真言立川流の相伝者浄月上人の史料紹介と解説

「勝尾寺文書」の中に見える浄月上人関係の史料を和訳紹介し、併せて簡単な解説を試みることとします。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

三輪上人慶円の立川流相伝の事〈其の三〉

2013-07-26 22:19:22 | Weblog
三輪上人慶円の立川流相伝の事〈其の三〉


訂正と補遺
●訂正の事:
第三章に於いて『諸流潅頂』の醍醐仁寛流「秘密潅頂血脈」の相承に関して、「又塩野佛心房アバン、バンア(梵字:avam,vam-a)より之を伝う。」なる注記があり、更に、
「又」「三輪上人、バンア(梵字:vam-a)より伝うる年」と注記して、
正治元年(1199)二月五日、慶円、之を伝う〔云云〕。
 建保五年(1217)四月廿一日、心海、之を伝う。
と記されている事を紹介してから、続けて三輪上人の此のバンアからの伝法に付いて「(塩野佛心房)バンアから是を重受」と間違って書きました。アバンとバンアは別人であり、「塩野佛心房」はアバンの通称であってバンアの事ではありません。
従って以下の文章も訂正する必要が生じるのですが、アバン・バンアに付いては不明な点が多い事と、今後新しい知見を得る可能性もある事から、暫らくそのままとさせて頂きます。
●塩野佛心房アバンの事
『諸流潅頂』の注記だけでは、果たして三輪上人慶円がアバンから潅頂を受けた事を示しているのかどうか不分明であると言えます。又此のアバンの事績に関してはほとんど何も分からないと言えますが、同一人かもしれない阿鑁なる人に関する史料を二点紹介します。第一は『金沢文庫古文書 第九輯 佛事編下』に収載する一連の仁寛(蓮念)流(立川流)印信類の中に見える「阿鑁阿闍利」です。それはNo. 6254「檀上潅頂心法心血脈」であり、弘長二年(1162)五月十八日に鑁吽が憲海に授けたもので、即身成仏の観想文と相承血脈と印言が一続きに記されています。観想文の内容には鎌倉中後期の風(趣向)が感じられて平安末まで遡るかどうか疑問ですが、その「相承次第」は、
(前略)範俊僧正 勝覚僧正 蓮念阿闍利 見蓮聖人 阿鑁阿闍利 鑁吽阿闍利 憲海
と成っています。
見蓮は白河院政後期から鳥羽院政期の人と考えられるので、阿鑁は後白河院政期前後の人でしょうが、鎌倉時代初期まで活動していた事もあり得るでしょう。ただ憲海が阿鑁の弟子鑁吽から弘長二年に此の印信を授けられたとすれば、阿鑁・鑁吽師資は二人ともかなり長命であった必要があり、此の血脈には欠落部があるような気がします。それでも此の「阿鑁阿闍利」が「塩野佛心房」である可能性も否定できないので、今ここに紹介したのです。
第二は醍醐寺蔵『伝法潅頂師資相承血脈』の「小嶋流」の条に見える中坊方祖行尊の付法弟子「阿鑁」であり、その相承血脈は、
真興 春秀 利朝 太念 能尊 行尊 阿鑁
であろうと考えられます。又行尊の付法資には高野の大智房「基舜」も記されていて、此の阿鑁の活動期も平安末に比定できるでしょう。
●慶円弟子の阿鑁と実賢弟子の阿鑁
話が大変ややこしくなりますが、慶円には伝法の師と同名の付法弟子阿鑁・鑁阿がいます。ここでは先ず阿鑁に付いて述べます。既に第三章に於いて、櫛田良洪著『真言密教成立過程の研究』で紹介されている「菩提心論潅頂印明の血脈」を示して、常観房慶円が慈教房阿鑁に之を授けている事を明らかにしました。
又、上記『伝法潅頂師資相承血脈』の「三宝院流」の一段を見ると、金剛王院大僧正実賢(1176―1249)から仁治三年(1242)七月九日に伝法潅頂を受けた蓮海上人阿鑁がいます。醍醐寺座主実賢は当時関東掛錫(けしゃく)の最中であり、此の蓮海上人なる阿鑁も関東を中心に活動していた人なのでしょう。年代の上では慶円弟子の慈教房と蓮海上人という二人の阿鑁は同一人物である事も考えられます。
又葉室(藤原)定嗣(1208―72)の日記『葉黄記』には同じ頃に活動していた「阿鑁阿闍利」に関する記事があります。それは宝治元年(1247)正月の記事であり、25日に阿鑁阿闍利を自宅に招いて長日(ちょうにち)北斗供の事に付いて相談し、翌26日には本尊の北斗曼荼羅を製作して同阿闍利に開眼供養させています。此の阿鑁阿闍利に付いても他に参照できる史料が見当たらず、慶円弟子の慈教房との同異について判断する事は出来ません。
●慶円弟子の鑁阿
次に慶円弟子の鑁阿に付いてですが、『大日本古記録』の『民経記』第八巻に収載する「経光卿維摩会参向記〔嘉禎元年(1235)十月八日より十六日に至る〕紙背文書」の中に、上人自身と弟子鑁阿に関する興味深い史料があります。それは龍門寺の護摩供田の相論に関わる文書であり、三輪上人慶円と「寺家(興福寺)」との関係や上人の「嫡弟」に付いて新しい知見を与えてくれます。
先ず「紙背文書」の第一紙は前後欠である上、文中にも欠失部が多く、全体の正確な内容を知るのは困難ですが、『民経記』編者の注記も参照して大体の内容を箇条書きにして下に示します(一部に推測を含みます)。
(一)「宗意」は自分の事を「上人(慶円)の嫡弟」と称しているが、上人の臨終の時(貞応二年(1223)正月27日)に参合しなかった。
(二)宗意は上人入滅以前から相論(訴訟)を企て、鑁阿に渡される筈の「寺家(興福寺)の御下し文」を横領して、今「無道の相論」に及んでいる。
(三)「件の護摩供田」は龍門寺に設置されるのが当たり前で、「三輪別所(平等寺)」に置く事はあり得ない。
(四)此の事に関しては既に「寺家理趣院(範円)御寺務の時」、両方から提出された証文を御覧になって、「静西の譲り」は間違いないから「文書の理に任せて鑁阿の進止たるべき由云々」と仰せ下されたのである。(範円の興福寺別当在任期間は貞応二年二月七日以後、嘉禄二年(1226)七月13日以前)
(五)是に依って「鑁阿は龍門寺に於いて長日の護摩供」を怠る事無く勤行している。
(六)宗意の方から提出された申し状(陳述状)は、色々と不備・不自然な点があって信用できない。
次に「紙背文書」の第二紙も前欠していますが、残存部の冒頭に、
(龍門寺の)所司等、謹み以って言上すること、件の如し。
     嘉禄三年(1227)三月 日     龍門寺所司等〔上〕/〔在判〕
と記されていて、第一紙と同一文書の末部に相当するようです。
以上の諸点を参照して事の概要を推察すれば、慶円上人の滅後にその遺領(護摩供田)をめぐって、龍門寺の鑁阿と三輪別所の宗意との間で相論になったという事でしょう。文書の差出人が「龍門寺所司」となっていますから、三輪別所と龍門寺の間の係争案件と見る事も出来るでしょう。
龍門寺(廃寺。奈良県吉野郡)は龍門瀧を中心に発達した古代の山岳寺院で、平安時代前期には大寺院として知られ、藤原道長は治安三年(1023)十月の高野参詣の途次、当所に宿泊して瀧の付近を参観しています。三輪別所(平等寺。奈良県桜井市)は古く聖徳太子の創建という伝承があり、慶円によって中興された後、比較的早い時期に平等寺と称されていたようです。中近世を通じて三輪明神の別当寺(宮寺)の地位にありましたが、明治維新の廃仏で廃寺となり、現在は再興されて三輪山平等寺(曹洞宗)を称しています。
第二紙には続けて寛元元年(1243)十一月日付の「龍門寺の沙汰人等」に宛てた下知状が記されています(是にも数箇所の欠失部があります)。標題に、
相伝幷(ならび)に代々の(興福寺別当の)御下し文の旨に任せて鑁阿をして龍門寺の寺元菅生別所護摩供田一町八反を領知・領掌せしむべき事
と云い、内容の大体を知る事が出来ます。即ち龍門寺の護摩供田の本家職である興福寺別当が代々発給した安堵(あんど)状の趣旨の通りに、供田の庄官・百姓に対して鑁阿の支配に従うよう命じた興福寺別当(円実)の御教書(みきょうしょ)です。
そして此の御教書に所載する「鑁阿請状」には、慶円と興福寺との関係を示す注目すべき記述があります。即ち「請状」の冒頭以下に、
彼の(護摩)供田は、先師三輪上人(慶円)、故二条僧正御房(雅縁)の御寺務(興福寺別当)の時、御下し文を賜り、始めて護摩供田を(龍門寺に)寄進せられ了んぬ。即ち鑁阿は之を伝領して、(後に)理趣院(範円)・大乗院(実尊)の御下し文を賜預し了んぬ。
と記されていて、慶円が龍門寺に於ける長日護摩供の料所(供田)を寄進するに当たり、興福寺別当(寺務)の安堵(保証)を求めていた事が分かります。当時の別当雅縁僧正(1138―1223)と慶円との個人的な関係に付いては今後の研究に俟つとして、慶円が興福寺別当の権威を認めて、その庇護の下に佛事の勤修を企てていた事が明らかです。
参考までに『興福寺寺務次第』(続群書類従4下)によって、承久二年(1220)正月十六日の雅縁補任(第四度)以降の同寺別当を列挙すれば、
範円 貞応二年(1223)二月七日以後の補任
実尊 嘉禄二年(1226)七月13日補任
実信 寛喜二年(1230)三月日補任
円玄 貞永元年(1232)三月八日補任
実信(第二度) 天福元年(1233)三月27日補任
円実 嘉禎元年(1235)三月四日補任
定玄 寛元二年(1244)正月一日補任
となります。即ち上記寛元元年の御教書(下知状)は興福寺別当円実によって発給されていた事が判明します。
又鑁阿は慶円を「先師」三輪上人と称していますが、始めの「龍門寺所司」陳状(四)によれば「護摩供田」を慶円から直接譲られたのでは無く、「静西」から譲られたらしく思われます。

以上(平成25年8月7日)
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 三輪上人慶円の立川流相伝の... | トップ |   

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事