薩摩藩第21代の吉寅のときの1691年,下田町の関吉から吉野町の雀ヶ宮まで約8kmの用水路が作られた。始めの目的は磯別邸への泉水として使うためだった。
28代の斉彬の時に,この疏水を集成館事業に使うために,改修された。磯の裏山に貯水池を作って,水車を回して機械の動力へと使用されるようになった。
その疎水路の跡がすべてではないが残っているので,たどってみることにした。
まず,取水口。
(2009年2月18日撮影)
稲荷川から水を取り入れている。
(2009年2月18日撮影)
取水口の位置へは細い石橋を2回渡る。
右が稲荷川。
(2009年2月18日撮影)
取水口から少し下ったところ。
稲荷川は滝のように落差がある。
(2009年2月18日撮影)
渓谷を抜けると,疎水路は遊歩道と並行する。
疎水路の取水口へのアクセスは蒲生と鹿児島市を結ぶ県道で下田郵便局を蒲生方へ少し行った場所から案内板があるが,場所は分かりにくい。
(2009年2月18日撮影)
稲荷川を渡り,写真中央奥に続いている道路をたどると先ほどの遊歩道に着く。
遊歩道の入口付近には・・・
(2009年2月18日撮影)
疎水路に水車が付けられている。
遊歩道が終わると今度は家々の脇を疎水路が流れている。
(2009年2月18日撮影)
やや大きめの道路と交わるところでいったん水路が地下化するが道路を渡ると脇を流れている。だんだん幅が狭くなる。
カーブが多い道を進んでいく。
途中から稲荷川の方を見る。
(2009年2月18日撮影)
取水口ではほぼ同じ高さだったが,ここまで来ると稲荷川がかなり低い位置に見える。疎水路が天井川のように思える。
実方に着く前で疎水路は途切れる。
(2009年2月18日撮影)
ここから先は実方神社前を通り,桐野利秋誕生地前を通って,吉野へ向かう。
雀ヶ宮のバス停から吉野公園へ向かう道をしばらく行くと磯川が見える。
この脇に落としについての案内板がある。
疎水路はこの場所で磯川と合流し,下に落とされて水車の動力となっていた。
(2009年2月18日撮影)
1691年にわざわざ稲荷川から水を取り入れようと考えたこと,それを実現させたことに感心させられた。
28代の斉彬の時に,この疏水を集成館事業に使うために,改修された。磯の裏山に貯水池を作って,水車を回して機械の動力へと使用されるようになった。
その疎水路の跡がすべてではないが残っているので,たどってみることにした。
まず,取水口。
(2009年2月18日撮影)
稲荷川から水を取り入れている。
(2009年2月18日撮影)
取水口の位置へは細い石橋を2回渡る。
右が稲荷川。
(2009年2月18日撮影)
取水口から少し下ったところ。
稲荷川は滝のように落差がある。
(2009年2月18日撮影)
渓谷を抜けると,疎水路は遊歩道と並行する。
疎水路の取水口へのアクセスは蒲生と鹿児島市を結ぶ県道で下田郵便局を蒲生方へ少し行った場所から案内板があるが,場所は分かりにくい。
(2009年2月18日撮影)
稲荷川を渡り,写真中央奥に続いている道路をたどると先ほどの遊歩道に着く。
遊歩道の入口付近には・・・
(2009年2月18日撮影)
疎水路に水車が付けられている。
遊歩道が終わると今度は家々の脇を疎水路が流れている。
(2009年2月18日撮影)
やや大きめの道路と交わるところでいったん水路が地下化するが道路を渡ると脇を流れている。だんだん幅が狭くなる。
カーブが多い道を進んでいく。
途中から稲荷川の方を見る。
(2009年2月18日撮影)
取水口ではほぼ同じ高さだったが,ここまで来ると稲荷川がかなり低い位置に見える。疎水路が天井川のように思える。
実方に着く前で疎水路は途切れる。
(2009年2月18日撮影)
ここから先は実方神社前を通り,桐野利秋誕生地前を通って,吉野へ向かう。
雀ヶ宮のバス停から吉野公園へ向かう道をしばらく行くと磯川が見える。
この脇に落としについての案内板がある。
疎水路はこの場所で磯川と合流し,下に落とされて水車の動力となっていた。
(2009年2月18日撮影)
1691年にわざわざ稲荷川から水を取り入れようと考えたこと,それを実現させたことに感心させられた。
彼らの都市計画について少し興味がわきました。
…そういうのはやはり、藩政が何をしたかの年譜みたいなのを調べるのかな?
最近、帰省する度に、いつか地元に貢献したいとちょびっと思う。そのためには勉強しなきゃですね~。