あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

カスリーン台風の襲来から70年

2017-09-15 20:23:04 | アーカイブ
 2017年9月15日(金)

 9月15日(金)は、関東地方に大きな災害をもたらしたカスリーン台風が接近して
70年になります。といっても最近は、カスリーン台風の名を知らない人が増えているか
もしれません…。

 下のパネルは、私たちカントリーウオークグループが5月28日(日)に東武日光線の
新古河駅から歩いて通過した、利根川の三国橋を渡ってすぐの利根川左岸、茨城県古河市
(こがし)の、国土交通省利根川上流河川事務所古河出張所前に掲示されていたものです。

 カスリーン台風は、第2次世界大戦終了から2年の昭和22年(1947)9月に発生
し、関東地方や東北地方に大きな災害をもたらしました。

 この台風は9月8日にマリアナ諸島東方で発生して次第に勢力を増し、9月14日には
鳥島の南西海上を北上、さらに15日未明に紀伊半島の南で北東に進路を変えて早朝に遠
州灘沖合を通過し、夜には房総半島の南端をかすめて16日には三陸沖から北東に去りま
した。

 台風が本州に近づいたときにはすでに勢力は弱まりつつあり、進路も東海地方から関東
地方の太平洋岸をかすめた程度で、強風による被害は出ていません。しかし、台風接近時
には日本列島付近に前線が停滞していたと推定され、そこに台風により南の湿った空気が
供給されて前線が活発化して、9月14日から15日にかけて大雨を降らせたのです。

 この台風による死者は1,077人、行方不明者は853人、住宅の損壊9,298棟、
浸水家屋384,743棟、耕地の流出や埋没12,927㏊などで、罹災者は40万人を
超え、関東地方を中心に大きな被害をもたらしたのです。

 なお、別の資料によれば、家屋の浸水303,160戸、家屋流出倒壊23,736戸、
家屋半壊7,645戸、死者1,100人、傷者2,420人、田畑の浸水176,789㏊
となっています。

 群馬県の赤城山ろくや栃木県の足利市などでは土石流や河川の氾濫が多く、これらを中
心に群馬県では492人、栃木県で352人の死者が出ました。また東北地方では、北上
川が氾濫し、岩手県一関市など岩手県内で109人の死者が出ているようです。

 これら首都圏以外の被害については私はいままで知りませんでしたが、今回調べてみて
初めて分かったのです。

 カスリーン台風として私の記憶に残っていたのは、利根川や荒川の氾濫による埼玉県東
部から東京23区東部に及ぶ大洪水による大きな被害でした。

 この大洪水の発端は、埼玉県北埼玉郡東村(現在の加須市)の利根川右岸堤防の破堤で
した。この場所は江戸時代に人工的に開削された新川通と呼ぶ直線部ですが、明治43年
(1910)の大洪水では破堤しなかったので比較的楽観視されていたようです。

 ところがこの頃には、上流の遊水地帯が開発で消滅するなどで明治の大洪水当時とは状
況が変わり、利根川の水がすべて新川通に集中し、さらに下流の栗橋付近の鉄橋に漂流物
が引っかかって流れを悪くし、加えて近くに渡良瀬川の合流点があるので増水時には水の
流れが悪くなるという構造的な問題を抱えていました。

 このような要因により、15日21時頃から堤防上から水があふれはじめ、16日0時
過ぎにこの北埼玉郡東村(現在の加須市大利根地域北東部)の右岸堤防が340mにわた
って決壊しました(下の写真の上部中心のXは決壊か所、右からの流れは渡良瀬川)。
       
 決壊か所は現在、加須市によりカスリーン公園として整備されていて、私たちカントリ
ーウオークグループでは2003年10月5日に昼食をしましたが、公園にはモニュメン
トなどがありました。

 濁流は南に向かい、栗橋町(現在の久喜市栗橋区域北部)から順次、鷲宮(わしのみや)
町(久喜市鷲宮区域西部)、幸手(さって)町(幸手市中心部)を経て13時には久喜
(くき)町(久喜市久喜地区中心部)に到達しました。一方、荒川では15日夜に熊谷市
付近で左岸堤防が決壊し、洪水は16日午前中に北埼玉郡笠原村(現・鴻巣市東部)に到
達し、元荒川沿いに流下して行きます。
 
 利根川の濁流は、庄内古川、古利根川(ふるとねがわ)の周辺を中心に何か所も決壊し
ながら17日の未明には現在の春日部(かすかべ)市、夜には元荒川(もとあらかわ)か
らの水を合わせて吉川市に達し、現在の中川と江戸川の間を南下し、18日夕方には埼玉
・東京都県境の大場川および小合溜井(こあいためい)の桜堤(水元公園付近)に達し、
一時的に食い止められたようです。

 しかし19日未明には桜堤が決壊し、その日のうちに葛飾区の金町や柴又、小岩付近が
水没しました。さらに、現在の八潮市で中川右岸が決壊し、綾瀬川の東側も水没します。

 その後、20日3時には葛飾区亀有付近でも堤防が決壊し、夕方には立石、四ツ木付近
まで浸水しました。金町付近の水は20日夕方には江戸川区船堀付近に達し、荒川や旧江
戸川を経て東京湾へ流入し始めたようです。

 下の図は、小さくて分かりにくいかもしれませんが、これらの決壊による水没地域を示
したものです。
     

              

 歴史を遡ると約1,000年前の利根川は、現在のように千葉県銚子市と茨城県神栖市
との県境から太平洋へ流れていたのではなく、江戸湾(現在の東京湾)に流れていました。
現在のような姿になったのは、利根川の東遷事業と言われるもので、徳川家康の江戸幕府
入府を機に、埼玉平野の新田開発や舟運の振興、江戸を水害から守る目的で、「瀬替え」
と呼ぶ幾度にも及ぶ流路の付け替えにより、現在の骨格となったと考えられるようです。

 私たちのウオーキンググループはこの6月に、埼玉県羽生市を歩いたのですが、その時
訪ねたひとつに川俣締切阯がありました。ここは、利根川東遷事業の最初に行われた場所
で、文禄3年(1594)に南に分流する会ノ川(あいのかわ)を締め切る堤が築かれた
ところで、そのことを示す碑が「道の駅はにゅう」の利根川堤防際に立っていました。
       

 この大洪水の流れは、江戸時代の東遷事業以前にあった本来の川筋に沿ったものでした。

 この台風を教訓にして当時の経済安定本部は本格的な治水事業に乗り出し、ダムによる
計画的な洪水調節を計画し、利根川本流を始め烏川、神流川、吾妻川などに大規模なダム
8か所を建設する計画をして、利根川水系に8つのダムが建設されたのです。

 その後70年の間、利根川や荒川が決壊したことはありませんが、地球温暖化の進展と
ともに近年は、50年に一度とか100年に一度といった集中豪雨が全国各地で次々に発
生しており、世界的に見てもこの1~2か月の間にアメリカでもメキシコ湾沿岸やフロリ
ダ半島への2つのハリケーンにより大きな被害が発生しています。

 今後、カスリーン台風と同様に利根川や荒川が氾濫した場合、洪水の流路は当時と同様
になることが予想されており、前回のブログで紹介した「川と地図」の講演会でもらった
講師の高橋浩先生の著書「川と国土の危機」(岩波新書)でも、次のように述べておられ
ます。

 カスリーン台風と同様に埼玉県加須市で堤防が決壊した場合、浸水面積は約530㎢、
浸水区域内人口は約230万人と想定され、浸水深は住居の3階以上に達して避難が困難
になる。さらに下流で氾濫した場合は浸水地域は限られるが、浸水深はより高くなり死者
数は増加し、地下鉄への浸水は都心部の駅にも及ぶと予想される、ことなどが記されてい
ます。

 カスリーン台風から70年を機に当時の被害の状況をふり返り、その後の都市化の進展
や地盤低下などによる被害の増大などについても学び、どう対処したらよいか関心を持っ
て行きたいと思います。


 蛇足ながら、私の手元に古いスクラップブックがあります。
  

 最初の頁のスクラップが、カスリーン台風の決壊場所の東村などを視察された昭和天皇
の記事を掲載した昭和22年(1947)9月23日付の新聞です。


 上の記事の左は、昭和天皇(上)や片山哲首相(下左)、高松宮殿下(下右)の写真が。
     

 ちなみに、この後の頁のスクラップには、古橋選手の800m・1500m自由形世界
新(1947.7~9)、東京裁判A級戦犯判決(1948.12)、吉田第3次内閣顔
ぶれ(1949.2)、ロンドン五輪に参加出来なかった古橋・橋爪選手が全米水上選手
権で世界新記録(1949.8)、湯川博士にノーベル賞(1949.11)、帝銀事件
の平沢被告に死刑判決(1950.7)、北鮮、韓国に宣戦布告(1950.6)、ジェ
ーン台風阪神を襲う(1950.9)、京都駅きのう全焼(1950.12)、猛風雪関
東を荒らす(1951.2)、マッカーサー元帥を解任(1951.4)などがあります
が、これらのことをご存じの方の多くは、光輝?高齢者かもしれませんネ…




関東ランキング



にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログへ
にほんブログ村 

 

 


  

 

 

 

 

 、

  

 


 


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする