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東日本大震災から2年3か月 福島、宮城、岩手を回って まとめ(K)

2013-06-19 | 被災地復興
 東北の被災地では3.11から2年3カ月が経って、計画から実施段階に入っている。
 住宅は高台移転がどこも共通しているようだ。住宅建設は居住地域が決まって、個人用の建築と公営住宅の建築が始まろうとしている。今後の生活のおける、家賃の支払いや、持ち家でのローンが課題になる。
 生活では今年3月をもって国による国保税の減免という支援が切れ、仕事や住まいのない中で生活費がかかろうとしている。県によっては自治体が支援を肩代わりして存続させているところもあるが、自治体の財政をどう支えるか課題になる。アベノミクスで膨大な公共投資をする財源があるのなら、今、被災地にとって必要なところへの支援を国は存続すべきである。

 地域経済の中核である、漁業は生産段階では震災前に戻りつつある。商業も仮設ではあるが生活を支えられるまでに復旧しているように思える。私たちも買い物には困らなかった。これからは、商店も仮設から本設の段階に入る、と大船渡市は説明していた。加工工場は工場建設を伴うもので、その用地の決定と建設費、設備費をどこまでまかなえるのか、そして、どこまで復興できているのか見えなかった。これも国の支援がグループ補助金に限定したり、設備には支援がないなど実態に応じたものになっていないが改善を要する。
 また、漁業への風評被害のもとになる、放射能の測定とその結果の開示、周知が必要ではないだろうか。

 福島はいまだに除染段階だし、その除染は本当に効果があるのか、山林、山からの水、そして海水の汚染など、いつまで汚染が残るのか、上流から下流への移行、拡散を客観的に情報公開することが本当に復旧につながるのではないか。
 復興はまだ、手つかずだ。

 視察する中で、同時に、災害を防ぐためにどうするか、原発事故を再発させないためにどうするか、この点でも貴重な視察だった。人間が完全に防げるということはないということ、特に、原発は事故が起こったら逃げようがないので廃止しかないことも、改めて分かった視察だった。

「東日本大震災から2年3か月 福島、宮城、岩手を回って 復興の現状と課題」
         終わり

東日本大震災から2年3か月 福島、宮城、岩手を回って 最終回 大槌町、山田町、田老町(K)

2013-06-19 | 被災地復興
大槌町

 震災時、町長・加藤宏暉を始めとする町職員幹部ら約60人は災害対策本部を立ち上げるべく町庁舎2階の総務課に参集したが、止まない余震にいったん駐車場へ移動し、さらに津波接近の報を受けて屋上に避難しようとしたものの、約20人が屋上に上がったところで津波が到達。町長と数十人の職員は間に合わず、庁舎の1、2階を襲った津波に呑み込まれて、そのまま消息が途絶える。町長以外にも課長クラスの職員が全員行方不明となったため、行政機能が麻痺した(WIKI PEDIAより)という。
 海辺の入り江から約1㎞のある役場に大津波が来ると予想できたのだろうか。しかし、これからは予想しなくてはいけない。周辺は草の生えた空き地と化していた。








山田町船越湾あたり
山田町の中心的産業はリアス式海岸を利用した養殖を中心とする漁業だった。震災によって震度5弱を記録したが、この地震が引き起こした大津波によって町は壊滅状態となった。2年後の今、沖に船が出始めていた。しかし、港として復旧するためには多くの費用と時間がかかりそうだ。

今の山田町船越湾海側


船越湾陸側

山田町船越湾の様子、津波当時とその10数日後の様子をyou-tubeから切り取りました。



上の2つは津波の時の船越湾の映像です


2011/03/27にアップロードされた船越湾の画像。左に見える防波堤の残骸の所に行きました。

宮古田老町
 田老町は何度も津波を受けていることで知られている。津波被害を免れようとして先人たちが巨大な防浪堤を作った。2433m世界最大の規模だ。
第一波は30分後、第二波は1時間後。







 
 田老は「津波太郎(田老)」の異名を付けられるほど古くから津波被害が多い。

1611年 江戸時代初期の慶長三陸地震津波で村がほとんど全滅したとの記録がある。
1896年(明治29年) 明治三陸津波では、田老村(当時)の345戸が一軒残らず流され、人口2248人中83%に当たる1867人が死亡。
津波後、村では震災義援金で危険地帯にある全集落を移動することにした。しかし工事にかかったところで、義援金を村民に分配しないで工事に充てることの是非や工事の実効性に村民から異論が続出し移転計画は中断を余儀なくされた。そして結局、元の危険地帯に再び集落が作られた。
1933年(昭和8年) 昭和三陸津波では田老村の被害は、559戸中500戸が流失し、死亡・行方不明者数は人口2773人中911人(32%)。当時の内務省と県当局がとりまとめた復興策の基本は集落の高所移転、すなわち「今次並びに明治二十九年に於ける浸水線以上の高所に住宅を移転」することであり、また移転のための低利の宅地造成資金貸付などの措置もとられた。
しかし、全村移転は敷地確保が難しく、周囲に適当な高台もなかった。海岸から離れては主要産業の漁業が困難になるという問題もあった。そこで、村当局が考え出した復興案は高所移転ではなく、防潮堤建造を中心にした計画であった。
1934年~1940年 第一期工事
1940年~日中戦争の拡大に伴い資金や資材が枯渇、工事が中断。
1954年~1958年(昭和33年)には工事が終了。起工から24年を経て全長1350m、基底部の最大幅25m、地上高7.7m、海面高さ10m という大防潮堤が完成した。
その後~1966年(昭和41年) 増築を経て最終的な完成を見た。総延長2433mのX字型の巨大な防潮堤が城壁のように市街を取り囲む壮大な防潮堤が完成。
1960年(昭和35年) チリ地震津波では、堤防が功を奏して田老地区の被害は軽微。海外からも視察団がやって来るなど田老町の防潮堤、世界の津波研究者の間でも注目される存在になった。
2011年3月11日の東日本大震災に伴い発生した津波は、午後3時25分に田老地区に到達した。海側の防潮堤は約500メートルにわたって一瞬で倒壊し、市街中心部に進入した津波のため地区では再び大きな被害が発生した。目撃証言によると「津波の高さは、堤防の高さの倍あった」という。地区の人口4434人のうち200人近い死者・行方不明者を出した。「立派な防潮堤があるという安心感から、かえって多くの人が逃げ遅れた」という証言もある。震災から半年後の調査では、住民の8割以上が市街の高地移転に賛同しているという。
   以上WIKI PEDIAより抜粋。

 自然の力を防げると過信しないこと。災害は起こるということを前提に対策を立てることが田老町の歴史の教訓ではないだろうか。

 原発は政府によって再稼働されようとしている。6月17日、自民党の高市政調会長が、原発の再稼働問題について「福島第一原発で事故が起きたが、それによって死亡者が出ている状況ではない。」という発言とともに「原発は廃炉まで考えると莫大(ばくだい)なお金がかかるが、稼働している間はコストが比較的安い。エネルギーを安定的に供給できる絵を描けない限り、原発を利用しないというのは無責任な気がする」と述べた。
 しかし、福島の原発事故後は、安全神話は見直され、原子力規制員会でも事故の可能性を前提に議論されるようになった。田老町の津波は防げないものという教訓のように、原発事故も完全には防げないもの、という認識に立つに至っている。原発事故の場合、災害は時間的にも長期にわたり、範囲も広範にわたる点で、起こったら逃れようがない。逃げられない危険な被害をもたらす原発災害をなくすためには、原発をやめる以外に道はない。

東日本大震災から2年3か月 福島、宮城、岩手を回って 復興の現状と課題 その5 大船渡(K)

2013-06-13 | 被災地復興
大船渡

 市の復興政策課の佐藤課長さんと山口係長さんに、忙しい中時間を割いて概略を説明していただきました。被災地に声にこたえて、この時期に私たちがすべきことは何か、できることは何か、を聞きました。

以下は市の説明の要旨です(文責 K)
 
 大船渡は沿岸部は被害を受けたものの、市役所はほとんど被害がない。市職員は約400人で、亡くなったのは消防の一人だけ。しかし、被災して事務量が多くなり70人の支援を受けている。

復興の進捗状況
 これまで土地利用について計画をじっくりと地域で話し合ってきた。今年度から工事が本格化する。
 整備計画の変更理由は段階的に土地利用の用地指定解除し、住宅地、学校などへの利用ができるようにしてきたため。
 3.11以降、4月20日に方針を決定した。被災の大きい駅周辺は区画整理をする。店舗も今は仮設だが早い人でH26年度から本設工事に入る。
大船渡地区は集団移転地区として市が直接担当している。移転先には市や県が公営住宅を計画し用地を確保し、26.27年には全部完成する予定。
 学校は3校、今年度着工予定。高台の造成に1年、建設に2年の計画だ。
 道路については、避難を考えた工事を進めている。幹線がやられたので県道を山側の浸水しない所へ移動しているので事業規模が大きくなった。
 工事が高台移転など今年度に集中しているので地元業者だけでは足りない。資材も人手も足りない。
 高台移転に伴う工事残土は余るが、宮城や福島では足りないので調整できるといい。

漁業の復興・・・養殖も去年から再開。水揚げ量はH22年水準に回復
 地域経済では、市には漁港が22あるが、現在は仮復旧で使用している。養殖も被災したが去年から事業を始めた。本格的復旧工事は28年以降になる。岸壁、防波堤など使える順に工事している。
 魚市場は復旧して被災年のH22年の水揚げ量に回復した。今年度中に新しい魚市場を建設する。

商業の復興
 商業にはグループ補助金を使って78地域、480区画を無償で貸与している。被災した8割が再開している。現在はプレハブで営業しているが、将来はこのプレハブの処理が億単位の財政負担になる。
 就業については有効求人倍率が1.3となったが、業種に偏りがある。土木工事や警備などは高いが、事務職、介護には職がない。

復興工事が長期にわたるため、その間の人手は調達できるのか、国の財政支援は継続できるのか不安材料である。

住民意見の反映・・・子ども復興会議も
 復興計画策定にあたってパブコメも実行したが高台移転についてはいろいろな意見が出て調整は大変だった。岩手県立大学の発案で子ども復興会議も公募で行った。中学生9人、高校生3人が応募した。子どもも大人と同じ関心を持っていたことが分かった。

組合を訪ねて・・・大変だった高台移転の用地確保。忙しく病休者も
 高台移転の用地確保が大変だった。2年で大きいところの計画はできたが、身近なところの計画はほとんどできていない。
 国の補助はこれまでの既設の事業への適用なので使い勝手が悪い。一括交付金制度も認可されるまで時間がかかる。
 職員の事務量が多くなって、支援職員にはないが、地元職員にうつ病などで休む者が出ている。


 長期に頑張っている市の職員にこれ以上「頑張ってください」とも言えず、「体に気を付けてください。ありがとうございました。」というのが精一杯で、心からお礼を言って市役所を出た。

東日本大震災から2年3か月 福島、宮城、岩手を回って 復興の現状と課題 その4 陸前高田(K)

2013-06-13 | 被災地復興
 陸前高田では、あの鈴木旅館に泊まった。素泊まりで2300円。陸前高田の仮設のスーパー「マイヤー」で夕食を調達した。
 夜、宿に地元の藤倉市会議員が来てくれて、陸前高田の現状を聞くことができた。

藤倉議員の話の要旨(文責 K)

地域経済
 陸前高田は震災前には地域の産業である農業、漁業に力を入れてきてわずかずつだが所得が増えてきていた。そこに震災にあった。
 生業への補助は建物にはあるものの、設備にはなく再建は大変だ。
 カキの養殖のために補助が8/9出るが、カキが売れるようになるには3年かかるのでその間の費用をどうするか、問題も残っている。
 今、復興のための建設業の人が足りない。建築の単価が上がり、人がそちらに行って、一次産業の加工、製造には人が集まらない。
 震災によって働く場所がなくなって人口が流出している。二重ローンの問題も法テラスが入るようになった。

住宅問題
 国が住宅資金に300万円、市が災害危険区域内の住宅除却費に78万円、水道配管工事や道路工事に250万円、700万円を限度の住宅ローンへの利子を全額補給、新築バリアフリー・県産木材活用に100万円、被災者住宅再建支援に100万円、など約1500万円の支援をしている(市のホームページより一部補足)。そんなに自己負担にはならないのではないか。
 被災土地は国の事業として買い上げになるが、浸水した土地は被災前の何割になるのか決まっていない。

土地利用
 中学校の校庭には仮設住宅が150軒建っている。浸水した地域は農地や公園になる予定だ。400数十世帯が高台移転する。
 山の土地をURから委託を受けた清水建設が分譲しているが、通常、坪3000円くらいの土地を20,000円で買い上げているので、山がどんどん開発されていく。

残土
 高台の造成で山を削っているが、出た土の行き場に困っている。浸水した市街地93haを8m嵩上げし、うち19haが580戸の住宅用地の計画だがそこに使ってもまだ余る。近隣の自治体では道路や土地の嵩上げの土が足りないというところもあるので、協議すればいいのではないかと思う。
 震災廃棄物の津波堆積物の分別は進んでいて、内容を見て再利用を検討する。

都市計画
 市役所建設地について住民アンケートを取った。現在は高台にあるが、現在地に作るためには、今の仮設庁舎を解体・移動・建設するには10億円かかる。そこに金をかけるなら新庁舎建設に金をかけた方がいい。予定地については、市役所が被害にあい、書類がなくなったことによって市全体が機能不全に陥ったので被災しない高台にという意見と、商店街と一緒がいいという意見があるが、後者の意見への賛同は少ない。いずれにしても土地利用計画が決まらないと始まらない。8年計画で完成の予定だが。

アジアからの支援
 シンガポールから8億円の寄付でコミセンを建てる。消防署や300戸の県営住宅の建設にはサウジアラビアやカタールから寄付が来ている。欧米よりもアジアからの寄付が多い。

住民の暮らし
 国保税は3月まで、医療費は今年12月まで国の支援で減免となっていた。4月からは帆国保税に対する国の支援がなくなったが、市は引き続き減免するとしている。介護保険も今年いっぱい免除としている。介護施設の利用料の減免も13万円から7万円になったが12月まで延長をした。
 陸前高田は地域の住民はまとまっている。公民館が50世帯に一軒あり、地元に人たちにとって公民館は身近な在だったという。自力での建設も始まっている。

竹駒地区にあった公民館

現地視察
 翌朝、藤倉議員は仮設住宅などを案内してくれた。
 中学校の校庭にあるプレハブは長屋づくりになっている。仮設住宅に住んでいて、とても感謝している。しかし、水道光熱費も自己負担で避難所にいたときよりも負担が多くなって実際は大変と仮設に住んでいる女性は言っていた。

 仮設住宅には住田町が作ってくれた一戸建ての仮設住宅もある。避暑地のような雰囲気もある。しかし、住めるのは原則2年までとなっている。今年は3年目に入っているが、特例で延長になった。この先、何年特例となるのか、1年ごとに延長という形なので、毎年が不安と言っている。
 
一戸建ての仮設住宅

 広田半島への海ではカキの養殖が始まっていた。昔、カキの養殖が始まって高収入が得られるようになったという。山沿いの家は、カキ御殿と言われるほどの立派な家が建っていた。海の中のガレキも取り除かれ、いま、そのカキの養殖が再開できている。明るさを見た思いだ。

東日本大震災から2年3か月 福島、宮城、岩手を回って 復興の現状と課題 その3 南三陸、気仙沼(K)

2013-06-12 | 被災地復興
南三陸
 あの防災庁舎やその周辺の低地は家の土台だけが残る空き地のままだが、復興商店街のさんさん商店街は半年前よりも店の数が増えていた。ちょうど中学生の体験学習で地元の海産物の売り子をやっていた。中学生は「楽しい」と言っていた。ヨーロッパ的なモダンなバス停もあった。プレハブなのだろうがこういうプレハブはおもしろい。
 周辺には商店ができてきていた。少しずつ元の生活に戻ってきているのだろうか。
 
 

気仙沼鹿折

 第18共徳丸。全長約60メートル、総トン数330トンの大型巻き網漁船は、震災から2年が経過しても津波で流れ着いた場所にある。船が打ち上げられた気仙沼市鹿折(ししおり)地区は、津波に襲われたうえに震災当夜には大火災が発生して、一帯が焼けつくされた所だ。この共徳丸、この「震災の象徴」をどう扱うか、市民の間で戸惑いが広がっているという。いずれにしても大きな漁船だ。それが、街中の交差点のところにある。遠くからもそれとわかる。周辺は家の土台だけが残る広大な空き地と化している。