白河院の御子の僧侶達
〈3〉聖恵法親王(しょうけい 1094―1137)
世に花蔵院宮(けぞういんのみや)或いは長尾宮と称された聖恵の母親は、参議藤原師兼(1048―76)の女子です。師兼は、御堂関白道長の子息である右大臣頼宗の孫であり、また承保元年(1074)に参議になれたのは母方の祖父大納言源隆国の推薦に依るものでした。惜しい事に師兼はその翌々年に早逝しましたが、このように聖恵の母親の出自は申し分なく立派なものでした。
長治元年(1104)九月二十四日、聖恵は中御室覚行から仏戒を授けられて出家し、同年十月二十四日に東大寺で具足戒を受けました。その後天永三年(1112)九月二十一日、聖恵は仁和寺観音院に於いて法印大僧都寛助から伝法潅頂を受けました。また同年中に一身阿闍利の宣下を受けています。詳しい月日は分からないのですが、中御室覚行の例から考えて入壇前の事でしょう。
保安四年(1123)十二月三十日には親王の宣を蒙り、大治二年(1127)三月十九日には三品に叙されています。
大治五年(1130)には高野山に参詣して六月には引摂(いんじょう)院を造立供養していますが、在山中に興教大師覚鑁上人(1095―1143)を紹介されてその伝法院建立という志の実現に協力した事はよく知られています。『霊瑞縁起』という鎌倉後期に成立した古い上人の伝記によれば、大治五年二月に華蔵院宮聖恵が高野に登山した際、覚鑁は阿波上人青蓮房を介して宮に面謁を許され宿願の仏堂建立の事を語った。聖恵が覚鑁上人の素意について鳥羽上皇に奏聞(そうもん)した所、上人は院参を許されて上皇に自らの宿願を申し述べた。上皇は勅願として仏堂を建立すべき院宣を発し、同年四月八日に(小)伝法院が完成した等と記されています。実に是が鳥羽院の帰依を得て上人が栄光の年月を送る発端となったのです。
さて兄の法親王に比べると真言御修法に於いても、亦堂塔の供養に於いても、聖恵法親王の影が薄いのはやむを得ない事でしょう。それでも聖恵は広沢六流の中に数えられる花蔵院流の開祖として真言宗史にその名を輝かしています。仁和寺花蔵院に付いてはその創建の事など詳しい事は分からないのですが、共に東寺の加任長者にもなった延尋(992―1049)・済延(1012―71)両僧都が住した事で知られる由緒ある子院です。聖恵の次にはその付法弟子であり、覚法法親王の項で言及した堀河天皇の御子寛暁大僧正(1103―59)が院主になりました。長承元年(1132)九月二十一日、聖恵親王が孔雀経法の賞によって牛車(ぎっしゃ)の宣旨を蒙った時、寛暁も亦法眼から法印に昇叙されています。
保延三年(1137)二月十一日に聖恵は入滅しましたが『中右記』同日の条で藤原宗忠は、
午の時、仁和寺の長尾宮三品聖恵法親王が入滅した。年は四十四歳であった。やんごとなき(素晴らしい)真言の師匠であった。また持経者(経典をよく読誦できる人)でもあった。母親は今も生きている。故宰相(参議)師兼の娘である。
と記してその死を悼んでいます(実に宗忠は師兼の甥に当たります)。
〈4〉行慶大僧正(1102―65)
平等院或いは桜井大僧正と称された行慶の母親は備中守源政長(―1097)の娘です。政長の家系は宇多源氏です。政長は蔵人頭(くろうどのとう)を務める程実務に堪能な人でしたが、亦音楽に大変な才能があり堀河天皇の郢曲(えいきょく/俗曲)と笛の師範でもありました。行慶の母である政長の女子は『尊卑分脈』によれば「白河院の官女」でした。同書の注記に亦「御寵女 桜井僧正の母」と記されています。序でながら覚法・聖恵両親王の潅頂入壇の師である寛助大僧正は源政長の甥に当たります。また政長の他の娘は白河院弟の輔仁親王との間に仁和寺の信証僧正(1088―1142)を儲(もう)けています。
行慶は最初平等院大僧正と称された三井寺(園城寺)の行尊(1055―1135)の室(へや)に入って得度しました。行尊は天台座主にもなった高僧として亦歌人としても有名ですが、大峰・葛城・熊野の各山で抖藪(とそう)の修行を重ねて修験道の発達に大きな功績を残した人です。しかし行尊は生涯に一度も弟子の為に潅頂壇を開く事はありませんでした。
長承二年(1133)二月十六日、行慶は三井寺法輪院に於いて鳥羽僧正覚猷(1053―1140)から伝法潅頂を受けました。覚猷も白河法皇の寵僧として栄達を極め天台座主にまで成った人ですが、智証大師が秘蔵した三井寺唐院の密教図像類を研究するなど院政期の仏教に大きな業績を残しています。また行慶は一身阿闍利であった事が確認できますが、恐らく仁和寺の法親王と同じように入壇に先立ってその宣を受けたと考えられます。
同四年(1135)正月九日、行慶は本師行尊の譲りを受けて難波(なにわ/大阪)の(四)天王寺別当に任命されました。是は同寺の別当職が師資相承により譲補(じょうふ)された初例であるとされています。また他に白河法勝寺の別当にも成っていますが、上司の寺務検校は腹違いの兄の御室覚法であった訳です。更に仁平二年(1152)には三井寺長吏に成りました。しかし行慶にとって一番輝かしい経歴は近衛・後白河・二条と三代にわたって天皇の護持僧を勤めた事でしょう。
一方『寺門伝記補録』第十三の行慶伝によれば、平治元年(1159)に行慶は修験道鎮護の為に三井寺金堂の近くに熊野三所の社殿を作り、十一月十一日に遷座供養を行いました。このように本師行尊の薫陶を受けて、行慶も亦修験道の興隆に熱心であったようです。
ところで『本朝皇胤紹運録』『系図纂要』共に「桜井」と「狛(こま)」を行慶の通称としているのですが、是がどうも腑に落ちません。行慶以降、この桜井なる通称で呼ばれる寺門系の高僧が何人も出る事から、大和国桜井郡にあった寺院の名称に間違いないでしょう。しかしそれに相当する寺院に付いて具体的にはほとんど分からないのが実情です。桜井には天台宗の大寺院である多武峯(とうのみね)寺(現在の談山神社)がありましたが、是は山門系の僧徒が支配していたようであり、今問題の「桜井」とは関係ないと思われます。「狛」に付いても鎌倉中期の園城寺長吏道智(1217―69)がやはり狛僧正と称されていて寺院の名称に違いないと思われますがよく分かりません。
行慶の伝記で注意すべき事に後白河院(1127―1192)との関係があります。それは『寺門伝記補録』に、「後白河上皇は行慶大僧正を招いて胎蔵・金剛両部の大法と諸尊の儀軌をお受けになり、御持仏堂の壇上に大僧正の絵像を懸けて一日も欠かさず朝暮のお勤めをされた」等と述べている事です。後白河院の御出家は嘉応元年(1169)六月の事ですから既に四年前に行慶は亡くなっていて、上皇が行慶から両部大法を伝受した事などまずあり得ません。実際には後白河法皇受法の師僧は行慶の潅頂弟子である常喜院法印行乗(1125―84)であり、行乗の名が余り知られていない事と潅頂入壇の師である公顕大僧正(1110―93)の事とが重なって『補録』の誤伝に成ったと考えられます。
行慶は生涯に十人の弟子に伝法潅頂を授けましたが、その中に道恵法親王(1132―68)がいます。この人は鳥羽院の六宮(ろくのみや)で最初覚猷の室に入って出家し、一身阿闍利の宣下を受けた後わずか十九歳で久安六年(1150)に行慶から潅頂を受けています。その後天王寺の別当職を師から譲られ、また親王宣下を受けて三井寺の長吏にも成っています。このように鳥羽院政の後期には、一身阿闍利に加えて若年の潅頂入壇、親王宣下、大寺院の寺務職や勧賞の優遇などといった「法親王制の成立」が顕著に見られるのです。
〈5〉円行法眼(生没年未詳)
『系図纂要』に母親は陸奥(みちのく)守源有宗の娘であると記されています。有宗は村上源氏で為平親王(952―1010)五代の孫に当たります。円行に付いては他に三井寺の僧であり法眼に叙された事が分かる位です。寺門系僧侶の詳しい潅頂入壇記録である『伝法潅頂血脈譜』にも円行の名を見出す事は出来ません。
〈6〉静証阿闍利(生没年未詳)
静証は御室戸(みむろと)宮或いは羅惹(らじゃ)院と称された園城寺の僧ですが、『本朝皇胤紹運録』『系図纂要』共に母親に関する記載はありません。しかし『伝法潅頂血脈譜』には御室戸大僧正隆明(1019―1104)の潅頂資として静証が記されており、「白河院御子 仁証と同母」という注記があります。
此の仁証(1079―1134)も東南院法印と称された三井寺の僧であり、京極摂政藤原師実(最初の覚行法親王の項で言及しました)の子息です。仁証は静証と同じく公伊法印(1052―1134)の潅頂弟子であり、母親に付いては『尊卑分脈』に「(源)顕房公の女(むすめ)」と記されていますが定説は無いようです。『分脈』の頭註に「『今鏡』を按ずるに(師実子で興福寺別当の)尋範(尋覚)に同じ」と云いますが、是が亦ややこしいので此れ以上の言及を控えます。若し母親が顕房の娘であれば、白河院は賢子中宮と師子(覚法法親王の母)の他にもう一人別の顕房の娘を愛していた事になります。
静証は隆明から三井寺唐院で潅頂を受けましたがその年月日は分かりません。白河・堀河両天皇の護持僧を勤めた隆明は三井寺羅惹院に住して、晩年には長吏職にも就いています。通称から判断して静証は隆明から御室戸寺と羅惹院の両方を譲られたらしいのですが、僧歴の方は一介の阿闍利に止まりました。恐らくは早逝したのでしょう。
〈7〉覚観阿闍利(生没年未詳)その他
覚観の名は『本朝皇胤紹運録』にも『系図纂要』にも見出すことは出来ませんが、小野流の潅頂記録である『伝法潅頂師資相承血脈』や『続伝燈広録』等に依れば、白河院の御子でありながら左大臣藤原家忠(1062―1136)の子として養育されたようです。覚観の母親に付いては何の手懸りもありません。家忠は京極摂政師実二男であり左右大将を歴任しましたから、覚観は「大将阿闍利」なる通称で呼ばれました。
『続伝燈広録』は覚観を広隆寺の僧としていますが確認できません。比較的詳しい事が分かるのは、大治三年(1128)十二月三日に醍醐寺の無量光院に於いて勝覚僧正から伝法潅頂を受けた事です。その時の職衆(しきしゅ/伴僧)は二十人で、醍醐に於ける潅頂としては大変な盛儀であったと云えます。
覚観の僧暦も僧綱に入ること無く凡僧の阿闍利で終わったのですが、意外に思えるのは『師資相承血脈』に十九人もの覚観付法資を列記している事です。非常に優れた仏法の器(うつわ/人材)でありながら早逝したらしいのです。(覚観に付いて知りうるのは大体以上の程度ですが関連史料等に興味のある方は拙著『日本密教人物事典』上巻の「覚観」の条を参照して下さい。)
最後に「その他」と云うのは、三井寺の『伝法潅頂血脈譜』の公伊法印弟子「尊観」に「白河院御子〔云々〕」と注記が施されているのが目に付いたからです。尊観(生没年未詳)に付いては『血脈譜』によれば、心輪房と称し若狭守藤原通宗(―1084)の子である事、公伊から保安五年(1124)正月二十二日に潅頂を受けた事、若狭已講(わかさのいこう)と呼ばれていた事、などが知られます。
果たして尊観が白河院の御子なのかどうか判断のしようも無いのですが、注意すべきは藤原通宗は大宰大弐経平の子であり、覚行法親王の母経子や中納言通俊と兄弟姉妹である事です。
(以上)
『柴田賢龍密教文庫』にアクセスして他の記事もご覧下さい。
〈3〉聖恵法親王(しょうけい 1094―1137)
世に花蔵院宮(けぞういんのみや)或いは長尾宮と称された聖恵の母親は、参議藤原師兼(1048―76)の女子です。師兼は、御堂関白道長の子息である右大臣頼宗の孫であり、また承保元年(1074)に参議になれたのは母方の祖父大納言源隆国の推薦に依るものでした。惜しい事に師兼はその翌々年に早逝しましたが、このように聖恵の母親の出自は申し分なく立派なものでした。
長治元年(1104)九月二十四日、聖恵は中御室覚行から仏戒を授けられて出家し、同年十月二十四日に東大寺で具足戒を受けました。その後天永三年(1112)九月二十一日、聖恵は仁和寺観音院に於いて法印大僧都寛助から伝法潅頂を受けました。また同年中に一身阿闍利の宣下を受けています。詳しい月日は分からないのですが、中御室覚行の例から考えて入壇前の事でしょう。
保安四年(1123)十二月三十日には親王の宣を蒙り、大治二年(1127)三月十九日には三品に叙されています。
大治五年(1130)には高野山に参詣して六月には引摂(いんじょう)院を造立供養していますが、在山中に興教大師覚鑁上人(1095―1143)を紹介されてその伝法院建立という志の実現に協力した事はよく知られています。『霊瑞縁起』という鎌倉後期に成立した古い上人の伝記によれば、大治五年二月に華蔵院宮聖恵が高野に登山した際、覚鑁は阿波上人青蓮房を介して宮に面謁を許され宿願の仏堂建立の事を語った。聖恵が覚鑁上人の素意について鳥羽上皇に奏聞(そうもん)した所、上人は院参を許されて上皇に自らの宿願を申し述べた。上皇は勅願として仏堂を建立すべき院宣を発し、同年四月八日に(小)伝法院が完成した等と記されています。実に是が鳥羽院の帰依を得て上人が栄光の年月を送る発端となったのです。
さて兄の法親王に比べると真言御修法に於いても、亦堂塔の供養に於いても、聖恵法親王の影が薄いのはやむを得ない事でしょう。それでも聖恵は広沢六流の中に数えられる花蔵院流の開祖として真言宗史にその名を輝かしています。仁和寺花蔵院に付いてはその創建の事など詳しい事は分からないのですが、共に東寺の加任長者にもなった延尋(992―1049)・済延(1012―71)両僧都が住した事で知られる由緒ある子院です。聖恵の次にはその付法弟子であり、覚法法親王の項で言及した堀河天皇の御子寛暁大僧正(1103―59)が院主になりました。長承元年(1132)九月二十一日、聖恵親王が孔雀経法の賞によって牛車(ぎっしゃ)の宣旨を蒙った時、寛暁も亦法眼から法印に昇叙されています。
保延三年(1137)二月十一日に聖恵は入滅しましたが『中右記』同日の条で藤原宗忠は、
午の時、仁和寺の長尾宮三品聖恵法親王が入滅した。年は四十四歳であった。やんごとなき(素晴らしい)真言の師匠であった。また持経者(経典をよく読誦できる人)でもあった。母親は今も生きている。故宰相(参議)師兼の娘である。
と記してその死を悼んでいます(実に宗忠は師兼の甥に当たります)。
〈4〉行慶大僧正(1102―65)
平等院或いは桜井大僧正と称された行慶の母親は備中守源政長(―1097)の娘です。政長の家系は宇多源氏です。政長は蔵人頭(くろうどのとう)を務める程実務に堪能な人でしたが、亦音楽に大変な才能があり堀河天皇の郢曲(えいきょく/俗曲)と笛の師範でもありました。行慶の母である政長の女子は『尊卑分脈』によれば「白河院の官女」でした。同書の注記に亦「御寵女 桜井僧正の母」と記されています。序でながら覚法・聖恵両親王の潅頂入壇の師である寛助大僧正は源政長の甥に当たります。また政長の他の娘は白河院弟の輔仁親王との間に仁和寺の信証僧正(1088―1142)を儲(もう)けています。
行慶は最初平等院大僧正と称された三井寺(園城寺)の行尊(1055―1135)の室(へや)に入って得度しました。行尊は天台座主にもなった高僧として亦歌人としても有名ですが、大峰・葛城・熊野の各山で抖藪(とそう)の修行を重ねて修験道の発達に大きな功績を残した人です。しかし行尊は生涯に一度も弟子の為に潅頂壇を開く事はありませんでした。
長承二年(1133)二月十六日、行慶は三井寺法輪院に於いて鳥羽僧正覚猷(1053―1140)から伝法潅頂を受けました。覚猷も白河法皇の寵僧として栄達を極め天台座主にまで成った人ですが、智証大師が秘蔵した三井寺唐院の密教図像類を研究するなど院政期の仏教に大きな業績を残しています。また行慶は一身阿闍利であった事が確認できますが、恐らく仁和寺の法親王と同じように入壇に先立ってその宣を受けたと考えられます。
同四年(1135)正月九日、行慶は本師行尊の譲りを受けて難波(なにわ/大阪)の(四)天王寺別当に任命されました。是は同寺の別当職が師資相承により譲補(じょうふ)された初例であるとされています。また他に白河法勝寺の別当にも成っていますが、上司の寺務検校は腹違いの兄の御室覚法であった訳です。更に仁平二年(1152)には三井寺長吏に成りました。しかし行慶にとって一番輝かしい経歴は近衛・後白河・二条と三代にわたって天皇の護持僧を勤めた事でしょう。
一方『寺門伝記補録』第十三の行慶伝によれば、平治元年(1159)に行慶は修験道鎮護の為に三井寺金堂の近くに熊野三所の社殿を作り、十一月十一日に遷座供養を行いました。このように本師行尊の薫陶を受けて、行慶も亦修験道の興隆に熱心であったようです。
ところで『本朝皇胤紹運録』『系図纂要』共に「桜井」と「狛(こま)」を行慶の通称としているのですが、是がどうも腑に落ちません。行慶以降、この桜井なる通称で呼ばれる寺門系の高僧が何人も出る事から、大和国桜井郡にあった寺院の名称に間違いないでしょう。しかしそれに相当する寺院に付いて具体的にはほとんど分からないのが実情です。桜井には天台宗の大寺院である多武峯(とうのみね)寺(現在の談山神社)がありましたが、是は山門系の僧徒が支配していたようであり、今問題の「桜井」とは関係ないと思われます。「狛」に付いても鎌倉中期の園城寺長吏道智(1217―69)がやはり狛僧正と称されていて寺院の名称に違いないと思われますがよく分かりません。
行慶の伝記で注意すべき事に後白河院(1127―1192)との関係があります。それは『寺門伝記補録』に、「後白河上皇は行慶大僧正を招いて胎蔵・金剛両部の大法と諸尊の儀軌をお受けになり、御持仏堂の壇上に大僧正の絵像を懸けて一日も欠かさず朝暮のお勤めをされた」等と述べている事です。後白河院の御出家は嘉応元年(1169)六月の事ですから既に四年前に行慶は亡くなっていて、上皇が行慶から両部大法を伝受した事などまずあり得ません。実際には後白河法皇受法の師僧は行慶の潅頂弟子である常喜院法印行乗(1125―84)であり、行乗の名が余り知られていない事と潅頂入壇の師である公顕大僧正(1110―93)の事とが重なって『補録』の誤伝に成ったと考えられます。
行慶は生涯に十人の弟子に伝法潅頂を授けましたが、その中に道恵法親王(1132―68)がいます。この人は鳥羽院の六宮(ろくのみや)で最初覚猷の室に入って出家し、一身阿闍利の宣下を受けた後わずか十九歳で久安六年(1150)に行慶から潅頂を受けています。その後天王寺の別当職を師から譲られ、また親王宣下を受けて三井寺の長吏にも成っています。このように鳥羽院政の後期には、一身阿闍利に加えて若年の潅頂入壇、親王宣下、大寺院の寺務職や勧賞の優遇などといった「法親王制の成立」が顕著に見られるのです。
〈5〉円行法眼(生没年未詳)
『系図纂要』に母親は陸奥(みちのく)守源有宗の娘であると記されています。有宗は村上源氏で為平親王(952―1010)五代の孫に当たります。円行に付いては他に三井寺の僧であり法眼に叙された事が分かる位です。寺門系僧侶の詳しい潅頂入壇記録である『伝法潅頂血脈譜』にも円行の名を見出す事は出来ません。
〈6〉静証阿闍利(生没年未詳)
静証は御室戸(みむろと)宮或いは羅惹(らじゃ)院と称された園城寺の僧ですが、『本朝皇胤紹運録』『系図纂要』共に母親に関する記載はありません。しかし『伝法潅頂血脈譜』には御室戸大僧正隆明(1019―1104)の潅頂資として静証が記されており、「白河院御子 仁証と同母」という注記があります。
此の仁証(1079―1134)も東南院法印と称された三井寺の僧であり、京極摂政藤原師実(最初の覚行法親王の項で言及しました)の子息です。仁証は静証と同じく公伊法印(1052―1134)の潅頂弟子であり、母親に付いては『尊卑分脈』に「(源)顕房公の女(むすめ)」と記されていますが定説は無いようです。『分脈』の頭註に「『今鏡』を按ずるに(師実子で興福寺別当の)尋範(尋覚)に同じ」と云いますが、是が亦ややこしいので此れ以上の言及を控えます。若し母親が顕房の娘であれば、白河院は賢子中宮と師子(覚法法親王の母)の他にもう一人別の顕房の娘を愛していた事になります。
静証は隆明から三井寺唐院で潅頂を受けましたがその年月日は分かりません。白河・堀河両天皇の護持僧を勤めた隆明は三井寺羅惹院に住して、晩年には長吏職にも就いています。通称から判断して静証は隆明から御室戸寺と羅惹院の両方を譲られたらしいのですが、僧歴の方は一介の阿闍利に止まりました。恐らくは早逝したのでしょう。
〈7〉覚観阿闍利(生没年未詳)その他
覚観の名は『本朝皇胤紹運録』にも『系図纂要』にも見出すことは出来ませんが、小野流の潅頂記録である『伝法潅頂師資相承血脈』や『続伝燈広録』等に依れば、白河院の御子でありながら左大臣藤原家忠(1062―1136)の子として養育されたようです。覚観の母親に付いては何の手懸りもありません。家忠は京極摂政師実二男であり左右大将を歴任しましたから、覚観は「大将阿闍利」なる通称で呼ばれました。
『続伝燈広録』は覚観を広隆寺の僧としていますが確認できません。比較的詳しい事が分かるのは、大治三年(1128)十二月三日に醍醐寺の無量光院に於いて勝覚僧正から伝法潅頂を受けた事です。その時の職衆(しきしゅ/伴僧)は二十人で、醍醐に於ける潅頂としては大変な盛儀であったと云えます。
覚観の僧暦も僧綱に入ること無く凡僧の阿闍利で終わったのですが、意外に思えるのは『師資相承血脈』に十九人もの覚観付法資を列記している事です。非常に優れた仏法の器(うつわ/人材)でありながら早逝したらしいのです。(覚観に付いて知りうるのは大体以上の程度ですが関連史料等に興味のある方は拙著『日本密教人物事典』上巻の「覚観」の条を参照して下さい。)
最後に「その他」と云うのは、三井寺の『伝法潅頂血脈譜』の公伊法印弟子「尊観」に「白河院御子〔云々〕」と注記が施されているのが目に付いたからです。尊観(生没年未詳)に付いては『血脈譜』によれば、心輪房と称し若狭守藤原通宗(―1084)の子である事、公伊から保安五年(1124)正月二十二日に潅頂を受けた事、若狭已講(わかさのいこう)と呼ばれていた事、などが知られます。
果たして尊観が白河院の御子なのかどうか判断のしようも無いのですが、注意すべきは藤原通宗は大宰大弐経平の子であり、覚行法親王の母経子や中納言通俊と兄弟姉妹である事です。
(以上)
『柴田賢龍密教文庫』にアクセスして他の記事もご覧下さい。
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