏で為平親王(952―1010)五代の孫に当たります。円行に付いては他に三井寺の僧であり法眼に叙された事が分かる位です。寺門系僧侶の詳しい潅頂入壇記録である『伝法潅頂血脈譜』にも円行の名を見出す事は出来ません。
〈6〉静証阿闍利(生没年未詳)
静証は御室戸(みむろと)宮或いは羅惹(らじゃ)院と称された園城寺の僧ですが、『本朝皇胤紹運録』『系図纂要』共に母親に関する記載はありません。しかし『伝法潅頂血脈譜』には御室戸大僧正隆明(1019―1104)の潅頂資として静証が記されており、「白河院御子 仁証と同母」という注記があります。
此の仁証(1079―1134)も東南院法印と称された三井寺の僧であり、京極摂政藤原師実(最初の覚行法親王の項で言及しました)の子息です。仁証は静証と同じく公伊法印(1052―1134)の潅頂弟子であり、母親に付いては『尊卑分脈』に「(源)顕房公の女(むすめ)」と記されていますが定説は無いようです。『分脈』の頭註に「『今鏡』を按ずるに(師実子で興福寺別当の)尋範(尋覚)に同じ」と云いますが、是が亦ややこしいので此れ以上の言及を控えます。若し母親が顕房の娘であれば、白河院は賢子中宮と師子(覚法法親王の母)の他にもう一人別の顕房の娘を愛していた事になります。
静証は隆明から三井寺唐院で潅頂を受けましたがその年月日は分かりません。白河・堀河両天皇の護持僧を勤めた隆明は三井寺羅惹院に住して、晩年には長吏職にも就いています。通称から判断して静証は隆明から御室戸寺と羅惹院の両方を譲られたらしいのですが、僧歴の方は一介の阿闍利に止まりました。恐らくは早逝したのでしょう。
〈7〉覚観阿闍利(生没年未詳)その他
覚観の名は『本朝皇胤紹運録』にも『系図纂要』にも見出すことは出来ませんが、小野流の潅頂記録である『伝法潅頂師資相承血脈』や『続伝燈広録』等に依れば、白河院の御子でありながら左大臣藤原家忠(1062―1136)の子として養育されたようです。覚観の母親に付いては何の手懸りもありません。家忠は京極摂政師実二男であり左右大将を歴任しましたから、覚観は「大将阿闍利」なる通称で呼ばれました。
『続伝燈広録』は覚観を広隆寺の僧としていますが確認できません。比較的詳しい事が分かるのは、大治三年(1128)十二月三日に醍醐寺の無量光院に於いて勝覚僧正から伝法潅頂を受けた事です。その時の職衆(しきしゅ/伴僧)は二十人で、醍醐に於ける潅頂としては大変な盛儀であったと云えます。
覚観の僧暦も僧綱に入ること無く凡僧の阿闍利で終わったのですが、意外に思えるのは『師資相承血脈』に十九人もの覚観付法資を列記している事です。非常に優れた仏法の器(うつわ/人材)でありながら早逝したらしいのです。(覚観に付いて知りうるのは大体以上の程度ですが関連史料等に興味のある方は拙著『日本密教人物事典』上巻の「覚観」の条を参照して下さい。)
最後に「その他」と云うのは、三井寺の『伝法潅頂血脈譜』の公伊法印弟子「尊観」に「白河院御子〔云々〕」と注記が施されているのが目に付いたからです。尊観(生没年未詳)に付いては『血脈譜』によれば、心輪房と称し若狭守藤原通宗(―1084)の子である事、公伊から保安五年(1124)正月二十二日に潅頂を受けた事、若狭已講(わかさのいこう)と呼ばれていた事、などが知られます。
果たして尊観が白河院の御子なのかどうか判断のしようも無いのですが、注意すべきは藤原通宗は大宰大弐経平の子であり、覚行法親王の母経子や中納言通俊と兄弟姉妹である事です。

(以上)


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白河院の御子の僧侶達

2010-09-28 20:10:57 | Weblog
白河院の御子の僧侶達
愛染明王と直接の関係は無いのですが、白河法皇との関連でその御子息の僧侶たちについて少し書いてみます。天皇家の詳しい系図を記した書物としては後小松天皇(1377―1433)の命を受けて洞院(とういん)満季(みつすえ)が編纂した『本朝皇胤紹運録』が有名ですが、他に『系図纂要』第一「神皇」も大変役に立ちます。『系図纂要』の旧版は写真製版のやゝ見づらい本でしたが、近年になって活字翻刻の見やすい本が出版され随分と便利になりました。
それらに依って白河院(1053―1129)の子息で僧侶になった方々を概観すると、仁和寺に覚行・覚法・聖恵の三法親王、寺門すなわち三井寺(園城寺)に行慶大僧正・円行法眼・静証阿闍利の三人であり、大変な偏りがあるのが分かります(他に系図に記載されていませんが醍醐の覚観阿闍利がいます)。それは当時の日本最大の寺院である山門すなわち比叡山延暦寺と南都の興福寺に全く子供達を入寺させていない事です(三井寺の僧侶は天台僧ですから本寺は延暦寺になります)。簡単に云ってしまえば、母親の身分が比較的高い男子は仁和寺、母親の出自が低い子は三井寺と機械的に割り振りをしたようです。とにかく露骨な山門無視が目に付きます。
白河天皇が実質的に善仁(たるひと)親王(堀河天皇 1079―1107)を除くすべての男子を僧侶にしたのは、皇位継承に関わる紛糾を避けて直系相続にこだわったからでしょう。是は父君の後三条天皇が兄弟間の皇位継承を重んじたのと好対照を成しています。後三条院には三人の皇子達がおられましたが、位を白河天皇に譲った時に弟宮の実仁親王(1071―85)を皇太子とし、更に実仁の次には輔仁(すけひと)親王(1073―1119)に位を譲るように遺言したと伝えられていました。白河院は皇太子実仁が亡くなった時に父帝の遺言を無視して幼い堀河天皇を即位させましたが、その後も輔仁親王の存在に頭を悩まし続けていたようです。
さて以下個別に白河院御子の僧侶達に付いて記しますが、仁和寺の三親王と行慶僧正に関しては辞典類にその経歴等が記載されていますから、ここでは出来るだけ視点を変えて述べてみたいと思います。
〈1〉覚行法親王(1075―1105)
此の人は出家時の師僧「大御室(おゝおむろ)」性信(しょうしん)に対して「中(なか)御室」と称されます。母親は藤原経平(1014―91)の娘である典侍(ないしのすけ)経子です。経平の家系は有職(ゆうそく)故実に詳しい事で知られ小野宮右大臣と称された藤原実頼の流れを汲む名門ですが、経平自身は大宰大弐(だざいのだいに)・従三位(じゅさんみ)という控えめな職位に止まりました。しかし娘の経子が白河天皇に愛されて男子を儲(もう)けた事にも依るのでしょう、子息の通俊(1047―99)は白河院の近臣として重用(ちょうよう)され権中納言にまで成っています。また経子の姉は同じく院の近臣として著名な藤原顕季(1055―1123)の妻となり長実等の子を生みました(長実の娘に鳥羽院皇后の美福門院がいます)。
さて覚行が生まれた時に、白河天皇には既に中宮藤原賢子(1057―84)の所生である敦文親王(1074―1077)がおられました。賢子の実父は右大臣源顕房ですが関白藤原師実の養女となり、中宮として申し分のない家系であったと云えます。若しこの親王が順調に成長していれば間違いなく白河天皇から位を譲られて次の天皇に成っていたでしょうが、病弱のせいか纔(わずか)四歳で早逝されました。それでも覚行には依然として親王宣下は無く、その中承暦三年(1079)七月に後に堀河天皇となる善仁親王が生まれました(中宮賢子の所生)。此の親王もあまり丈夫な方では無かったのですが何とか成人すると見込まれたのでしょう、永保三年(1083)十月になって覚行は僧侶となるべく仁和寺に入りました。
そして二年後の応徳二年(1085)二月十九日、仁和寺北院に於いて大御室性信より仏戒を授けられて出家し、法名覚恵(又は覚念)を称しました。覚行はその後の改名です。しかし性信は同年九月に入滅しましたから、本格的な仏法の受法は無かったと云えます。それでも十一歳の覚行は翌十月に性信の跡(あと)を継いで仁和寺「寺務」に任命されました。寺務と云うのは一寺の最高責任者のことで、寺に依り、又同じ寺でも時に依り、別当・座主・長吏・検校などとその名称を異にします。仁和寺の場合は検校が寺務になる事が多く、特にその寺務を「御室」と称した事はよく知られている通りです。
勿論わずか十一歳の覚行に寺の経営ができる訳はありません。覚行を補佐して実質的に寺務職を荷ったのは性信の付法弟子であり観音院僧都と称された寛意(1054―1101)です。寛治六年(1092)三月十九日、覚行は仁和寺観音院に於いて此の寛意僧都から伝法潅頂を受けました。寛意は観音院流の祖とされていますから、覚行は大御室性信の門跡を伝領したものの、真言法流に於いては観音院流を相承した事になります。
ところで覚行は寛意に潅頂入壇する前に、朝廷から「一身阿闍利」を拝命しています。この場合の阿闍利とは、密教の相承者と云うような一般的な意味では無く、寺院に設置された特定の職位(しきい)を指しています。阿闍利職は当初天台系寺院の密教指導者として設けられていましたが、後には東寺(真言)系寺院にも普及して、時代が下がると僧綱位と同様に名誉職に近いものに成ります。それは兎も角、阿闍利職は原則として寺院に付属するものですが、今の覚行のように特例として貴顕の子弟には個人に与えられる場合があり、それを称して一身阿闍利と云います。
亦康和元年(1099)正月十三日、覚行は出家の身でありながら親王の宣下を蒙りました。是は僧侶にして親王の身分を帯する「法親王」の初例であり、王権を宣揚すると共に旧来の慣習に捉われない白河院政の特徴がよく出ていると云えるでしょう。猶覚行の戒師性信も三条天皇の皇子として親王宣下を受けていましたが、性信の場合は親王の身で出家したので「入道親王」と称し、厳密には法親王とは言いません。入道親王の例として、古くは皇太子を廃されて弘法大師空海の弟子になった高丘親王(法名真如 799頃―865―)、宇多天皇の第三皇子で法三宮(ほうさんのみや)と称された真寂親王(886―927)の場合があります。
康和四年(1102)七月十一日、堀河天皇御願の尊勝寺が完成して覚行法親王は供養導師を勤め、また同日に尊勝寺長吏に任命されました。それ以前に後三条天皇御願の円宗寺と白河天皇御願法勝寺の検校に成っていましたから、覚行は三代天皇の御願寺の寺務職を兼務するという僧侶としてかつて無い高い地位と名誉を享受しました。このような仁和寺寺務の法親王を諸僧より一際(ひときわ)抜きん出た高い地位に就けて王権を誇示するという白河法皇の宗教政策は、後に北院御室と称された守覚法親王(1150―1202)の代に至ってその頂点に達したと云えるでしょう。
同年八月七日、親王として既に三品に叙せられていた覚行は二品を賜りました。このように如何に皇族とは云え、僧侶を親王にして品位を授け在俗の親王と同様に遇する事は、俗事を遠離(おんり)して「出家」する事の重要性を説いた仏の教えに対するあからさまな挑戦である事は疑いありません。同じ頃、関白藤原師実(1042―1101)もその子弟の多くを僧侶にしていました。実には白河院が堀河天皇以外の男子を総て僧侶にしたのも師実に対抗する意図があったのでしょう。師実の子息の僧侶には興福寺に覚信・玄覚・尋範の三僧正(三人とも別当に成っています)、天台座主の仁玄・行玄両僧正、三井寺の聖護院増智僧正などがいます。天皇(上皇)・摂関の多くの子弟が大寺院に入寺して寺務職等の枢要の地位に就いた事は、「世俗の秩序」が寺院社会の中に持ち込まれた事を意味し、是れ以後日本の仏教寺院の世俗化に拍車がかかる事に成ります。
覚行法親王が宮中或いは仁和寺に於いて、天皇・上皇の御願成就の為に盛んに孔雀経法・愛染王法等の御修法(みしほ)を修した事は言うまでもありません。しかしながら不幸短命にして法流伝授の実を挙げる事ができませんでした。その事が仁和寺史に於ける覚行の位置をやゝ微妙なものにしています。
〈2〉覚法法親王(1091―1153)
一般に「高野御室」の名で知られる覚法の母親は右大臣源顕房の娘師子(1070―1148)です。すなわち師子は白河天皇最愛の中宮賢子の実の妹でありました。常識的に考えて不可解なのは、師子が白河院の子を懐妊しながら藤原忠実(1078―1162)の許に嫁いだ事です。忠実は摂政師通の長男であり、師実の孫に当たります。それはさて置き、此の時に師子が生んだ子供が覚法です。師子と忠実の間には後に摂政・関白を歴任して法性寺殿と称された忠通(1097―1164)が生まれますが、忠通にとって覚法法親王は母系の実兄に当たる訳です。
『御室相承記』の「高野御室」の巻に依れば、覚法は康和五年(1103)八月に白河院の御所である高松殿の東壇所に移り、以後出家するまで此の所を住所としました(高松殿は亦室町御所とも称されたようです)。翌る長治元年(1104)七月十一日、覚法は仁和寺成就院に於いて御室覚行から仏戒を授けられて出家しました。此の時の法名は真行でしたが、後に行真と改め、更に覚法と改名したのです。本来重要な出家の儀は「御室の御本房」である北院に於いて成されるべきなのですが、同院は前年に火災のために焼失していたので使用できなかったのです。また同年十月二十四日には南都で具足戒を受けています。
ところが師僧の覚行が長治二年(1105)十一月に入滅した為、伝法潅頂を受けてその法を継承する事が出来ませんでした。天仁二年(1109)四月二十九日、観音院潅頂堂に於いて覚法は大御室性信の付法弟子である法印大僧都寛助(1057―1125)から伝法潅頂を受けました。後に成就院大僧正と称されるようになる寛助はその法験が評価されて世に「法の関白」とも称されました。そうするとさしずめ御室覚法は「法の天皇」に当たるのでしょう。それは兎も角、寛助とそれに続く覚法の時代に仁和寺は大いに発展して、同じ頃活躍した定海大僧正の醍醐寺や寛信法務の勧修寺ともども、今まで天台宗に圧倒されていた弘法大師の法流(是を総体として「東寺」と云います)が隆盛する機運を醸成しました。
覚法の真言受法に関してもう一つ言及しなければならない事があります。それは白河法皇が自ら最も信頼を寄せていた鳥羽僧正範俊(1038―1112)の法を覚法に相承させようとした事です。範俊は仁海僧正が建立した小野曼荼羅寺の門跡を成尊僧都から引き継ぎ、醍醐の義範僧都(1023―88)と並んで小野法流の継承者と目されていました。覚法は範俊から受法したのみならず、その最後の時に曼荼羅寺の付属を受けました。こうして有名な小野経蔵の収蔵品はその多くが法皇の鳥羽殿に移され、又覚法も秘密聖教の一部を仁和寺にもたらしました。
さて覚法に対して天仁二年(1109)に一身阿闍利の宣下があり、天永三年(1112)十二月には親王の宣旨がありました。その後円宗寺長吏、法勝・尊勝両寺検校(尊勝寺は堀河天皇御願)、更には鳥羽天皇御願の最勝寺長吏などの寺務職を賜りましたが、此の間仁和寺の寺務には寛助が任命されていました。寛助僧正が入滅した後、ようやく天治二年(1125)三月一日になり覚法は仁和寺検校(寺務/御室)と成りましたが、此の時に弟宮の聖恵(しょうけい 1094―1137)が同寺別当に成っています。また大治二年(1127)正月十三日には大御室性信の例に倣って二品に直叙(じきじょ)されました(覚行法親王の場合は三品を経ています)。
源師時(1077―1136)はその日記『長秋記』の中で二品法親王覚法の事を「天下第一の僧」と称えていますが、それは必ずしもこうした外面的な肩書だけに依るものではありません。覚法はその徳行が評されて修した天皇・上皇御願の御修法は数知れず、また同様に御願の堂塔供養の導師を勤めたことも枚挙に暇(いとま)ありません。是等に付いては前に言及した『御室相承記』に逐一記されています。
久安五年(1149)三月、覚法は仁和寺の検校職を辞し、替って世上「五宮(ごのみや)」と称されていた鳥羽院皇子の覚性親王(1129―69)が新しい寺務に就任しました(それでも依然として覚法が御室と呼ばれていました)。覚性(当時の法名は信法)は既に同三年(1147)四月十日、本師の覚法親王から伝法潅頂を受けていたのです。しかし覚法から見てまだ若くて実績に乏しい覚性の将来には気になる存在がありました。それは堀河天皇の皇子で後に大僧正にまでなった仁和寺別当の花蔵院宮寛暁(1103―1159)です。
仁平三年(1153)八月に近衛天皇の病気平癒の御祈りとして寛暁が孔雀経御修法を行う事になり、寛暁は鳥羽院の内諾を得て覚法から御室が相伝している弘法大師本尊絵像と御筆孔雀経を借り出そうとしました。若し是を許して寛暁が御修法で効験を示せば是が先例となって同じ事態が繰り返されるでしょう。それは取りも直さず若い覚性の将来を危うくする事に他なりません。覚法は苦慮の末に一計を案じました。
そもそも孔雀経法は一宗の秘法として東寺長者が修すものとされていましたが、一方に於いて大御室性信以後は仁和寺御室が修す真言御修法の代名詞の如くになっていました。それには今述べた所の寛暁が借り出そうとした本尊・本経が深く関わっていたのです。覚法の場合、前記『長秋記』の天承元年(1131)八月二日の条に興味深い記事があります。即ちその頃病気がちであった覚法を見舞う為に記者の師時が仁和寺を訪れたところ、宮は(自身の病気平癒の為に)、「累代の孔雀明王を懸け、大師自筆の同経を開き、戸を閉めて自行」に余念が無かったと記しています。
さて覚法が寛暁の申し出を断る為に案じた一計というのは起請文(きしょうもん/誓約書)を作って相伝の本尊道具を門外不出にする事でした。即ち八月十九日付で起請文を書き、相伝の孔雀明王絵像を「高祖大師一生持念の御本尊」と称して御室支配の喜多院(北院)の門外に出すことを禁じ、自身に加えて信法(覚性)にも署名させました。そうしておいて寛暁には本尊等は既に宮(覚性)に付属してあると答えました。そこで寛暁が宮に問い合わせると覚性は、件の本尊道具は御室覚法に依って蔵に封が付されているからと云って貸し出しを断りました。(此の事に付いて詳しくは『日本の美術 No.508 孔雀明王像』p.28〜を見て下さい。)
最後に覚法の母親源師子に対する孝心について一言しましょう。師子は関白藤原忠実の正室として従一位にまで昇叙されていましたが、長承三年(1134)十月に中川(なかのかわ)上人実範(?―1144)を戒師として出家し、その後康治元年(1142)三月に仁和寺の中に御堂と住房を造営しました。覚法親王は母親の為に私財を喜捨して丈六(阿弥陀如来)像を作って安置し、その孝心を示しました。また同年十一月六日には母親の尼御前の為に仁和寺の自坊に於いて一切経の供養を行うなどしています。
覚法は仁平三年(1153)十二月六日に遷化し、遺言に依って高野山の勝蓮花院に於いて葬儀が行われました。


(字数制限を考慮して以下は別投稿とします。)
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愛染明王を説く経典儀軌の事

2009-03-28 05:50:03 | Weblog
(平成21年3月28日)
今日ブログを見てコメントが投稿されているのに気付きました。
「愛染明王を説く経典は『瑜祇経』のみ」という部分に関して、小野流の一流伝授では愛染明王の本軌として『金剛王軌』も採りあげるではないかという指摘です。
近日中に愛染明王と『金剛王軌』に付いて少し此の欄に書いてみます。

愛染明王と『金剛王軌』
鳥羽上皇が「一院」として政治を行っていた時代、いわゆる鳥羽院政期(1129―56)は日本の歴史上真言密教が最も異彩を放って隆盛した時代でもあり、天皇・上皇或いは摂政関白以下の公卿(くぎょう)の要請に答えるために公私様々に新旧の真言修法が大規模に、亦頻繁に行われていました。この様な密教修法の盛行と並行して、それまでの伝承口決に加えて自然数多くの秘密口伝が新たに生まれ、その結果これらの口決を書き集めた真言事相(じそう)の口伝書が多く製作されるように成ったのもこの時代の特徴です。鳥羽院政期に成立した醍醐の口決書としては定海の口説を元海が記した『厚造紙』、実運(じちうん)の説を寛命(かんみょう)が記した『諸尊要抄』等があります。
そうした口決書の愛染明王に関する記述を見ると、大抵『金剛王軌』、詳しくは『金剛王菩薩秘密念誦儀軌』、に付いての言及があります。それは「如法愛染法」と称して愛染明王を金剛薩埵と同体と観じて行う修法がありますが、その時に用いる「理趣会曼荼羅」に関するものです。金剛薩埵を本尊とする理趣会曼荼羅はその尊数から亦「十七尊曼荼羅」とも云われますが、実は此の曼荼羅は金剛界密教の標準的な修行曼荼羅であり、幾つか変種があります。如法愛染法では理趣会曼荼羅の本尊金剛薩埵を愛染明王に変更するわけです。それで同じ十七尊曼荼羅でも理趣会曼荼羅と『金剛王軌』に説く曼荼羅とでは諸尊の配置に少し違いがある点が指摘されています。と云う事は、『金剛王軌』の主尊金剛王菩薩が愛染明王と同体であるとする考え方が背景にある事が分かります。
それで先ず此の金剛王菩薩が愛染明王と同尊であるとする説が何処から生じているのかと云うと、それは古く平安時代の前期にまで遡ります。例えば『厚造紙』には、愛染明王の曼荼羅に理趣会を用いるのは高野後僧正真然(804―91)の御伝であると云う説を紹介しています。しかし、より重要な根拠として引用されるのは台密教理の大成者とされる五大院安然(841―915頃)作の『瑜祇経疏』(瑜祇経行法記)です。有名な『覚禅鈔』は愛染王法の本説として『瑜祇経』と共に『金剛王軌』を取り上げ、
安然の『瑜祇経記』に云わく、『金剛王儀軌』は愛染王の儀軌なり。例の(金剛界三十七尊中の)金剛王に非ず云々。
と注記しています。
ところが実際に『金剛王軌』を見てみると、果たして此の金剛王が愛染明王と同尊なのかどうか大いに問題があります。先ずその尊容については、
身体には四本の臂(うで)がある。上の二本は箭(や)を端(ただ)す姿勢をしている。下の右手は金剛杵を持って心(むね)に当て、左手は金剛鈴を持って腰に安(お)く。眉を顰(しか)めるが口元は微笑している。白色にして五仏の宝冠を戴く。緋色の裙(くん)と天衣を身に着けて半跏坐をしている。
等と述べていますが、弓矢を持ち物とする以外は特に愛染明王を連想させる特徴がありません。また印真言に関しても『瑜祇経』の染愛王品と愛染王品に説く印や真言が説かれている訳ではありません。唯一問題となるのは愛染王の五字心呪ウン・タ・キ・ウン・ジャクに近似するタ・キ・ウン・ジャクという真言が本尊呪とされている事です。従って愛染明王と此の金剛王菩薩が同尊であるとは言えないまでも、何かしら近縁関係にある事は間違いないでしょう。
今の両真言に共通するタキウンなる語句に付いては「吒枳(たき)王真言」と称して既に平安末期に愛染王法に関連する一問題として取り上げられています。但し『覚禅鈔』などは、『金剛王軌』より『葉衣(ようえ)観自在菩薩経』に注目しています。此の経は又『葉衣観自在菩薩陀羅尼経』とも云いますが、その中で「オン・タ・キ・ウン・ジャク」なる「樀枳(たき)王真言を用いて加持すること二十一遍」と云い、また所説の二十八大薬叉将の各真言には総て「タ・キ・ウン・ジャク」なる語句があります。葉衣観音自体は四本の臂(うで)を有する天女形ですが、左の二臂に武器と羂索(けんさく)を持っていますから、馬頭明王のように元は明王系の観音である事が推察されます。しかし何か愛染明王を連想させる要素がある訳ではありません。
『密教大辞典』には「吒枳王」の項目がありますが「梵語の意味はよく分からない」と述べています。尤も覚禅の師僧である理明房興然(こうぜん)の『五十巻鈔』は、「タキは蔵のことで金剛王菩薩である。即ち『陀羅尼集経』の中で金剛蔵王菩薩を金剛王と名付けているからだ。」などと説明しています。また近代の研究としては『密教研究』第45号に載せる安原賢道「瑜祇経の研究(一)」があります。その中で愛染王の五字呪(根本一字心)は金剛薩埵と吒枳尼(だきに)の結合を表していると述べておられます。興味のある方はぜひご自分で読んで下さい。
(以上)

柴田賢龍密教文庫』にアクセスして他の記事もご覧下さい。
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お知らせと内容の一部訂正

2008-09-10 04:20:32 | Weblog
お知らせ
このブログを含む密教関係の論文・読み物がホームページ「柴田賢龍密教文庫」で閲覧できるように成りました。



内容の一部訂正
本篇の「(5)愛染明王とその修法 その1」に於いて、愛染明王が「月輪では無く日輪を背にしている事は他に類例を見ません」と書きましたが、実際には一字金輪仏頂尊も日輪を背にして座しています。一字金輪の本軌たる『金輪時処軌』に本尊の姿を説いて、
智拳の大印を持して師子座・日輪・白蓮台に処す
と述べています。『密教大辞典』の「一字金輪」の「形像」の項を参照して下さい。

以上
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続き

2008-07-10 06:19:03 | Weblog
愛染明王信仰の興隆と白河法皇(続き)

(6)愛染明王とその修法 その2
愛染王を本尊として修する愛染法は息災・増益(ぞうやく)・敬愛(きょうあい)・降伏・鉤召(こうちょう)の五種法に通じて効験があるとされ、その事は上に述べた明王の像容と深く関わっています。又それに付いては白河院政期より以降愛染法が隆盛するにつれて驚くほど多くの口伝が生み出されました。ここではその一端を紹介しますが、それとても他に異説のあることは言うまでもありません。
先ず頭上の獅子冠は、修行者自身にとっては菩提(さとり)を求める心の勇敢さを表し、他に対しては自在に調伏する事の標示です。その上の五股鉤は、衆生(しゅじょう)を鉤召/誘引して本尊の大欲・大貪染(とんぜん)の世界に引き入れるのです。大欲・大貪染とは個人的欲求を超えた大いなる欲望に憑かれていることを言い、愛染明王の三昧/本質そのものです。
次に六臂の中の初めの鈴杵の手は息災の義(意味)とされます。心の闇を金剛杵の智慧の光で照らし、金剛鈴の響きを以て安楽を与えます。因みに息災の「息」とは「止」の意味で、文字通り災いを未然に止めること、乃至は大難を小難に転じることを言います。
弓箭の手は敬愛の義と説かれる事が多いようです。左右の手をそれぞれ定・恵に配当しますから、左の弓(定)に右の箭(恵)をつがえる事は定恵冥合(みょうごう)、乃至は一般に冥合/敬愛成就の標示であり、又た放たれた箭が何かしら対象物に的中する事も同じく冥合/敬愛の成就です。現今は敬愛法と云えば恋愛成就の秘法とのみ解釈されがちですが、会社の上司から目をかけられること、取引相手に気に入られる事なども敬愛法であり、更に仏道修行の立場からは本尊の仏菩薩から見放されること無く速やかに悉地(しっじ)成就する事も敬愛法に属します。
さて次が問題の左の第三手「彼の手」ですが、これは現存の彫刻遺品を見る限り空拳に作られていて口伝の云う所に合致します。つまり願う所、求めるものに随って、それを標示する物(三昧耶形)をこの空拳に持たせるのです。或いは第四章に紹介した後冷泉天皇降伏の作法の如く願意を書き記して持たせます。絵画・図像遺品の場合も空拳に描いたものが圧倒的に多いけれども、時として「彼の手」の上に日輪や如意宝珠などが描かれています。
「彼の手」と対の蓮の手に付いては敬愛法と関連させて説くこともあるが、蓮を以て「彼の手」の辺を打つことにより障難を成す悪心を消滅させる意であり、降伏(ごうぶく)乃至は広く一般に祈願成就の力を表していると考えられます。

(7)愛染明王と金剛界密教
前にも述べたように愛染明王を説く経典は『瑜祇経』のみであり、両部密教の根本聖典である『大日経』や『金剛頂経』には全くその言及が無い。してみれば愛染王は両部曼荼羅の諸尊と如何なる関係にあるのでしょか。
『瑜祇経』はその序章(序品)に於いて金剛界三十七尊に準ずる教説を展開しているから金剛界系の密教経典である事は疑いない。ところが学者を困惑させるのはそのサンスクリット語原本やチベット語訳が発見されないのみならず、その類本も亦た存在しないので、『瑜祇経』の成立過程に付いてほとんど学術的な検討を加えることが出来ない事です。そういう訳で例えば非常に権威のある学会の碩学が集まって編集した『仏典解題事典』は一切『瑜祇経』に言及していません。
しかし『瑜祇経』は弘法大師によって請来された密教経典中にあり、不空三蔵や恵果阿闍梨が活躍した中唐期の長安に於ける密教の精要を伝えていると考えられます。また『瑜祇経』は不空三蔵の師金剛智の訳、乃至はそれを不空が再治(さいじ)/校訂したものとされますが、その内容はユニークな密教観に溢れて到底晩唐期の凡庸な密教儀軌とは比較になりません。
とりわけ我が国の真言宗(特に小野/醍醐派)に於いては平安末以降に愛染法の盛行とは又た別に、『瑜祇経』の「阿闍梨位」の印真言を伝法潅頂の印信として授ける事を始めとして各種の「瑜祇」秘密伝授が隆盛し、更に『瑜祇経』自体の研究も本格化して鎌倉中期には詳細な注釈書が相次いで製作されるようになりました。このようにして『瑜祇経』に対しては、胎蔵・金剛両部大経の奥旨を説き明かした不二(ふに)の秘密経典とする評価が確立しました。
さて初めの愛染王と曼荼羅諸尊との関係については、先ず『瑜祇経』が金剛界系の経典である事と愛染明王が金剛薩埵の化身である点に留意する必要があります。次に古来真言宗の学僧の間に、愛染明王/『瑜祇経』が説く大染の三昧(覚りの境地)と金剛薩埵/『理趣経』の大楽の法門(教理)とは同じであるとする考え方のある事が挙げられます。此の事を典型的に示す一例として、前にも言及した白河法皇の護持僧範俊僧正が創始した如法愛染王法があります。即ち此の法を修する際には実に金剛界九会曼荼羅中の理趣会曼荼羅(十七尊曼荼羅とも云う)を本尊曼荼羅に用います。但し中尊は金剛薩埵の替わりに愛染明王を描く点が異なります。
金剛界密教の精要は普通三十七尊の曼荼羅で表現されその中尊は大日如来ですが、修行者の菩提心を中心に考えれば中尊は金剛薩埵になります。また『理趣経』の十七尊曼荼羅はこの観点をより鮮明に凝縮して表現しています。そして此の金剛薩埵が大貪染(とんぜん)の三昧に入って励起した時には愛染明王となって活動するのです。
此の事に付いては密教教理と史料の両面から改めて検討を加え紹介したいと思います。

以上
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愛染明王信仰の興隆と白河法皇

2008-07-09 03:58:55 | Weblog
愛染明王信仰の興隆と白河法皇

(1)白河法勝寺の創建/両部曼荼羅世界の現出
承暦元年(1077)十二月十八日、京都白河の地に白河天皇御願の法勝寺が創建された。白河天皇とその中宮藤原賢子をはじめ関白藤原師実等の公卿が臨席する中、落慶供養の導師は天台座主覚尋が勤め、300人の僧侶が法会に奉仕した。又た雅楽の演奏と舞が終日行われて、その盛観を記した当時の記録に、「此の壮麗なる供養の儀式は人間界で行われているけれども、仏の世界の荘厳(しょうごん)を目の当たりに見る気がする」と述べられています。
七間(しちけん)四面の金堂の本尊は金色三丈二尺の大毗盧遮那如来であり、その周りに各二丈の宝幢・開敷花(かいふけ)・無量寿・天鼓雷音(てんくらいおん)如来すなわち胎蔵四仏が安置され、実に壮大な密教の仏の世界が作り上げられていた。記録によって確認する事は出来ないけれども、柱や四方の壁面に胎蔵曼荼羅十三大院を分割して画き、嘗(かつ)てない巨大な密教空間を現出していた可能性も考えられる。
このほか創建時には金色二丈の釈迦如来と丈六の普賢・文殊両菩薩を安置する七間四面の講堂、金色丈六の阿弥陀仏九体を祀る十一間四面の阿弥陀堂、二丈六尺の不動尊と丈六の四大明王を安置する五間四面の不動堂などがあって、天皇の権勢を誇示する壮大な仏教伽藍を構成していた。
此の白河の地は、比叡山の南西部に源を発して東山の西麓に沿って流れる白河の中下流域に当たり、法勝寺を始めとする白河六勝寺があった場所は現在では岡崎と呼ばれています。美術館・図書館等の文化施設、動物園、平安神宮があり、少し南に下がった粟田口には天台三門跡の一つ青蓮院があって一年中観光客の人通りが絶えない所です。因みに動物園は法勝寺境内の南半分に相当し、平安神宮の西半分は白河天皇の子である堀河天皇御願の尊勝寺の一部と重なります。
また東の方から山科盆地の北辺を通って京都に入る場合、峠道を超えると先ず此の白河/岡崎の一帯が目に見えてきます。その時、現在ではコンクリートで出来た平安神宮の巨大な朱の鳥居が人目を引きますが、平安院政期に於いては此の鳥居よりも遥かに雄大壮麗な法勝寺の八角九重の塔がそびえ立ち、見る者をして天皇・上皇の威権の大なる事を知らしめていたのです。
即ち承暦元年の落慶供養の後も法勝寺伽藍の整備造営事業が続けられ、永保三年(1083)十月一日に九重御塔・薬師堂・八角円堂が完成して供養が営まれている。その塔は、金堂前の池中の中島に建設された。創建時の塔の高さは文献に記されていないが、承元二年(1208)五月の落雷のために焼失した後に再建された塔の高さが27丈(約82m)と記されているから、初めの塔はそれと同じか更に高かったと推測される。規模の巨大なる事にも驚かされるが、その初層内部の構成は法勝寺の造営理念を知る上で決定的な史料を提供している。
即ち大江匡房作「法勝寺御塔供養呪願文」に、
金剛界会の五智如来(大日・阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就如来)はその堅固なる体を美しい黄金色に照り輝かせて居並んでいる。中尊は八尺の高さがあり、四仏の為に四方に座を設けている。その他の諸尊は各々四角(よすみ)に安置している。
と云い、又た、
八方の柱には(金剛界の)月輪(がちりん)仏を画く。
と述べているから、仏像と柱絵によって金剛界曼荼羅が製作されたのです。
此の事から法勝寺の造営プランは、金堂の胎蔵曼荼羅と九重塔の金剛界曼荼羅を合わせて密教の両部曼荼羅の世界を造立供養する事に眼目があったのだと考えられます。

(2)八角円堂(愛染王堂)建立の意義
九重塔と共に供養された薬師堂は講堂の北に位置し、金色の丈六薬師如来七体すなわち七仏薬師が安置されたが、法勝寺伽藍の結構を考える上でとりわけ注目されるのが愛染明王を本尊として祀った八角円堂の造営です。前に見た大江匡房の呪願文には又、
又た(薬師)堂の艮角(東北方)に八面堂を造り、三尺白檀の愛染王像あり。
と記されている。
現在では愛染明王に対する信仰はそれほど盛んでは無く、観世音菩薩や不動明王、或いは阿弥陀如来や地蔵菩薩が今も多くの人々の信仰を集めその心の支えとなっている事を考えると、愛染明王はまったく影の薄い存在と言わざるを得ません。しかし愛染明王の彫刻や絵画の遺品は意外と多くあって、奈良西大寺に蔵される叡尊上人ゆかりの重文像を始めとして鎌倉時代を中心に多数の名品が存在しています。興味のある人は至文堂発行の『日本の美術 376 愛染明王像』を見れば数々の名作が一覧できます。
愛染明王は密教の根本経典とされる『大日経』や『金剛頂経』には記載が無く、従って胎蔵・金剛両部曼荼羅の中にその姿を見出すことは出来ません。但し金剛界三十七尊中の金剛愛菩薩は、その所持する弓矢を以て人々の心の中にある真実に背く性向を射止める事をその誓願とし、愛染明王と同じ三昧に住していると説かれる事があります。
それでは此の明王を説く経典は何かと云えば、それは『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』、略して『瑜祇経』と称される密教経典です。本経は弘法大師空海によって初めて我が国にもたらされ、その後も恵運(えうん)・宗叡(しゅうえい)といった入唐八家(にっとうはっけ)の祖師によって将来されています。『瑜祇経』については後でまた言及します。
『瑜祇経』に関する本格的研究は早く台密(天台密教)の安然(あんねん。841−915頃)により行われ、その著『瑜祇経疏』三巻は台密を代表する優れた経典研究書の一つに数えられています。又た東密(東寺密教。空海系真言宗)の真寂法親王(886−927)は『瑜祇惣(そう)行記』を製作しました。
しかしその後平安中期を通じて本経に対する関心は薄れて、愛染明王を本尊とする修法すなわち愛染法も一部の真言僧によって細々と伝承されていたに過ぎなかったようです。そもそも弘法大師が『瑜祇経』を請来して以来白河天皇の時代に至るまで、愛染明王像の制作や同明王を本尊とする御修法(みしほ)について記した史料はほとんど存在していません。
それだけに天皇による法勝寺の愛染明王を本尊とする八角円堂の建立は、同明王に対する信仰のみならず密教史の上からも特筆すべき出来事であったと考えられます。
さて法勝寺金堂の供養では仁和寺御室の性信(しょうしん)入道親王(1005−1085)が証誠師を勤め、それに先立って御仏の開眼も行いましたが、『御室相承記』によれば性信は早くも延久二年(1070)五月八日に白河天皇の父後三条天皇の要請を受けて愛染王御修法を始めています。又た承保二年(1075)には性信の住房である仁和寺喜多院(北院)に白河天皇御願の三尺愛染王像が安置された事も知られている。その他にも晩年の永保三年(1083)十二月に法勝寺円堂の(愛染)護摩を始行するなど愛染法の興隆に大きく寄与した。性信は特に「大御室」(おおおむろ)と称されていますが、『覚禅抄』には「大御室愛染口伝」なる口決書からの引用も記されています。
この様に此の頃から天皇家の周辺で愛染明王に対する信仰が急速に深まりつつあった事が伺えますが、白河天皇の同明王に対する尊信の念は生涯を通じて衰えることがありませんでした。天皇は応徳三年(1086)に譲位して上皇となり、永長元年(1096)には出家して禅定仙院すなわち法皇になりました。当時の貴族の日記によれば天治二年(1124)五月25日、白河法皇は御所に於いて百体もの愛染王像を図絵して供養し、更に晩年の大治二年(1127)三月十二日には法勝寺の北に丈六愛染王三体と等身愛染王百体を本尊として安置した新造の御堂を供養している。
一方、当時の摂政藤原忠実も熱心な愛染明王の信者であった事が伺えます。忠実の日記『殿暦』には同明王に関する記事が多く見られるが、興味深く思われるのは忠実自身の為には勿論、時には白河法皇の御為に愛染法を修しています。例えば天仁二年(1109)正月26日に当時鳥羽天皇の摂政であった忠実は法皇の御祈りの為に十体の愛染王像を造立し、又た同年七月28日には法皇の為に愛染王法を始めている。
忠実の愛染信仰を示す例として他にも醍醐寺蓮蔵院の愛染王像を挙げることが出来ます。『醍醐雑事記』巻四によれば当時蓮蔵院は富家(ふけ)入道殿と称された藤原忠実の御祈願所であり、そこに安置されていた半丈六の愛染王像は忠実が夢の中に見た明王の姿をそのまま写したものであった。猶お蓮蔵院は醍醐寺境内の北側にあって鎌倉後期には報恩院流の拠点寺院として栄えましたが、残念ながら廃絶して今はありません。

(3)後三条天皇の即位と愛染法 その1
院政期にはそれまで見られなかった種々の仏菩薩あるいは明王諸天を本尊とする修法が興隆し、また真言事相の名匠が輩出して数多(あまた)の口決が生み出され、その結果小野・広沢両流ともに諸流・諸方に分化する傾向が生じました。(小野流は醍醐寺、広沢流は仁和寺を中心とする真言法流。台密に於いても同じく諸流に分化したが、その事に関する研究は非常に遅れている。)
白河天皇による法勝寺円堂すなわち愛染堂の建立はこの様な密教修法の新時代の始まりを示すものであり、愛染法の興隆はその後に続く諸尊法隆盛の先駆けを成したと云えようか。ところで白河院(法皇)は特に珍奇なるものを好む傾向があったらしく、例えば如意宝珠の収集に随分と熱心であった事が知られている。また法皇の護持僧として信任の厚かった範俊僧正の勧めを受け入れて、それまで誰も見たことが無い六字明王の丈六像七体を制作してそれを法勝寺の薬師堂に安置したりしている。しかし白河院の愛染明王に対する信仰はそのような奇抜な物を好む性癖に端を発するものでは無く、父帝後三条天皇の即位にまつわる経緯と密接に関係しているらしいのです。以下その事を少し詳しく見てみましょう。
後三条天皇(1034―73)は諱(いみな)すなわち名前を尊仁(たかひと)と云い、後朱雀天皇を父、禎子内親王を母として生まれました。後朱雀天皇は一条天皇の皇子、禎子内親王は三条天皇の皇女です。又た尊仁親王には異母兄の皇太子親仁(ちかひと1025-68)がいて、此の人は後朱雀天皇の次に後冷泉天皇に成りました。後冷泉天皇の母親は藤原嬉子で御堂関白道長の娘です。
さて寛徳二年(1045)に後朱雀天皇は死に臨んで皇太子親仁が新帝として即位する際に尊仁が皇太弟(皇太子)と成るように配慮しました。こうして兄の後冷泉天皇の下で尊仁は次期天皇の地位にありましたが、時の実力者関白藤原頼通は此の事を好ましく思っていませんでした。
元来、道長・頼通父子の家系である藤原北家が摂政・関白の地位を独占して政治の実権を握り続けることが出来たのは、娘達が入内(じゅだい)して皇子を生み、その皇子達が若くして天皇となった時に外戚として大きな影響力を行使することが出来たからです。従って平安時代中期を通じて朝廷に於いて絶大なる権力を謳歌した藤原摂関家と云えども、若し入内した娘達がうまい具合に皇子を生まなければ忽ち権勢を失う恐れがあった。
頼通の場合、寛仁元年(1017)に弱冠26歳で摂政と成って以来、後一条・後朱雀・後冷泉三代の天皇にわたって摂政・関白の座にあったが、入内した娘達は皇子を生んでいなかった。しかも皇太子尊仁には直接藤原氏の血が入っていなかったから、若し頼通の娘に皇子が誕生すれば頼通が尊仁を廃して新皇太子を立てる事は憶測に難くない。何れにしろ後冷泉天皇が譲位して皇太子尊仁が即位する見込みは殆んど無かったと云えます。

(4)後三条天皇の即位と愛染法 その2
こうして尊仁親王は二十余年の長きにわたって皇太弟の地位に留まっていましたが、治暦四年(1068)四月十九日に兄の天皇は突然に崩御(死亡)して、ここに後三条天皇の即位が実現しました。しかし当時の貴族社会に於いては呪詛・調伏が盛行していたと伝えられ、後冷泉天皇の予期せぬ死に対しても不穏な噂が語られるようになりました。それは皇太弟が護持僧の成尊(せいぞん 1012―74)に命じて天皇を降伏(ごうぶく)したと云うもので、時代が下がると此の説は当然の事として世間に受け入れられ、多くの書物が此の事を書き記してきました。またその際に成尊が行った修法は、愛染明王を本尊とした降伏法であったとされています。
小野僧都と称された成尊はその法験を謳われた小野僧正仁海の弟子で、師が開創した小野曼荼羅寺に住んでいました。小野の地は醍醐の北に隣接し、小野妹子や小野小町で有名な小野氏ゆかりの土地ですが、仁海や成尊が小野氏の出身と云う訳ではありません。また仁海・成尊は醍醐寺僧であり、曼荼羅寺が当時の醍醐寺境内の北端であったと考えられます。
成尊が後冷泉天皇を降伏した事に付いて記す早い例として、理性房賢覚(げんかく)の口説を弟子の宗命(しゅうみょう)が記した『対聞記』に、
久安五年(1149)九月一日〔物語のついでに伝授して下さった〕
今は亡き成尊僧都は後三条院が春宮(皇太子)の時の御持僧(護持僧)として後冷泉院を調伏なされたが、その時には愛染王法を修されたのである。明王の「彼を持せしめよ」の手には薄様(うすよう)紙に書状を書いてお持たせになった。其の書状には「アビシャロキャ親仁ヤ、ソワカ」(親仁を降伏すること成就せしめ給え)と書いて、「彼を持せしめよ」の手の中に籠められたのである。その時の本尊は今も小野曼荼羅寺に現存している云々。そうして後冷泉院はお亡くなりになった云々。
等とかなり具体的に述べている。「彼を持せしめよ」の手のこと等はまた次章で説明します。猶お賢覚は醍醐三流の一つ理性院流の開祖として非常に有名ですが、宗命もその写瓶(しゃびょう)の弟子として当時著名の真言僧です。
『覚禅鈔』と並んで真言修法の百科全書として有名な書に台密の承澄僧正(1205-82)作『阿娑縛(あさば)抄』がありますが、此の事に関する記述はよくまとまっていて物語としての完成度も高いので以下に紹介します。(既に速水侑著『呪術宗教の世界』p.136に訳出があるので転載させて頂きます)
この法は、もともと東密の修法である。その理由については、他聞をはばかることなので、他にもらしてはいけない。後冷泉天皇の世、当時東宮であった後三条院の御前に、東宮護持僧の小野僧都成尊が祇候すると、ちょうど髪をくしけずっていた後三条は、白髪が一すじ落ちたのを成尊に示し、「お前は私のために、いつもどのような祈祷をしているのか。これをみよ」と落涙した。成尊は恐懼して、「護持僧の任にありながら、そのようなお気持とも存ぜず過してまいりました。身の暇を賜わり一心に祈願いたしましょう」と、そのまま本寺にひきこもり、七日間、愛染王法を修した。すると後冷泉天皇は、病気となってほどなく没し、後三条が即位した。後三条は在位わずか五年であったとはいえ、ともかく本意を成就したのである。成尊は「むげに心短かくおわす君かな」ともらしたそうだが、まことに法験のきわみといわねばならぬ。このことがあってから、愛染王法は多く東寺の人が修し、延暦寺では行なわない。かのときの像は、手は拳を作り上向きにして左乳のあたりにおく三尺の木像で、今に伝わっているという。(柴田注:真言のことなど一部省略されている)この霊験により、後三条は愛染王法に帰依し、成尊に学んでこれを白河院に授けた。白河院も深く信じて、法勝寺建立のとき、愛染王像を円堂(八角堂)に安置したのである。」

(5)愛染明王とその修法 その1
以上の事から後三条天皇の命によって大御室性信が愛染王御修法を始めた事、また白河天皇/法皇の時代に愛染明王に対する信仰が興隆した事の理由が納得して頂けたかと思う。勿論、母親を異にするとは云え皇太弟が兄の天皇を降伏(ごうぶく)した事など朝廷の記録に記されるはずも無いし、当時の貴族の日記にもそうした風聞(ふうもん)を書き記したものは残っていないが、前章で見た『対聞記』のように此の事は遅くとも鳥羽院政期には醍醐寺僧の間で公然の秘密になっていたと考えられる。
さて愛染明王の姿は、日輪すなわち太陽を背にした一面三目・六臂(ろっぴ)の赤色(しゃくしき)忿怒像で表されますが、以下に説明するように非常にユニークな特徴を具えています。
先ず月輪(がちりん)では無く日輪を背にしている事は他に類例を見ませんが、恐ろしい形相の忿怒明王像が赤色で表現される事も非常に珍しいと云えます。すなわち不動明王に代表される密教の明王像は普通青黒色(しょうこくしき)をしています。但し智証大師円珍が修行瞑想中に感得した黄不動や、同じく円珍が葛川の滝で修行中に出現したと伝える赤不動など特殊な例もありますが、是等は勿論経典の説に基づいたものではありません。
次に頭上には獅子の冠を戴き、その上に五股鉤(ごここう)を置いていますが、是については後で詳しく説明します。
六臂すなわち腕が六本あって、基本の一対は金剛薩埵と同じく左手に五股金剛鈴、右手に五股金剛杵を持ち、此の事は愛染明王が金剛薩埵の変化身であることを示唆していると考えられます。次の一対の手は弓箭を持ち、是は金剛愛菩薩との関連を想起させますが、金剛愛は弓を持たずに両手で箭/矢だけを持っています。最後の一対の手が問題で、愛染明王に関する秘密口決の多くが是と関わっています。今はとにかく右手に蓮花を持ち、左手は「彼」を持つとだけ言っておきます。此の「彼の手」についても後で説明します。
また愛染王は忿怒身の明王でありながら大赤蓮華に座し、しかも蓮華座の下に宝瓶(ほうびょう)があって種々の宝が溢れ出ています。
それでは此の様な愛染明王の姿は何なる経典に説かれているのかと云えば、それは最初にも述べたように『瑜祇経』です。詳しくは『瑜祇経』の第五章「愛染王品」に於いて、金剛手菩薩(金剛薩埵)が世尊(せそん/仏)に対して画像法を説かんことを請う一節に次のように記されています。
愛染金剛は 身体の色が太陽の暉(かがやき)のようで 燃え盛る日輪に住している 三つの眼は威厳と忿怒に満ちて 頭上には獅子の冠があり 鋭い髪の毛は怒りに逆立っている 又た五股鉤を以てその獅子の頂に置け 五色の華鬘(けまん)を垂らし 天帯が耳を覆っている 左手に金剛鈴を持ち 右手には五峯の杵(五股金剛杵)を執(と)る その姿は金剛薩埵に似て 衆生の世界に利益を施している 次の左手には金剛弓があり 右に金剛箭を執る 星々が光の矢を射る如く速やかに 大いなる染法(ぜんぽう/執着心)を成就するのである 左の下(しも)の手には彼を持せしめよ 右の蓮(はちす)を以てまさに打たんとす 一切の悪心ある者どもを 速やかに滅ぼすことは疑いようが無い 種々の花々を糸で貫いた華鬘を結び合わせ 以て身を厳(かざ)り 結跏趺坐(けっかふざ)して 赤色の蓮の上に住している その蓮の下には宝瓶があり 口元から両方に諸々の宝が溢れ出ている」


(6)愛染明王とその修法 その2
- 以下は字数制限の関係で新規投稿とします -

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