夕風桜香楼

旧『薩軍分営』。
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篠原少将の軍服をもとめて (二)

2010年04月06日 16時14分05秒 | 歴史雑談
 明治はじめの国軍草創期において、制式軍衣はじつに目まぐるしく変遷しています。そのペースの猛烈さといったら、1年ごとの改正なんて甘っちょろいものではなく、細かな補完・修正を含めるとほとんど半年に1回といってよいぐらい。あまりに複雑すぎて、軍装関係の専門書籍においても記述の相違がみられるほどです。
 軍装史についてシロート同然である筆者は軽くお手上げ状態ですが、「ちゃんと考証するぞ!」と決めた以上頑張って調べるよりありません。四苦八苦しながら各種資料および実際の公文書等をあさり、西南戦争に至るまでの時期における軍服の種類を、おおまかではありますがまとめてみました。


明治3年式(4年式・5年式)
 御親兵発足にあわせて制定。詰襟のシングル。正剣帯等はなく、装飾もひかえめでかなりシンプルなつくり。
 4年、5年にあいついで改正(袖章などが微妙に変化)。なおこのころはまだ正式な略衣はなかったそう。

明治6年式(8年式・10年式)正衣
 3年式を全面的に改定したもの。詰襟のダブル。きらびやかな袖章が印象的で、全体的にかなり豪華なつくり。
 8年、9年、10年の改正で正剣、正剣帯、飾帯などが順次追加され、19年の改正でほぼ基本形が確立。昭和の敗戦にいたるまで帝国陸軍の礼装として定着した。

明治6年式略衣
 詰襟ないし折襟の肋骨服(≠ボタン式)。正衣に比べれば地味(当り前だ)。
 後年の改正でボタン式などが追加される。


 じつは篠原の軍衣については、明治3年式(袖章の形状などから5年改正の様式に準拠?)のものが現存しています。とはいえ、保存状態のよさなどを考えると、彼が戦死時にこれをまとっていたとは考えにくい…。

 では、篠原の死装束は明治6年式軍衣だったのか?
 しかし、明治の軍衣の急激な変遷と篠原の経歴とを対比してみると、それは非常にあやしいのです。
 篠原の維新後の経歴は、


明治4年7月29日  陸軍大佐・近衛局出仕
   5年9月2日   陸軍少将・近衛局出仕
   6年4月5日   近衛局長官
   同年11月12日 西郷隆盛を追って下野、帰郷(陸軍少将の官位は保留)
   10年2月     西南戦争勃発、薩軍1番大隊長
   同年2月25日  賊将として官位褫奪
   同年3月4日  吉次越において戦死


 …このような感じ。
 とにかく問題なのは、篠原の下野が明治6年末であるということ、これに尽きます(下野後も陸軍少将の官位はそのままでしたが、彼自身は東京に復職する気はまったくなかったようですから、実質的に彼の軍歴は明治6年末をもってストップしているのです)。

 明治6年式軍衣制定の布告がなされたのは同年5月。さらに同じ9月に追加で微細な改正が行われています。なんだ、篠原の下野は11月なんだから、調達していたと考えてOKじゃん!…と思いきや、同服制を定めた『陸軍武官服制 表並図』には「此服制ハ明治七年一月一日ヨリ相用ユベシ」という困った一文が。また、服制改正後もそれ以前の様式の軍衣の着用を続けるということは当時としてはごく一般的だったそうですし(現にそれを裏づける写真等も多く残っています)、さらにいえば篠原はとにかく武骨な人物だったそうですから、服なんかにはどうも無頓着そう…。
 結局のところ、彼は6年式を調達せずじまいだったんじゃないか…という結論のほうが、合理的な気がしてきます。

   (三)へ続く…? 


 ※ 参考文献については、次稿でまとめて掲載します。

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