文治5(1189)年4月30日、稀代のヒーロー源義経は奥州平泉で自害しました。5月13日、その首は藤沢に運ばれ、確認されるのですが、・・・義経は死なず、北へ逃げたとする「義経北行伝説」は、当時から囁かれていたようです。
この伝説は、岩手県から青森にかけて、義経一党の伝説・遺跡が沢山あり、義経逃避行の跡は岩手県の平泉から津軽半島三厩村まで辿ることができるのです。
伝承が点々と残され、それぞれ独立した伝説ではなく話が繋がり、ルートなっているところが、この伝説の興味深いところです。それらを結んでいくと平泉から遠野を経て宮古あたりから八戸へ船で渡り、さらに陸路を三沢、野辺地、津軽半島の竜飛崎から蝦夷地へ渡ったことになります。道すがらには、「弁慶屋敷」「判官山」「判官堂」「判官神社」「判官稲荷神社」などと名のついた土地や神社が残っています。
そこには数々の逸話が語りつがれ、青森県三厩村には、蝦夷地に渡るために風待ち祈願をして観音像を安置したとされる義経寺まであって、こうなると単なる伝説とも思えなくなります
)
特に、この伝説の細かい所は、例えば八戸市には、義経が再起を期し、しばし滞在したというようにストーリー性を帯びた跡が多数残っているところで、八戸市には<小田八幡宮>平泉を脱出した義経は、ここで藤原忠衡の叔父板橋長治の館に入るが、ほどなく四方に開け遠望のきく高館に移る。ここが、高館の御所と呼ばれ、毘沙門堂(福田山徳城寺)を建立した。これが、神仏分離で、小田八幡宮となる。ここには弁慶が写経した大般若経が蔵されており、境内に、義経社がある。<類家稲荷> 義経が京都藤の森稲荷を勧請して建立した。<おがみ神社(御前神社)> 法霊さんともいい、義経の北の方を祀る。北の方は旅の疲れから病にかかり、高館で亡くなったと伝わっている。義経が奉納したといわれる弓矢・金剛杖・馬具などが所蔵されている。と、細かく行動が辿れるようになっています。
あるいは、青森市・野辺地には、<貴船神社と鷲尾公園>があり、三河国から義経を慕ってきた浄瑠璃姫が、間に合わず空しく悲しみのうちに、ここで没したという。残って看病したのが、義経の家来の鷲尾正春。義経の渡海の無事を祈ってこの社を建立した。
また、平内町 <椿山 椿の自生北限地>は、義経の遺児「鶴姫」が鎌倉の追っ手を逃れてこの山に入った。が、しかし、逃れきれず、自害した。この地に白椿が一本もないのは、椿姫の血潮で染まったためという。この地に飛来する白鳥は、父の義経の霊魂が化したもので、非業の死をとげた姫を慰めるため、毎年決まって飛来するといいます。こんな風に、サイドストーリーの悲劇性も義経らしくたっぷり。
悲劇の英雄が死なずに生き残ったという伝説は世界中にあるのですが、特に「義経北行伝説」はルートがきちんと辿れることで、他に類を見ません。
その理由の一つは、当時の北東北、北海道は、日本最大の国際港、津軽・十三湊や平泉藤原氏の繁栄で、鎌倉、京都に匹敵する財と文化があり、その象徴が義経だったことがあげられます。
この話、以前に「犯罪心理学者花見小路珠緒の不思議事件ファイル」に書いたのですが、僕は頼朝による「怨霊封じ」と考えています。
悲劇の英雄が怨霊になって祟るという怨霊信仰は、古来、日本では政治を左右するほどに信じられていましたが、逆に死んでいなければ怨霊にならない(なれないわけで)、死せる義経を逃避させてしまえば、怨霊になりません。その証拠が各地に残る経や武具。これらは、怨霊鎮めの道具としても使われるもので、義経の怨霊に怯えた頼朝が国家的規模で行わせたとすれば、このルートの壮大さも説明がつきます。・・・あるいは、弟を殺してしまった悔いから、本当に、弟を生きていたことにしてしまいたいと思ったのかもしれません。
ちなみに、「義経北行伝説」を詳しく知るには↓が、さすがによく整理されています。成吉思汗(ジンギスカン)説はまあ眉唾でしょうが、でも、僕の友人のTVディレクターは、ウラジオストックの美術館でシベリアから出土した鎧の中に、源平期のものと思われる鎧を見た
そうです。
この伝説は、岩手県から青森にかけて、義経一党の伝説・遺跡が沢山あり、義経逃避行の跡は岩手県の平泉から津軽半島三厩村まで辿ることができるのです。
伝承が点々と残され、それぞれ独立した伝説ではなく話が繋がり、ルートなっているところが、この伝説の興味深いところです。それらを結んでいくと平泉から遠野を経て宮古あたりから八戸へ船で渡り、さらに陸路を三沢、野辺地、津軽半島の竜飛崎から蝦夷地へ渡ったことになります。道すがらには、「弁慶屋敷」「判官山」「判官堂」「判官神社」「判官稲荷神社」などと名のついた土地や神社が残っています。
そこには数々の逸話が語りつがれ、青森県三厩村には、蝦夷地に渡るために風待ち祈願をして観音像を安置したとされる義経寺まであって、こうなると単なる伝説とも思えなくなります
)特に、この伝説の細かい所は、例えば八戸市には、義経が再起を期し、しばし滞在したというようにストーリー性を帯びた跡が多数残っているところで、八戸市には<小田八幡宮>平泉を脱出した義経は、ここで藤原忠衡の叔父板橋長治の館に入るが、ほどなく四方に開け遠望のきく高館に移る。ここが、高館の御所と呼ばれ、毘沙門堂(福田山徳城寺)を建立した。これが、神仏分離で、小田八幡宮となる。ここには弁慶が写経した大般若経が蔵されており、境内に、義経社がある。<類家稲荷> 義経が京都藤の森稲荷を勧請して建立した。<おがみ神社(御前神社)> 法霊さんともいい、義経の北の方を祀る。北の方は旅の疲れから病にかかり、高館で亡くなったと伝わっている。義経が奉納したといわれる弓矢・金剛杖・馬具などが所蔵されている。と、細かく行動が辿れるようになっています。
あるいは、青森市・野辺地には、<貴船神社と鷲尾公園>があり、三河国から義経を慕ってきた浄瑠璃姫が、間に合わず空しく悲しみのうちに、ここで没したという。残って看病したのが、義経の家来の鷲尾正春。義経の渡海の無事を祈ってこの社を建立した。
また、平内町 <椿山 椿の自生北限地>は、義経の遺児「鶴姫」が鎌倉の追っ手を逃れてこの山に入った。が、しかし、逃れきれず、自害した。この地に白椿が一本もないのは、椿姫の血潮で染まったためという。この地に飛来する白鳥は、父の義経の霊魂が化したもので、非業の死をとげた姫を慰めるため、毎年決まって飛来するといいます。こんな風に、サイドストーリーの悲劇性も義経らしくたっぷり。
悲劇の英雄が死なずに生き残ったという伝説は世界中にあるのですが、特に「義経北行伝説」はルートがきちんと辿れることで、他に類を見ません。
その理由の一つは、当時の北東北、北海道は、日本最大の国際港、津軽・十三湊や平泉藤原氏の繁栄で、鎌倉、京都に匹敵する財と文化があり、その象徴が義経だったことがあげられます。
この話、以前に「犯罪心理学者花見小路珠緒の不思議事件ファイル」に書いたのですが、僕は頼朝による「怨霊封じ」と考えています。
悲劇の英雄が怨霊になって祟るという怨霊信仰は、古来、日本では政治を左右するほどに信じられていましたが、逆に死んでいなければ怨霊にならない(なれないわけで)、死せる義経を逃避させてしまえば、怨霊になりません。その証拠が各地に残る経や武具。これらは、怨霊鎮めの道具としても使われるもので、義経の怨霊に怯えた頼朝が国家的規模で行わせたとすれば、このルートの壮大さも説明がつきます。・・・あるいは、弟を殺してしまった悔いから、本当に、弟を生きていたことにしてしまいたいと思ったのかもしれません。
ちなみに、「義経北行伝説」を詳しく知るには↓が、さすがによく整理されています。成吉思汗(ジンギスカン)説はまあ眉唾でしょうが、でも、僕の友人のTVディレクターは、ウラジオストックの美術館でシベリアから出土した鎧の中に、源平期のものと思われる鎧を見た
そうです。![]() | 成吉思汗(ジンギスカン)の秘密角川春樹事務所このアイテムの詳細を見る |











不躾ではありますが…
貴船神社と鷲尾公園は野辺地ではなく、青森市野内にあります。
この町に生まれ育ち、神社と鷲尾山で遊んでいました。