癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

言い伝えの多い矢不来天満宮

2012年04月11日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ
       

 昨日、不二山を下山後、茂辺地の歴史的由緒のある矢不来(やふらい)天満宮へ寄った。茂辺地川河口から3つ目の茂辺地橋を渡って道なりに台地に上がった位置にある。

 この神社は、15世紀に矢不来海岸に流れ着いたという天神様(菅原道真)像を祭ったのが始まり。道内でも古い起源を持つ神社の一つで、ミステリアスなものも含めていろいろな言い伝えの多い神社だ。ちなみに、道内最古の神社は知内町の雷公神社(1205年)である。

 実は、この神社の現在の宮司の父親であるNaさんは、ここの神社のお嬢さんと結婚したが、自分は神職にはつかず、私と同職を全うした先輩である。且つスキー指導員仲間で、現在の北斗市スキー協会会長でもある。到着したら、ちょうどタイミング良く、Naさんが境内にいて、いろいろ歴史にまつわるお話を聞くことができた。

 もともと、ここは、国指定の史跡の「茂別館跡」で、鎌倉~室町時代にかけて築かれた「道南十二館(どうなんじゅうにたて)」(領主の館)のひとつである。ここは豪族下国(安東)氏の居館であった。要するに、「茂別館跡」の大館跡に現在のこの神社が建っているということ。土塁も残っているそうだ。
 
 起源から大正6年までは、矢不来海岸の台地(「矢不来台場跡」の海岸寄り)にあり、その後、茂辺地市街地南側の高台に移転、さらに、現在地へ移転したのは昭和3年で、上磯~木古内間の鉄道工事の前だそうだ。ちなみに、現在の社殿は、昭和43年改築の神明造とのこと。大祭は4年ごとの9月24日~26日。

 この神社のミステリアスな「矢不来の赤松」「ご神体」「社殿の不思議」「鳥居の言い伝え」等については、Naさんからもお聞きしたが、下記に詳しいので、そちらを読んで頂きたい。
http://donan.org/history-legend/yaginainoakamatu.html

       

 天保11年と刻まれている一の鳥居。左側に「茂別館跡」の説明板が立っている。
 上記のサイトに載っているこの鳥居の言い伝えとは違うものをNaさんからお聞きした。
 それは、もともと函館のどこかの神社のために本州から運んで来たが、矢不来海岸でその船が遭難して鳥居もろとも沈んだ。それを引き上げてこの神社のものとして利用したとのこと。

       

 境内に祀られている赤松の幹・・・矢不来天満宮の天神様(菅原道真像)は、赤松の上に乗ってこの地に流れ着き、流れ着いた浜辺には赤松の大木が生えた。
 昭和5年(1930)、上磯~木古内間に鉄道架設工事が始まり、この大木を伐ろうとしたが、旭川から連れて来た腕のいい木こりでも伐ることが出来なかった。
 ある夜、その木こりの夢に老人が現れて、「切り口に葦を挟んで伐るとよい」と教えたので、その通りにするとようやく伐ることが出来た。 しかし、その後伐った木こりもお祓いをした神官も死んでしまったという。
 鉄道開通後も走行中の汽車の中に、白衣の老人の霊が現れると騒がれたため、伐った木の一部を矢不来天満宮に祀って木の霊を鎮めたという・・・・これが、上記の写真である。

        
 
 牛の像・・・同じものは太宰府天満宮にもあって、これは菅原道真が亡くなった時に亡骸を牛車に載せて進んでいると、急に牛が動かなくなってしまったので、その場所に菅原道真の亡骸を葬り、太宰府天満宮が建立されたというところからこのような牛が伏せた像が作られているらしい。
 また、新しい方の牛に付いているのは梅の社紋で、菅原道真が梅の花をこよなく愛でていたところから、各地の天満宮で使われているということ。

       

 今年の大雪で落ちてしまった社殿の鳥居の屋根・・・Naさんは、どのようにして改修したら良いか頭を悩ませているとのこと。 
 なお、この境内には多種類のサクラの木が多い。Naさんが花を見て調べて書いたという名前の札が一本一本にぶら下がっている。遅咲きのものもあるので、ひと月ほど楽しめるとのこと・・・今度サクラの頃に再訪してみようと思った。

       

 裏参道の途中にある「開拓使茂辺地煉瓦石製造所跡」・・・明治5年に製造が始まり、ここで作られた煉瓦は、現存する函館元町公園の元函館支庁書籍倉庫や金森用物店等に使われている。標柱から台地側へ10mほど歩くと足の下に煉瓦の残骸がザクザクと落ちているらしい。

 これらのほかに、近くの旧道(福山街道)沿いには、明治11年に始まった「茂辺地さけ孵化場跡」や箱館戦争時の激戦地「矢不来台場跡」などがある。

 なお、「矢不来」の地名の語源は、矢不来神社の沿革に依ればコシャマインの戦いの際、この地にアイヌの毒矢が来なかったことから「ヤギナイ」と呼称し矢不来の字をあてたとの説がある。
 しかし、地形から言うとアイヌ語の「ヤンギナイ」=船を揚げる所というものに由来するという説が有力とのこと。  

2 コメント

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雷公神社 (赤ワイン)
2012-04-11 20:14:21
いつもためになる記事ありがとうございます。(イヤミじゃ無いですよっ!・・・念のため (^_^;))

雷公神社(知内)とはまた面白いですねー。「雷公神社」は各地にあるものかと検索しましたが、串本と知内の二つしかヒットしません。(ま、雷公=菅原道真は天満宮祀りが本筋だからでしょうか)
串本の方は「雷公(なるかみ)神社」で、地名がそもそも「鳴神」。祭神も五十猛命ということで、菅公(雷公)との直接の関係は薄いのかも。
それにしても蝦夷地の神社になじょして「雷公」なのか、面白い。
ということで、横道のほうに関心が行ってしまいました。
赤ワインさんへ (sakag)
2012-04-11 22:07:43
道南は歴史が古いので、調べるといろいろ面白いです。

雷公神社は寛元2年(1244年)に山城国加茂からの奉遷説と、元久2年(1205年)荒木大学が加茂二社を建立、享徳2年(1453)両社をあわせて雷公神社としたとの説があるようですが、名前の由来は解りません。

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