『計画と無計画のあいだ』三島邦弘(ミシマ社)
いわずとしれたミシマ社の三島さんが書いた「自由が丘のほがらかな出版社」の話です。
ミシマ社通信にこの本のことが紹介されていました。また3月がきました。あの日から一年が過ぎようとしています。この出来事を契機にして書かれた本の一冊です。
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まっ白な紙の上に一本の線を引いてみる。
すっ。
それができたら、もう一本、最初の線より左側に引いてみよう。
すっ。
で、一本目の線を計画線とでも名づけるとする。この計画線は、決まり事、ルール、常識、規則、秩序、効率性、社会性あるいは防御(守り)、ブンダン主義といった事柄を表すライン。この一線より右側の部分は、絶対に守らなければいけないことや納得のいかない多数派の考えや意見なども含まれる。裏を返せば、このラインさえ守っていれば、あとは自由。
そして、二本目の線を無計画線と呼ぶことにしよう。この線は、文字通り、無計画、柔軟さ、突発性、衝動、無秩序、野生、攻撃、原点回帰といった事柄を表す。この線までは自分が無計画に動いても大丈夫。ただしそれより先は危険エリア。
この一本目と二本目の線にはさまれたスペースこそが、自由のスペースだ。
みなさんの自由は、どれくらいの広さですか。
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「計画と無計画のあいだ」こそが「自由」
うーん、ここで先日読んだ本を思い出しました。
『どのような教育が「よい」教育か』苫野一徳著(講談社)
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公教育の本質をまず次のように定式化したいと思う。すなわち、「各人の<自由>および社会における<自由の相互承認>の<教養=力能>を通した実質化」。
私たちが<自由>になるためには、どうしても相応の<教養=力能>を獲得する必要がある。したがって諸個人の側から見れば、教育とは自らが<自由>になるための<教養=力能>育成を保障してくれるものである。他方この<教養=力能>の根幹をなすのは<自由の相互承認>の理解、つまりその内在化である。したがって社会の側から見れば、諸個人の<教養=力能>を育成することが、同時に社会における<自由の相互承認>をより実質化することに結びつく。
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