あるきメデス

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新井薬師から哲学堂公園へ 旧野方村の史跡めぐり(東京・中野)(前半)

2016-07-30 18:54:11 | 江戸・東京を歩く
 2016年7月27日(水)

 梅雨明け前にと、中野区東北部の旧野方村に残る史跡めぐりに行く。西武新宿線の新井
薬師前駅で下り、10時14分に南口をスタートする。


 南東に400mほどの上高田三丁目に、昭和初期の面影を残す一角がある。『童謡「た
きび」のうた発祥之地』で、作詞者 巽聖歌(たつみせいか)が昭和5~6年(1930
~1)頃近くに住み、この辺りを散歩しながら「たきび」のうたの詩情をわかせたところ
だとか。

 今でも、「垣根の垣根の曲がり角♪」という歌が聞こえてきそう…。

 西進して新井五丁目に入り新井薬師で知られる梅照院境内へ。天正14年(1586)
に僧行春が開基し、徳川2代将軍秀忠の子・和子の方が眼病を患い、ここの薬師如来に祈
願して治癒したことから「治願薬師」とも呼ばれているとか。「子育て薬師」とも呼ばれ、
多くの人から篤く信仰されているという。

 山門を入った右手のお堂前に「お願い地蔵尊」が立ち、願いごとをする人が水をかけて
祈願していた。



本堂前の大きなハスが数輪、花を見せている。
  

 寺の背後の新井薬師公園は、寺の境内だった土地を大正3年(1914)に新井薬師庭
園として開放し、後に東京市に寄進、戦後中野区に移管したという。


 都道420号・中野通を跨道橋で越えた西側も新井薬師公園で、公園内の池では何人か
の釣り人が糸を垂れていた。


 東側に隣接して新井天神とも呼ぶ北野神社がある。旧新井村の鎮守で、創建は天正年間
(1573~92)といわれているとか。中野区で唯一「酉の市」が行われる神社らしい。


    
 手水舎のそばに「撫で牛(なでうし)」があり、撫でるとその部位の病や怪我が治ると
か。近くに、若者たちが力比べに使った力石が幾つも集められていた。


 境内には区の保護樹木のケヤキやスダジイ、イチョウなどがあり、ミンミンゼミが賑や
か。

 新井四丁目を西北に抜けて、区立平和の森公園に入る。昭和58年(1983)に廃止
された、中野刑務所の跡地を活用したみどりの防災公園。

 野球場であるスポーツ広場や、周囲をジョギングコースで囲む芝生広場↑、幾つかの池
を巡らす水の広場↓などがある。



 東北側入口近くには弥生時代の復元住居があるが、よく見たらコンクリート製。芝生広
場を一見し、水の広場から北に抜けて公園を出た。

 深い流れの妙正寺川を越えて、沼袋駅の西側踏切を渡る。北側の線路沿いを東進して、
沼袋氷川神社に行く。

 旧沼袋村の鎮守で、創建は正平年間(1346~70)とも寛正年間(1460~6)
ともいわれているとか。



 拝殿左手に雅(みやび)な神楽殿↑があり、境内にはご神木の松が何本か高く伸びてい
る。太田道灌が豊島氏と戦った時に戦勝祈願に植えたといわれるスギの木片が、わずかに
残る。少し下がった西側には、新しい中野七福神が並んでいた。


 西側に出て北西に少しで禅定院がある。貞治元年(1362)の開基、下沼袋村の旧家
伊藤氏の菩提寺なので「伊藤寺」とも呼ばれているという。

 山門を入った右手に、樹齢600年というイチョウの大木が立つ。
     

 コンクリート造りの本堂は近年の改築のようで明るい彩り。


 左手の庭園にはボタンが多く、ハス園には何輪かの花が開花していた。本堂前のモミジ
は秋のような彩りを見せる。
    

 西進して沼袋駅北口から延びる通りを横断し、すぐ先の実相院へ。新田氏一族の矢島内
匠(たくみ)らが、足利氏との戦いに敗れてこの地に定住して開基したとのことで、「矢
島寺」とも呼ばれるよう。

 境内はソメイヨシノの古木に覆われ、本堂はコンクリート造り。墓地入口には六地蔵と
五つの庚申塔が並び、左手の庚申塔には、天和元年(1681)、元禄14年(1701)、
正徳5年(1715)と刻まれていた。


    
 白い花の咲く通りを禅定院の近くまで戻り、北側の台地に上がって百観音 明治寺に北
西隅から入る。明治45年(1912)に明治天皇の病気平癒を祈願して創建した寺とか。

 

 その後、創建した草野栄照尼がここを一大観音霊場にしようと呼びかけたところ、政財
界から庶民まで多くの寄進がよせられ、現在は境内に180体近い観音石像が祭られてい
るという。


 境内の南東側は小さい公園になっていた。



 北側の道路を東にすぐ、北側には樹木に囲まれた静かなたたずまいの密蔵院があり、境
内のカノコユリがきれいな花を見せる。
       

 明治寺の東側には、地図にはないが豊富な樹木に覆われた日蓮宗の久成寺もあった。


 すぐ先の交差点を左折して北北西へ。沼袋二丁目で都道440号・新青梅街道に出る。
すぐ近くのわら屋根風の建物は、山崎記念 中野区立歴史民俗資料館である。


 館の前に、円形の大きな二つの石が並んでいる。製粉用の石臼(いしうす)で、江戸末
期から平成2年(1990)まで本町の石森製粉所で蕎麦粉(そばこ)製造に使われたも
の。

 青梅街道中野宿は、江戸時代から江戸への物資の集荷地で、集められた大豆、蕎麦、麦
などを素材にした味噌、醤油、小麦粉、蕎麦粉など醸造や製粉業が地場産業として成長し
てきたという。

 資料館の場所は、江古田村の名主(なぬし)で醤油製造や質屋などを営んでいた山崎家
があり、明治になっては村役場の前身の戸長(こちょう)役場が建てられ、村政の中心だ
ったところとか。

 名誉都民だった山崎氏から昭和59年(1984)に土地を寄付され、5年後に歴史民
俗資料館が開設されたという。

 12時45分に入館し(無料)、「武蔵野における中野の風土と人々の暮らし」をテー
マにした旧石器時代から現代に至る歴史について、写真やイメージ画、ジオラマ、資料な
どの展示を見る。


 企画展「記念展」も開催中で、東京オリンピックゆかりの品や、絵はがき、記念コイン、
ポスター、風景入り日付印など、興味深いコレクションが展示されていた。



 ほかに、この後訪ねる哲学堂公園や、公園ゆかりの井上円了コーナー↑、中野区と関わ
りの深い写真産業にちなむ、レトロカメラのコーナーもあった。


 東側の庭園は閉鎖されていたが、緑豊富な植栽の中に樹齢500年というシイノキの大
木が目に付く。40分近く観覧して民俗資料館を出た。
    

 新青梅街道沿いの、近くのファミレス・ガストで遅めの昼食をして、歴史民俗資料館前
まで戻る。 ガストで食べたチキントマト煮ランチ(648円)       (続く)
    





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