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vol.483:『狭小邸宅』(新庄 耕著、集英社、2013年)

2013年07月15日 | eラーニングに関係ないかもしれない1冊


『狭小邸宅』(新庄 耕著、集英社、2013年)

皆さんこんにちはナカダです。最近、自宅近所に建売住宅が出来まして、最
寄りの地下鉄駅前では、毎朝毎夜、不動産会社の方がその建売住宅のチラシ
が挟み込まれたポケットティッシュを配布しています。この記録的な猛暑に
あっても、きちんとスーツを着てネクタイを締めており、ティッシュを受け
取るたびに、不動産の営業職とはかくも大変な仕事なのだなと思わされます。

今回ご紹介するのは、そんな不動産営業の内幕をリアルに描いたことで話題
になった小説です。
主人公の松尾は入社2年目、建売住宅の営業マンです。松尾は「ろくに就職
活動をすることなく、苦し紛れに今の会社に入った」だけあって、不動産業
にこだわりも思い入れもなく、営業成績も芳しくありません。しかも松尾が
就職した不動産会社は、売れない営業マンにとっては非常に過酷な労働環境
で、上役からは暴言や暴力を浴びせられる毎日です。あまりに売れない松尾
は、配属先の恵比寿支店をお払い箱となり、駒沢支店に異動させられます。
異動先の駒沢支店でも相変わらず売れない松尾に対し、かつて敏腕営業マン
だった上司は、早く辞めて他の仕事を探すよう言い放ちます。その上司の言
葉に思わず意地を見せた松尾は、あと1か月だけやってそれで売れなければ
諦めると答えます。
開き直った松尾は、それからの1か月お荷物物件の営業に注力し、奇跡的に
成約に結び付けます。その成約をきっかけに、松尾は自分を見限っていた上
司から営業のコツを教わり、徐々に売れる営業マンへと変貌を遂げていくの
ですが...

以上が本作のあらすじです。一見すると、過酷な環境に放り込まれた若者が
自分の無力さに苛まれながらも、ある幸運をきっかけに一人前の職業人へと
成長していく青春物語に思えますが、決してそんな甘っちょろい話ではあり
ません。本作は小説という形を取りながら、ブラック企業における「正統的
周辺参加」の過程とその結果を冷徹に描いた一種の観察記録なのです。

ブラック企業については多数の若者を使い捨てにしているという批判があり
ます。本作における松尾の会社でも、松尾の入社時には30名程度の同期がい
たにもかかわらず、最初の4ヶ月で約半数が辞め、1年数か月後には松尾を含
めて6名しか残っていません。しかし松尾がそうであるように、少数ながら
生き残る若者もいます。それでは松尾のように、ブラック企業で生き残るこ
とのできた少数の若者は幸運な勝ち組なのでしょうか。いいえ、ブラック企
業に入社した若者は、使い捨てにされようが生き残ろうが関係なく、誰もが
心身を蝕まれます。だからこそブラック企業なのです。

心身ともに消耗することが分かっているのに、なぜ過酷な労働環境から離れ
ないのか。ブラック企業の問題を論じる際には、辞めたくても辞められない
人だけでなく、ブラック企業が押し付ける価値観を過度に内面化する人にも
注意する必要があります。本作でそれを示唆するエピソードが、定例総会に
おける社長の言葉です。

「お前らは営業なんだ、売る以外に存在する意味なんかねぇんだっ。売れ、
売って数字で自己表現しろっ。(中略)売るだけだ、売るだけでお前らは認
められるんだっ、こんなわけのわからねぇ世の中でこんなにわかりやすいや
り方で認められるなんて幸せじゃねぇかよ、最高に幸せじゃねぇかよ」(p.
81)

この社長の、言い換えればこの会社の価値観では、営業職の社員は売ること
だけが存在意義であり、営業成績のみが自己表現の手段となります。しかし、
当然のことながら、営業成績が良かろうと悪かろうと、社員一人一人の尊厳
は守られなければなりません。また、営業成績はあくまで会社内部の価値観
に過ぎず、売れる営業マンだからといって会社の外でも同じように認められ
るわけではありません。恐ろしいのは、売れる営業マンに変わる前の松尾で
すら、上記の社長の言葉を「社長の言うことは明快で、納得させられるとこ
ろもある」とある程度受け入れていることです。会社の価値観を過度に内面
化してしまうと、自分を客観視する視座を失い、後戻りが難しくなります。

松尾は売れる営業マンに変わったことで、この会社の価値観に染まりつつあ
ったのですが、作品のラストでその点を顧客から痛烈に指摘されます。顧客
の指摘によって、自分を客観視する視座を唐突に取り戻した松尾の内面で、
会社の価値観を受容する自分と拒絶する自分が激しく対立します。果たして
松尾はこの後、どのような生き方を選択するのか。作中ではどちらが上回っ
たのかは明らかにされません。やや唐突な感のあるラストが、読者の想像を
かきたてます。
純粋なエンターテイメントとしてはもちろん、キャリア教育の副読本、ある
いは住宅営業の裏事情本としても読めるお得な一冊です。
(文責:ナカダ)
ジャンル:
ウェブログ
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