真言立川流の相伝者浄月上人の史料紹介と解説

「勝尾寺文書」の中に見える浄月上人関係の史料を和訳紹介し、併せて簡単な解説を試みることとします。

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真言立川流の相伝者浄月上人の史料紹介と解説

2008-04-29 03:13:21 | Weblog
真言立川流の相伝者浄月上人の史料紹介と解説


浄月上人は本編ブログ「金沢文庫蔵の真言立川流聖教の和訳紹介」に於ける空阿上人慈猛(1212―1277)に立川流を伝授した師匠であり、また同様に続編ブログ「続・金沢文庫蔵真言立川流聖教の和訳紹介」の意教上人頼賢(1196―1273)も此の人から立川流を相伝しました。
浄月上人は一般仏教史に於いては全くその名前を知られていない人ですが、鎌倉時代中期に活躍した摂津国勝尾寺の僧であり、『箕面市史 史料編一』の勝尾寺文書には上人起草の文書五通を含めて少なくとも八通の関連文書が採録されています。此のブログはこれ等総ての文書を和訳解説して、幾分なりとも浄月上人の実像を浮かび上がらせる事を目的としています。

勝尾寺は大阪府箕面市の北東部の山中にある高野山真言宗の寺院で、本尊の十一面観音は西国三十三所観音中の一体として第二十三番札所にもなっています。その参道沿い渓谷の紅葉と雄壮な滝で知られる観光名所でもありますが、その開創は古く奈良時代にまで遡ります。仍ち光仁天皇の皇子開成によって宝亀年間(770-781)の頃に伽藍が造営され弥勒寺と称したのが当寺の濫觴であると伝えています。
平安時代中期には天台宗総持寺の別院として「勝尾山寺」と称されていた事がわかっていますが、鎌倉時代になると浄月上人に見られるように真言宗の影響が強くなったようです。しかし、勝尾寺の法流に付いての研究はほとんど為されていないらしく詳しい事はわかりません。
勝尾寺史の概略に付いては日本歴史地名体系28『大阪府の地名Ⅰ』の「勝尾寺」の項を参照して下さい。

『箕面市史 史料編一』(勝尾寺文書)
No.178 本住吉(もとすみよし)神人(じにん)百姓等請文(うけぶみ)案
(朱筆)「神人百姓等連署状案」
本住吉神人等、領家の仰せに依り存知すべき旨申し請け了んぬ(「領家」の傍らに「浄月上人の事なり」と朱注あり)。件の社領に於ては、領家御得分の所当米幷びに佃、小法師原の給田等は勝尾寺の東谷の御持仏堂に寄進せる由、仰せを蒙り畢んぬ。仍って御一期の後は常住の僧徒の為に、御時料幷に公事(くじ)等に於ては、一心一向に領家御存生の時の如く存知せしむべく候う。御遺言に於ては違失すべからざる由、仰せを蒙り畢んぬ。此の旨を以て神人等、子々孫々に至るまで存ぜしむべく候う。若し此の旨に背きて疎略・懈怠(けたい)、を致し候わば、日本国中の有勢無勢の大小神祇、冥道の罰を、神人等蒙るべく候う者なり。
  宝治元年(1247)〔歳次丁未〕八月三十日
       僧教明   僧浄徳
       僧文慶   僧教円
       僧慈明   津守是弘
       津守為弘  同子為永
       津守忠友  同 子
       津守    津守
       僧源慶   同 子
       僧信慶   同子忠元
       津守友安  同 子
      (朱注)「当社領の公文」
       沙弥西明  同子真重
      (朱注)「連署状執筆の仁なり。明円、之を承伏す。」
(朱注)「已上両通の状は、本住吉社領を以て勝尾寺東谷の浄月上人建立の持仏堂に御寄進し、僧衆の計いと為すべき旨、之を言い置かると所見すなり。」
(朱注)「浄月上人自筆の袖書」
此の田ハ慈王の給田に宛て給い了んぬ。仍ち社分の公事・所当を免じ了んぬ。〔在判〕「浄月の判なり」一期の後に妨げを致す輩あらば、此の谷の僧衆に訴え申し、其の妨げを停止すべし。此の状を以て扶持せしむべき状、件の如し。

コメント:浄月上人が領家として支配する本住吉社領を勝尾寺東谷に自ら建立した持仏堂へ寄進した事につき、領地の神人僧等が是を承諾して上人一期の後も同様に常住僧の扶持に励む事を誓約した請文です。位署に記された津守某は若しや上人と同族の人達でしょうか。
本住吉社は摂津国兎原郡にあり(神戸市東灘区住吉宮町)、伝承に依れば住吉大社遷座前の本地とされます。浄月上人は恐らく此の本住吉社の社務家の出身なのでしょう。此の事については後出の第216号文書を参照して下さい。
最後の上人自筆の袖書に記された慈王なる人物に関しては第198号文書に於いても言及されています。

No.188 後家石梨子氏田地売券案
故延清相伝の田を沽却し渡し進むる立券文の事
     〔建長三年(1251)五月十八日 浄月在判〕(朱注)「已上自筆」
  合佰捌拾(180)歩は
  摂津国本住吉御領田に在るなり。
右件の田、元は延清死去の後に彼の後世を訪(とぶら)わんが為、後家の沙汰して件の田を沽却せしむべき由を申し候う処、領家の此の田(事カ)を聞こし食して、件の田は全く以て他人に売るべからず。三ケ年の所当にて伝領すべき処なり。但し、件の後家一期の間は所当・公事を免除して預け給うべき由、仰せ下され畢んぬ。仍って領家の仰せの旨に任せて沽却し渡し進むる所は明白なり。向後(きょうご)更に他の訪(×妨)げあるべからず。仍ち後日の沙汰の為、新たに券文を放てる状、件の如し。
  建長二年八月十八日       後家石梨子氏〔在判〕
 御一期の後、件の田に訪(×妨)げを致すべからず候う。 高円〔在判〕
仍ち署判を加え申す処は明白なり。           国利〔在判〕

コメント:次の第189号と一具の文書。本住吉社の御領田内に延清なる人物が相伝していた田の沽却状(売り渡し状)です。
延清の死後にその妻が夫の追善供養の費用を捻出するために田を売却しようとしたが、領家が介入して「他人」に売り渡すことを禁じ、年貢三年分で田を買い取ることにした。但し後家が生きている間は引き続き年貢を受け取ることが出来るという条件が付いています。
この「領家」とは189号文書を見ると、旧来の領家から権利を買い取った浄月上人その人を指すようです。従って延清と上人とは近縁関係にあったと考えられます。又た標題下の浄月自筆の日付は本文作成時から九箇月も経過していますが、誤写なのかどうかよく分かりません。


No.189 浄月上人田地宛文案
(朱筆)「浄月上人宛文」
延清佰捌拾(百八十)歩の田を後家一期預け給う事
右、件(くだん)の田は、直物(じきもつ)に限り領家より買領せるが、後家一期の間、所当・公事(くじ)を免除して預け給う処なり。若し使等、下知の状に背き所当・公事を宛て行わば、子細を衆僧に訴え申すべし。仍って向後(きょうご)の証文の為に仰せ下す所、右の如し。
    建長二年(1250)八月十八日
〔領家浄月上人判形〕
  在判

コメント:上の第188号と一具の文書。即ち沽却状に記された後家一期に関する条件が領家の浄月上人によって保証されています。
又た当時上人は既に相当高齢に達していたと考えられますが、後家一期の後は誰が延清田を沙汰(支配)するのか記されていません。所当・公事免除の件につきトラブルになった時は「衆僧」に相談するよう指示していますが、是は本住吉社の神人僧を云うのでしょうか。

No.198 浄月上人裏書案(朱書)「浄月上人自筆の裏書」 
(朱書/見せ消ち)「貞永二年(1233)正月廿五日 文屋則安売券の裏書。浄月上人自筆」
この則安が田は慈王に宛て行い(あてがい)給える所の田なり。同九条二里二十九坪神殿
九条二里廿七坪半 これハ慈明御出挙(すいこ)五石の代
          〔曳き募り進上する所の田ヲ自上〕
慈王が給田に宛て給える所なり。所当・公事は皆な免ずる所なり。之を以て衣食の助けと為し、在庄の時ハ時料(ときりょう)と為し、東谷にあらむ時ハき物(法衣か)として、他心なくして、東谷おくの持仏堂例時懺法を懈怠(けたい)無く勤仕せしむべし。更に人に語らわるべからず。若し浄月一期の後に所ノ沙汰人、妨げを致さば、此の状を以て僧衆に訴え申すべし。此の用途を受用(じゅゆう)して未来際を尽くすに至るまで浄月の後世菩提を訪(とぶら)うべき状、件の如し。
   建長五年(1253)六月十三日       浄月〔在判〕
(朱筆)「已上、袖書・裏書等は当社領の田畠、東谷僧衆の計(はから)いたるべき旨を定め置かるる類書なり。」

コメント:浄月上人が田畠売券(権利書)の裏に記した慈王宛ての譲状である。此の慈王は上人の入室(にっしつ)の弟子と考えられるが、名前から判断して未だ受戒に及ばない若年者らしい。然しながら上人が自らの後世を託した人物であるから余程の信頼を得ていたのであろう。
東谷の持仏堂は後の216号文書に記されているように、上人が勝尾寺東谷に建立した堂舎であり、又た最後の朱書に云う「当社」とは同文書によって「摂津国兎原郡内本住吉社」と知れる。

No.199 印信血脈案
(朱筆)「印信血脈案」
許可金剛弟子浄月両部伝法潅頂密印(左の「浄月」は「聖舜」と記されるべきであり、不審と言わざるを得ない。)
   〔自余は之を略す〕
 建長六年(1254)〔甲寅〕十月十五日  弟子聖舜
伝授阿闍梨伝燈大法師位浄月、之を示す〔在判〕

「同」
金剛界伝法潅頂密印
   〔自余は之を略す〕(省略部に胎蔵界密印もある筈です)
 建長六年〔甲寅〕十月十五日〔井宿〕 弟子聖舜
伝授阿闍梨伝燈大法師位浄月、之を示す〔在判〕

「同」
伝法潅頂秘印
   〔自余は之を略す〕
 建長六年〔甲寅〕十月十五日  弟子聖舜
伝授阿闍梨伝燈大法師位浄月、之を示す〔在判〕

「同」
授与伝法潅頂最秘密印
   〔自余は之を略す〕

コメント:浄月上人が弟子聖舜に授けた四通の伝法潅頂印信を集めた文書です。肝心の印真言が総て省略されていますが、印信の書き出し部分を本編ブログに記した慈猛が審海に授けた諸印信と対比することによって、これら四通の印信の種類を特定する事ができそうです。
先ず最初の許可(こか)印信は本編ブログの10.No.6237「伝法潅頂密印」であると考えられます。書き出し部に「許可金剛弟子審海両部伝法潅頂密印」と云います。慈猛は是を一通り伝法潅頂印信を授けた後、第二巡目に授与していて順番が相違しています。
次の伝法印信は1.No.6226「両部阿闍梨位印」であり、その次の「秘印」は6.No.6233「伝法潅頂秘印」、そして最後の「最秘密印」は9.No.6236「潅頂最秘密印」と考えられます。最後の印信は醍醐の第二・第三重印明に当たる事を本編ブログに説明してあります。
以上の推測が正しければこれ等の印信も総て醍醐仁寛流すなわち立川流の印信になります。又た今の場合、浄月上人は聖舜に対して是等四通の印信を建長六年10月15日一日に纏めて授与したのです。

No.200 浄月上人書状案
存知せしむる間、沙汰者願成房 事に源慶いろうまじきよし起請(きしょう。誓約書)をかゝせける事、「是れ極めて上の為め彼の女の為めに僻事(ひがごと。不都合)なり」の由下知し了んぬ。〔其の故ハ〕相互に語らいて公事をも共に勤仕する義ならハ、こゝろゆきて返せとこそ存じたるお   作人三段も四段も、源慶とかたらいて作らする事ハゑし候うまじ。日来遺恨に思い候いつる事なればと申す間、「此らは預所に訴え申すべきなり。此て事を切りて耕作をも為すべきなり」の由下知 所、  を使を切り付けテ責むる条、以ての外の僻事なり。縦い約束ありと雖も人領を妨げて、返すべき時に返さずして公事を切り宛て、日来五年作り取りて七斗の物を置くべきや。彼の責使にも下知せしめ給うべし。又た彼の預所殿にも此の由披露あるべきなり。穴賢々々。
   十二月廿七日               浄月〔在判〕
(朱書)「已上両通の状は上人の自筆なり。類書と為(し)て之を進覧す。」

コメント:朱書に云うように両通が兼備していれば具体的な事情が判明するかも知れないが、此の文書だけでは詳しい経緯は分かりません。それでも浄月上人が領家として仲裁命令に当たっているらしい事が推察されます。文中の源慶なる人物は最初の178号文書に署名しているのが見えます。又た文中の「彼の女」とは若しや189号文書に登場する「後家」のことでしょうか。

No.211 住吉大神宮禰宜(ねぎ)公文(くもん)両職補任状案
(朱筆)「禰宜公文両職宛文(あてぶみ)案 (抹消)浄月上人宛文案」
                     (朱筆)「浄月上人」領家〔在判〕
補任 住吉大神宮禰宜幷に公文職事
  弓削真安
右、彼の人を以て社家の両職に補任すること先例に任せ畢んぬ。早く社務を掌り、而して神事已下を違例無く奉行せしむべき者なり。仍って神人(じにん)・供僧・在地人等、宜しく存知せしむべし。違失せしむること莫かれ。補任の状、件の如し。
  正嘉三年(1259)二月十八日       僧浄仏〔在判〕
              (朱注)「定乗なり」僧慶祐〔在判〕
僧蓮仏〔在判〕
(朱筆)「当社領は定乗別して相伝せる地に非ざる間、宝治(1247―49)以後に浄月上人、之の如き宛文を成され、定乗も又た僧衆の一分と為(し)て署判を加え了んぬ。正文 当公文重舜之を帯す。仍ち此の宛文を以て四十余年当知行し、今に相違無き上は、故上人の所領せる条異論無き者なり。」

コメント:弓削真安なる人物を住吉大神宮の禰宜兼公文に補任することを記した文書。日付の下に三名の僧侶が署判(名前と花押)を加えているが、領家として袖部に花押(袖判)を加えた浄月上人が此の補任状の発給者です。
今まで見てきた文書から浄月上人が本住吉社の実力者である事は容易に推察されますが、此の文書が記すように住吉大神宮の神職や荘官を任命しているのは、一体いかなる権限に基づいているのか分かりません。普通には神職・荘官の補任権は社務、即ち宮司か宮寺の別当が所有している筈です。いずれにしても浄月上人は本住吉社のみか大神宮にまでその影響力を有していたのでしょう。

No.216 浄月上人置文案
(朱筆)「浄月上人置文留案」
勝尾寺東谷に建立せる所の持仏堂に摂津国兎原郡内本住吉社領田地を寄進する事
  合拾肆(十四)町の内、神田伍町・神戸田九町は次第相承の証文四通相い副う
右、件の社領は、予、先祖より相伝する所なり。而して勝尾寺は、四聖往生の跡、(阿弥陀)三尊来迎の砌なり。茲に因って聖跡を貴び  なり。此の山に止住して練行すること年旧(ひさ)し。爰に八旬の齢
       彼の浄土(極楽浄土)に寤寐(ごび)することを望深す。仍って一宇の持仏堂を建立して九品教主尊(阿弥陀如来)を安置し、彼の相伝の領田を寄せ、遥かに菩提の善苗を植う。社頭恒例十二ヶ月の神供を備え奉る用途の外に於いては、或いは仏聖燈油を備え、或いは僧食・修理に配す。就中(なかんず)く止住の僧侶に於いては、三衣一鉢を帯さず、持戒定斎に非ざるよりは、吾が寺の器なること能わず。柔和忍辱(にんにく)を以て先と為し、道心慈悲を以て本と為す。朝暮に怠らず、日夜に心を励まし、宜しく予の菩提を訪らい寺の興隆を致すべし。若し彼の社頭の為に証文ありと称して沙汰を致す輩に於いては、謀書と号して罪科に所(処)すべし。諸事、僧衆和合して、進退領掌を為すべし。全く他の妨げあるべからず。加之(しかのみなら)ず異議異説を吐きて違乱を成せる衆は、是れ則ち梟悪(きょうあく)の輩、狼藉の族なり。須らく寺内より追却し、僧中より濱(擯)出すべし努々々(ゆめゆめ)穴賢々々。此の状に違失すること莫れ。此の遺状を破れる輩に於いては、今生現世に必ず三宝の罰を蒙り、当来(来世)には無間(むげん。無間地獄)の底に堕ちるべし。或/吾志之至諸仏捨諸而已(文意やゝ不明)。又た後日の証券の為、連署し判行を加えしむのみ。
(朱筆)「本案の定」
(抹消)「正嘉弐年(1258)〔戊午〕十一月十六日」
              (朱筆)「自筆を以て名字二字を書き判を加え了んぬ」
              (抹消)「名字二字は自筆なり」
 正元元年(1259)〔己未〕五月 日       浄月〔在判〕
                       金剛仏子〔々々〕
(朱筆)「(抹消)『此の置文の正文は』去る正元の比、『東谷の仏閣僧房回禄(焼失)の後に』明円離寺の刻に『之を捜し取り畢んぬ』、件の置文の正文已下の重書等悉く之を捜し取り、洛陽(京都)に移住せしめ畢んぬ。而して上人加判の留案相い残れる間、之を進覧す。」

コメント:浄月上人(1180頃―1259?)が、勝尾寺東谷に建立した持仏堂に自ら相伝の本住吉社領田地を寄進する事と、弟子僧達に対する遺誡とを記した置文の案文(写し)。
此の社領について「先祖より相伝する所」と述べていますから、上人は本住吉社を支配する有力な家の出身者であると考えられます。また文中に「八旬の齢」すなわち八十歳と云うから、逆算してその生年も大体分かります。
しかし最後の朱書の抹消部に依れば、此の置文が作られて幾年を経ること無く正元年間(1259―60)に持仏堂は火災の為に消失してしまいました。又た朱書の書き様からすれば、上人は此の置文を認めて程なく入滅したらしく思われます。
朱書中に見える明円なる僧は、上人と連署している「金剛仏子」と同人でしょうか。猶お第201号文書「沙弥真覚田地売券案」にも「明円自筆留案」なる朱筆があります。

さて最後に浄月上人が付法弟子の覚証に授けたものらしい『内護摩口決』なる書が現存しているので、その事に付いて簡単に述べておきます。
本編ブログで記したように浄月上人の立川流相伝は、
蓮念(仁寛)  見蓮  覚印  覚秀  浄月
と次第したものですが、上人の師匠である覚秀に付いても、又た受法年時や灌頂道場に付いても確かな事は何も分かっていません。一方、上人には本編ブログの空阿上人慈猛や、続編ブログの意教上人頼賢のような密教史の上で著名な弟子僧がいたのですが、他にも多くの弟子がいたことでしょう。
金沢文庫には称名寺の住僧澄尊が相承した立川流印信が八枚伝わっていて、その血脈次第は、
蓮念  見蓮  覚印  覚秀  浄月  覚証  豪瑜  澄尊
と成っています(櫛田良洪著『真言密教成立過程の研究』p.353参照)。
而して大覚寺蔵の永禄八年(1565)写『内護摩口決』一帖の奥書に、
建長七年(1255)十月十七日 覚證
伝燈大法師位浄月、覚證に之を授く。
此の抄は秘本(なり)。
と記されています(『大覚寺聖教目録』第三函第十五号)。

今後更に浄月上人や立川流全般に関する研究が発展する事を期待して此のブログを終了させて頂きます。次のブログは愛染明王をテーマに取り上げる予定です。

(以上)





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