薩風日常

旧日置郡市来町の日常を中心に。歴史や風景や人間など。子どもの頃の思い出も一緒に。

市来体育館と学校橋

2022-06-19 13:38:43 | 風景
市来体育館。 
 私が子どもの頃は、市来体育館ではなく勤労者体育センター?とかいう名称だったような。 
しかし、町内の皆さんは、愛着を込めて「町体(ちょうたい)」と呼んでいました。    私が中学生のころの部活では、バレー部とバスケ部は週替わりで、中学校の体育館と町体を交代で使用していました。 
小学校の正門前にあって、下校の時はこの駐車場で友人たちと遊んで帰ったものです。 以前はこの体育館や中学校のグラウンドを使用して「公民館対抗バレー」「壮年バレー」「なかよしソフト」「町民運動会」等々のスポーツイベントも多かったのですが、串木野市との合併後から少しずつ大会も少なくなりました。 

 この体育館の先にあるのが学校橋。 登下校の際の時にこの橋を渡っていた方も多いのではないでしょうか。 
下校の時に、この橋を渡り切ったくらいから、吉村醸造から大豆を蒸かす甘い匂いが漂ってきます。

庚申供養石殿(川上地区)

2022-05-29 15:18:52 | 石碑記念碑
川上地区、中組公民館近くの県道沿い(八房川側)にある石殿。

石殿には丸い窓が開いており、中には立像が彫られているのが見える。
川沿いに建立されているので、パッと見は水神のようにも見えるが、申(猿)も一緒に彫られていることから、庚申塔だということが分かる。

写真では見にくいが、三面で剣を持った立像であることから、庚申本尊の青面金剛像だと思われる。

由来は分からないが、宝暦3年の建立とのこと。薩摩義士で有名な宝暦治水の前の年である。
石殿の中にある為か、年代の割には劣化が少なく思え、立像の表情もみてとれる。


背面には、奉寄進した10名の名が刻まれている。庚申講を行っていた地元の方々だろうか。
「逆瀬川」や「大久保」の苗字がみえるが、川上地区に多い苗字であり、大久保は大久保利通の祖先に通じる方ではないだろうか。
(川上地区には大久保利通祖先の墓があり、この庚申供養石殿が建立された宝暦年間まで川上に居住し、その後鹿児島へ復帰している)

市来には、他にも庚申塔が数か所あるので、また紹介していきたい。


市来駅

2022-05-28 16:13:00 | 風景
JR九州、鹿児島本線「市来駅」
旧市来町出身の方なら、通学や通勤でお世話になった方も多いのではないでしょうか。
私が学生時代は駅員さんが居た記憶があるが、現在は無人駅となっている。



駅の開設は大正2年12月。
国鉄東市来〜串木野間の開通にともなって営業開始。当時は西市来駅で昭和5年に市来駅に改称されている。



以前は跨線橋を渡っていたが、現在は構内の踏切を渡って2、3番ホームへ渡る。
(ただし、上下線共に1番ホーム発着を優先にしているようだ)


駅前のロータリーには、七夕踊の「虎」のオブジェが設置されている。
このロータリーから国道3号までは一本道。

距離にして700mにも満たないのだが、「市来停車場線」という立派な名称を持つ県道307号である。
以前に皇太子裕仁親王殿下御乗艦記念碑の記事で書いた、大正9年に東宮殿下が恵比寿ヶ丘まで歩いたのもこの道です。



ロータリー横には「丹後局舟着場跡之碑」もあります。
丹後局関連についてはいずれ。



諏訪神社

2022-05-25 20:02:00 | 寺社仏閣
旧市来町川上の諏訪神社。

市来方面から行くと、中組公民館の手前、八房川を渡る前に右折して150mの所に看板があります。

旧社格は村社。
御神祭は神社庁HPでは建御名方神となっていますが、看板によると八坂刀売神も併記されています。この2神はご夫婦です。
建御名方神は国津神の主宰神大国主神の御子神。国譲りの神話でも有名な神様です。


この石段を歩いて登りますが、車で境内まで行く事も可能です。
この石段、1段1段がかなり大きく迫力があります。
登り切ると並列鳥居を通って境内へ。



山の緑に溶け込んだ、雰囲気のある並列鳥居と社殿です。
市来町郷土誌によると、社殿には金仏が安置されているとの事。神仏習合の名残なのか、廃仏毀釈の際に難を逃れるために持ち込まれたのか、詳細は分かりませんが、開帳される事があるなら拝見してみたいものです。

並列鳥居は、先述した御祭神2神(夫婦)に因んでいます。

余談ですが鹿児島では南方神社の名で祀っている神社が多く、同様に並列鳥居があります。明治期以降に諏訪から南方へ名称を変えた神社も多いのが鹿児島の特徴ですね。御祭神の(健)御名方→南方へと改めたようです。ただし、串木野地区では3つの南方神社があるのに対して、市来郷では改名されずに諏訪神社のままで2つの神社がある事が興味深いです。

境内の灯籠には「寛文十三年」の文字がハッキリ読めます。徳川家綱の時代です。
神社の創建は、それよりもずっと前でしょう。

この境内では、市の無形民俗文化財「川上踊」が奉納される事でも知られています。

8月にはまた見に行きたいですね。
この諏訪神社境内で踊る様子が川上小学校のFacebookで公開されています。

https://m.facebook.com/ichikikawakami/videos/川上踊り諏訪神社にて/906131842801709/








鶴ヶ岡八幡神社(その2)

2022-05-23 12:52:00 | 寺社仏閣

前回の続き。

鶴ヶ岡八幡神社社殿横になぜ金鐘寺縁の木像や石仏が安置されているのか?ですが、
やはり「丹後局」の繋がりでしょうか。


鶴ヶ岡八幡神社の境内にある看板には、市来氏が招いた了堂和尚が創建したと書かれているが、三国名勝図会によると、元々は萬年寺という丹後局が創建した寺院であり、その後に了堂和尚の開山にて金鐘寺と改めたとある。また、金鐘寺の名称については了堂和尚の夢に出てきた「八幡神」に由来するとも伝えられている。
なので、丹後局に由来がある八幡に…と、理由を色々と考えてみたが、同じく木場迫集落にあり、歩いていける距離。
金鐘寺は明治2年の廃仏毀釈で廃寺となる。破壊を忍びなく思った寺院関係者か地域住民が近くの神社に移したのではないでしょうか。
肝心の御堂の中には、了堂の木像と仏像(十一面観音との伝承も)。開帳される事があれば是非拝見したいものである。

金鐘寺については、大里田圃開墾や七夕踊にも関わりが深いので、この項で記事にするには無理があるのでここまで。

さて、丹後局がこの地に住んだ理由が「地形が鎌倉に似てたから」との事。

石段の途中から見下ろした大里の風景。
奥の山の向こう側はすぐに東シナ海の赤崎海岸。ここを鎌倉から見た由比ヶ浜に見立てたらしい。
丹後局もこんな風景を見て、故郷を懐かしんでいたと思うとロマンがありますね。