「立つ鳥跡を濁さず」ということわざがある。
古来、人間は動物を含めた周囲の自然から、いろんなことを学んできた。
収穫の時期、田んぼでたわわに実った稲穂からも「実るほど頭が下がる稲穂かな」と読み、えらくなっても威張ることがないように、戒めとしてことわざに残したのだろう。
しかし、「立つ鳥跡を濁さず」ということわざは、多くの戒めを自然から学んだ割には、不正確な要素を含んでいる。
まず、このことわざを作った人は「立つ鳥」が現場を離れる「その時」を見たのだろうか。また、鳥が去った後の「跡を濁さず」という状態を確認したのであろうか。
鳥の群れが去った現場を見たことがある者にとっては、ことわざとしての「致命的な間違い」に気付かされる。
冬季間、白鳥の飛来地である大きな湿原に撮影のため通ったことがある。春になると白鳥たちは帰っていく。その跡地は「濁しっぱなし」状態だった。とても「ことわざ通り」とはいかない。大量の糞や抜けた毛・食いかけの餌などが散乱して、とても「……後を濁さず」にはなっていなかった。
カラスを見てこのことわざが出てきたわけではなく、やはり「白い鳥」の群れを見て考えたものだろう。白い鳥たちだったら「後始末も完璧」と勝手に思い込んでしまった。
かわいい子のそばに行くと「いい香りがする」はずだ、というような「希望的観測」が現実から目をそらしてしまった。
「ことわざだから、いいじゃん」と言ってしまえばそれまでだが、「事実とは真逆のたとえ」に一言。