Blog of SAKATE

“燐光群”主宰・坂手洋二が150字ブログを始めました。

表現の自由を守りたければ、差別はやめなさい

2012-10-20 | Weblog
昨日、週刊朝日の佐野眞一氏らによる『ハシシタ 奴の本性』について私が言っていることは、まずシンプルに〈他者の「本性」を決めつけるのは「差別」である〉ということである。その記事に、認識・論理として誤謬があるということを指摘している。「橋下大阪市長についての内容云々よりも、佐野氏自身の考え方について、かなり疑問が出てくる」と記したとおりだ。
誰かを捕まえて「あなたの言動はこのように悪い」と言うのは構わない。「あなたの言動がなぜ悪いかを、論理的・客観的に証明する」ことを試みるのもオーケーだ。だが、「あなたのDNAは間違っている、だからあなたはひどい本性の持ち主だ」「おまえの「血脈」をたどって、おまえの悪い本性をあぶり出したぞ」というのは、論理として破綻しているし、最悪の「差別」である。橋下氏が言うとおり「(記事は)血脈主義や民族浄化主義につながる危険な思想」であり、「差別を助長し、社会的に許されない」と思う。「実父の出身地を巡る記述で人格否定につなげている」とすれば、佐野=週刊朝日側の「考え方」じたいが、確実に間違っているということだ。
「表現の自由」は守られねばならない。「事実」を知ることも大事だ。だが恣意的な組み立てに当て嵌めて、論理的ではない「因果関係」を言うことは間違っている。相手がどんなに悪辣な権力者でも、「差別」はいけない。
週刊朝日も朝日新聞も、「不適切な記述があった」などと、謝罪した。とにかく間違っているのだから、それを認めることは必要だ。連載も中止のようだ。それは私の知ったことではない。間違ったことを撤回し、誤りのない内容で書き続けることができるなら、それを強制して止めることはない。「表現の自由」というものは、誰にでも、どの立場にでも、あるのだ。連載中止で「責任を取った」と考えるかどうかは、当事者の勝手である。どうやら佐野眞一氏は逃げ腰で、今回の対応について、週刊朝日編集部に下駄を預けたようだが。
「橋下」は、字としては「はしもと」ではなく「はしした」と読むこともできる。だが、大阪市長である「橋下徹」は、「はしもととおる」であり、「はししたとおる」ではない。週刊朝日=佐野氏の『ハシシタ』という題名は、それを恣意的に「下」=「した」と読ませることにより、「下」という漢字そのものが持っている「低い」「劣っている」というニュアンスを、「差別」を補完するために使おうとしている。これは、「言葉」に対しても、失礼である。
私は、『ハシシタ』という題名をつけることを「やめろ」と言っているのではない。表現の自由は、ある。題名じたいは直接的には「性質」には言及していない。私は、その題名をつけた人が、「差別」のためのコンテキストでそうしていることを指摘し、それが「間違っている」と言っているのだ。
今回の顛末がお粗末なのは、これが「表現の自由」の問題にさえなっていないからである。週刊朝日=佐野眞一氏が、間違っていて、愚かである。それだけの問題だ。「表現の自由」の問題と考えている人達は、過大評価をしている。
それどころではないのに、あれこれ勘違いされるのが面倒なので、記した。
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 他者の「本性」を決めつける... | トップ | 本文を読まずに論争に加わっ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事