わたしの山日記 **山川陽一の環境レポート**

あの山あの峪、かつての美しい自然がすっかり変わってしまったのを見る度に胸が痛む。何とかしければいけないと思う。

18.窮屈な世の中

2006-04-28 09:33:12 | Weblog
「俺の若い頃は…」ということばを私は好まない。自分の過ごしてきた過去を上位において、現代の世相や若者を批判しても、いまや過去形でしかものが言えなくなってしまった自分を浮き彫りにするだけだ。私自身が若かった頃を考えてみても、同じことを年長者に言われて大いに反感を覚えたものである。そうは言っても、自然環境の問題に限って考えてみると、どうも話が逆転する。過去の状態の方が明確に上位である。それを戦後社会の復興を担ってきた人たちが主役になって破壊してきた結果が今日の憂うべき状況を作り出している。第二次大戦後の社会を自然環境の側面から眺めてみると、戦後の60年は自然喪失の60年であった。だから、度々昔話を引き合いに出してしまうのだが、それは過去の姿を知っている生き証人としてやむを得ないことである。

私の学生時代の山を思い出してみると、一日の山歩きを終えてテントを張り終えたら、最初にやることは炊事用の薪集めだった。テント場も特に指定の場所があったわけではない。人気の山は大体自然発生的にテント場と呼べる場所が出来ていたが、そんなものもなければ、ここが良かろうと思った場所を整地してテントを張り、雨に備えてテントの周りにピッケルを使って溝を掘った。薪は、近くの樹林帯や榛松帯の中に分け入って集めてきた。ラジュースやホエーブスなどの外国製の携帯用火器は冬山以外使わなかったから、薪が集まらなければあたたかい食事にありつけなかった。まだ日が高ければお花畑に寝転んでみんなで山を眺め、歌を歌った。野で用を足すのは当然だったし、咎める者は誰もいなかった。「アルプス一万尺小槍の上で小便すれば虹が立つ。お花畑で昼寝をすればチョウチョが飛んできてキスをする。ランラランラランララン」と唄ってはばからない楽しい時代であった。もっと昔の登山の草創期に遡れば、小暮理太郎の本の中にも黒部や木曽の山中でライチョウを手掴みで捕まえる話などが出てくるし、尾瀬の父と呼ばれて崇められている植物学者武田久吉も尾瀬ヶ原の湿原を泥んこになりながら歩き回って高山植物の採集をしていた。そんな事をしても気にならないぐらい自然は豊かだったし、入山者も少なかったから、人が及ぼす自然へのインパクトは小さなものであった。もし今日同じことをしたらひんしゅくを買う。

下界でも、村が町になり都会になって人口密度が高まるにしたがって、いろいろ面倒くさいルールができてきて、それを守らない人間はコミュニティから締め出される。同じように、山も入山のアクセスが容易になって、大勢の登山客、観光客が押しかけるようになると、気持いい環境を維持するため守らなければならないマナーやルールができるのは当然で、仕方がないことである。昨日までよかった行為が今日では自然破壊だと言われてしまうのだが、そもそも環境保全とか自然保護と呼ばれる概念は、普遍的絶対的概念ではなく、時代と条件次第で変わる相対的なものである。
昔を知っているものにとっては窮屈な世の中になってしまった。しかし、それもこれもみんな自分を含めた人間自身が作り出してきた結果なのだから、この状況を甘んじて受け入れ、更に状況が悪化しないように自らできる努力を惜しんではならないと思っている。
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17.万波川の思い出

2006-04-21 07:35:53 | Weblog
山釣りの季節がやってきた。輝く陽の光をいっぱい浴びながら辿る春の渓は生命に満ち溢れている。木々の新緑が天を覆うってしまうまでのつかの間、陽光を求めて、ニリンソウ、カタクリ、サクラソウなどの春の妖精たちが谷間の林床を彩る。残雪の際には山ウドやフキノトウ。ショウジョウバカマも咲き始めた。岩陰からそっと差し出す棹の穂先に、今年も愛しい彼女に逢えますようにと願いを込めてジッと魚信を待つ気持は、釣り人のみが知る不安と喜びである。この数年、何かと多忙で精神的余裕がないまま好きな渓流から足が遠のいているが、今年こそはゆとりの時間を作り出して思い出の渓を訪ねてみたいと思っている。

今は残念ながら取水ダムが出来て川の様相がすっかり変わってしまったが、釣り友達のOさんと足繁く通った奥飛騨の万波川には、楽しい思い出がいっぱい詰まっている。
神通川は飛騨の古川、河合村、宮川村を経て途中北アルプスを源流とする高原川と合流して富山湾に注いでいる。その神通川沿いの山奥に宮川村の打保(うつぼ)という部落がある。ここには、飛騨高山から富山に至るJR高山本線と平行した国道が通っている。今は、拡幅された快適な舗装道路に変わっているが、最初に訪れたときは国道とは名ばかりの車両の交錯も難しい道で、ここまで行くのにも大変だった。この打保部落から北西に急坂の林道を峠ひとつ越えたところが万波高原で、この高原を万波川が悠然と流れていた。万波川の対岸の白木峰の向こう側はもう富山県である。ここには明治の中ごろ開拓民が入植したが、あまりの自然の厳しさに50年を経て廃村になったのだという。僕たちが釣りに入った頃は開拓民の畑のあとは熊笹の原に変わり、以前ここに村落があったなどとは言われて見なければ想像できない状態で、下流は鬱蒼たる樹林の中であった。僕たちふたりは毎年この河岸にテントを張って数日の釣りを楽しんでいた。いろいろなことがあったが、大物がかかってふたりがかりで引き揚げたこと、山陰にミズバショウの湿地を見つけて喜んだこと、季節外れの雪に見舞われたこと、支沢の源流で山ウドを沢山収穫したこと、2人で岩魚と山菜で天ぷらをして食べたことなど、いい思い出がいっぱいある。そのあと、関西電力がこの川の水を取水して発電することが決まり、その工事中の数年間峠越えの道路は一般車両の通行が禁止になった。僕たちは我慢できなくなり、3年目に打保の部落に車を置き歩いて峠を越えて入山したのであるが、そのときは2人とも本当にびっくりするほどの釣果であった。釣り人が1、2年入らないだけで魚はこんなに増えるのかと実感したのだった。釣った岩魚をビニール袋に入れて川の流れの中に石で囲んで重石を施し、翌朝引き上げに行ったら、Oさんの袋に小さな穴があけられ中はもぬけの殻だった。多分鼬(いたち)にやられたのだという結論になった。
取水ダムが完成したあとは、いつも車の腹をこすりながらやっと越えた林道は、すっかり舗装され入山は容易になったが、そこに待っていたのは水量が細って死んだ川と、刈払われた熊笹の原に作られた大根畑だった。僕たちがこの高原を訪れなくなってもう10年近くになるが、今はどうなっているだろうか。インターネットを検索しても、釣果の情報はなく、高原大根の情報があるだけである。
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16.若者は何処へ

2006-04-14 09:15:00 | Weblog
過日友人に誘われて山岳映画の夕べに参加したときのことである。開館前の会場の周りを取り囲んだ長蛇の列を眺めてびっくりしたことがある。中高年の人たちが多いというよりも、列の中に若者の姿が全く見当たらないのだ。自分たちが若かった頃の記憶では、この種の催しに集まる人たちの大半は若者だった。私の所属している日本山岳会でも、ここ数年、毎年1歳ずつ平均年齢が上がって、いまやなんと64歳である。長老などと呼ばれて尊敬されるのも多くの若者がいてこそであり、高齢者だけの世界では60歳台などは洟垂れ小僧ということになってしまう。たまに若い人が入会すると、逆に宝石でも手に入れたごとく大事にする始末だ。他の山岳団体も大同小異で同じ悩みを共有する。大学山岳部などでも、近年は現役の学生が減って、元気なのはOB会だけである。先日山仲間と話をしていたとき、「お宅の大学の現役は何人いるの? うちは2人しかいなくてそれが2人とも4年生だから、このままだと部が消えてなくなってしまうので大変なんだ」などという寂しい話になった。

確かに、日本全体で高齢化が急速に進展しているが、日本から若者が消えてしまったわけではない。集まるところには集まっている。私事で恐縮であるが、私の息子は、3年前数年間勤めた会社を惜しげもなく辞めて、自然学校のスタッフに転進した。そこの数十人のスタッフの顔ぶれを見ると、全員が20台30台の生きのいい若者ばかりだ。エコツーリズムなど環境問題を前面に掲げた集まりにも若者の姿が目立つ。

山岳史を振り返ってみよう。日本の近代登山の歴史をつくってきた人たちは、その当時全部若者だったのだ。私たちが一生懸命山に登っていた頃を振り返ってみても、大学山岳部では大量に入部してくる部員をどうやってふるい落とすかが大きな課題で、新人合宿などは新人の歓迎の場というよりも厳しい試練を与えて淘汰する場であった。それでも若者が集まったということは、当時の山岳のフィールドには自然がいっぱいで、若者の好奇心と冒険心を満足させるものが満ち溢れていたからに他ならない。それがいつの間にか山が中高年の遊びの場に移り変っていったのは、開発と無関係ではない。山の奥深くまで山岳道路や林道が出来て入山のアクセスが容易になり、山小屋も近代的に整備され、ヒマラヤにも行ける装備が容易に手に入り、日本中どの山でも至れりつくせりのガイド本が完備されている。なにも自分で計画しなくてもお金さえ払えば連れて行ってくれるツアー登山やガイド登山も花盛りである。結果として中高年の登山人口は飛躍的に増えたが、反比例して若者離れが進んで行った。その原因を、山登りは3K(危険、汚い、きつい)だからとか、他に楽しい遊びが増えたからとか、職場が忙しすぎるからだとかいろいろな分析があるが、いずれも正鵠を得ているとは云い難い。本質的には、若者にとっての魅力度の問題である。若者離れ対策として会費を安くしたりしても、そんなことだけで若者が帰ってくるとは思えない。
第一に若者の心を動かす魅力あるコンテンツを持っているかどうかが最大のポイントである。次に、それを意のあるひとたちに上手に伝えるプロパガンダ、最後に入りやすい環境の整備ということになるのだが、言うは易く、中身を形作っていくことは難しいことである。

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15.百名山指向に水を差す

2006-04-07 07:44:24 | Weblog
こんなブームになる前から百名山を目指す登山者はいた。概ねその人たちは深田久弥の名著「日本百名山」を読んで感銘を受けたのがきっかけになっている。登山にはいろいろな登り方がある。その中のひとつに百名山を目指すような登り方があってもいいと思う。人間は目標をもって行動する動物であるから、登山愛好家たちにとって格好な目標が深田百名山だったことはうなずける話である。ただ、今日の百名山ブームを演出したのは深田久弥自身ではなく、「日本百名山」の著書そのものでもない。氏の死後全百名山の紹介番組がNHKテレビで放映されたのがきっかけで、中高年の健康志向と、それに便乗した商業主義がかみ合って一大ブームを巻き起こしていった。もし氏が今日のブームを予知していたら、おそらく「日本百名山」なる本は世に出ていなかったであろう。選ばれた百の山名だけがひとり歩きして静かな山が喧騒の山に変わり、それが自然破壊に一役買っているなどという状態は氏にとって許しがたい事態であるに違いない。

以下は深田久弥が「日本百名山」を著す前に書いた「わが愛する山々」からの抜粋である。
「・・・左手には黒部五郎岳、これは私の特別ヒイキの山で、独自の個性をそなえている。日本アルプス登山の聡明時代からいち早く黒部五郎岳に注目して、深い愛着を寄せてこられた画家の中村清太郎さんの表現を借りれば、その“特異な円錐がどっしり高原を圧し、頂上のカールは大口をあけて、雪の白歯を光らせている。”中村さんは黒部五郎を不遇の天才にたとえられた。確かに、世にもてはやされる北アルプスの他の山々の中にあって、この独自性のある立派な山は、多くの人に見落とされている。しかしそれでいい。この強烈な個性が世に認められるまでには、まだ年月を必要としよう。黒部五郎岳が、To the happy fewの山であることは、ますます私には好ましい。」
「・・・小暮(理太郎)さんはその紀行の最初に書いておられる。“皇海山(すかいさん)とはいったいどこにある山か。名を聞くのも初めてであるという人がおそらく多いであろう。それもその筈である。この山などは今更日本アルプスでもあるまいという旋毛(つむじ)まがりの連中が、二千米を越えた面白そうな山はないかと、蚤取眼で地図の上を物色して、ここにも一つあったと漸く探し出されるほど、有名でない山なのである。”この言葉は、四十年後の今日でも、まだ幾らか通用する。皇海山は今なお静寂の中にある。私は旋毛まがりではないが、流行の山は嫌いである。雑踏の都会を逃れて雑踏の山へ。そんな趣味があるかもしれないが、私は御免である。・・・」
「私は近頃の登山者がいきなり麓まで乗り物で行き、早足で登り、下りてくるとすぐまた乗り物で退去する、あの駆け足的登山をあまり好まない。登山はスポーツといわれるが、 スポーツの枠外に出るものをたくさん持っている。登ればいいというものではない。未登頂で終わったが登頂よりもっと楽しい思い出を持った山行きを、私はいくつも経験している。」

日本百名山に選ばれたために、今や黒部五郎岳はTo the happy fewの山と呼ばれなくなり、皇海山も人々にこれはどこにある山かと言われなくなった。わたしの好きな毛勝山は日本アルプスばかり選びすぎないようにという氏の配慮から不幸にして百名山の選に漏れてしまった(「日本百名山」後記)のだが、それ故に今でも静寂を保っている。どちらが山にとって幸せだったのだろうか。
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