私の国語教師としてのスタートは生活作文である子どもたちの日記を読み、赤ペンで返事を書き、それを毎日一枚文集にして発行するという営みでした。尊敬する先生のうしろ姿を追ってはじめたものでしたが、書くことはいつも学級の中心にありました。
でも、時代が変わり、子どもの赤裸々な文章をのせることが難しくなってきたことや、自己対象化する作文よりも、事実の客観認識に重点を置いた情報作文の指導が求められるようになってきたことや、そして何よりも、学年で歩調を合わせていくためにはあるクラスだけ特別なことはできない学校運営上の制約というものがあり、実施することができなくなってしまいました。
でも、今年出会った3年生の子どもたちと一緒にすごすのが、来週の月曜日からあと34日なのだとぼんやり考えていたとき、「学級の人数と同じ日数だな。一人ずつの手書きの題名をはって、一枚文集を34枚書こう。」と、なぜか思い立ちました。
子どもたちと相談して題名も決めました。
「きぼうときずな」
なんだか3年生の子どもたちのすがたと言葉が、ちょっとアンバランスのように思えたのですが、子どもたちが書いた34枚の題名をならべてみていると、しだいにしっくりとなじんできました。「き」つながりがいいですね。「き」にいってます。
昨日の研究会で講師の田近旬一先生から『「再」の教育』というお話をうかがいました。
******************************
事実をとらえるとは、何が本当の事実か、感情を交えずに、ほんとうの事実を追究する。自分の感情を入れ込んでいないか、自分の主観の枠の中にはめ込んでいないか、それがほんとうの事実か、対象を自己化していないかを見ている事実の上に問うていく。
更に、書きながら、それでほんとうのことが書けているかを絶えず問う。見えている事実=可視的な、認知可能な現実態としての事実を問い直しつつ、ほんとうの事実、自己の外に存在する(はずの)、他者としてのほんとうの事実を追究する。
******************************
書くことによって自分を問いなおすこと
一枚文集を書くことは、私自身も問いなおすことになると思います。