夕風桜香楼

旧『薩軍分営』。
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西南戦争における壮兵動員(2) 警視局による巡査の臨時徴募

2017年06月11日 19時52分36秒 | 歴史雑談
 前回、西南戦役(西南戦争)において陸軍(大阪の陸軍事務所)が推進した壮兵全国召募を概説しました。
 そこで今回は、いよいよ内務省警視局による士族の臨時徴募の実態について説明したいと思います。



 西南戦役では、兵員不足に伴って数多くの警視官(当時の警察官の呼称)が戦地に出動しました。その全容は機会があればまた別途取りあげたいと思いますが、これに伴って実施されたのが、士族の臨時徴募でした。
 なお、一般書籍等では、西南戦役時の東京の警察機関として「警視庁」という表現を使用するものが数多く見受けられますが、これは誤りです。明治7年に発足した東京警視庁は、戦役勃発直前の明治10年1月に廃止され、「内務省警視局」に改組されています。このあたりは最低限押さえておきたいところです。

 警視局による臨時徴募は、大きく分けて2つのフェーズに分かれます。すなわち、

(1)岩倉具視の独断専行による士族動員 ⇒ 第一号徴募(2~3月の臨時徴募)
(2)陸軍省への移管を前提とした士族動員 ⇒ 第二号徴募(4~5月の臨時徴募)


です。その流れはやや複雑で錯綜していますが、以下で順番に説明していきます。




(1)岩倉具視による士族動員論と第一号徴募

 明治10年当時、警視局は6,000人の定員を有していました。しかし、戦役勃発まもなく、連日の部隊派遣によって東京の治安維持に必要な人員が枯渇し始めたため、警視官の臨時徴募をあいついで実施することとなります(表も参照)。しかしそれは以下で記すとおり、単なる警視官の増員ではなく、むしろ士族を即戦力として政府側に組み込み、九州で戦闘に従事させるという、壮兵動員策としての性格を濃厚に帯びていました。

 警視官の臨時徴募を主導したのは、東京留守を担当していた右大臣・岩倉具視です。岩倉は戦役当初より、百戦錬磨の薩軍への畏怖と徴兵制軍隊の実力に対する強い懐疑の念から、士族を即戦力として登用し薩軍に当たらせる構想をいだいていました。

「今後の模様にて万一兵員御増加無之ては不叶る場合にも至候節は我兵必す不足すへし。今是れを士族に取れは兵制に関し亦政府の威令に関する事最大事、然れとも不得已は東京にて倔強の輩人撰、今三、四千名も巡査に募り之をして繰練せしむるは如何」(3月付意見書)
「散兵狙撃抜刀接戦彼の所長なり、我将校士官素より力ら彼に十倍すと雖も徴募兵の力彼の長所に当るに難しとす」(3月13日付大久保宛書簡)

 岩倉は幕末以来薩摩とベッタリの関係だったので、薩摩兵の強さを誰よりも知り、恐れていたのでしょう。
 ただ、書簡にもあるとおり、士族の徴募が徴兵制の理念を根本から破壊し、ひいては政府の権威をも失墜させかねない危険な思想でもあることは、岩倉も当然ながら熟知していました。そこで岩倉が案じた一計が、「士族を陸軍兵としてではなく、名目的に警視官として登用する」という奇策だったわけです。正直これは、士族を違和感なく政府側に志願させ、徴兵令に抵触しない体面を装うための苦しまぎれの言い訳ですが、少なくとも岩倉が徴兵制の擁護にそれなりに重きを置いていたということは、見落とすべきではないでしょう。
 また、岩倉の意見には、「薩軍に呼応するおそれのある全国の士族を早期に味方の側に取り込んで統制し、叛乱を未然に防止する」というねらいも含まれていました 。なぜならこの時期、薩摩に恩顧の深い旧庄内藩などでは、薩軍に呼応するかのような不穏な動きが認知されており、政府としてはそれへの対応も急務であったからです。呼応叛乱の未然防止という観点は、同時期に大阪の鳥尾中将のもとで漫然と進められた陸軍の壮兵全国召募策にはあまり見られないもので、ここにも政略に長けた岩倉ならでは慧眼が光っているといえます。

 さて、岩倉は3月1日、さっそくこの案を京阪の三条・大久保・木戸に開陳しますが、その全員が難色を示したため、いったんは引っこめざるを得ませんでした。とりわけ木戸などは、

「今日士族其外無用の兵を募るは尤不可なり、当如此際能く後害を慮らすんは有るへからず、薩摩を討ち又一小薩摩を生するなり」(3月1日付岩倉書簡朱書)

と強硬に反対しています。

 ところが、内務卿代理・前島密や警視局ナンバー2の中警視・安藤則命らは、すでにこれに先立つ2月の時点で、関東・東北諸県を対象とした士族の大規模な臨時徴募に着手していました。この臨時徴募は、大規模な部隊派遣に伴う東京警備力の不足への対処という名目で、大阪の政府首脳の裁可を得て実施されていたものですが、その背後に岩倉の意向がはたらいていたことは明らかでしょう。
 岩倉はやむにやまれぬ思いから、京阪の政府首脳の意向に関係なく、独断で自策を実行していたのです。

 この2月の臨時徴募は「第一号徴募」と通称されており、徴募結果総数は、5,213人(うち派遣数は3,870人)にのぼったとする資料もあります。実際、諸般の記録にもとづく計算でもこれに限りなく近い数値が導かれることから、第一号徴募警視官の実数はおおむね5千人余であったとみて間違いないでしょう。徴募警視官は3月中には順次東京に参集して即席の兵術訓練等を受けると、岩倉の意向を反映するかのように、直ちに「警視徴募隊」として九州へ派遣されていきました。

 岩倉の臨時徴募策は、士族壮兵を即戦力として募集するという意味で、実態的には陸軍の壮兵召募策と同じものでした。しかし、種々の記録を綜合すると、岩倉と陸軍とはそれぞれ独自に動いていた形跡があり、両者の策は必ずしも共同歩調のもとで実施されたわけではなかったようです。
 例えば岩倉は、3月4日の時点で陸軍にも壮兵召募の動きがあることを知りますが、

「暗に愚考と符合、前島・安藤充分尽力之都合に候」(3月4日付岩倉具貞宛書簡)

との意向を示す程度で、これに呼応する具体的な動きを見せてはいません。また、4月上旬、陸軍によって壮兵全国召募が断行された際には、その直後に東京鎮台から「当地ではすでに内務省による警視官大量徴募が決定している(これは後述の第二号徴募のことです)。壮兵召募は見送りたい」旨の意見具申がなされているなど、陸軍と内務省との足並み不一致が明らかに現場の混乱につながっているのです。
 結果として西南戦役では、西日本で陸軍の壮兵召募、東日本で内務省の警視官徴募という、二元的な壮兵動員が行われることとなったわけですが、この錯綜は、当時、壮兵召募を主導した陸軍の鳥尾中将が大阪におり、東京の岩倉と十分に連携できなかったことも一因であると思われます。両者がもし常に直接話のできる場所にいれば、壮兵動員はもう少し統括的かつスムーズに進んだのかもしれません。


(2)第二号徴募と新撰旅団の編成

 4月4日、陸軍によって壮兵全国召募が布告されると、時期到来とみた岩倉はすかさず三条らに再度自策の実行を打診し、ついにこれを正式に認めさせます。大久保・三条は当初士族動員に反対していましたが、戦線膠着への焦りから翻意した形でした(なお木戸は最後まで強硬に反対しつづけました)。これを受け、4月6日、岩倉は大手を振って大規模な追加徴募(「第二号徴募」)に踏みきることとなります。政策的に先行した陸軍に、岩倉が便乗した形であったといえるでしょう。

 なお、4月~5月にかけ、九州の総督本営の山県有朋や、衝背軍を指揮していた黒田清隆などからも、士族壮兵を巡査として動員する案が京阪に具申されています。両名が岩倉と協働していた形跡は確認できないため、この九州における動きを岩倉策との直接的な連携と見るのは適切ではありませんが、少なくとも山県・黒田は、東京における岩倉の動きを伝え聞き、その有効性を一定程度認めていたのでしょう。

 第二号徴募は、東北諸県を対象に4月と5月の2回にわたって実施されました。2~3月の第一号徴募と同様、名目的には「東京警備力の確保」が掲げられていましたが、第一号徴募時のように警視局の枠内で人員を運用するのではなく、得られた人員を陸軍に移管し、純粋な戦闘部隊とすることを前提として進められました。事実、内務省はかなり早い段階から陸軍省に対して装備・練兵に関する根回し・調整を行っています。

 また、第一号徴募の影響で対象者の母数が減少してしまっていたため、岩倉はさらに一計を案じ、旧藩時代の縁故関係を利用する策も実行に移しています。すなわち、諸県に在住する旧藩の元藩主を介して徴募を実施させ、「殿様と家臣」というかつての主従関係によって元藩士たる士族を半強制的に応募させたのです。
 この手法は一定の成果を上げたようですが、一部の新聞において「封建の軍制の昨日に復せんと欲するに似たり」と痛烈に批判されてしまう結果も招き、岩倉はその火消しに奔走する羽目にもなりました。

 最終的に、この第二号徴募で集まった警視官の数は1万人を超えました。ただ、その質は必ずしも高くなかったようで、「警官にするというから応募したのであって、兵隊にするとはペテンも甚だしい」といった抗議や、帯刀禁止・愛刀没収という統制措置への反発の声などがあいつぎ、参集後の脱走・逃散命令不服従・反抗といった事例も散見されています。薩賊討伐に燃える自主的な志願者も多かったと思われる第一号徴募と、元藩主のコネでなかば強引に駆り出された士族が少なくなかった第二号徴募とでは、集まる人員の質・士気に差がつくのはある意味当然だったといえるでしょう。

 さて、第二号徴募の第一陣(4月の第一次徴募者)は5月頃には東京に集まり始めたため、同月23日、内務省はこれを陸軍省のもとで「新撰旅団」に編成することを正式に決定します。
 徴募警視官たちは順次大隊に編成されて陸軍の宿舎に入り、習志野において基礎的な兵術訓練を受けました。新撰旅団の人員の階級・制服・俸給はあくまで警視局の規定に準拠することとされましたが、指揮・運用は全て陸軍省に委任されており、実態としては陸軍の兵員となんら変わりありませんでした。司令長官には陸軍少将・東伏見宮嘉彰親王が就任せられ、各隊の将校・下士には陸軍からの派遣人員のほか、徴募警視官中の抜擢者があてられました。

 新撰旅団は、7月上旬までには歩兵4コ大隊を基幹とする人員計4,264人の編成・兵術訓練を終え、出動準備を整えます。岩倉は当初、これを板垣退助を首魁と仰ぐ反政府勢力の牙城・高知県に派遣して鎮撫に当たらせる考えをもっていたようですが、別の警視隊の派遣等が奏功して同県の治安確保の見通しが立ったことから方針を転換し、九州の官軍に加えることを決定。7月中旬、正式に出動の命が下った新撰旅団は東京を発し、別働第三旅団と交代する形で日向に上陸、他の征討旅団とともに、戦役鎮定まで転戦することとなりました。

 なお、新撰旅団出動に前後して、第二号徴募の第二陣(5月の第二次徴募者)も順次東京に参集し、第五~第十大隊があいついで編成されました。しかし、もはや戦役鎮定の目途が立ち、追加の戦力は不要と判断されたため、この第二陣は出動することなく8月下旬に解団されました。


【本稿にかかる主要参考資料】

『征西戦記稿』 陸軍参謀本部
『陸軍省大日記 西南戦役』 陸軍省
『太政類典』 内閣文庫
『川路大警視』 中村徳五郎
『新編西南戦史』 陸上自衛隊北熊本修親会
『西南戦争警視隊戦記』 後藤正義
『岩倉具視関係文書』 大塚武松
『大久保利通文書』 日本史籍協会
『木戸孝允文書』 木戸公伝記編纂所
『三条実美関係文書』 広瀬順晧
『西南戦争における「巡査」の臨時徴募』 大日方純夫
『岩倉文書からみた西南戦争』 友田昌宏




 いかがだったでしょうか。以上が警視局による士族動員の概要です。
 このほか、警視局以外の全国の府県警察でも、治安警察力強化のため増員が行われました。

 警視官の活躍については、今後も記事にしていきたいところです。



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