何か言ってる

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私見ばかりのポメッター

2016-12-07 22:51:59 | 何か言ってる
25周年サガシリーズオーケストラコンサート。
それが現実に執り行われ、その場を共有できた。
こんな素晴らしい日が実現するなんて。
関係者の皆様、ありがとうございました。
演奏も、選曲も、編曲も…本当に、何から何まで素晴らしいの一言でした。

勢い余って大阪も参戦するのでした…へへへ。


さて、新しいポメラを入手しましたので
とりあえず書き留めたやつを。
今回はかなり個人的な内容中心です。


●パンゲアの零兆遊戯/彼方に竜がいるならば
 

 ようやく新刊「パンゲアの零兆遊戯」を読了しました。
 いきなり後書きの話をさせていただくと、結びの言葉が
「それでいいじゃん」
 これは、なんだか。
 そもそも、わりと唐突にこの「パンゲアの零兆遊戯」が刊行されたことも。なにかがある、とまでは言わないんですけれど、――もしかすると浩平さんは「まあいいじゃん」で済ませることをもうやめてしまうのだろうか?みたいな心配とも期待とも予感とも思い込みともつかぬものにソワソワさせられてしまいます。
 最近は特に、「面白かった」とかで済ませられないというか「これが!!!読みたかった!!!!!」という、私が浩平さんに求める感覚をガツンとダイレクトに揺さぶるような作品が短期間にこれでもかと刊行され続けている状況なのです。今、気づきましたけど。

 まずパンゲアの零兆遊戯――パンゼロ(勝手に)は、「パンゲア・ゲーム」というオリジナルゲームを通じて物語が進み、語られていく作品でした。
 1戦1戦の勝敗の中で紡がれる物語はゲームの勝敗1つ1つとともに幕を下ろす。未来について、過去について、そして勝つと言うこと、負けると言うこと。それぞれの価値観の中でそれらは語られ、綴られていきます。
 勝つか負けるか、というゲーム――その描写に触れていると、それをまた少し違う角度から触れたような作品がいくつかあったかな、と。つまり、ギャンブルというゲームと、勝負について。そういうテーマについて触れられた作品がいくつか。
 その中でも、まっさきに思い出したのが「ジャックポットの匙」。
 というわけでまず、こちらの作品についての個人的な話から。
 主人公は木村陽子ちゃん。説明を1つ付け加えるなら、「笑わない」の木村くんの妹さん。
 偶然から、フェイトを自称する「水面の向こう側」の存在と不思議な縁で接点ができた陽子ちゃん。フェイトは「負けることに意識的になってみてはどうか」という不思議な提案をし、陽子はフェイトから人生における勝ち負けの――その手始めにギャンブルの手ほどきを受けることになる。
 勝利に貴賎はない、というのがフェイトの持論で。そして個人に勝利がおとずれる確率は7対3の、3のほう。だから、自分が何で「負け」て、何で「勝つ」のかを見極めなければならない。自分にとっての「勝ち」と「負け」を問うと言うことは、自分が何者なのかを確認することになる。そういう世界こそがムガンドゥの世界。
 あまりにも負けることが嫌いで、つまり世界のことが嫌いで。そして兄、明雄のことが苦手で。そうやって生きてきた陽子が、ふとした瞬間に「負け」を認めてしまう。それはささいであるようでいて、彼女にとっては大きな意味のある「負け」だったという――こんなお話をこんな風に書けるのは、というかこれを書いてくれるのは本当に浩平さんだけなんじゃないのか。
 ようやく「彼方に竜がいるならば」でこの作品に触れることができたその頃、ちょうど、昔のちょっとした思い出――なかったことにしよう、とずっと思っていた思い出を、誰かに話してもいいような気になったんですよね。不思議と。
 まだ中学生の頃、入院した母親の見舞いからの帰り道。2人いる兄のうち、2人めのほうとマンションの階段を上っているときに、たぶん物心ついて初めてだと思うんですけど、「おにいちゃん」って呼んじゃったんですよね。
 普段は名前で呼んでいるのにどうしてそんな単語が出てきたのか全く不明だったし、その時の自分の声がまた、全然別人みたいで。後で一人反省会になってこれはなかったことにしよう、なんて固く誓ったものなんですけどね。それが最近になって、どういうわけか――不思議なもので。
 ただ、昔から「困った」とか「しんどい」とかそういうことを誰かに伝えるという行為がなかなかできない性格の自分が、あんなにストレートに「困った」を表に出したのはあのときぐらいじゃないかな、と今更しみじみ思ったりするのです。
 まあ、私の場合は「負け」たとしてもそれを認めないようにしてそこからずっとこうして来たわけですけれど、陽子ちゃんは上手に負けられたのかな。少しうらやましいような気もします。


●この世界の片隅に/チャッピー

 

 映画館で火垂るの墓を観てしまった世代ですが、推しコメなどを見ている分にはそこまでの想定をせずとも観て楽しめるもののようだという判断をしたうえで、恐る恐る観に行ってみました。
 あ、ちょっとストーリーについて一部触れます。
 時々現実がフワフワしてしまう少し不思議な構造と、評判通りの魅力的な声の演技。主人公すずが絵を描く描写や作品自体にも引き込まれながら、いつしか日付を数えるように展開を追い始めた頃、それは唐突に彼女らの身に降りかかったのでした。
 目を覚ましたすずは、右手の一部と、右手の先にあった命を失ったのだ――と、それを理解した瞬間にまずちょっと思考がショートしたというか。うわ、またこれか、みたいな。
 それから、それまで絵を描くということと分かちがたく生きてきた彼女の人生からそれが奪われてしまったことの大きさのことを考え、恐ろしくてたまらなくなります。
 そこは物語自体の大きな転換点でもあったわけですけれど、ちょっとまともに作品を楽しむことができる状態ではなくなってしまったので、トータルで作品のことをどうだったかという部分はなんともコメントできない感じになってしまったのがもったいないです。
 この作品については「またか」となったわけですが、初めてで、それがとにかく顕著だったのが「チャッピー」でした。
 暴力シーンが多いだとかのあたりは一応前評判として押さえての鑑賞。
 チャッピーが初めて覚醒し、まず人間に怯える野生動物のようなリアクションをとる部分で、これは私が期待していた「自我に目覚めた人工知性体」とは違うかんじだな、とは思いました。だってAIが人間に怯える理由がわからないもの…。チャッピー自体はつまるところ人間の子供の置き換えそのもので、それも期待外れでしたし、さらには「人工知能が自我を持つ」というロマンをオカズ程度にも介さない内容で、そして――個人的に、極めて悪趣味な作品だったなあ、という感想です。
 だってねえ。人間の子供の置き換えそのものでしかないチャッピーを見ず知らずの人間から理由もなく殴られたり撃たれたり燃やされたりなんていう描写を執拗なほど入れて、ロボットだから――人間の子供を主人公にしているわけじゃないから、みたいな割り切りをするくらいだったら、ちゃんと子供を主人公にしてその描写をしろよ、と思うし。
 さらには私の大好きなバディロイドたちがこんな目に遭わされたらと思うと本当にやりきれなくて、この監督を同じ目に遭わせてやろうか!とぎりぎり歯がみをする思いでしたが、そこからさらに。
 そう、ヒュー氏に拉致されたチャッピーが「おとなしくしろ」と電ノコをあてられるシーン。
 今までも、暴力的な表現のある映画はたくさん見てきている方だと思いますし、それを良いだとか悪いだとか考えるようなことは無かったつもりです。結局、その作品が好きかどうかですから。
 それでも腕を切られるそのシーンは、追体験というか、ものすごくショッキングでした。自分がそこについて描写されるのがこんなに苦手だったのか、と初めて気づいたかもしれません。――とにかくそれまで散々悪趣味な描写を見せられてきたこともあって、勢いがあったら席を立って帰っていたかもしれない、くらいのところに到達していたと思います。
 ここで、この映画の前評判を聞き、私が好きそうだからと誘ってくれた友人の様子を確認すると、彼女は特にリアクションらしいリアクションもなく、普通に映画鑑賞を続けていました。それがまたショックで。別に彼女が作った映画じゃないですけど。
 もちろん、この悪趣味な映画と「この世界の片隅に」は全く同列に並べることのできない作品です。
 でも、ちょっと苦手な描写があって、それは友人たちとの間にちくちくした一線を引くものになってしまうことがあるのだとしたら、もうちょっとうまく折り合いをつかられるようになれたら良いなあ、とか。そんなことを考えながら。
 時間をかなりおいてみたもののチャッピー評に関しては全く変わらなかったのでした。
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