真言立川流の相伝者浄月上人の史料紹介と解説

「勝尾寺文書」の中に見える浄月上人関係の史料を和訳紹介し、併せて簡単な解説を試みることとします。

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三輪上人慶円の立川流相伝の事(其の一)

2013-04-04 02:22:33 | Weblog
三輪上人慶円の立川流相伝の事(其の一)

日本の佛教は飛鳥時代の聖徳太子以来、在来の神祇信仰に対して寛容であり、佛教僧侶が八百万(やおよろず)の神々と敵対した物語は一部を除いてほとんど知られていません。それは教理的側面に固執するより現実的な有り様を重視する日本人の実際的性格に起因するのでしょう。当初は大陸から渡来した佛菩薩と在来の神祇は別々に祀られて互いに交渉する事もありませんでしたが、聖武天皇が宇佐(大分県北部宇佐市)の八幡神の託宣を受け入れて奈良の大佛を造立した事と、次いで平安時代初期に八幡神が自らを「大菩薩」と称した事は、その後の日本に於ける佛教と神道の共存共栄の道に大きな方向性を与えたと云えるでしょう。その後平安時代の中期以降、延暦寺の鎮守である日吉(ひえ)山王権現が天台宗の隆盛に伴って全国に進出した同宗寺院に祀られたように神佛の習合が一般化し、特に密教にあっては台密・東密を問わず平安後末期には神祇に関する習い事(口決)が多く作られて相伝されるようになりました。
東密三十六流の中に数えられる真言三輪流は、そうした密教と神祇信仰の融合を如実に示す一典型と云う事が出来ます。但し同流と云えども、鎌倉時代中期以前に於ける神佛習合の実態はそれ程明らかで無いと云うべきでしょう。すなわち現存史料に照らして、神祇潅頂に代表される神祇に対する密教作法の体系が出来上がったのは鎌倉後期になってからの事と考えられます(但し神祇潅頂だけを取り上げれば、鎌倉中期には既に行われていたと言います)。
さて『神道大系 論説編 真言神道(下)』には真言三輪流乃至三輪流神道に関連する多くの史料が収載されていて、同流を研究する上で大変重要でしかも便利な書籍ですが、その中に三輪上人慶円(1140―1223)が授受した潅頂印信類を集めた『諸流水丁(潅頂)部類聚集』と題された書物が収められています(p.87―108)。所載の慶円相承血脈が総て慶円付法資の性心で終わっているので、本書は性心が類集したらしく思われます。又本書は慶円という比較的著名な人物に関わる真言諸流の詳しい潅頂受法記録であり、鎌倉前期という時代を考慮すれば真言宗史に於ける諸流潅頂に付いての大変貴重な史料であると云えるでしょう。一方、慶円上人と立川流との関係は従来から指摘されている事ですが、本書に記す「光明潅頂」の相承次第は立川流即ち醍醐仁寛方の血脈であり、本書に依って始めて上人の真言受法全般に於ける仁寛(蓮念)方の占める位置に付いて考究が可能になると云えるでしょう。

(1)三輪上人慶円相承の潅頂諸印信
(印信の数が多いので、私に〈〉中に番号を打って示します。その数え方は、解釈により相違しますから、一応の説である旨諒承して下さい。)
『諸流水丁部類聚集』は先ず「阿弥陀院(大智房基舜)御伝」として〈1〉「小野大乗院の良雅阿闍利(―1089―1122)の流」・〈2〉成就院流・〈3〉~〈12〉南院流(子島流南院方)の都合三流十二伝を載せています。「南院」とは子島流祖真興僧都が高野山に開創したと伝え、『密教大辞典』に依れば南院流祖維範は真興から数えて第五代の付法資であり、維範―円尊―隆尊―基舜と血脈次第しています。
次いで「阿弥陀院流なり」と傍注のある〈13〉「二界密印」の印言と伝法血脈を載せて、
(前略)範俊 勝覚 聖賢 亮恵 房覚 勝尊 基舜 融源 興鑁 隆賀
と云い、更に潅頂年時に付いて、
長寛元年(1163)十月十二日、(高野)阿弥陀院に於いて大智房(基舜)より五智居(「居」は「房」の誤り)の御伝受し了んぬ。
と記しています。即ち高野の五智房融源が基舜(俊)(本名俊義。1084―1164.8.29)から受法した時の年月日ですが、又「已上の印(信)は三輪流に之有り」と注記して、その血脈は「勝尊 観而 覚日 慶円」であると云っています。そうするとここで「阿弥陀院流」と云っているのは、基舜よりはその師である勝尊の法流を指しているのかも知れません。基舜の伝法の師として「隆」尊なる人が記されている血脈があって「勝」尊は少し気に懸りますが、今はこれ以上の言及を控えさせて頂きます。猶、上の「二界密印」は「醍醐の第二重」としてよく知られる一印二明の潅頂印言です。
次に〈14〉「両部一体密印潅頂」〈15〉「両部各五部潅頂」を記した後に〈16〉「石山内供印信」を載せて、
建久六年(1195)三月十五日   金剛佛子慶円
と云いますが、受法の師や潅頂道場に付いては記されていません。
次に〈17〉「三部合行秘密汀(潅頂)印信」の後に〈18〉「五智佛汀印口伝」を記して、
建久三年(1192)三月二日   慶円
と云い、続けて是と一具らしい〈19〉「成就五智佛汀印口伝」を載せて、
建久四年(1193)八月八日、伝授すること了んぬ。   慶円
と云います。「伝受」では無く「伝授」と云うからには、慶円が授けた事になりますが、恐らく「伝受」の誤記であろうと考えられます。
次に〈20〉「菩提心論汀」を記して、
建保五年(1217)四月八日夕、三輪山に於いて口決し了んぬ。
と云い、是は次出の史料に依って慶円が弟子性心に授けたものと知れます。次の〈21〉「菩提心論汀印信」では、潅頂印言と「八葉白蓮一時(「時」は「肘」の誤り)間」の四句偈と「口決」を記してから、
治承二年(1178)正月廿一日、之を伝う。   慶円
建保五年(1217)四月十二日、性心に之を伝う。
と述べ、更に「又口決」を記して、
建久八年(1197)二月二日、伝受し了んぬ。
と云います。その次に〈22〉「菩提心論三部大日汀法」と〈23〉「又一師説」を載せていますが、以上四伝の菩提心論潅頂に関する一連の口決を慶円が誰から伝受したのか一向に記載されていません。
次に〈24〉「受命汀印信」を記して、
 建保五年(1217)四月廿一日、伝受し了んぬ。
伝燈大法師位慶円、資性心に授け了んぬ。
と云い、次いで口伝等を記して「受命汀血脈」を出だし、
(前略)仁海僧正 寂円大法師 俊円大法師 永久阿闍利 仲叡阿闍利 堯仁阿闍利 慶円大法師 性心大法師
 建保五年四月廿一日、之を示す。
と云います。此の受「命」(受明)潅頂印信は一般に、範俊―勝覚―聖賢という伝法次第で知られていますが、是は上醍醐の理趣房寂円の法流です。その事よりも二種の相承血脈を対照して、受明潅頂印信の本説が仁海僧正の口決にある事を確認できる点で、今の印信は大変貴重な史料であると云えます。
その次に載せる〈25〉「光明汀印信」は、別ブログ『金沢文庫蔵真言立川流聖教の和訳紹介』で解説した空阿上人慈猛(じみょう 1212―77)が金沢称名寺長老審海(?―1304)に授けた一連の仁寛(蓮念)方潅頂印信の中の8. No.6235「光明潅頂印信」に相当します。その事は次出の〈26〉「光明汀血脈」が蓮念方血脈である事からも確認できます。但し慈猛の印信では「印は口伝」とのみ云いますが、今の慶円相承の印信は口伝の印を記すのみならず、両印信の口決内容は大きく相違しています。これらの事に付いては第二章に於いて詳しく検討します。今の印信末尾に、
建保五年(1217)四月八日、之を示す。
 伝燈大法師位慶円、資性心に授け了んぬ。
と云い、又血脈に、
(前略)範俊 勝覚 蓮念 観蓮 覚印 覚秀 慶円 性心〔改め心海と名く〕
 建保五年四月八日、之を示す。〔三輪山に於いて伝授し了んぬ。〕
と記しています。
次に載せる〈27〉「一宗大事潅頂印信」は終わりに、
是の両印言を以って両界最極秘事と云うなり。入室写瓶の中より一人を撰んで、最後(の期)に之を授くべし。穴賢(あなかしこ)々々。
 文治三年(1187)十一月一日、之を示す。
伝授大法師位堯仁、資慶円に授け了んぬ。
と云いますから、その相承次第は「受明汀」と同じなのでしょう。
その次の〈28〉「秘密汀印信〔淳詮伝〕」は、秘密潅頂に用いる三種印言を説いてから、
 正治二年(1200)十二月十六日
伝燈阿闍利淳詮、資慶円に授け了んぬ。
と云い、最後に中院流の良禅検校(1048―1139)方の血脈を載せて、
大日如来 金剛手 達磨掬多(ダルマキクタ) 善無畏 玄超 恵果 空海大師 真雅 源仁 益信 神日 寛空 元杲 仁海 成尊 明算 良禅 検賢 房光 豪覚 淳詮 慶円 性心
と記しています。常の伝法血脈と相違して、「八祖」の部分は胎蔵「造玄血脈」に依り、又広沢流元祖とされる益信僧正の法流を小野流祖の仁海僧正が伝えていて興味をそそります。
次に〈29〉「両部五佛惣印汀印言」〈30〉「内縛に二種あり」〈31〉「心月輪秘密潅頂印信」を載せて、〈29〉の末に、
文治二年(1186)九月十五日、受け了んぬ。
〈30〉の終わりに、
文治二年八月十五日、伝受すること了んぬ。
と云いますが、共に伝法の師に付いては言及していません。
次の〈32〉「汀印信〔淳詮伝〕」は、印言自体は醍醐の初重・第二重に同じであり、その後に、
 建保五年(1217)六月十三日、之を示す。
伝燈大法師位慶円、資性心に授け了んぬ。
と記してから中院流の良禅検校方の血脈を載せています。その胎蔵血脈は〈28〉で見た胎蔵「造玄血脈」以下の次第に同じであり(但し「金剛手」を「金剛薩埵」とする)、
次に金剛界の血脈に、
大日如来 普賢 文殊 龍猛 龍智 金剛智 不空 恵果
已下は胎(蔵)を加う(「を加う」は「の如し」か)
と記していますが、常の「八祖」の部分は金剛界「造玄血脈」に依っています。即ち両界共に「造玄血脈」を用いています。
次の〈33〉「三部秘密許可印信」の「三部」とは佛蓮金の三部であり、
 建久七年(1196)十二月廿日、之を示す。
伝燈大法師位恵深、資慶円に授く。抑(そもそ)も此の法を持すれば更に以って至極の真言道を成じ、若し此の三部許可を持せざる時は、潅頂を受くると雖も専ら真言宗念すべからず。(中略)恵深は此の秘法を以って慶円に授け、慶円は性心に授け了んぬ。
と記しています。
次いで〈34〉「法王汀印信」に、
 建保五年(1217)六月十五日、之を示す。
伝燈大法師慶円、資性心に授け了んぬ。秘中の深秘なり。他見すべからざるなり。
と記してから、最後の〈35〉「職位印言〔王位の時、口開白〕」を載せて、
 建保五年六月十五日、之を示す。
伝燈阿闍利大法師位慶円、性心に授く。
と云います。印言を記して「次印口伝〔四海領印なり〕」と云いますから、〈34〉〈35〉は謂わゆる「即位潅頂」に関わる印信である事が分かります。又裏書きに口伝の「四海領印」を記してから「貞永二年(1233)卯月(四月)五日、切り了んぬ。」と注記を加えています。
以上で簡単ながら『諸流水丁部類聚集』本文の解説を終わりますが、参考までに奥の識語も紹介して置きます。「
〔已上の印信口決等、心肝に納むべし。師の聴許を蒙り之を書写せること、不慮の感応なり。随喜、尤も深し。〕
       金剛資行空
 惟(これ)時に元文二〔丁巳〕(1737)正月十四日、書写すること畢んぬ。
       高健教嶽〔春秋六十六歳。夏臘三十六〕
右、慶円上人御自筆の本にして而も之を写す。
元文三戊午(1738)七月朔日(ついたち)、伝受す。(同四年)己未九月廿二日、長老御自筆の御本を以って書写すること了んぬ。
       文性自賢〔行年三十四〕
文政三〔庚辰〕(1820)四月三日、頼誉に書写せしめ、自ら校し了んぬ。
       金(剛)資憲誉」
即ち当該写本は江戸時代後期の文政三年に憲誉なる真言僧が(右筆の)頼誉に書写させ、自分で校了したものと知れますが、識語の最初に出る行空に付いては年代等よく分りません。
追記:大智房基舜に付いて当初無かった生没年等の注記を加えました。又その師勝尊に付いて「此の勝尊は小野流の名匠として知られた真慶阿闍利の弟子かとも思われます。」と述べましたが、年代的に見て考え難いので「」内の文章を削除する等しました。(平成25年4月15日)

(2)立川流「光明汀(潅頂)印信」の事
前章で述べたように〈25〉「光明汀印信」は、別ブログ『金沢文庫蔵真言立川流聖教の和訳紹介』で解説した空阿上人慈猛(じみょう 1212―77)が金沢称名寺長老審海(?―1304)に授けた一連の仁寛(蓮念)方潅頂印信の中の8. No.6235「光明潅頂印信」に相当します。その事は次出の〈26〉「光明汀血脈」が醍醐の蓮念方血脈である事からも確認できます。但し仁寛を祖とする立川流は、明治以降に誤謬が一時定説にまでなった謂わゆる「邪教立川流」、即ち「内三部経」流とは何の関係もありません。その事に付いては既に十分に論証しましたから、今はここで説明する必要も無いでしょう。
さて慶円は此の光明潅頂を覚秀から授けられたのですが、時代が下がるとは云っても、称名寺審海が空阿上人慈猛から相伝した立川流の潅頂印信が大変広範なものであった事を考えると、慶円の場合も「光明潅頂」の他に覚秀から相承した潅頂印信類があったであろうと推測されるのです。しかし、現時点ではその事に具体的に言及することは出来ません。
以下に「光明汀印信」とその「血脈」を訓(よ)み下して載せますが、図示してある部分は概要を説明するに止めますので諒承して下さい。
〈25〉「光明汀印信」
光明汀印信〔又ア(梵字:a)字汀と云うなり。又金色泥塔法とも云うなり。〕
印は口伝 明はア(梵字:a)
口伝に云く、
先に内縛印〔台〕 真言に曰く、
オン・ア・ソワカ(梵字:om a svaha)
次に外縛印〔金〕 真言に曰く、
オン・ア・ソワカ(梵字:om a svaha)
次に二手、互いに指首を指股に指し入れて、二大指を並べ立てて月輪印とす〔蘇(悉地)〕。真言(に曰く)、
オン・ア・ソワカ(梵字:om a svaha)
次に同印にして、左大(指)を以って上に置けるを台大日と名づけ、真言は前に同じ。次に同印にして、右大を以って上に置けるを金大日と名づけ、真言は前に同じ。次に同印にして、二大を並べて月(輪)に入れて、真言は前に同じ。(之を)不二大日と名づく。
口伝に云く、二大を月輪に入るるは両部の大日、理智不二と成る義なり〔云云〕。
次に虚円月輪の印にして〔我心は是なり〕、真言は前に同じ。ア字(梵字:a)を観ぜよ。指端に各五佛ありて、五智の光を放つ。掌内は本尊のア(梵字:a)字にして、掌背は吾がア(梵字:a)字なり。
(次に虚円月輪印の中に梵字のア字を書いて、是が金胎不二の大日である事を示し、その上に浄土変真言オン・ボク・ケンを法報応三身に配当する事等を示しています。次記を参照して下さい。)
ア(梵字:a)〔五古印。地大〕 バン(梵字:vam)〔八葉印。水大〕 ラン(梵字:ram)〔三角(火輪印)。火大〕 カン(梵字:ham)〔法輪印。風大〕 ケン(梵字:kham)〔金合印。空大〕 ウン(梵字:hum)〔塔印。識大〕
オン(梵字:om)〔法身。智拳印〕 ボク(梵字:bhuh)〔報身。外縛して心上に安ず。〕 ケン(梵字:kham)〔応身。羯磨印〕
我覚本不生 出過語言道 諸過得解脱 遠離於因縁 
知空等虚空 如実相智生 以(已)離一切暗 第一実無垢
(我は本不生を覚る 語言の道を出過したり 諸過、解脱を得て 因縁を遠離す
空の虚空に等しきを知り 如実相智、生ず 以って一切暗を離れ 第一実にして無垢なり)
 建保五年(1217)四月八日、之を示す。
  伝燈大法師位慶円、資性心に授け了んぬ。
(コメント)
建長七年(1255)二月に慈猛が審海に授けた「光明潅頂印信」は、印に付いて「口伝」と云うのみで具体的に記していませんが、今の慶円が性心に授けた印信に於いては詳しい「口伝」が記されています。しかし、是が慈猛相承の口伝と同じかどうかは確認できません。
慶円の印信は印言の口伝に加えて、六大の種子と浄土変真言に関する口決や「我覚本不生」以下の『大日経』巻第二「具縁真言品之余」に出る偈頌を載せていて、是も慈猛の印信には見えません。しかし慈猛の印信にあっても口決として、口に「ア」を唱えて意(こころ)に「本不生の理」を観ずれば解脱に至るという道理を説いているので、両印信の本意は基本的に変わっていないと言う事が出来ます。
〈26〉「光明汀血脈」
大日 金剛薩埵 龍猛 龍智 金剛智 不空 恵果大師 空海和尚 真雅 源仁 聖宝 観賢 淳祐 元杲 仁海 成尊 範俊 勝覚 蓮念 観蓮 覚印 覚秀 慶円 性心〔改め心海と名づく〕
 建保五年(1217)四月八日、之を示す。〔三輪山に於いて伝授すること了んぬ。〕
師の口伝に云く、天竺に女凡大王と申す人あり。七重の楼を其の内に造り、此の法を修行せる間、其の母智定夫人はア(梵字:a)字を煎じること七日して楼に懸くる時、其の法成就なり〔云云〕。故にア(梵字:a)字汀と云う〔云云〕。
又云く、大師は宗里津にして口に此の法を修し、印を以って泥塔に懸け給える時、泥塔は息して金色塔と成る。故に金色泥塔法と云うなり。
(コメント)
慈猛が相伝して審海に授けた「光明潅頂印信」には血脈が記されていませんが、他の印信に依って慈猛相伝の立川流、即ち醍醐の仁寛(蓮念)方血脈は、
(前略)勝覚 蓮念 見蓮 覚印 覚秀 浄月 空阿(慈猛) 審海
であった事が知られます。「観」蓮と「見」蓮は同人らしく思われますから、両血脈の相承次第は同じであり、慶円と浄月の両上人は覚秀門下の同法の弟子であった事が判明します。
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